2020年07月17日
「Double2 The Freedom to Dream 2020」(English edition)=「ダブル2 夢見る自由 2020」(英語版)です
*For residents of the United States(アメリア在住の方)
Kindle version(電子書籍 Kindle版)
Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura(English edition) Kindle
Paperback version(書籍版)
Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura (English edition) Paperbak
"Double2 The Freedom to Dream 2020" is the electronic and updated version of Double which was originally published in 2005 and Double2 originally electronically published in 2013. To make it easy to follow, the content of the previous two books are included in this edition. The voice of Double and, in fact, his whole family have changed greatly in the intervening years. Additionally, this edition provides updates on the thoughts of Double and the family's life during the reunion of the family in 2020 due to the COVID-19 pandemic.What exactly has changed in the past 25 years? What has remained the same? Why? Meditating on those questions while re-examining our photos has led me to the words on these pages. Children grow up. This gives us adults a chance to grow as well. Have we made something of that chance or not? There are many regrets. Have there also been moments of pride? Updating this book has had me thinking acutely about these issues.When the original book was published in 2005, those who supported it most enthusiastically were female junior and senior high school students. They are now all adults. I am sure they are not just "fine" but unique and special women. Some may be mothers of a child with their own "I" voice. I am fascinated to know how "Double2 The Freedom to Dream 2020" appears to them now.
Thank you.
P.S.
Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura (Bilingual edition-Kindle)
Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura (Bilingual edition-Paperback)
2020年07月13日
写詩集「ダブル2 夢見る自由, 2020」日本語版も出版になりました!
電子書籍 「ダブル2 夢見る自由 2020」 (日本語版)飯村和彦
もしかすると「Kindle-電子書籍」ということで、
Kindleリーダーとか持ってないから読めない…
と思っている方もいらっしゃるかもしれません。
が、違います。
※Kindle電子書籍は誰でも読めます!
iPhone, iPad, Android端末で読みたい方は、
無料アプリをインストールすれば読めます。
WinPCからは、Kindle for PC、
MacからはKindle for Macアプリで読めます。
ということなので
本書に関心のある方は宜しくお願いします。
写詩集「ダブル2 夢見る自由 2020」で表現された世界は、
過去から現在へ繋がっている私や妻、子ども達の記憶そのものです。
さらにそれらの記憶は、私たち家族だけのものではなく、
おそらく多くの人たちの記憶とも必ずどこかで底通していると思います。
この本の中で「僕」が見せる表情は、
きっと皆さんの子ども達と同じであり、
自分が幼かったころのものと変わらないはずです。
本書の「僕」は今年25歳です。
これまでの25年間で「僕」とその家族の何が変わって、
何が変わらずにそのままなのか。その理由はどこにあるのか。
あれこれ思いをめぐらしながら何度も写真を見つめ、
事象や出来事を普遍化するための言葉を選びました。
また本書では、
新型コロナウイルス禍の影響で家に再集合した
2020年の「僕」やその家族の生活についても詳しく紹介しています。
“コロナ後”の世界の在りよう…気になります。
なお、タイトルになっている「ダブル」は、
「ハーフ」という言葉の代わりに
私たち家族が積極的に使っている表現です。
「お子さんは、日本人とアメリカ人のハーフですか?」
と訊ねられれば、いつも
「ええ...、ダブルです」と返答しています。
半分ずつではなく、それぞれが「全て」という思いからです。
最後に「ダブル2 夢見る自由 2020」は、
英語と日本語で書いた「バイリンガル版」も出版されています。
電子書籍「ダブル2 夢見る自由 2020 (バイリンガル版)飯村和彦
海外のご友人と「家族のカタチ」を語り合う際に
ご活用していただければ幸いです。
どうぞ宜しくお願いします。
2020年06月27日
写詩集「ダブル2 夢見る自由 2020」バイリンガル版が完成です!
やっと完成!
「ダブル2 夢見る自由 2020 」(Amazon-Kindle 電子書籍)
全210ページ、完全なバイリンガル版(英語と日本語)です。
電子書籍「ダブル2 夢見る自由 2020(バイリンガル版)飯村和彦」
2005年に書籍版の写詩集「ダブル」が出版されてから15年。
本書の語り部である「僕」は今年25歳に!
この25年間で変わったものってなんだろう。
逆に、変わらなかった姿勢やものの見方は?
2020年(今年)春、
新型コロナウイルス・パンデミックのため、
「僕」とその家族は、
図らずもマサチューセッツ州アマーストに再集結。
ステイホーム
ソーシャルディスタンシング
で、改めて考える。
「普通ってなんだ?」から始まった「僕」の思索。
いま「僕」の視線の先にはなにがある?
「のっぺりと広がっている時間」ってどんなもの?
そんなあれこれを感じてもらえたら嬉しいです。
そしてまた、
好きな音楽を口ずさみながら、
写真を眺め、日本語と英語になった「語り」に目をやってください。
カリカリせずにリラックス
きっと面白い感覚やら気分を味わえるはずです。
ル〜ララ 宇宙の風に乗る!
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以下、
本書から一部抜粋(「宇宙の風」)
…
何かが変わる?
社会の仕組みとか、求められる政治的公正さとか
例えば、
息をするように嘘をつく政治家なんかは勿論いらない
じゃあ、何かを変える?
そうだね...
少なくとも僕は、すべてに、もっと、優しくなりたい
#BlackLivesMatter
地球は地球のままだけど...
“ルララ 宇宙の風に乗る”
なんかいいよね、このフレーズ
スピッツの「ロビンソン」 少し前の曲だけど
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この本は210ページですが、
半分が写真、残り半分が短い「語り」です。
きっと楽しみながら、
サクサクとページをめくっていけると思います。
以下の「amazon」のサイトから入手できますので、
どうぞ宜しくお願い致します。
*日本にお住いの方
電子書籍「ダブル2 夢見る自由 2020(バイリンガル版)飯村和彦」
*アメリカにお住いの方は電子書籍の他、ペーパーバックでも入手できます。
電子書籍「duble2 The Freedom to Dream 2020〜bilingual edition by Kazuhiko Iimura」
paperback double2 The Freedom to Dream 2020〜bilingual edition by Kazuhiko Iimura」
2019年03月23日
「遺伝子組み換えサケ」と「漠然とした懸念」について
ずっとフォローしていた「遺伝子組換えサケ」。
FDA(米国衛生保健局)が、米国内での食用を許可(2015年11月)した件。
2013年の春頃から「もうすぐ認可」といわれていたから、
最終判断まで結構な時間がかかっている。
だが随分前に、多くの米国内の大手スーパーは、
「遺伝子組換えサケは扱わない」
としているから当面販路は限られるだろう。
(備:事実、2019年の現段階にいたっても、
アメリカ国内で「遺伝子組換えサケ」は一般には流通していないよう)
(AquAdvantage salmon )
この「遺伝子組換えサケ」については、かなり詳細に調べ上げた。
当然、開発したAquAdvantage社にも話を聞いたし、
各種研究リポートやFDA報告書にも目を通した。
その結果の印象というか予想は、
さまざまな意見があってもFDAとしては、
この「遺伝子組換えサケ」の食用許可を出さざるを得ないだろう、
ということだった。
「自然に存在している食物(この場合はサケ)と同じ品質なら許可」
という条件だけを見れば、
遺伝子組換えによってできたサケ(食べる際には切り身?)は、
自然のサケのそれと変わらないのは科学的に証明されていたから。
しかし当然ながら、
それを作る方法「遺伝子組換え」が議論になった。
例え出来あがったものが、自然のサケ(の切り身)と同等の品質だとしても、
それでもやはり、
「何かが違うのでは?」「あとで妙なことがおこるのでは?」
という漠然とした懸念はぬぐえない。
もちろん、
そんな「漠然とした懸念」は、
科学的検証によって「根拠のないもの」だと分かるのだが、
そういわれてもすぐに「ハイそうですか」とはならない。
確かに「遺伝子組換えサケ」が作られる工程を見ていくと、
魚の養殖でよく使用される、
「抗生物質やビタミン剤」の類の薬品は一切使われていない。
その意味では、
「遺伝子組換えサケ」の方が、「養殖サケ」と比較した場合、
よりオーガニックに近いということになる。
しかしながら、繰り返しになるが、
やはり「遺伝子組換え」という手法に対する「漠然とした懸念」は、
なにをどう科学的に説明されても、
それが「漠然としたもの」であるがゆえ、ぬぐわれずに残る。
実はこの「漠然とした懸念」というのは、
我々が生きていく上で結構大切。
だから、
それをたんなる「妄想」だとして簡単に切り捨てるべきじゃない。
FDAが許可を出すまでに、
当初の予想より遥かに長い時間を要した訳も、
ひとつにはそんなことがあったように思える。
そんな背景があるからなのだろう、FDAでは、
「遺伝子組換えサケ」であることをきちんと明示することを義務付けるらしい。
「漠然とした懸念」のある人が、間違えて手にしたり、
知らないうちに食べたりしないようにするには最低限必要なことだ。
遺伝子組換え食物の現実をみれば、
大豆やトウモロコシの90パーセント以上が遺伝子組換えであり、
パパイヤも多くが遺伝子組換え。
害虫や灌漑に強い遺伝子組換え稲などもある。
けれどもだからといって、
「そんな時代になっているのだから仕方ない」として、
「漠然とした懸念」を捨てたりしては絶対にいけない。
ものごとが、
良くない方向に流れ始めるのを最初に察知するきっかけになるのが、
この「漠然とした懸念」であるはずだから。
(飯村和彦)
2019年03月11日
福島第一原発事故、放射能「汚染水」問題の核心
東日本大震災から8年。
未だに多くの被災者が厳しい生活を強いられている現実に心を痛めるばかり。
(福島県南相馬市/ photo:kazuhiko iimura)
この間ずっと気になっていることの一つが、
福島第一原発にたまり続ける放射能汚染水の問題。
現状のまま増え続けると、
早ければ今年末には貯蔵タンクを据える場所もなくなり、
約2年後には貯蔵タンクが満杯になってしまうという。
にもかかわらず、
その「放射能汚染水」そのものの浄化レベルも、
これまでずっと発表されてきたレベルと現状とでは、
かなり違っていることが去年、突然明らかになった。
どんなことだったのかをおさらいするため、朝日新聞から。
「東京電力は28日、福島第一原発のタンクにたまる汚染水について、浄化したはずの約89万トンのうち、8割超にあたる約75万トンが放射性物質の放出基準値を上回っていたことを明らかにした。
一部からは基準値の最大約2万倍の濃度が検出されていたという。
今後、追加の処理が避けられなくなり…」
(去年9月29日付)
「保管する大型タンクに入れる前の放射性物質の検査で、トリチウム以外に、ストロンチウム90、ヨウ素129が国の基準値を超えていたことを明らかにした。東電はこれまで『トリチウム以外の放射性物質は除去されている』として、十分な説明をしていなかった。
構内で発生した汚染水は、セシウムを吸着する装置と、62核種を除去する装置『アルプス』を通り、取り除けないトリチウムを含む汚染水がタンクに保管されていると説明されていた」
(去年8月21日付)
つまり、
それまで何年にもわたって行われてきた汚染水処理が、
その浄化レベルにおいて全く別物だったということだ。
こんな話、ないでしょう。
どうして発表が去年の秋になった?
当然、汚染水の放射能レベルは、
当初から数値としては分かっていたはずでしょう?
ならば今はどうなの?
そんなあれこれを見るにつけ、
いかに東電や政府が事実を隠してきたかがわかるというもの。
まあ、安倍政権や東電の隠蔽体質については誰もが知るところだから驚きはしないけれど、
だからといって当然許されない。
さらに福島第一の放射能汚染水の処理に関して思いだされるのは、
処理技術に関してアメリカのピュロライトという会社が、
日本の日立GEニュークリア・エナジーを東京地裁に訴えた(2015年)こと。
訴状におけるピュロライト社の主張は以下の通り。
「日立GEニュークリア・エナジーが、
2011年に両社間で締結した独占的パートナーシップ契約に違反しており、
かつ、福島第一原子力発電所における水処理装置において、
ピュロライトの営業秘密を無断使用している」
誤解を恐れずにいってしまえば、
東電側は当初、
ピュロライト社の技術を中核に放射能汚染水の処理をする約束をしたにもかかわらず、
蓋を開けてみればピュロライト社の技術だけをちゃっかり使いながら、
彼らを契約から外したということ。
(ピュロライト社の技術を得るために日立は、
経済ドラマさながらの手法を使っていたようだが、ここでは省略)
結論からいうと、
最終的に東京地裁はピュロライト社の訴えを退けた(2017年)訳だけど、
法的な解釈はともかく実際には、
東電側が都合よくピュロライト社の「技術だけ」をとった
…という印象は拭えない。
参考までに、
ピュロライト社が実証したという汚染水処理能力は以下のよう。
1)福島第一原発の汚染水に含まれる62種の放射性物質を、検出不能レベルまで除去できる。
これは実際の原子炉敷地内から採取した汚染水を使用した試験によって検証されている。
2)現在の汚染水処理で発生する放射性廃棄物の量を85%超も減らすことができる。
3)高濃度放射能汚染水を貯蔵するタンクの必要性がなくなりる。
4)地下水が原子炉に侵入するのを防ぐ防護壁の必要性が低くなる。
もし、ピュロライト社の技術を中核に据えて、
彼らと一緒に放射能汚染水の処理をしていたらどうなっていたのか。
正直、こればかりは分からない。
けれどもピュロライト社の言い分は間違っていないようにも思える。
曰く、技術だけを抜きだして使ってもうまくいかない。
実証試験通りの結果を出すには、技術そのものだけではなく、
必要な装置・設備の適切な使い方、つまり「運用の仕方」が重要。
その最適解は技術とシステムを開発した当事者が持っている。
果たして東電はどうだったのだろう。
結果を見ればきちんと処理できていなかった訳だから。
(福島県南相馬市村上海岸/ photo:kazuhiko iimura)
けれど、もう四の五のいっている余裕はない。
長く見積もっても、
数年以内に確実に汚染水をどうにかしないといけない訳なのだから。
「想定外の事故」で貯蔵タンクが壊れ大量の汚染水が海へ…
まさかそんなことを想定している訳じゃないだろうから。
(福島県南相馬市/ photo:kazuiko iimura)
飯村和彦
2019年02月27日
地球温暖化がメープルシロップに与える影響とは?
メープルシロップ作り、シーズン到来!
日中は幾分暖かく、朝晩は必ず氷点下になる天候。
具体的には夜間はマイナス4℃以下。
昼間は4〜9℃、これ以上暖かくてもいけない。
そんな寒暖差のある気候条件が続く3月から4月の約2ヶ月間しか、
木から樹液を吸い出せない。
だからメープルシロップ作りはこの時期にしかできない。
訪れたのはマサチューセッツ州、ウェストハンプトン。
アメリカ北東部、「ニューイングランド地方」と呼ばれる地域にある。
(メープルの樹液を濃縮させる小屋 /photo:kazuhiko iimura)
(メープルの樹液 /photo:kazuhiko iimura)
樹液は透明で、糖分は約2%。
それを糖分が約66%になるまで特性ボイラーで熱する(水を飛ばして濃縮させる)とメープルシロップができあがる。
(パンケーキには必須。ブルーベリー+ヨーグルト+メープルシロップの組み合わせなんかも良いですね)
では、どのようにしてメープルの樹液を集めるのか。
そこには自然を相手にした知恵と工夫がある。
使用されるのは真空ポンプ。
樹液がとれる大きさ(太さ)のメープルの木同士を細いチューブでつなぎ、真空ポンプに繋げて樹液を集めるのだという。これは「木の内部」と「外の大気」の圧力差を利用した方法で、「木の内部」の圧力が「外の大気」より大きいと樹皮に空けた小さな採取用の穴から自然に樹液が流れでる訳だ。
だから樹液をとる時期の気候(前述した気温の他、気圧や風向も…)も大切になる。
採取した樹液からシロップをつくる方法はどの生産者もだいたい同じだが、施設はまちまち。
年代モノの重厚なボイラーを使っているところ、最新式の設備を導入しているところ。
事業規模(商売の上手い下手)によって違ってくるのでしょう。
(photo:kazuhiko iimura)
(樹液を熱で濃縮させる旧型ボイラー /photo:kazuhiko iimura)
(最新式設備を導入している生産者 /photo:kazuhiko iimura)
(photo:kazzuhiko iimura)
ただ一口で「事業」といっても、
メープルシロップ用にメープルの木(主にシュガーメープルという種類)だけを植林した森をつくる…なんてことはしないという。上手くいかないらしい。
だから自分の土地だけじゃなく、他人の土地の木からも樹液を得る契約を結ぶのだそう。
この時期になると、あちこちのメープルの木とシロップ製造施設(小屋)を結ぶ細長いチューブが登場するのはそんな訳からだ。
まったくもって手間のかかる仕事だ。
(シュガーメープル/photo:kazuhiko iimura)
(photo:kazuhiko iimura)
けれども自然を相手にするということはそういうことなのでしょう。
樹齢何十年のメープルに、冬の終わりの約2ヶ月間だけお世話になる。そんな感じだ。
よって生産者のみなさんにとっては、
「地球温暖化」による気候変動の影響が心配の種。
何十年もの長きに渡り、気候と向き合ってきた彼らには、
環境の変化が良くわかるのだ。
「気候変動」と「日々の天気」の違いが理解できず、
寒波がくるたびに、
「地球温暖化なんて存在してない!」
と叫ぶトランプ大統領とは大違い。
気候変動は、メープルシロップ生産者にとっては死活問題になる。
先に書いたように、
一定の気候条件じゃないとメープルの木から樹液がとれない訳だから。
十分な寒暖差がないと樹液の糖度が低くなる…等々の理由からだ。
すると当然、シロップはつくれない。
事実、2年前は暖冬だったから生産量がガクンと落ちたとのこと。
(スティーブさん /photo:kazuhiko iimura)
(メープル断面。中ほどには樹液採取用に一時期空けていた穴 /photo:kzuhiko iimura)
(昔のスティーブさんたち)
こどもの頃からシロップ作りをしてきたスティーブさんは、
「このまま温暖化が進むと、ニューイングランド地方(アメリカ北東部辺り)ではメープルシロップをつくれくなる…」と、先々を心配。
でも、「この仕事が大好きだから」といっては、メープルシロップ作りについて、それはそれは丁寧に教えてくれたのでした。
(飯村和彦)
2018年10月10日
動画「Hana's Life 〜ハナばあちゃんと子どもたち、7年間の物語〜」
(photo:kazuhiko iimura)
長い間やろうと思っていても、
なかなか実行に移せなかったこと。
それが撮りだめた家族の日常映像を編集して、
ひとまとまりの記録にすること。
まずは祖母に関するところだけでも…と決心して、
数年前から仕事の合間に少しずつ作業をして、
去年の夏、一応完成した。
以下は、そのときに記した文章です。
がんとの闘いを何度も克服し、97歳まで生きた祖母。
完成したVTRは、
祖母が90歳のときの正月から始まり、
97歳でこの世を去るまでの7年間の話だ。
その間に生まれた、
うちの子どもたちの素材も組み込んだ。
撮影舞台は、ほとんどが実家。
シーンも私どもが実家を訪れる盆と正月が大半だから、
当然、似たような場面の繰り返しになる。
ところが、実際に映像や写真を時間軸で見ていくと、
毎年の繰り返しだからこそ、
「そうなのか…」
と合点するところが多々あった。
(photo:kazuhiko iimura)
当然ながら祖母は年々、老いていく。
“老いが深まる”といった方が適切かもしれない。
けれども、
「生きよう!」
「生き切ろう!」
とする意思は健在で、
末期がんで死の淵に瀕したときも、
70年間連れ添った夫(祖父)と死別したときも、
祖母は強い意志でその都度、奇跡的な回復を遂げた。
もちろん歳が歳だから、顔に刻む皺は年々深くなるし、
幾度となく繰り返される玄関をでる様子は、
一人でスタスタ歩いている姿から、
家族の誰かに抱えられて移動する姿へと変わっていく。
けれども、それは単なる身体的な老いでしかないようで、
祖母の老いと反比例するように、
年々成長するひ孫たちに接しては、
祖母は自身の中にある、
「生きる力」を再確認していたように思える。
(photo:brett iimura)
家族の中に高齢者が存在していること。
自宅とケアハウスを行き来する祖母の生活。
そんな祖母の生活を支える父や家族の日常。
話を少し一般化してみると、
当時のあの家には、
「在宅介護」や「老老介護」、「施設と自宅」…等々の問題が、
すべて当たり前に存在していた。
その上で、家族や親族が高齢者を敬い、ともに日常を生きる。
もちろん、介護する側の負担は大きい。
実家にいる家族たちの苦労は並大抵ではなかったはずだ。
でも、だからといって特別なことをする訳じゃない。
明るく楽しく…
どんなときでも…いつも通り、普段通り。
そんな「いつも通り」がどれほど大切で、
どれだけ掛けがえのない時間だったことか。
懐かしいというより、尊い。
(photo:kazuhiko iimura)
さて、現実的な編集作業はといえば、
これが思っていたより大変だった。
7年間とはいえHi-8やDVの映像が、テープで約40本分。
その中から祖母にまつわる部分だけを抜きだす。
もちろん写真もたくさんある。
そんな素材を時系列にそって忠実に並べていった。
ナレーション原稿を読んだのは娘(現在、大学生)。
彼女が生まれたとき、祖母は94歳。
当時の記憶なんてないだろうけれど、映像は雄弁だ。
きっと彼女なりに「なにか」を見つけたはず。
結局、1時間15分ほどの「記録」になった。
それ自体は極めて個人的なものだけれど、
先に触れたように見ようによっては普遍的でもある。
だから、
今回再編集してブログにアップすることに…。
とはいってもネットで見る動画としては、
さすがに1時間15分は長い。なので全体を40分ほどに短縮。
さらに「上」「中」「下」と、
約15分ほどの動画、3本に分けました。
ひとつの「家族のかたち」として眺めて頂ければ幸いです。
興味のある方は、
時間のある時に、
一本ずつご覧ください。
Hana's Life〜ハナばあちゃんと子どもたち(上) ↓
Hana's Life〜ハナばあちゃんと子どもたち (中) ↓
Hana's Life〜ハナばあちゃんと子どもたち (下)↓
(飯村和彦)
2018年04月10日
恐竜について考える〜いま人間が生きている奇跡
あらがえるものと、あらがえないもの。
あらがうべきことと、そうでないこと。
今回は恐竜の話。
数日前までは安倍政権についてあれこれを…と考えていたけれど、
これについては作家の中村文則さん(面識はありません)が、
のっぴきならない状況に陥っている今の日本の在りようについて、
「まさに!」のご指摘(書斎のつぶやき)をなさっているので、
そちらをシェアさせていただくことに。
このところネット上には、
「まだ森友問題で騒いでるの?」的な記事が、
以前にも増して多くなっているようだけれど冗談じゃない。
「安倍さん、まだ総理をやってるの?」
「麻生さん、まだ財務大臣をやってるの?」
基本線はそこでしょう。
それが権力をもっている側のまともな責任の取り方でしょ?
官邸前には“アベ政治を許さない”人が大勢だ。
そう、納得のいかないものごとに対しては、あらがえるだけあらがう。
人に責任をなすりつけ、なにごともなかったかのように生きのびる…。
そんな政治家はいらない。
「あんな大人にだけはならないでね」
ふてぶてしい。
あつかましい。
おこがましい。
さて、気分を変えて恐竜の話だ。
偉大なる恐竜に乾杯!
アメリカで“恐竜の故郷”といえばロッキー山脈沿いにある各州。
モンタナ、ユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナあたりになる。
恐竜研究の第一人者、ジャック・ホーナー博士が、
「恐竜たちの巣」を発見したのがアメリカ・モンタナ州ボーズマン。
(ホーナー博士は、映画「ジュラシック・パーク」のテクニカルアドバイザーを務め、
主人公のグラント博士のモデルになった人物)。
そして全長40〜50メートルと推定される、
世界最大の恐竜化石が見つかったのがニューメキシコ州。
これら“恐竜の故郷”は、
その大地の色から“赤いコロラド高原”と呼んでもいいぐらい、
赤褐色の巨大な岩の層が大地から力強くせり上がっている地域だ。
下の写真はそのうちの一つ。
コロラド州デンバー近くの「レッドロック」と呼ばれているところ。
( レッドロック、photo:kazuhiko iimura )
(コロラド州デンバー、photo:kazuhiko iimura)
約1億6000万年という長期にわたって地球を支配していた恐竜たち。
ホーナー博士はかつて次のように語っていた。
「みんなは、“どうして恐竜がこの世から姿を消したのか?”
その理由を知りたがる。
私は“どうして恐竜が約 1億6000万年もの間、地球上に存在し得たのか。
そこに興味があるのだ」
人類の祖先である新人類(ホモサピエンス)が、
東アフリカで誕生したのが約20万年前。
つまり人類の歴史は、恐竜たちが生きた歴史に比べれば、
ほんの瞬き程度の時間でしかない訳だ。
そんな事実に改めて考えをめぐらすと俄然、恐竜に興味が沸いてくる。
恐竜たちは、
どんな地球に、
どんな社会を築いて、
どんな風に生きていたのか?
「恐竜? 子供じゃあるまいし、そんなことに興味ないね」
多くの大人たちは目先の現実しか見ない。
もっといえばその現実さえきちんと見えているのかどうか疑わしい。
きっと、子供たちはこう叫ぶだろう。
「大人たちは“本当の事”を知らないからさ」
(恐竜の足跡、photo:kazuhiko iimura)
上の写真で黒っぽく見えるのが恐竜の足跡。
大きいのが2つと、小さいのが一つ。
鳥の足跡のよう。
小型の肉食獣のものだという。
そして
下の写真は恐竜の骨の化石だ。
焦げ茶色の部分。
触ってみると表面がすべすべしていて、
ひんやり、しっとりしているように感じる。
(恐竜の骨の化石、photo:kazuhiko iimura)
随分前の話になるけど作家マイケル・クライトンは、
著書「ジュラシック・パーク」で、
琥珀の中に化石として残っている恐竜時代の昆虫
(恐竜の血を吸っていたと思われる昆虫)から
DNAを抽出して現代に恐竜を再生させると書いたけれど、
現在の科学技術をもってしても現実的には非常に難しいらしい。
(恐竜の骨の化石、photo:kazuhiko iimura)
でも、多くの研究者によってほぼ証明されている事実、
「今日でも恐竜と同じ系統にある生き物が一つ栄えている。それが鳥だ」
これには、胸躍らされる。
個人的なことだけれど、その話を聞いて以来(…もう20年近くになるかな…)、
鳥がちょこちょこ歩いているところを見かけると、
条件反射のように恐竜の姿を思い浮かべるようになった。
ところで恐竜は、どんな子育てをしていたのか?
1978年、ホーナー博士がモンタナ州で、
新種の恐竜(マイアサウラと命名)の集団営巣地を発見した。
巣の中からは、卵や孵化直前の胎児のほか、
体長1m程の子どもの恐竜も何頭か見つかった。
また、発見された14個の巣は、
約7mの間隔に並んでいたという。
この約7mというのは、大人のマイアサウラの体長と同じ。
この巣作りの形態は鳥類、
例えばペンギンの集団のものとよく似ているらしい。
ペンギンは巣をつくるとき、
親が行き来できる最低限のスペースは確保するが、
卵を保護するため、
それぞれの巣をできるだけ近付けるのだそうだ。
つまり恐竜は子育ての面でも、
爬虫類よりむしろ鳥類に近く、
集団である社会を形成して生活していたのではないか…
と考えられている。
では、恐竜の知能はどれぐらいだった?
一般的に恐竜の知能はワニやトカゲと同じぐらいで、
それよりも良くもなければ悪くもなかったといわれている。
けれども肉食恐竜のティラノサウルスやアロサウルスは、
同じ恐竜でも体重の割に脳が大きく、
知能は鳥類と同程度であったと考えられている。
(コロラドの知人が飼っているトカゲ、photo:kazuhiko iimura)
肉食性の恐竜は、機敏な動きで相手を倒す。
だから運動神経と共に知能も発達したらしい。
人間にも、どこか似たようなところがあるかも…。
ところが、そんな恐竜は約6500万年前に姿を消した。
約1億6000万年もの間繁栄していた恐竜が、
一瞬にではないにしても、
忽然と地球上から消えたんだから大変なことでしょう。
と、ここまで書いてきて話は少し横道にそれる。
数日前に、
“約5000万年のうちにアフリカ大陸が分裂される”
というニュースをみたから。
大地の鳴動
アフリカのケニアに現れた巨大な地割れ。
その長さは数キロに及ぶといい、
地殻変動によってアフリカ大陸が二つに分裂しつつある…
との学説を裏付けるものだとも。
研究者たちは、
今後5000万年の間にアフリカ大陸が分裂すると予測しているらしい。
先にも書いたように、
人類の祖先が誕生したのが約20万年前だというから、
地殻変動なんていうものは、
そもそも人間の考える尺度で扱えるような事象ではないのだろう。
東日本大震災の後、原発関連の取材で、
使用済み核燃料を地中深くに「処分」するやしないの話になったとき、
日本のある電力会社関係者は、
「地中に埋めた核廃棄物が、
地殻変動によって地上に隆起してくる可能性も考えないといけない。
だから処分場の選定は慎重に行う必要がある」
と説明した。
実に奇妙な話だと思わない?
そんな厄介なものなら即刻使うのを止めればいい。
元来、人間の手に負える代物じゃないのだから。
にも係わらず、福島原発事故の教訓をいかせない日本(…というより現政権)は、
主要電力源として今後も原発を使用し続ける政策を掲げている。
ものごとを判断するする際に必要な「想像力」というものが希薄らしい。
多くの人が「無責任だ」と考えるもの当然だ。
もっとも、
今の政権に「責任は?」なんて問い正しても糠に釘、
豆腐に鎹(かすがい)…状態なのだからどうしようもないか。
さて、恐竜が約6500万年前に地球上から姿を消した話にもどろう。
600種類以上いたとされる恐竜が絶滅した理由は、
ご存知の通り、隕石の衝突だ。
落下地点は、メキシコのユカタン半島付近だと確認されている。
2010年3月、科学誌「サイエンス」は、
“地球環境を一変させた破壊的衝突の全容”を以下のように伝えている。
衝突した天体は直径10〜15キロの小惑星。
衝突速度は秒速約20キロ。
衝突時のエネルギーは広島型原爆の約10億倍。
衝突地点付近の地震の規模はマグニチュード11以上。
津波は高さ約300メートル(推定)
隕石の衝突によりものすごい量のチリが大気圏に舞い上がり、
長期間に渡って太陽光がさえぎられて地球上が寒冷化。
核の冬のような状態となり、
海のプランクトンや植物が死滅。
結果、恐竜なども絶滅したと考えられるという。
あらがえるものと、あらがえないもの。
あらがうべきことと、そうでないこと。
やりきれない
シリアでは政府軍が、
塩素ガス・神経ガスとみられる化学兵器を使用。
地下壕に避難していた民間人110人以上が殺害され、
犠牲者の大半は子どもだったという。
いったい何がしたいんだ?
微塵の大義もないでしょ?
そもそも子ども達は、
国の大義のためなんかに生きていないし。
(コロラド州、photo:kazuhiko iimura)
約1億6000万年にわたって、
地球上を恐竜たちが闊歩していた時代。
もちろん、人間なんていない。
もし、巨大隕石の激突がなければ、
もし、地球環境に大異変が起きていなければ、
今でも恐竜たちが、陸を支配していたかもしれない。
だとすれば、
もちろん、人類など存在していないだろう。
逆にこうも考えられる。
いま人類があるのは奇跡なのだと。
人間が生きていられる一瞬一瞬が、奇跡なのだと。
(飯村和彦)
2017年12月22日
手当り次第に“考える”「2050年は人生110年社会に」
うさぎと亀の話じゃないけど、亀のように一歩一歩着実に、
ゆっくりでもいいから毎日を大切に過ごしていけたらいいな…としみじみ思う。
「のそのそ」
でも、
「てくてく」
でも、
自分の足できちんと自然体で…だ。
「はやく大人になりたいなあ」と考えていた頃は、とかく急ぎ足になりがちだったけど、
いま大人になって(いい大人かどうかは別にして…)、つくづくそう感じる。
(photo:kazuhiko iimura)
2017年も残りわずか。
ここにきてアメリカでは、急ごしらえの税制改革法案が議会を通過、
トランプ大統領は、
「歴史的な減税だ!」
と意気軒昂だけれど、
実際は当の本人が選挙公約に掲げたほど低中所得層に恩恵はなく、
優遇されるのは大企業と富裕層だ。
まさにお金持ち好きのトランプの真骨頂(?)。
また、減税をすれば当然財政に穴があき、その額は約1.5兆ドル。
その穴をなんで埋めるかのかといえば、きちんとした制度設計ができていないよう。
予算を切り詰めるための一つの候補になっているのが、
低所得者層の子どもや母親らへのヘルスケア・プログラムへの支出のカット。
なんとも悲しいアイディアだ。
そうなると約900万人もの低所得者家庭の子どもが、
医療サービスを受けられなくなるらしい。
(photo:kazuhiko iimura)
大統領就任直後から、
トランプの支持率は「歴史的な低さ」でほぼずっと30%台(Gallup Daily: Trump Job Approval)。
10月末にワシントン・ポストが行った世論調査では、
トランプ政権下で、
「政治の停滞が危険水準に達した」と考える国民が71%。
その原因はトランプ大統領自身にあると答えた人が85%にも達している。
じゃ、どうしてトランプが大統領になっちゃったの…という話だ。
ともかく、そんなこんなで2017年が終わっていく。
はやいものだ。
個人的なことでいえば、
今年は医療系の取材をたくさんしたなあ…というのが率直な感想。
つまり、それだけ加速度的に医療の各分野が進んでいるということだ。
がん治療に関しては免疫療法が完全に研究開発の主流になり、
新しい薬や様々なタイプの治療方法が登場してきた。
光免疫療法 なんかは、近赤外線でがん細胞を瞬時に破壊するというから凄い。
はやく一般の医療現場でその威力を発揮して欲しいと思う。
(photo:kazuhiko iimura)
それから一番驚かされたのが死んだ 脳細胞を再生させる薬。
以前ここでも紹介(想像力を駆使して手当たり次第に“考える”「例えば新垣さん」 )した、
脳梗塞や脳損傷でダメージを受けた脳を再生させる細胞薬のことだけれど、
まさにこれまでの医学の常識をくつがえす画期的なものだった。
リハビリをしても効果のなかった腕や足が動かせるようになったのだから。
この薬なども一日も早く治験を終えて認可されて欲しい。
そしていま取材しているのがアンチ・エイジングの分野。
現在進められている研究開発が成功すれば、
2050年までに人間の寿命は100歳〜110歳まで延び、
尚且つ人生最後まで健康的な生活を送れるようになるのだという。
ある程度長生きをしても晩年は病気との闘い…ということじゃなくてだ。
これにはびっくり。
けれども、そんな長寿医療の発展も受け止め方はひとさまざま。
今月83歳になったあるアメリカ人のおじいちゃんにその話したら開口一番、
「そりゃ大変だ。もっともっと働かないといけなくなる」ときた。
「でも、健康なまま長生きできるのは良いことなのでは?」
と尋ねてみると、
「そんなに長生きしたら年金がなくなるよ」
とっても現実的な答えが返ってきた。
一日一日を大切に丁寧に過ごしているおじいちゃんならでは考え方だ。
なるほど、ものごとはいつだって複眼で見ないといけないということ。
2050年までにはまだ少し時間があるから、
そんな(超)高齢化社会に見合った制度をつくる必要がある訳だ。
人生に続編はある?
そうだね、ないよね…きっと。
だってひと繋がり、
一回きりだから“生き切ろう”って思えるのだろうから。
「続編」っていえば、その要望の多かったドラマ 「逃げるは恥だか役に立つ」 (TBS系)が、
年末年始の昼間に一挙再放送されるという。
畑違いではあるけれど同じテレビ業界に身を置く人間にしてみればこれも驚きだ。
それだけ、新垣結衣 さん演じる 「森山みくり」 をもう一度…という視聴者が多いのだろう。
もちろん年末には番組の再放送が多くなるけど、
大抵は、その夜に放送するスペシャル番組の番宣的に前年のものを流す…というケースが多い。
番組宣伝ではなく、純粋な再放送(それも二日間にわたって約12時間)というのは聞いたことがない。
TBS、ずいぶん思い切った編成をしたもんだ。
でもまあこれで普通に考えれば「逃げ恥」の続編…という話はなくなったのでしょう。
きちんと完結した良質の物語(原作もそうだし…)、
言い換えればシリーズ化に馴染まない性格の作品だから「続き」といってもね。
もしかすると制作スタッフや出演者の方々もそう考えているのではないかな…とも。
次なる傑作のために。
でもテレビ局には大人の事情、
例えば視聴率がとれるなら少し無理をしてでも…とかがあるからなあ。
ナニワトモアレ、みんなが楽しめればね。
楽しくないと、疲れるし。
なにごとによらず、人に楽しんでもらえるように、
みんないつだって全力、ベストを尽くす。
けれどもそのことと肉体的、精神的な疲れは別で、頑張った分ちゃんと疲れる。
からだは正直だから。
(photo:kazuhiko iimura)
人生って長い?
それとも短い?
年齢によって感じ方が違うのはそれとして、
「短い」って感じるときの方が充実しているのかも…。
そんなとき、
いつもずっと、ただ静かに隣にいてくれる人がいるといいよね。
例えば気心の知れた幼馴染とか。
べたべたする関係じゃない。
大事なとき、一緒にいて欲しいとき、傍にいてくれる。
そんな穏やかな人だ。
けれども、いまある、
自分の在り方にとらわれると自分を見失う気がする。
生き方、生活のスタイルを変えないで、日常を送っていく。
まわりからの視線は、ことあるごとに良くも悪くも変わる。
これは自然なことだ。
だから子どものころから家族や仲間と積み上げてきた時間や環境を、
自分の感性のまま、精一杯生きるしかない。
「自然体」 って多分そんなことだ。
勢い込まず、でもその人なりに一生懸命考えて。
いまの立ち位置を確認しながら前を向いて、自分なりスピードで進んでいくしかない。
きっとそれが自分らしさのはずだ。
2018年は、そんな一年になればいいな…と思う。
考えて、前を見て、踏ん張って、もうひと頑張り…
(飯村和彦)
2017年10月12日
「疲れたなあ」と感じたときの処方箋〜金色の鍵
人を楽しませること。喜んでもらうということ。
笑顔はいいよね。最高。どんなものより人にチカラを与えることができる。
だけど四六時中、微笑んでいられる訳じゃない。
人間、そうそう高いテンションを保ったままではいられないから。
「ああ、疲れた」
そういってしゃがみ込みたくなるとき、あるよね。
膝から力が抜けちゃってもう歩きたくない、歩けない。そんなときが…。
でも僕たちは、それでもなんとか前へ進んでいく。
てくてく。
てくてく。
頑張って歩いていれば、またいい日がやってくるって信じているから。
(photo:kazuhiko iimura)
東京からアメリカに戻って一週間。ひどい時差ボケと闘いながら次の取材に向け、準備にとりかかった。
NMN? 老化を防ぐそんな物質が体内にあるらしい。「ニコチンアミド・モノヌクレオチド」…それが正式名称。
歳をとると体内にあるこのNMN(正確にはこのNMNからできるNAD「ニコチンアミド・アデニンジヌクレオチド」)が減って老化の原因になるのだという。
だから減った分のNMNを摂れば、老化防止に繋がるそうだ。ちなみみこのNMN、ブロッコリーやアボガドなんかに多く含まれている物質だそう。
老化。
そろそろ他人事じゃなくなってきたなあ。本当に?
でも前へ進む。
てくてく。
てくてく。
日本では衆議院選挙だ。全国の小選挙区と比例代表を合わせて1180人が立候補した。
最大の争点は安倍政権の継続の是非な訳だけれど、さてどうなるのだろう。
いまのところ【自民、公明】が与党で、他は野党っていうことになっているけれど、選挙が終わって気がついてみたら【自民、公明、希望の党、日本維新の会】が与党で、【共産、社民、立憲民主党】が野党…なんてことになりゃしないか?
順列組み合わせ。選挙期間中に明快にして欲しい。
僕たちは、
どうあっても、
選挙結果を受け入れて前へ進んでいくしかないのだから。
てくてく。
てくてく。
忙し過ぎるとき。
自分のため、他のひとのために誠実に働いているとき。
訳もなくふさぎ込んだり、唐突に“疲れた…”って感じる瞬間がある。
頭の中も重くて胸もすっきりしない。
「ああ、どうしちゃったんだろう」
そんな言葉がふいに口からこぼれたりするともういけない。
動きたくなくなって、ただひたすらベッドに転がっている。
「もうガンバレナイ」となったとき、どうする?
僕は「金色の鍵」をもちだす。
もちだすといっても手触りのある鍵じゃない。
助けが必要なときに思い浮かべる自分だけの鍵のことだ。
もう25年以上前のこと。僕はこの「金色の鍵」をニューヨーク大学の心理学講座で手に入れた。
心を落ち着ける、リラックスするための方法の一つとして「金色の鍵」は結構知られたものらしいので、既にその使い方を知っている人もいることでしょう。
そんな方々は以下の文章を読む必要はありません。
さて、
僕は「金色の鍵」を気分を高めるのではなく、心を穏やかに沈めるために使用する。
使い方は簡単だ。
リラックスしたいな…と思ったとき、まず地下へと続く架空の階段を降りていって自分の好きな場所(海でも森でも街でもどこでもいい)にでる。そして必要であれば、ナビゲーター役(…恋人の徹くんでも、憧れのスターのガッキーでも、大好きなハリネズミでも…)と一緒に“秘密の館”に行って「金色の鍵」を使って建物の中に入る。
あとは自由だ。
自分の心が休まる最高の館を好き勝手につくり、そこで存分にリラックスする。昼寝を楽しんでもいい。
言ってみれば自分だけのバーチャルな館だ。
それで、すっかり寛いだら館を後にし、階段を上がっていまの世界に戻ってくる。それだけのことだ。
僕自身の「金色の鍵」ストーリーでは、僕は小学生ぐらいの自分に戻り、ナビゲーターにはアオスジアゲハが登場する。特に理由はない。最初に大学の講座で「金色の鍵」を使ったリラクゼーションを試みたときに浮かんだ心象風景の中にふと登場してきたものだから。
とはいっても以降、「金色の鍵」を心の中にもちだして自分の世界に入っていくときはいつだって同じ風景の中の同じ「秘密の館」に入っていくことになるんだから面白い。
例えばこんな具合。
(photo:kazuhiko iimura)
以下は、ベットに倒れ込んで動けなくなったようなときの、
僕自身の「金色の鍵」ストリーだから興味のある方だけ読んでください。
思いつくままに書きなぐった稚拙な文章で、おまけに長いし。
では、リラクゼーション開始!
深い深呼吸を一つ。そしてゆっくりと瞼を閉じる。
すると足元に地下へと続く階段の入り口が現れた。
僕は、暗い階段を下りていく。一段、また一段。怖くはない。
ひんやりとした空気がとってもいい。一段、そしてまた一段。
階段を下りる度に僕の身体にこびりついていた垢がハラハラと落ちていくようで気持ちがいい。
一段、そしてもう一段。
階段を下りきるとそこに扉があった。
出入り自由の茶色い扉、勝手に来ては勝手に入れる勝手ドア。
僕はその扉を押してみた。
重くもなければ軽くもない、想像通りのスピードで勝手ドアは開いていった。
縦に細長い光の線が横へ横へと広がり始め、
ついには目の前が明るい光でいっぱいになった。
いい臭いがした。
森の中だった。
鳥のさえずりが聞こえる。
少しだけ湿った空気が風に乗り、木立の間を自由に流れていた。
僕は、杉や檜から溢れ出る緑の臭いを胸一杯に吸い込んだ。
鼻が少しだけムズムズした。
「よし、歩いてみよう。この森の奥にはきっと素敵な場所がある筈だ」
細い道を歩きだす。道に迷うことはない。枯れ葉色の一本道は勝手ドアから続いている。
僕の足は弾んでいた。明るい光が濃い緑色の葉っぱをくぐり抜け、
枯れ葉道に優しい影を落としていた。
梢に差し込む光の方へ目を向けると、杉の木の先端で蝶の家族が遊んでいた。
「アオスジアゲハだ!」
黒い羽にパステルカラーの青緑。その三日月型の青緑は森の光を思わせた。
風に揺れる森の木の葉に当たった光は、三日月型に散っていく。
アオスジアゲハは森の光を自分の羽にデザインしたに違いない。
僕の大好きな蝶だった。
「こっちだよ。速く」
アオスジアゲハが一羽、僕の鼻先に飛んできた。
さなぎから孵ったばかりなのだろう、
しっとりとした羽にはキズ一つなかった。
「待ってよ、そんなに速く飛ばないでよ」と僕。
「速く! 凄くいいものがあるんだから。きっとびっくりするよ」とアオスジアゲハ。
「エッ、なにがあるの?」
「内緒さ、でもすぐにわかるよ」とアオスジアゲハ。
僕は駆け出した。心がウキウキする。
森の光の後を追ってドキドキしながら走っていった。
期待で胸がパンパンに膨れあがり、身体はまるで風船のよう。
1、2、3―ン、
1、2、3――ン、
1、2、3―――ン。
僕の身体は木の葉のように宙を舞う。フワリと浮いては風に乗り、地面に着いては地を蹴って。
僕は人間であることを確かに感じながら、蝶や鳥の気分になっていた。
「わーっ、空気って柔らかいんだ、重力って気持ちいいなぁ。
海の中に少し似てるけどやっぱり違う。
あっ? でも、海底をポンと蹴って水面に上がる時、
背泳ぎをして空を見ながら上がっていくと、こんな感じになるのかな?
そういえばフロリダにある何とかっていう泉に潜ると、
空飛ぶ魚が見えるって聞いたことがあるけど。
まあいいや。でも、もうちょっと風があればいいのになあ…」
するといきなり風が立ち、僕の身体を空高く吹き上げた。
驚いたアオスジアゲハは、ヒラリと身体を翻す。
見る見る眼下の森が小さくなって、
小川に生えているモウセンゴケぐらいの大きさになったとき、
やっと僕の身体は宙に止まった。
「もしかしたら、この瞬間が『無』っていう状態にいちばん近いのかもしれない。
なんの力もいらないし、なんの苦労もない。
まあいいか、ともかく、これからが凄いんだ。よし!」
空気をいっぱい胸に吸い込み、両手を延ばして下を見た。
視界を遮るものは何も無い。
目標はあの森だ。
背中の糸がプツンと切れる、僕の身体は落下を始める。
「よし、うまく風をつかまえた。あとの事はみんな重力がやってくれる、僕はただ呑気に落ちればいいわけだ。
でも、見た目ってのも肝心かな? 一応、泳いでみるのもいいかもしれない。やっぱりクロールかな、大空で平泳ぎっていうのはなんとなく滑稽だし、バタフライじゃ大袈裟すぎる。背泳ぎも悪くわないけど、それじゃ折角の景色が楽しめないし、
もしかすると森にうまく落ちられない事だって考えられる。まあ、ここはありきたりだけどクロールにしよう」
僕の身体は落下する。
ぐんぐんぐんぐんスピードが増していく。
森の緑が近づいたとき、
目の前を鳶(トンビ)が横切る。
「さぁーッ、みんなどいてどいて危ないよ」
アオスジアゲハが飛んできて、
僕の頭のてっぺんに、羽をたたんでちょこんと座った。
「風の向きを見てあげるよ。いいかい、このまま秘密の館まで一気に降りて行くんだ」
アオスジアゲハはそういった。
「なに、その秘密の館って? あっ、それが君の言っていたびっくりする所なんだね」
「そうさ。捜してるものが、きっと見つかる筈だよ。さあ、そろそろ着地するよ。大きく息を吸って! いくよ、そ───れ!」
アオスジアゲハが僕の頭の上に飛びだした瞬間、僕の身体は風に乗り、ヒューンといったん三日月状に上昇した後、ヒラリフワフワ落ちだした。
十メートル、五メートル…、木の葉のように僕は舞う。そして無事に着地。
気がつくと、森の中にある小さな広場に立っていた。
足元には秋色の落ち葉。赤、オレンジ、黄色…カラフルだ。
「さあ、君の言っていた秘密の館ってどこなの?」
僕はアオスジアゲハに問いかける。
「目の前さ。見えるだろ? 空色の扉が…」
とアオスジアゲハ。
「エッ、何も見えないよ。何もないよ、どこに扉があるの?」
「じゃ、目を閉じてみて。そしたら見えるから」
「目を閉じるって?」
「いいから、目を閉じて。難しいことじゃないよ」
アオスジアゲハに言われるまま、僕はゆっくりと目を閉じた。
「どう? 見えた?」
「あっ、あった。見えたよ空色の扉が…」
「そう、それが秘密の館の入り口さ。どんな家? 大きい? 小さい?」
「うん、煙突のついた大きな家。でも、ちょっと古いネ」
「向日葵が咲いているでしょ、入り口の横に」
「うん」
「彼女から鍵をもらってネ。…そう、金色の綺麗なやつ」
僕は、向日葵からピカピカ輝く金色の鍵をもらうと空色の扉に差し込んだ。
慎重に右回し。カタンと鍵の外れる音がして秘密の館の扉が開いた。
背後からアオスジアゲハの声がした。
「どう家の中は…明るい? 何がある? 何か聞こえる? どんな臭い?」
すると、アオスジアゲハの問い掛けに応えるように、それまで漠として曖昧だった秘密の館の内部が突然、具体的なモノや形になって立ち上がってきた。僕は何も考えず、ただ感じるままに目の前に広がっていく光景をそのまま言葉にしてアオスジアゲハに伝えた。
「何も聞こえない、静かだよ。でも、なんだかカビ臭い。大きな柱時計があるけど動いていないみたいだ。窓には白いカーテンが掛かってる、ヒラヒラのレースのついた。誰もいないよ。あっ茶色い大きな階段がある、映画みたいな。わー、もの凄いシャンデリアがぶら下がってる、おっこちないかなぁ」
「もし、嫌いな所があったら好きなように直していいんだよ」
アオスジアゲハが優しく教えてくれた。
「部屋が狭かったら広くすればいいし、ソファに呑気な目をした子犬が欲しいと思えばそうしたらいい。この家は自由になんでも出来るんだ。君だけの秘密の館さ。最高の気分で最高の時間が送れる、そんな家をつくってネ。それじゃ、僕、森に戻るから」
そう言ってアオスジアゲハは飛び立った。
森の光を浴びながら、枯れ葉色の一本道をまっすぐに飛んで帰っていった。
さて、僕はといえば秘密の館の建造である。
「自分だけの秘密の館か…、なんかワクワクするな。そう、部屋は広い方がいい。
もちろん床は茶色の板張り。ピカピカで、靴下で走ったら滑って転んでしまうような床がいい。部屋の真ん中には大きなモミの木。もちろん生きたモミの木さ。彼の周りだけは床を丸くくり貫いて…そう、ついでに天井も丸くくり貫こう。こうすれば彼ものびのび出来るだろうし、太陽や鳥や虫たちとも話が出来る。
そして、クリスマスには僕が綺麗に飾るのさ。銀色の星に雪のわた。キラキラ光る赤や青の夢の帯もいいかもしれない。もちろん今年のクリスマスが終わっても、彼は来年のクリスマスを楽しみに待てるんだ。その次の年も、またその次の年も。アンデルセンのモミの木みたいに、屋根裏部屋に閉じ込められたり、切り刻まれてパチパチ燃える薪にされたりしないんだから。僕と彼とは一緒に生きる。
そう、モミの木の横には椅子が一つ。どんなに長い間座っていてもお尻も腰も痛まない、
そんな魔法の椅子があったらいいな。うん、このぐらいがっしりしていて…ああ、いい気持ちだ。
動物はどうしよう? 子ヤギが一頭いればいいか。ヤギと一緒に育った子どもは、性格の優しいとってもいい子になるっておばあちゃんが言っていた。うん、ヤギにしよう。となると彼女専用の出入り口も作らないと…よし、これで彼女も出入り自由だ。
それから東と西には大きな窓、森の向こうの朝日が見えて夕焼け空も楽しめる。
テーブルも一つ置こう。いつでも地図が広げられてどこへでも飛んで行けるように。そうか、アオスジアゲハが羽を休める小枝もいるかな? まあ、いいか、モミの木がいてくれる。………」
いつしか僕は眠っていた。
魔法の椅子にどっかり座り、心静かに眠っていた。
遠方からは波の音。
潮の香りを含んだ風がそっと頬を撫でていく。
澄み渡った空、乱反射する海。
砂糖を撒いたような真っ白い砂浜には、
青空に向かって聳え立つ一本の椰子の木があった。
その根元には、
パリパリに乾ききった黄緑色の海藻が見えた。
ドスン!
鈍い音を残し、椰子の実が地面に転がる。
刹那、空に鯨が舞い上がった。
白い腹の部分に陽が当たる。
真珠のように水が跳ね、黒い巨体が地球を揺らす。
舌は、鮮やかな桃色だった。
と、おっきな瞳がこちらを向いた。
僕の様子を伺うように、鯨は横目で僕を見た。
思わず息を呑んだ。
すると、アオスジアゲハが飛んできて、
僕のまつげにちょんと停まった。
「夕立が来るよ、起きて!」
泉の音?
訳もなく鳥肌だった。
僕はむっくり起き上がる。
木立を渡る風が少しだけ冷たくなっていた。
僕は枯れ葉色の一本道を急ぎ足で引き返す。
西の空に鼠色の雲が掛かった。
森の木々は形を失い、
緑黄色の走査線となって視界の隅を飛んでいく。
全速力だ。
でも、それはそれでなぜか心地よかった。
前方に茶色い扉が見えた。
出入り自由の勝手ドア。
僕は躓きそうになりながらも、
一塁ベースにヘッドスライディングを試みる高校球児のように、
扉の中へ滑り込んだ。
セーフ。
まさに間一髪だった。
息を整え、暗い階段を上りだす。
一段、また一段。
やっぱり、ひんやりとした風が吹いていた。
階段の上の方に目をやると、
光の点が一つ浮かんで見えた。
一段、そしてまた一段。
光の点は少しずつ膨らんで、
ついには四角い赤紫色の絵になった。
雲が見えた。
空だ。
(飯村和彦)
2017年09月25日
想像力を駆使して手当たり次第に“考える” 「例えば、新垣さん」
自由にあれこれ「考える」こと。順不同。
そんなときにはタイトルやら小見出しやらが必要ないから愉快になれる。深刻にもなれる。
だからいい。
インタビューは受け手と聞き手による共同作業。
大切なのは想像力だ
ちょっと考えればすぐに気づく。
ご存知の通り、自分の思いや考えを言葉でいい表すのってもの凄く難しい。というか大抵の場合、考えていること、思っていることのほんの一部しか言葉にならない。だから思いの全てを相手に伝えるなんて絶対できっこないと感じてしまう。誤解されてしまうことだってある。
でもあきらめたらそれまで。
水が湯になり湯が沸騰する直前に現れるあの泡のように、ポツリポツリと沸いてくる言葉に耳を傾けてみたい。焦らず気負わず勢い込まずに。想像力を最大限に働かせてね。
でもテレビだとそんな余裕はない。そもそも放送時間の制約もあるし。
やっぱり本にする?
本にだってそりゃ文字数やページ数の制約はあるけれど、活字だから、ゆったりとした時間の中で交わされた言葉を何度も眺められる。言葉を口にしたときの表情も思い描ける。行間から言葉にならなった相手の思いなんかも感じられる。
「どんなことがあっても生き抜いて。そして生き切るのよ!」
生きることと「行き切る」ことは決定的に違う。
がんとの闘いを何度も克服し、97歳まで生きた祖母。手元には最後の7年間を記録したVTRがある。映像は祖母が90歳のときの正月から始まる。
撮影舞台はといえば、ほとんどが実家だから、シーンも私どもが実家を訪れる盆と正月が大半だ。だから当然、同じ行事の繰り返しになる。
ところが、完成したものを通して見ると、そんな毎年の繰り返しだからこそ、「そうなのか…」と合点するところが多々あった。
(photo:kazuhiko iimura)
当然ながら祖母は年々、老いていく。
“老いが深まる”といった方が適切かもしれない。
けれども、「生きよう!」 「生き切ろう!」とする意思は健在で、末期がんで死の淵に瀕したときも、70年間連れ添った夫(祖父)と死別したときも、彼女は強い意志でその都度、奇跡的な回復を遂げた。
もちろん歳が歳だから、顔に刻む皺は年々深くなるし、幾度となく繰り返される外出時に玄関をでる様子は、“一人でスタスタ歩いている” 姿から“家族の誰かに抱えられて…” の姿へと変わっていく。
だが、それは単なる身体的な老いでしかないようで、祖母の老いと反比例するように、年々成長するひ孫たちと接するたび、祖母は自分自身の中にあった「生きる力」を再確認していたように思える。
家族の中に高齢者がいること。
自宅とケアハウスを行き来する祖母の生活。
そんな祖母の生活を支える家族の日常。
もちろん、介護する側の負担は大きい。
でも、だからといって何か特別なことをする訳じゃない。
明るく楽しく。
毎年、どんなときでも…いつも通り、普段通り。
そんな「いつも通り」がどれほど大切で、どれだけかけがえのない時間だったことか。
亡くなる1年前、祖母が語ったこと。
「人の人生にはそれぞれの持分(もちぶん)というものがあってね。
私は自分の持分を使い切ったから、あとはもうどうなってもいいんだよ」
素敵な言葉だった。
雪の多い地方では、冬の間、開墾した土地に降り積もった雪の上にケイ酸や水溶性カルシウムを散布すると聞いたことがある。上空から降ってくる雪には大量の窒素が含まれている。窒素は土壌にとって貴重な肥料。だから雪の上から蓋をして窒素を閉じ込めてしまうのだそうだ。
氷の中に封じ込められる時間。
タイムマシーン。
(photo:kazuhiko iimura)
猫は自分のことを猫だとは思っていないだろう。自分を「そういう分類を超越した特別な存在」だと思っている?
そもそも分類なんて窮屈な発想自体がないに違いない。在るがまま。羨ましい。
一度ゆっくり猫と話をしてみたいものだけれど、現実にはねぇ。
だいぶ前のことになるけれど、小渕恵三さん(…あえて“さん付け”にしています。その方が親近感があって好きなので)は首相になる朝に話していた。
自分は「冷めたピザ」でも構わないと。
他人からの批判を甘んじて受け入れる政治家には、視線の先に思い描いているはずの、その政治家なりの国家観を聞いてみたいと思う。好き嫌いに関係なく。
じゃぁ、いまの首相は?
彼には「美しい国へ」という著書があった。
「美しい国」=「うつくしいくに」。
逆から読むと、「にくいしくつう」=「憎いし苦痛」
近々、総選挙があるらしい。いま政界では摩訶不思議な力というか「思惑」がうごめいているよう。いい方向にその力が働いてくれるといいのだけれど。
自然の大きな力は、ものごとをあるべき状態に戻していく
熊本地震では、落ちない巨石、「免の石」が落下した。
筑波山(茨城県)には「落ちそうな巨石」がある。「弁慶七戻り」と呼ばれている大きな石のことで、言い伝えには、そこを通りかかった弁慶が、いまにも「落ちそうな巨石」が頭上に落ちてくるのではないか…と不安になり、その巨石の下をくぐるのを7度もためらったとある。
あの弁慶でも…ということなのだろう。
「つわもの」だって怖いものは怖い
(photo:kazuhiko iimura)
平成の怪物投手なんて呼ばれていた松坂大輔 さん。
「自信が確信に変わりました」
ブロ入り直前、当時18歳だった彼は、そんな決意を口にした。
けれどもそこに至るまでの努力や苦悩、不安な日々は並大抵ではなかったはず。事実、人目をはばからず悔し涙を流した日もあった。
横浜高校2年のとき。エースとして臨んだ夏の甲子園・神奈川県大会準決勝でのサヨナラ暴投、134球目だった。彼は試合後ベンチで泣き崩れた。
でも、あの日の屈辱があったからこそ高い目標を求めて野球に取り組むことができるようになったのだという。
あれから19年。
いま松坂さんは度重なる肩の故障に苦しんでいる。今シーズンは二軍のマウンドにさえ登らなかった。
18歳のとき彼はこうも語っていた。
「(いつも考えていることは?)自分が一番うまいと思って、練習はやっています」。そして「プロとは人に夢を与える仕事。その最高の舞台がプロ野球。多くの人に注目されればされるほど、力が沸いてきます」
37歳で迎える来期。もう一度輝いて欲しい。
不可能は可能のはじまり
あるベンチャー企業の社長は、インタビューの最後をそんな言葉で締めくくった。
脳梗塞や外傷性脳損傷によって死滅した脳細胞を再生させる薬の開発。
健康なヒトの骨髄液からとった幹細胞に特別な処置を加えてつくる「 細胞薬 」、つまり、生きた薬だ。
開発を始めてから今年で16年。
臨床試験も順調に進んでいて製品化(治療薬としての承認)まで「もう少し」の段階にまできている。
「出来っこない、不可能だ」といわれ続けた日々。
けれども彼自身は不可能だなんてまったく思っていなかったらしい。
人のために自分ができること。
誰かの役に立ちたいという一貫した信念だ。
(photo:kazuhiko iimura)
新しいものを世の中にだすこと。
これまでの常識をくつがえすこと
魔法なんてないから、本気で自分の信じる道を進み、努力するしかない。
でもきっと心が折れそうになる瞬間もあるのでは?
そんなときはどうするの?
小声でもいいから教えて欲しい。とくに自分が弱っているときは…ね。
(photo:kazuhiko iimura)
ある人は、
「スナゴケやスギゴケに水をあげているときが唯一ほっとする時間ですね」
と応えるかもしれない。
そんなときはスナゴケやスギゴケについて詳しく教えてもらう。同じものを同じ気持ちになって眺める。
石に張り付いているビロードのようなコケ。よく見ると微小な真珠のような芽がたくさん並び輝いていてとっても綺麗だ。
夢を実現すること。
または夢に近づくために努力をすること
孤独かもしれない。
でも、努力を惜しまず目標に向かってまい進する姿は人を魅了する。
夢を共有してくれる人が現れ、仲間ができる。
凄いことだ。
「いまは誰かのために医者でありたいと思う。
俺はそれをお前らから教わった。
俺は出会いに恵まれた。お前との出会いを含めて」
これはフジテレビで放送されたドラマ「コード・ブルー 〜ドクターヘリ緊急救命〜 THE THIRD SEASON 」の最終話で山下智久 さん演じるフライトドクターの藍沢が、新垣結衣 さん演じる白石に語った台詞だ。
おそらく season1 にあった指導医・黒田の「お前らに出会わなければよかったなあ」という台詞が伏線になっているのでしょう。
心が揺さぶられ、泣いた。
ちょうど脳を再生させる薬の取材を進めている期間とこのドラマの放送期間が重なっていたため、初回から毎週興味深く見ていた。
良質なドラマが描くものごとや人物像には時として圧倒される。そして文句なしに感動させられる。知らず涙を流している自分がいること、それ自体が四の五の言えぬ動かない証拠だ。
なかには「あれはドラマだから」という人もいる。けれどもドラマだからこそ伝えられる大切なものが確実にある。
ドラマのなかで生きること。
でも、当然ながら一人の人間としての日常もある。
俳優、女優というのは大変な職業だと思う。
仕事から帰ってベッドに倒れ込んだときの脱力感や充実感。
自分の光で歩くということ。
公園に寝ころんで秋空を見上げたときの心の在りようは、どんな言葉に還元されるのだろう。
演じることと生きること。
俳優、女優として多くの人の期待に応える。
並大抵のプレッシャーじゃないはず。巨大だろう。
けれども彼らは全員、そんな重圧のなかを軽快に駆け抜けているように見える。
例えば、新垣さん
巨大なものを相手にしている怖さのようなものを感じさせない立ち振る舞い、まとっている空気は特有だ。
でもその特有さは「なんて普通なんだろう」と感じさせる空気なのだからこれは言葉では説明できない。
だからこそきっちり役を演じきれるのだろう。
にもかかわらず、そんな空気を多分、というか間違いなく計算や意図なく自然にかもしだしているのだから、その在りようには驚くほかない。
そういえば新垣さん、ヒョウモントカゲモドキを飼っていると何かの記事で読んだ(…確か犬も)。
ヒョウモントカゲモドキのクリっとした目を覗き込んだときに湧いてくる親密さ。
指先でからだに触れたときに感じる安心感。
もっといえばそんなときにふと思いだす日常の風景や出来事ってどんなものなのだろう。
周りにいる人たちに目を移せば、ある人は猫を飼っている。
もちろん犬を家族の一員にしている人もいる。
モモンガを飼っている人もいるに違いない。
我が家にはいま猫がいる。今年で9歳(だったか?)になる黒い猫だ。
彼の爪を切ったりブラシをかけているとき、自分はなにを考えている?
だいたいにおいてそんな時に思い浮かべるのは特別なことじゃない。
ささやかで、ごく日常的なことが多い。でも実は、そんな特別じゃないあれこれこそが自分の成り立ちみたいなものに一番大切なことだったりする訳だ。
(photo:kazuhiko iimura)
悪戦苦闘しながら子育てと仕事を両立させているお母さん。
彼女は、わが子が眠りについたとき、彼ないし彼女の寝顔をどんな気持ちで眺めるのだろう。初めて高熱をだしたとき、初めて血を流すようなケガを負ったときはどうだったのか。
うちの息子がまだ1歳半ぐらいのころ。
朝から切れの悪い「ゴホゴホ」を繰り返し、夕方には、耳にして不安になるほどの「湿った音」になっていた。
熱は38度弱。とはいっても本人は、ときどき咳き込みながらも普段と同じように積み木を積んではそこにミニカーをぶつけて遊んでいた。
妻が電話で医師の判断を仰いだところ、「一晩様子をみて、咳がもっとひどくなる様だったら朝一番に病院に来るように」とのことだった。
翌朝の明け方近く。息子の湿った咳は、「ゴホゴホ」ではなく「ゼーゼー、ゴーゴー」という嫌な音に変質した。小さな胸に耳を当ててみると風が舞っているような鈍い音が聞こえてきた。それが、息を吸うたびに繰り返えされる。
「病院へ行こう」
そう決めて、息子を抱きあげようとしたときだった。
「ここにライオンがいるみたい」
と彼がいった。
息子には、胸の中で渦巻く音がライオンのうなり声に聞こえていたらしい。
そういうなり息子は、ニコッと笑った。その笑顔が私たち夫婦をどれだけ安心させてくれたことだろう。
結局、病院での診察結果は気管支炎の初期症状。薬を飲むとその日の午後には症状も治まった。
しかし、こうも考えた。
息子の胸の中からライオンを退治したのは薬ではなく、彼自身じゃなかったのかと。
それぐらい息子は落ち着いていたのだ。
普通でいることの難しさ
普通に見えることの特別さ
普通であろうとする努力
普通に振る舞える尊さ
多くの人がいうように「普通」ほど厄介な概念はない
じゃぁ、特別な状況に置かれたときは?
御巣鷹山の記憶。
「部分遺体発見、部分遺体発見!」
トランシーバーに向かって大声で話す自衛隊員の声は今でも耳の底に張りついている。
ヘリコプターの轟音と巻き上がる砂埃。
あのとき御巣鷹の尾根で見た光景は決して忘れることのない惨状そのものだった。
墜落現場の焼け焦げた臭い。信じられない数の棺が並べられた遺体安置所(地元体育館)。
家族や友人の身元確認を待つ、沈痛な表情をした人たち。
その全てが「悲嘆の固まり」だった。
「自分の目で見たものを自分の言葉でリポートしろ。それから、遺族に失礼なことだけは絶対にするな!」
取材にあたって上司から言われたのはそれだけだった。現場に入れば、若手もベテランも関係ない。自分の目と良心に従って取材にあたるしかないのだから。
あの時、どのような取材をしたのか。今、その全てを細部まで思い出すことは難しいけれど、一つだけ確かなものが残った。
一枚の葉書。
(photo:kazuhiko iimura)
息子さん夫婦とお孫さん一人が事故の犠牲になったご遺族からのもの。
事故直後、遺品が並んだ部屋で、なんとかインタビューをさせていただいたのがきっかけで、翌年の慰霊登山の際には同行取材を許してもらった方だった。
「頂いたテープ、時折再生しております。本当にお世話になりました。…また、お目にかかれるのを期待しております」
届いた葉書には、そのような言葉が丁寧な文字で記されていた。
悲しみに沈む遺族に無理をいって取材をさせてもらう。
失礼のないように気を配っていても、知らず心の傷に触れるような質問もしていたに違いない。
けれども、葉書一枚で救われた。
以来、今日に至るまで折に触れてその葉書を思い出す。
取材者として人にどうあるべきか。さらには人としてどうあるべきか。
御巣鷹山での経験は、自分の仕事の原点になっている(少なくとも自分ではそう考えている)けれど、もしあの葉書が届いていなかったら果たしてどうなっていたのか。
はなはだ…疑わしい。
はなはだ…。甚だ。
誰かの本に「確率」は、「たぶん」と同じ意味合いだとあった。
多分…。
(飯村和彦)
2017年08月07日
結論は「日本必敗」…開戦前に存在した「奇跡の組織」総力戦研究所とは?
彼らが導きだした結論は「日本必敗!」
それはまさに「奇跡の組織」だった。
太平洋戦争の開戦直前、1940年9月、
勅命により内閣総理大臣直属の機関として設立された「総力戦研究所」のことだ。
たぶん、ほとんどの日本人はこの総力戦研究所がどんな目的でつくられ、
何を行ったのかを知らないだろう。
それよりなにより、
そんな組織が当時あったことすら関係者以外は知らないに違いない。
(photo:kazuhiko iimura)
総力戦研究所
これまで多くの時間を費やして総力戦研究所に関する史料や文献にあたり、
関係者にも話を聞いた。その結果到達した結論が、
冒頭に書いた通り、それは「奇跡の組織」だったのではないだろうか、
ということだった。
「総力戦研究所」設立の目的は、文字通り総力戦に関する基本研究。
各官庁・陸海軍・民間から選抜された若手エリートたちが、
出身機関・組織から持ち寄った重要データをもとに率直な議論を行い、
国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることだった。
では、なぜ「奇跡の組織」だったのか
その最大の理由は、この組織が、内閣総理大臣直属の機関でありながら、
官民軍の垣根を越えた純粋な研究教育機関だったこと。
教育において重要視されたものは“縄張り意識の払拭”だった。
前述した通り、研究員には各省庁や陸海軍はもとより、
日銀やメディア、民間企業から選りすぐりの人材が登用された。
平均年齢は33歳。
つまり、次世代の日本を担う現役中堅幹部たちが、出身母体の利害を越え、
開戦へと突き進む世相に惑わされることなく、
冷静に当時の日本の国力を総合的に分析した訳だ。
翻って現在の総理大臣直属の各機関の在りようを考えて欲しい。
構成メンバーの多くには、総理や時の政府の思惑に沿った人物が任命され、
だされる提言はといえば、政権が実行したい政策を後押しするものがほとんどだ。
ある政策に対して多くの国民が「NO!」を訴えている場合ですら、
政府方針に真っ向から異をとなえる提言をだすとは考えにくい。
ところが開戦直前の時期、総力戦研究所のメンバーたちは、
勅命による総理直属の機関でありながら、堂々と自分たちの研究結果を発表、
政府に異をとなえることも厭わなかったのだ。
総力戦研究所が行った研究の中から、特筆すべきものを二つあげよう。
まずは、開戦のおよそ10ヶ月前にだされた、
日本の戦争指導機構の致命的な欠陥を指摘した研究、
「皇国戦争指導機構ニ関スル研究」
(photo:kazuhiko iimura)
この研究報告書は、昭和16年2月3日付で作成され、
40部が関係方面に配布された「極秘」扱いの文書だった。
内容は、
「総力戦段階に適した戦争指導機構は、“政府を戦争指導の実行責任者”とする機構。陸海軍は「強力ナル支援」の立場にあるべき。
ところが実際には統帥権が国務から独立し、それ自体が自己運動している現状がある。
これでは到底総力戦段階に適合した戦争指導は望むべくもない」
として統帥権独立制を正面から批判。
さらに、
「可能な限り統帥権を狭義に解釈することで政軍関係の調整を行うべきだ」
として、独自の戦争指導機構改革案を提示した。
統帥権の独立
ここでいう「統帥権」とは、
大日本帝国憲法(明治憲法)第11条が定めていた天皇大権のひとつで、
軍隊の作戦用兵を決定する最高指揮権のこと。
明治憲法下の日本では,統帥権を天皇の大権事項として内閣,行政の圏外においたので、
陸海軍の統帥権の行使に関する助言は国務大臣の輔弼によらず、
もっぱら陸軍では参謀総長,海軍では軍令部総長によるものとされ、
「統帥権の独立」が認められていた。
つまりここに「国務と統帥の二元制」という帝国憲法の欠陥があった。
太平洋戦争においては軍部が、「統帥権」をたてに天皇を利用。
結果、日本は負けると分かっていた戦争に突き進んでいった訳だから、
開戦直前の時期に、政府肝いりの機関だった総力戦研究所が、
軍部暴走の主因であった「統帥権の独立性」に関して、
ここまではっきりと否定していた事実は歴史的に重い。
日米開戦のシミュレーション
総力戦研究所が行った特筆すべきことの二つ目は、「日米開戦のシミュレーション」
いま開戦に踏み切った場合、
戦況はどのように推移し、結果どうなるのかを見極めることだった。
ここで用いられた手法は、
模擬内閣を組閣し、国策遂行と総力戦の机上演習を行うというものだった。
模擬内閣は総力戦研究所の研究生34名で構成され、
彼らは出身機関・組織から持ち寄った第一級のデータをもとに、
想定される戦況の推移を仔細に検討した。
この研究結果は、開戦直前の昭和16年8月27,28日、
首相官邸で行われた「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告された。
総力戦研究所の模擬内閣の導き出した結論は、
「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、
その負担に日本の国力は耐えられない。
戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗戦は避けられない。ゆえに戦争は不可能」
という「日本必敗」のシナリオだった。
これは真珠湾攻撃と原爆投下以外、現実の戦局推移とほぼ合致していた。
この机上演習に関する報告は、当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、
政府・統帥部関係者の前で行われたが、
結論を聞いた東條陸相は、
「…これはあくまで机上の演習でありまして、…戦というものは、 計画通りにはいかない。…(この演習の結果は)意外裡の要素というものを考慮したものではないのであります」と発言し、「この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬ」として、演習について口外しないよう求めたという。
結局、総力戦研究所の研究結果は現実に生かされることはなく、
日本は「必敗」の戦争に突入していく。
歴史に「if」は禁物だか、あえて考えれば、
もしも総力戦研究所のような組織・機関が、開戦間際の時期ではなく、
もっと早い段階、昭和初期にできていたら、
あの不毛な戦争を回避できていたかもしれないし、
そうすれば約320万人もの尊い国民の命が失われずに済んだかもしれない。
では、戦前の総力戦研究所のような、官民の責任ある立場の人たちが、
それぞれの抱える利害を越えて、
一緒になって日本という国の在り方を真剣に考えるような組織なり機関、
あの「奇跡の組織」はもう二度と登場しないのだろうか。
少なくとも今の政治家や官僚にはまったく期待できない。
その意味では「奇跡」がもう一度起こることはまずないように思える。
けれども少し先を見れば、
「もう一度奇跡が起こるかもしれない」との微かな希望がないわけじゃない。
そのほう芽のようなものは、2年前の安保法案反対の運動の中にあったような気がする。
立場を越えた人たちによる縦横の連携だ。
(photo:kazuhiko iimura)
安倍政治を許さない
将来の日本を支える多くの大学生や高校生が、
自分自身でこの国のあるべき姿を考え始めた事実は大きかった。
彼等の中から、
間違いなく有能な政治家や官僚、各分野の次世代のリーダーが登場してくるだろうし、
そんな彼等であれば、
省益やら政治的な利害、企業エゴなどを越えた横の繋がりをつくれるに違いない。
そしてそのことが、
次なる「奇跡の組織」の登場を現実のものにしてくれるのだろうと想像する。
ではその実現のために、
彼等の親の世代である自分たちは何をすべきなのだろう?
考えるまでもない、
ダメはダメ、
許してはいけないものに対しては躊躇することなく声を上げて行動するしかない。
もうためらっている時間はないのだから。
でないと、懸命に頑張っている次の世代に申し訳ない。
(飯村和彦)
2017年06月09日
もはやテレビじゃない!「いま」を映しだす【Vlog(ヴログ)】の逞しさ
時代を映すものってなんだろう。
ふとそんなことを考えて身のまわりを眺めてみると、
実に様々なものがあると改めて気づかされる。極端な話「全て」なのだ。
でもそうなってしまうと身も蓋もないので、ひとまず自分の係わっているメディア、
特に映像媒体を例に考えてみることにした。
一昔前まではテレビは時代を映すメディアの代表だった。
「それテレビで見たよ」とか、「テレビでやってたやつだろ?」
そんな会話が頻繁に交わされて、
そこには意識するしないに係わらず「テレビ=正しい情報源」的な認識が少なからずあったように思う。
テレビを「社会の窓」なんて呼んでいた時代もかつてあった訳だから。
もちろん、いまでもそんな会話が世界中で交わされているんだろうけど、
その評価はだいぶ変わってきているのも周知の通り。
「テレビ=正しい情報源」的な部分に多くの人が疑問を持っているだろうし、
テレビが「在るがままの社会」を伝えていると考えている人は少ないはず。
どうしてテレビの評価は下がってしまったのか。
個人的には、
ニュース(民放)でやたらと見かけるようになった“映像のボカシ”なんかがその一つ、
象徴的なものだと思っている。
街角の自販機や看板、店内のビールや会議中の卓上に並んだペットボトル…、
それら商品の銘柄が、伝えているニュースの内容とは無関係に消されているあれだ。
ご存知の通り、すべて番組スポンサーとの兼ね合いでそうなっているのだけれど、
視聴者にとっては邪魔なだけの映像処理だ。
本来のニュース内容に集中したくても、
あの“映像のボカシ”のために注意が散漫になってしまうばかりか、逆に、
ニュースそのものよりも、内容とは関係のない“映像のボカシ”が気になってしまう、
なんてことも少なくないだろう。
番組スポンサーから実際に、
「競合する企業の商品が映像に映っていたら、伝えている内容に係わらず消してください」
というような要請が番組側に入っている場合もあるだろう。
だが、過去にそんな要請を受けた経験のある番組担当者が、
「スポンサーの関係があるから消しておいた方がいいんじゃないか…」
と先回りしてボカシを入れてしまうケースもあるように思う。
このところよく耳にする、いわゆる「忖度(そんたく)」ってやつだ。
「私が申し上げたことを忖度していただきたい」
最近では、安倍首相本人がそんないただけないジョークを飛ばすほど世に広まった言葉だが、
政治家や官僚だけではなく、
ニュースに携わっている人間まで、あれこれ「忖度」していたんじゃ話にならない。
そんなニュース番組、おかしくありません?
いったい誰のためのニュース番組なんだ?
伝えるべきことをそのまま、まっすぐに伝えていないんじゃない?
視聴者がそんなふうに感じてしまうのも当然な気がする。
だからなのだろう。
ここ数年、自分の思いや考え、さらには日常を「動画」の形で一般に公開する人が増えている。
ブログやYoutubeに、自作動画をアップする【Vlog(ヴログ)】だ。
この【Vlog】をつくる人は【Vlogger』(ヴロッガー)】と呼ばれ、
アメリカなどでは情報を発信するプラットフォームとして今や欠かせない存在になっている。
人気のあるVloggerになると、数千、数万、なかには数百万人ものチャンネル登録者を抱えている。
CaseyNeistat
PlayTheGameFilms
iphoneはもとよりドローンや高性能カメラなど、
動画制作に用いられている機材は「いま」を象徴するもの。
手に入れようと思えば誰でも一般に購入できるものだから、
そうした機材面から見ても、Vlog動画が「いま」という時代を切り取っていないはずがない。
この【Vlog(ヴログ)】のポイントは、“プロ”と呼ばれる人たちではなく、
一般の人の手による動画だということ。
つまり前述した「忖度」なんてこととは無縁な訳だ。
見せたもの伝えたいことをまっすぐに、ダイレクトに動画という形で表現する。
また、
動画をつくってネットに公開するまでには、
そんぞれがその人なりに自分自身を客観視しなくてはいけない過程が必ずあるので、
少なくとも書きっぱなしの日記なんかよりは自省的にもなれる。
なにより匿名じゃなく、きちんと顔をだし、自分の在りようを公開しているところがいい。
動画の内容はVlogger(ヴロッガー)によって様々だ。
自分の打ち込んでいる仕事や趣味、流行やトレンドの紹介、
身近で起こっている“ニュース”、自分の住む国の姿、
旅先での体験をまとめた旅行記…なんでもある。
もちろんネットの世界だから玉石混合。
いいものもあれば、「ちょっとどうかなあ…」と首を捻るものまで多種雑多だから、
見る側が自分で判断、取捨選択して、
「これ、いいぞ!」
と思えるVlogger(ヴロッガー)を見極め、探しだす必要がある。
Dan Crivelli
Collective Iris
実はわが家にも一人、Vlogger(ヴロッガー)がいる。
大学生活の合間に動画をつくり、
Vlog(ヴログ)をはじめて約1年ぐらいだけれど、
既に5000人を超えるチャンネル登録者がいるというからちよっと驚く。
さらに、その数は日々少しずつ伸びているから、
相当な数の人が毎回動画を視聴していることになる。
内容はアメリカの学生生活や、
ロンドン留学中、週末ごと足を運んだヨーロッパの国々(まさに弾丸ツアー)を、
大学生の目線で撮影・紹介したもの。
日々の行動をドローンや一眼レフで撮影してまとめられた動画だ。
[ noa iimura x japan ]
「これって分りやすいかなあ…」
が大好きなテレビ番組のような押し付けがましいところがなく、
テンポ良くすきっと仕上がっていることろが人気の秘密らしい。
生きていれば色々なことが起こる。そのことに年齢は関係ない。
ささいなことから人生に影響を与えるようなことまで、
想像もつかない出来事が日々発生する。
そんな一つ一つをきちんと記録していければいいのだけれど、これがかなり難しい。
日記という手段があることはみんな知ってる。
でも、三日坊主どころかたった一行さえ書き始められない場合がほとんじゃないか?
なのにVlog(ヴログ)の場合、
自分の日々の在りようや思いを映像にして残していくのだ。
さらにその映像記録を誰でも見られるように一般公開するのだから大変なこと。
もちろん、公開する日常は自分で選択するにしても、
それには相当な覚悟が必要なはずだから。
そんなあれこれをいとも簡単にぴょんと軽快に飛び越えていくんだから、
世界中のVlogger(ヴロッガー)、大したものだ。
(飯村和彦)
2017年03月18日
人生が劇的に変わった瞬間〜自宅出産に立ち会うということ
先ごろ、我が家の二人の子どもたちがお世話になった助産師さんが現役を引退しました。
今回の文章は、上の息子が生まれた日のことについて書いたもので、去年の夏に「原爆投下から終戦までの信じがたい経緯を!21年前の夏、子どもが誕生した日に考えたこと」の中に、“「ヘイ ボーイ!」より抜粋”として掲載した部分の続きになります。
ひとつ付け加えるとすれば、下の娘が生まれたときも同じように自宅出産に立会い、さらに“その思い”が強くなったこと。
かなり長文なので、時間に余裕のあるときにお読みいただければ幸いです。
以下、「ヘイ ボーイ!」より抜粋
(photo:kazuhiko iimura)
考える人
一階部分がデジタル写真印刷会社の店舗兼作業場になっている三階建てのマンション。その三階の一番手前、303号室が『現場』である。
「いま帰ったよ、どう?」
玄関ドアをあけるより先に父さんは口をひらいていた。
上がり口に靴を脱ぎ捨て、短い廊下をドタドタと進む。キッチンに入ったところで、隣のリビングから母さんの声が聞こえてきた。
「あなた…」
ドアを開けると、なにかの上に全裸で座っている母さんの姿が目に飛び込んできた。
折った膝頭に頬杖をついて、顔だけをこちらに向けたポーズ。
例えるなら『考える人』。そんな格好だった。
「おか、えり」
母さんは、必要以上に声を張らない、呼吸をするようなしゃべり方で父さんに応えた。細い息を吐きながら声をだし、幾分長めのブレスをとって、また息を吐きながら言葉を繋げる。
その顔には色濃い疲労が見てとれた。
「グーはどうした、まだだね」
状態を見れば一目瞭然なのだが、父さんは確認せずにはいられなかった。
すると母さんは、ふわりとした笑みを浮かべていった。
「この子は、父さん思いの、いい子みたい」
そして、足元に置いてあった麦茶のグラスにそっと手を伸ばすと、唇を湿らすように音をたてずにひとくち飲んだ。
母さんの頬はうっすらと紅潮していて、グラスを持つ指先だけがやけに白かった。
そんな母さんの仕草や表情には、どこか人の気持ちを落ち着かせる力があって、朝からずっと走り続けていた父さんには、いわば長い文章の読点のように作用した。
「ほ〜っ」
父さんはジャケットを脱ぐとカーペットの上に腰を下ろし、部屋の中をゆっくりと見回した。
エアコンのスイッチはONになっていたが、室内はやはり蒸し暑かった。
けれども、その暑さは外の射るような暑さではなく、どこか柔らかな、いってみれば母さんの体温のようなもので、思っていたより不快なものではなかった。
繭の中というか、子宮の中というか、想像するとそんな感じ。
胎内の温度は37度ぐらいだというから、そこまでではないにしても君が生まれてくるのには丁度いい室温だったのかもしれない。
そして、考える人。
よくよく見れば、母さんが座っていたのは逆さまにしたプラスチック製のバケツだった。床掃除のときに使う、あのなんの変哲もない水色のもの。お尻の下にはクッションの代わりにバスローブが敷かれていた。
――考える人のポーズ。
それは陣痛と戦うのではなく、折り合うための方法として母さんが辿り着いた究極の姿勢だったのだろう。どこか原始的な風景のようでもあり、そこには何かしら父さんの心をしんとさせるものがあった。
父さんは本棚の上にのせてあったキャノンを手にとると、そんな母さんの姿を一枚写真に収めた。
「ともかく、写真はたくさん撮ろう」
それも、父さんと母さんの決め事だった。
胎児の成長に伴い、母体の形はどのように変化していくのか。
その変遷をあとでビュジュアル化できるように、父さんたちは定期的に同ポジ撮影まで敢行していた。
一回の撮影で36枚撮りのフィルムがなくなることもしばしばあった。もちろんカラーと白黒の両方である。
「でも、この写真をいつかグーが見ると思うとわくわくするね。どんな顔をするかしら。お腹の中にいたときの記憶は残らなくても、写真にはそのときの事実が残るからいいわよね。私もそんな写真、欲しかったな」
撮影のたびに母さんはそういっていたが、父さんにしても気持ちは同じだった。
記念写真というのは、そこに写っている自分の姿を見るというよりは、その写真が撮られたときに自分の周りにいた人たち、つまり自分と一緒に写っている人たちがどんな風だったのかを知ることができるから楽しい。
だから、自分が胎内にいたときの母の姿状や、胎動を感じたときの母の表情をとらえた写真がもしあったら、自分が「生きる」ということを考える年齢になったときに、欠かせないものになっていたはずだ。
(photo:kazuhiko iimura)
父さんは、そんなことを考えながらわが家の『考える人』をファインダー越しに眺めていた。
そして、はたと気づいたことがあった。
君が生まれる瞬間にその場にいるべき、もうひとりの人物がいないのだ。
父さんは慌てて尋ねた。
「藤井さんは? まだ来ていないの」
腕時計に目を落とすと、時刻はすでに午後2時近くになっていた。
確か、昼前には到着しているはずだったのでは?
学芸大学駅から碑文谷のマンションまでの道順をかいた地図(かなり丁寧なもの)は、きのうのうちにファックスで送ってあったし、そのあと電話でも確認した。だから、相当な方向音痴でもないかぎり道に迷うことはない。
指を噛んで、陣痛に耐えていた母さんがいった。
「お昼ごろ、電話があって、少し遅れるって」
「それで大丈夫だって?」
目の前の母さんの状態からして、父さんにはとても大丈夫そうには思えなかったのだが。
「そういっていた。たぶん、早くても、夕方だろうって」
「ふーん」
自然分娩は、文字通りかなり自然の力の影響を受ける、といつか藤井さんが説明してくれたのを思いだした。
満月や新月の前後にはお産が増えるし、一日のなかでは潮の満ち引きが重要なファクターになるのだといった。陣痛でいえば満潮の数時間前から強くなり、逆に引潮の時間になると弱くなる。だから陣痛が弱くなっても焦らず、次の満ち潮を待つのが懸命なのだという。
しかし、そうはいってもそれが全てではないだろうし、万が一、助産師の藤井さんが到着する前に分娩がはじまってしまったらどうなるのだろう。
そう考えると父さんはゾッとした。
胎児のとり上げ方までは、出産準備クラスでも教えてくれなかった。
ヌルッと出てきた君をしっかり受け止められなかったら。
上手く生まれたら生まれたで、へその緒はどう処置しらいいのか。
無闇に切っていいはずがない。
切るべき最適なタイミングと、「ここを」という位置があるに違いない。
君が生まれ出た後、どれぐらいたってから胎盤やらなにやらが母さんのお腹の中から出てくるのか。それをどう扱ったらいいのか。
不安の種は尽きなかった。
それでも、あれこれ思案した末に父さんは一つの結論に達した。
「ともかく、手だけはきっちり洗っておこう」
とっても簡単なことだが、なによりも大切なことに感じられたのだ。
綺麗で清潔な手。
――オーケー、さっそく手を洗おう。
そう思って父さんが立ち上がったときだった。
「あなた、お風呂、入れてくれる?」と母さんがいった。
「ずいぶん楽になるって、藤井さん、いっていたでしょ」
お湯の温かさと浮力で収縮(陣痛)が緩むので楽になるのだ。最近、妊婦のあいだで水中出産が人気になっているのもそんな理由からだという。
「わかった、すぐに入れる」
その後の父さんの行動は機敏だった。
バスルームに入ると、まず洗剤をつけたスポンジでキュッキュ、キュッキュと浴槽を洗った。そして、シャワーで泡を洗い流しながら同時にお湯の適温(この場合は幾分ぬるめ)を探る。それで、これだという温度になったら、綺麗になった浴槽にお湯を溜めはじめる。
その間、額やまつ毛から汗がポトポトと滴り落ちたが、まったく気にならなかった。無心とまではいわないが、黙々と山道をのぼるあの心境に近かった。
助産師の藤井さん
「ど〜も!」
インターフォン越しに、助産師の藤井さんの明るいの声がマンション内にこだましたのは午後3時をまわったころだった。
急いで玄関に走りドアをあけると、紫色の大きな風呂敷包みを抱えた藤井さんがにっこり笑って立っていた。
「お待たせ!」
普段通り、元気一杯の藤井さんである。
「どーも、待っていましたよ。道にでも迷ったんですか?」
父さんとしては、やはり遅れた理由が気になったのだ。
「とんでもない。パパさんの書いてくれた地図、バッチリでした」
藤井さんは、父さんのことを『パパさん』と呼んでいた。
「出がけに、おとといお産をすませたお母さんから電話があって…。ごめんなさいね、遅くなって。ママさん大丈夫かしら」
だからといって、藤井さんが恐縮していたかといえばそうじゃない。
余裕しゃくしゃくといった感じで、抱えていた風呂敷包みを床に置くと、履き口がマジック開閉タイプになっている健康シューズの甲の部分を勢いよくバリバリと剥がした。
父さんは訊いた。
「そのお母さんに、なにかあったのですか?」
すると藤井さんは、呆れたとばかりに手のひらをひらひらさせて応えた。
「赤ちゃんの手足が干からびて大変なんです。象みたいに皺だらけになっちゃったんですけど〜、どうしたらいいんでしょうか〜って。もう慌てちゃってね」
そういいながら藤井さんは、脱いだ健康シューズの向きをくるりと変えた。
ちなみに藤井さんは50歳代の後半である。
再び、父さんは訊いた。
「新生児によくある、脱水症状のあれですか?」
妊婦のバイブルといっても過言ではない名著、岩波書店の「家庭の育児」にそんなことが書いてあったのを思いだしたのだ。父さんはすでに、あのぶ厚い本にひと通り目を通していた。
「そうそう。オッパイあげていれば二、三日でよくなるの。でも最近のお母さんはそれが普通のことっだて知らないから、なにか大変な病気かもしれないって思っちゃうのよ。なかには母乳を止めてミルクを沢山飲ませた方がいいんでしょうか…なんてことを聞いてくるお母さんまでいるのよ」
藤井さんはいつでも、さばさばとした口調で物事の核心をついてくる。
玄関の隣にあるバスルームで入念に手を洗いながら、藤井さんは続けた。
「ほら、人工乳の缶があるでしょ。赤ちゃんといえば、あのかわいい笑顔のプチプチ肌だって思い込んでいるお母さんが多いから。本当はその人工乳が問題なのにみんな惑わされちゃうのよ、あの写真にね」
人工乳など母乳の足元にも及ばない。なのに多くの母親がなにかあると母乳育児を放棄して人工乳に走ってしまうのは、乳業メーカーの巧妙な宣伝活動によるところが大きいのだ、と藤井さんは常々怒っていた。
免疫力の高い母乳を飲んで育った赤ちゃんは、人工乳(いわゆるミルク)で育てられた赤ちゃんにくらべて、アトピー性皮膚炎などにも罹りにくいのは証明済みなのだという。
もちろん、他の病気に対しても強い。
そもそも万人に効く薬がないのと同じように、どんな乳児にも対応する人工乳(乳業メーカーにいわせれば母乳代用品)など存在しないのだ。
だからこそ人間には母乳がある。
「それぞれの赤ちゃんの体質にぴったりあった完璧な滋養物が母乳なの!」
それが藤井さんの口癖でもあった。
そんなことに考えをめぐらしながら、父さんは藤井さんをリビングに案内した。
「ママさん、どう? 顔色いいみたいね」
すでに風呂からあがり、再び『考える人』になっていた母さんを目にするや否や藤井さんはいった。
助産師としての藤井さんの関心は、妊婦がどんな格好でどんな呻き声をあげているのかではなく、その顔色や目つきにあるようだった。
例のとぎれとぎれの話し方で母さんが応えた。
「痛いけど、なんとか、頑張っています」
「今、陣痛がくる間隔はどれぐらい?」と藤井さんが尋ねた。
「だいたい、3、4分」
「もうちょっとね。お風呂には入ったの?」
「さっき」
「それはよかった。何度でも入っていいのよ。特にきょうみたいに暑い日は、清々するから」
そういうと藤井さんは風呂敷包みを開いて、荷物の一番上に載っていた真っ白い木綿の割烹着を取りあげた。そして、左右の握り拳を交互に突き上げるような格好で袖に腕を通すと、「さて」と軽く気合いを入れた。
肝っ玉母さんの勝負服。やはり割烹着は白に限る。
「そのとき」までの数時間
「蒲団の部屋に、いく」
短い息をひとつついて、母さんは、君をいたわるようにお腹の下に両手をあてがいながらゆっくりと立ち上がった。
「どっこいしょ」
藤井さんが、母さんの代わりに声をだして拍子をとった。
慎重な足取りでのろのろと四畳半の和室に入った母さんは、白いビニールシートのかけられた敷き蒲団の上に横になった。
三方が襖になっている室内は薄暗い。でもきっとそんな明るさの方が気分が落ち着くのだろう。
すると藤井さんは、母さんの横に座ってマッサージをはじめた。
膝頭から脹ら脛の裏側をゆっくりと揉んでいく。ごつごつした手。でもその手は、生身の人間に触れながら多くの夢や希望をたぐり寄せてきた手に違いないのだ。
藤井さんが父さんの方を向いていった。
「パパさんは、足の裏を押してあげてね」
脚の長さの割には、母さんの足は小さい。
父さんは母さんの足を自分の膝の上に載せると、土踏まずのあたりに右手の親指をぐっと押しあてながら、左の手で母さんの足の指全体を軽く揉みはじめた。
冷え性の母さんの足は、夏の暑さのなかにあっても指先が冷たかった。
しばらくして、室内にノーザン・オリオール(ムクドリ科の小鳥)のさえずりが響きわたった。この日のために買った掛け時計で、12種類の野鳥の鳴き声で時刻を知らせてくれる。
ノーザン・オリオールがさえずれば午後6 時ということ。
掛け時計のほかにも、リビングには君が生まれたときに必要なありとあらゆるものが準備されていた。
まず柔らかい綿製の産着。これは兄夫婦から譲り受けたもので、白地に薄水色の花火模様が入っていた。そしてバスタオル5枚と布オムツ14枚(これも兄夫婦から)。マジックテープのついたオムツカバーが2枚。
その横の木製の盆の上には、抗菌性のあるハーブの目薬(自家製。出生直後の新生児に必要)とヘソの緒を切るときに使うハサミ、熱湯で殺菌されたガーゼが入ったタッパー。
壁際にある入れ子式テーブルには、新生児(つまり君だ)の身体測定に必要な折り畳み式の木製物差しとフックのついた古めかしいバネばかりが、胸囲を測るときに使用する一巻きのたこ糸と共に並べてあった。
「お湯を沸かすのは、もう少したってからにしましょう」
分娩まであと一、二時間。母さんの子宮口の開き具合を診て、藤井さんはそう読んでいた。
「いま8センチ弱だから」
母さんはといえば、もうほとんど言葉を発せない状態だった。
俯せの姿勢で枕に顔を押しつけ、うーん、うーんと唸っては、はーッ、はーッと息を継ぐ。
目の端には涙が浮かび、右手には軟式のテニスボールが握られていた。
父さんはそんな母さんの背中を両手で撫でていた。
力んではいけない。
母さんの規則的な呼吸のリズムを乱さないように細心の注意を払う。
そのとき、藤井さんがはたと思いだしたようにいった。
「パパさん、シチューのルーは買っておいてくれた?」
「はい!」
文字通りの即答である。
「種類はなんでもいいんですよね」
「そう、ママさんの好きなもの。まあ最初は抵抗があるかもしてないけど、シチューにすればおいしく食べられるから。パパさんも試さないとダメよ」
――ああ、やっぱりマジだったんだ。
母さんの背中を撫でていた父さんの手が一瞬とまった。
藤井さんのいう[抵抗があるもの]とは、胎盤のことだった。
広辞苑には、
【妊婦の子宮内壁と胎児との間にあって、両者の栄養や呼吸、排泄などの機能を媒介・結合する盤状器官】
そして、【胎児の分娩後、続いて胎盤も排出される】とあった。
藤井さんによると、産後、母体から排出された胎盤には、お産を終えた妊婦に必要な栄養素が全て含まれているのだそうだ。
だからそれを食べる。
よって「胎盤シチュー」なのだ。
父さんは訊いた。
「みんな食べるんですか? あまり聞いたことがないけど」
父さんなりの最後の抵抗である。
ところが藤井さんは、
「野生動物は、大方食べるんじゃないかしら」
とサラリと受ける。そして続けた。
「私のところにきた妊婦さんたちには勧めているの。産後の肥立ちが抜群によくなるから。病院なんかだと生ゴミ扱いにされちゃうけど、もったいないもいいとこね」
そういいなが藤井さんは、うーうー唸っている母さんの手のひらを揉んでいた。親指と人差し指の付け根部分。そこを適度に圧迫すると痛みが和らぐらしい。
仕方なく父さんは、既に進行中の現実を受け入れるべく、実際的な質問をすることにした。
「味なんかはどうなんですか。その胎盤の…」
「悪くないわよ。塩をひとつまみ余計に入れるのポイントかな。ちょっと筋っぽいけど、じっくり煮込めばいい味がでてくる。それから胎盤と一緒にへその緒も輪切りにして一緒に煮込むの。こっちはコリコリした歯触りでホルモンみないな感じかな」
――へその緒?
そんな話は聞いていなかったような気がしたが、父さんにそんな疑問を口にする余裕はなかった。
ともかく、味の問題である。
「バジルなんかも入れていいのかな…」と父さん。
「もちろん。なんでも好きなものを入れていいの。パパさんも食べてみればわかるわよ。おいしいから。ともかく、ママさんは向こう一週間、胎盤シチューだけでOK!」
右手の指でOKサインをつくると、藤井さんはひとり笑って見せた。
やれやれ。
胎盤は(多分、へその緒も…)、藤井さんが全て切り分けてくれることになっていたのだが、当然一度に全部食べられる訳ではない。したがってそのほとんどは冷凍保存されることになる。
要するに、食事のたびにそれらを適量解凍してジャガイモやら人参やら椎茸やらと一緒に煮込んで、胎盤シチューをつくるのは父さんの役割になるのだ。
溜息の一つぐらいは許されるだろう?
その点、母さんは違っていて、藤井さんから最初に胎盤シチューの話を聞いたときから興味津々で、どこか楽しみにしている節まであった。
それは母さんの生命観とどこかで通底しているようでもあった。
人間に生来備わっている機能、広い意味でいえば生き物が生きるために自ら作りだすありとあらゆるものには固有の目的があり、それに抗うことは生き物としての自己を否定することに他ならない。
母さんはそのような信念というか、生命観の持ち主だった。
だからなのだろう。
母さんと藤井さんは妙にうまがあった。
そんな二人のまわりを衛星のように回っていたのが父さんなのだ。
そして、誕生の瞬間に…
午後7時過ぎ。
四畳半の和室(わが家の分娩室である)で母さんの触診をしていた藤井さんが、ぼそりといった。
「自然破水。子宮口も全開。ぼちぼちかもね」
実はその少し前から母さんの様相が一変していたのだ。
それまでは、陣痛の痛みをうーうーという呻き声の形に還元して体外に放出していた母さんが、突如、猛り狂った野獣のような叫び声を発するようになったのだ。
「くるくるくる、やだやだやだ!」
容赦なく打ちよせる陣痛の荒波に漂い揉まれながら、あらん限りの声を張り上げて助けを求めているといった感じ。小節の利いただみ声というのか、かすれぎみの太い悲鳴というのか、なににしろその声は襖や壁はおろかマンション全体が揺れるほどの大きさだった。
「いやーッ、いやーッ!」
「NO! NO------------OH! 」
ともかく母さんは叫びまくった。
すでに日は暮れかけていて、室内に差し込んでいたオレンジ色の西日もだいぶその明度を失っていた。東側に掛けてある遮光カーテンの隙間からは、隣のマンションの部屋に明かりが灯っているのが見えた。父さんのマンションと隣のマンションは、幅約2メートルの通路を挟んで並んで立っている。
で、ふと思った。
――隣近所にも、この絶叫は聞こえているんだろうなあ。
そう考えると、にわかに父さんの胸の中に不安が広がった。
母さんの絶叫を耳にしたどこかの誰かが、慌てて受話器を握る光景が頭に浮かぶ。
目の前では、藤井さんが触診用の新しいゴム手袋の用意をしていた。
父さんはいった。
「事情を知らない人がこの声を耳にしたら、ドメスティック・バイオレンスかなんかと勘違いして警察に通報しちゃうんじゃないかな」
状況からすれば、充分あり得ることのように思えたのだ。
ところが藤井さんはといえば冷静沈着。父さんの心配事など荒唐無稽だとばかりに軽く受け流した。
「まあそのときはそのときで、お巡りさんに近所まわりをしてもらいましょうよ」
そして、穏やかな口調で父さんに現実的な指示をだした。
「パパさん。ママさんを背中から抱えてあげて」
静かだが有無をいわさぬ力がそこにはあった。
父さんは素早く持ち場についた。
背中を押入と押入の間にあった柱につけ、両腕を母さんの背後から脇の下にまわす。それから上半身を抱え込むようにして中腰になる。そして、その体勢を保ちながらビニールシートの掛けられた敷き蒲団の上に静かに腰を下ろした。
傍から見れば、パンダかなにかを背後から抱きかかえているような格好である。
一方、藤井さんはといえば、母さんを抱えている父さんの正面で立て膝の姿勢をとっていた。
「口の痺れ、手の痺れはどう?」
藤井さんが母さんに尋ねた。
絶叫を繰り返していても状況判断はできているらしく、母さんは藤井さんの問いに二度三度、首を横に振って応えた。
特に痺れはないようだ。
そんな母さんの仕草をみて藤井さんは頷く。
「大丈夫、大丈夫。落ち着いて」
しかし、そういわれてもやはり痛いものは痛いらしく、数秒、長くても十数秒ごとに、耳を劈くような叫び声が、母さんの口から飛びだしてきた。
「いやーッ」
「ぎゃーッ」
「Oh my god!」
まさに激闘である。
よく考えてみればそれもそのはずで、母さんにとってはどれもこれもが初めての経験なのである。
肉体的な痛みのほかに、未知の世界に一歩一歩足を踏み入れていくような恐怖感だってあるだろう。ほんとうに自分は子供を産み落とせるのかという不安も拭いきれてはいないだろう。
藤井さんが、幼子を慰めるような口調でいった。
「はーい、力抜いて。そう大丈夫よ。ほーら、卵胞が出てきたよ」
卵胞?
なんだろうと思い、一応訊いてみた。
「卵胞ってなんです?」
「赤ちゃんが入っている袋。それが出てきているから、もう直ぐのはずなんだけど」
そういいながら藤井さんは、母さんの子宮口のあたりを触診しているようだった。
「力抜いて。さあもう一回、息んで息んで!」
藤井さんの息んで息んでの声がかかるたびに、父さんの前腕を掴んでいる母さんの手に力が入った。するとその指先の爪が、ギュッと父さん皮膚にくい込んでいく。
最初のうちはかなりの痛みを感じていたのだが、何度か繰り返されているうちに徐々に感覚が鈍ってきて、暫くするとなにも感じなくなっていた。
父さんの腕はもはや父さんのものではなかった。
さらに、母さんと柱の間に挟まれている身体もまた、すでに部屋の一部になってしまったかのような感覚だった。
だからなのだろう。耳を劈くような母さんの叫び声すら、いつしかまったく気にならなくなっていた。それは、意識だけが自分の身体から遊離し、薄暗い室内の高みにそっと浮かんでいるような感覚だった。
藤井さんがぽつりとつぶやいた。
「ママさんの勢いに負けて、なかなか出てこないね」
それは母さんにではなく、父さんに向けられた言葉のようだったので、ほんの少し考えてから、父さんは応えた。
「恥ずかしがり屋なのかな」
すると藤井さんは、「照れているのかも」といって今度はけらけらと笑った。
と、そのとき午後8時を知らせるブラックキャップ・ティカディ(シジュウカラの一種)のさえずりが聞こえた。
――ということは、母さんはかれこれ一時間以上も髪を振り乱しながら雄叫びをあげていることになる。自然破水したのが午後7時過ぎだったから、いくらなんでもそろそろ出てきてもいい頃なのに…。
そう思うと父さんは少し心配になった。
「ちょっと、時間がかかり過ぎですか?」
藤井さんにそれとなく訊いたのだが、そんな父さんの言葉は母さんの絶叫にかき消されてしまったらしく、父さんへ応える代わりに、藤井さんは母さんに声援を送った。
「どんな声をだしてもいいから。がんばれ、がんばれ。もう、このお腹ともサヨナラだよ」
さすが肝っ玉かあさん。
藤井さんの落ち着きぶりはまさに百戦錬磨の強者といった感じで、その表情は、苦悶に満ちた母さんのものとは対照的に心底楽しそうでさえあった。
そのときだった!
父さんから見て左側、つまり東側のサッシ窓に掛かっていた銀箔色のカーテンが一瞬波打った。
母さんの左足が遮光カーテンの裾に触れたらしく、その爪先を見ると親指がこちら向きにギュッと反り返っていた。
その反り返った母さんの左足の親指を発見するや否や、父さんは思わず声をあげていた。
「きたきたきた、きたゾ〜っ!」
知らず、母さんを抱えていた腕にも力が入った。
前方では藤井さんが、
「はッはッはッはッ、いいよ。大丈夫。はいはい、そら頭がでたよ!」
と叫んだ。
そんな藤井さんの声を追いかけるように母さんの荒い息づかいが聞こえた。
「はッはッはッはッ、はッはッはッはッ」
いよいよである。
父さんの腕の中で母さんの身体がめいっぱい緊張する。
そして、この日最大級の雄叫びが室内にこだました。
「いやだ〜ッ!」
すると、抱えていた母さんの身体全体からスーッと力が抜けていき、同時になにかがズルリとビニールシートの上に滑り落ちる音がした。
束の間、室内がしんとした。
直後、
「はーい!」という甲高い声に続いて、「時間確認して下さ〜い」と叫ぶ藤井さんの言葉が父さんの耳に飛び込んできた。
――やった。というのか、
――終わった。というのか。
そんな感情が胸に湧きあがるのを感じながら掛け時計に目をやると、時刻は午後8時10分を少しまわったところだった。
「8時12分です」
そういいながら父さんは、母さんの肩越しにビニールシートの上をのぞき込んだ。するとそこには、藤井さんの手の中で臆病なウサギのように縮こまっている君がいたのだ。
皮膚はグレーがかった薄紫色。
顔を下にして手足をくの字に曲げているその姿は、メスのカブトムシに似ていた。それにしても小さい。
藤井さんが母さんの目の高さに君を持ち上げながらいった。
「さあ、どっちだ? あッ、男だ!」
その藤井さんの言葉に呼応するように母さんも、小さく叫んだ。
「男だ、男だ」
母さんは藤井さんから君を預かると、汗ばんだ自分の胸の上にそっとのせた。
生まれたての命である。
目はまだ閉じられたままだったが、ほの字につぼんだ口は、母さんの乳房と乳房の間で微かに動いていた。それは開花を躊躇っている小さな花の蕾のようで愛おしかった。
「息、しているね」
と父さんがいうと、
「大丈夫。グーは大丈夫」
と母さんが応えた。
その声は、幾分ざらつき掠れてはいたものの、柔らかな調子になっていた。
そんな母さんの表情をニコニコしながら眺めていた藤井さんは、「胎脂をからだに塗り込みましょうね」というと、君の身体についていた乳白色の胎脂を丁寧に皮膚全体に塗り込みはじめた。
マッサージの要領で小さな背中から細い手足へ。小さな一本一本の指にも手早く胎脂を塗っていく。
そして藤井さんがいった。
「よく頑張ったよ、きみ。どこにも問題ないね」
すると、おずおずというか、にわかにというか、君が泣き声をあげた。
「キャー、キャー、キャー」
と三回。
その後ひと呼吸おいて、また、
「キャー、キャー、キャー」
と三回。
それが、はじめて耳にした君の声だった。
産声である。
その声は想像していたよりも遙かに細く危ういものだった。
はかなくて頼りなげな泣き声。
それは生まれたばかりの子猫の鳴き声のようでもあり、どちらかといえば心許ないものだった。けれども産声があがるたびに全身が薄紫色から淡いピンク色に変わっていく様子は、神秘的でありかつ感動的だった。
新しい命が君のからだ全体に浸透していくようで見ていてぞくぞくした。
「凄いなあ」
父さんには、他にいい表しようがなかったのだ。
そんな君を目を細めて見つめていた母さんの横顔に、藤井さんがいった。
「最後、きつかったね」
「うん。でも、もう忘れたみたい」
そういいながら母さんはトントントンと三度、君の背中を優しくたたいた。
トン、トン、トン。
すると君の目が静かに開いた。
母さんの胸の上で、ほんの少し顎を上に向けるようにしながら、君はしっかりと目を開けたのだ。
父さんと母さんはほぼ同時に小さな君の顔を覗き込んだ。
ブルーグレー、鳶色の瞳。
それは父さんの色でも母さんの色でもない瞳の色だった。
「やあ、父さんだよ」
その瞬間、それまでに感じたことのない激しい感情が父さんの全身を貫いた。
生き方が変わるということ
人生が一夜にして変わるなんて到底ありえない。
常々、父さんはそう考えていたのだが、違っていた。
父さんの人生は君の真っすぐな視線を目の当たりにした瞬間、真っ二つに分かれた。
前と後にすっぱりと分離したのだ。
それも、決定的に。
厳密にいえば、君が母さんの胎内にいたときから父さんとの親子関係は始まっていたのだけれど、ともかくあの瞳だ。
あの瞬間の君の瞳がすべてだった。
その瞳は森羅万象を呑み込んでしまう深淵であり、知恵の実を食べ過ぎて穢れきった大人(親と言いかえてもいい)の本性を映しだす純粋だったように思えた。
(photo:kazuhiko iimura)
「ママさん、パパさん、見て。目を開けたわよ」(藤)
「見た見た。母さんを探しているんじゃない?」(父)
「あっ、今、あなたの方を見たわよ」(母)
「うん、見てる見てる」(父)
「おなかの中で聞いていたパパさんの声、覚えてるのよ」(藤)
「全然まばたきしないけど。あっ、また母さん見てるな」(父)
「顎あげちゃってどうしたの。ねぇ、君、オッパイ飲む?」(母)
そういうと母さんは、君の口を自分の乳首にあてがった。
「おっ、いきなり口にいれたぞ」
「パクパク、すごく強く吸ってる。オッパイ出ているかどうか分からないけど、すっごく強い。痛い、噛んじゃダメよ」
「でも、なんとなく老けた顔してないか?」
「どの子もそうなの。目の形なんてあなたにそっくりよ、アーモンドみたいで」
「どっち似かしら。涼しい顔してるわよね」
そんなたわいもない会話を母さんと交わしながらも、父さんの胸は自分が父親になったのだという実感で溢れていた。
それは信じられないぐらい硬い信念であり、自分自身が存在していることの最大の意味であるように感じられた。
――どんなことがあっても、とことん、わが子を守り抜く。
それ以外に父親としての存在価値はないのだ。
君の命が危険に晒されたとき、君を救う唯一の方法が自分の命を差し出すことであったなら、父さんは喜んでこの命を差し出す。
そう考えただけで父さんの身体は幸福に震えた。
喜びに胸が躍った。
大袈裟ないい方をすれば、それはまさに根元的な啓示であり、君を、そして君という新しい生命を生み出した母さんを守ることが自分の生きる目的であると確信したのだ。
これには父さん自身が驚いた。
そんな心境になるとは夢にも思っていなかったのだから。
ではどうしてそんな確信が父さんのなかに沸きあがってきたのだろうか。
それはひとえに、君が病院などの非日常的な場所ではなく、自宅という見慣れた空間で生まれたということがとっても大きいような気がする。
見慣れた空間の、連続した時間の流れのなかに生じた変化。
きのうまでは、父さんと母さんしかいなかった部屋にきょうは君がいる。
ただそれだけの変化なのだが、その変化がありふれた日常の中で起こったという事実は、想像以上に父さんの心を激しく揺り動かしたのだ。
多分、それは母さんにしても同じだったろう。
――とことん、守る!
そう決心すると父さんは、自分が実際よりもいい人間になったような気がして嬉しかった。
そう感じた自分自身が誇らしかった。
それもこれもすべて君のお陰なのだ。
サヨナラ、あんころもち、又きなこ。グー!
約束通り、母さんの胎内で「産出」された胎盤やヘソの緒は、藤井さんによって無事調理された。
ステーキナイフが胎盤を切り刻んでいく光景は、お世辞にも美しいとはいえないものだったが、そこから流れでた血液の鮮やかな赤い色には度肝を抜かれた。
胎盤シチューを楽しみにしていた母さんがあの血液を見たら、さぞや感動したことだろう。24時間近く陣痛と戦った母さんは、そのときにはもうぐっすりと眠っていた。
静かで規則正しい寝息。
そんな母さんの横には籐製のバスケットが一つ。なかでは、つい今しがたまでその鳶色の瞳でこの世の不思議(?)をしげしげと眺めていた君が穏やかな表情で眠っていた。
小さな尻をポコン!と突きだした格好は、実に滑稽だった。
やはり、カブトムシの形である。
帰りの支度を済ませた藤井さんが、そんな君と母さんに目をやりながらいった。
「ママさん、疲労困憊ってとこかしら。でも、ぐっすり眠っていられるのも今晩だけだから。パパさん、明日から頑張ってね」
昼夜の区別がない赤ん坊の世界。
そんな生活がこれから先しばらく続くのだということを、藤井さんはやんわりと父さんに伝えたかったのだ。
「重々承知しております」
父さんがわざと慇懃に応えると藤井さんは、
「OK、それじゃ」といって、すたすたと玄関に向かった。
ところが靴を履く間際になって突然クルリと振り返ると、いきなりある唄のようなものを口ずさんだ。
「サヨナラ、あんころもち、又きなこ。ギュッ!」
最後の〈ギュッ〉のところでは小さな握り拳をつくった。
「なんですか、それ?」
父さんが尋ねると藤井さんはニコリと笑って、
「わらべ唄よ、いいでしょ」と応えた。
「サヨナラ、あんころもち、又きなこ。ギュッ!」
口ずさんでみると、ほっかりした語感がとっても良かった。
すると藤井さんは、最後の〈ギュッ〉のところを〈グー〉に代えてもう一度口ずさんだ。もちろんその〈グー〉のところでは小さな握り拳をつくった。
「サヨナラ、あんころもち、又きなこ。グー!」
さすがは肝っ玉かあさん。なにげに洒落た真似をしてくれる。
藤井さんのつくった右手の握り拳を見ながら父さんは思った。
――そうだなあ。もうグーじゃないんだなあ。
玄関からマンションの外階段にでてみると、やはり外は真夏の夜だった。
三夜連続の熱帯夜。
もわっとした熱気が辺り一帯をおおっていた。
唯一、遠くに聞こえるセミの鳴き声だけが、沈滞した空気に微かなアクセントをつけていた。懸命に胸を震わせて一心に生命を放散するセミ。
もし命が7日間しかないのなら、それこそ昼も夜もないのだろう。
藤井さんはこちらに手を振りながら、マンションの横にある月極め駐車場沿いの舗道を歩いていた。
その遙か向こう側。夜陰に濃い緑が点在する碑文谷の低い住宅街の彼方では、東京タワーの航空障害灯が赤く、静かに明滅していた。
(飯村和彦)
2017年02月06日
トランプ的な行為・行動を、「トランプる(Trumple)」と呼ぶことに!
明らかなウソを平気でまくし立て正当化する
意見や考え、主義主張の異なる人と建設的な議論ができない
相手の気持ちを踏みにじる
気に入らない相手には激しく個人攻撃をする
そんなトランプ的な行為全般について使える言葉を思いついた。
日本では、ある人物名の最後に「る」をつけて、
その人物的な行為を表す俗語として使ったりするけど、
この「トランプる」がいいと思ったのは、
「トランプる」を英語で「trumple」とした際の語感と、
その語感から思い浮かべる意味だ。
「trumple(トランプる)」そのものは僕の造語だけれど、
実は英語に「trample」という単語がある。
うちのアメリカ人の奥さんによると、
「trample」は「〈〜を〉どしどし踏みつぶす。〈〜を〉踏みつける。
〈人の感情などを〉踏みにじる」
という意味だから、
造語の「trumple(トランプる)」の意味に似ていて語感もいいとのこと。
「tr」のあとの「u」と「a」が違うだけだから、発音も近いわけだ。
このところ機会があれば積極的に使用している。
そんなトランプがアメリカ大統領に就任して2週間が過ぎた。
イスラム圏7か国出身者を入国禁止にした大統領令はじめ、
この間にあったことは日本でも盛んに報じられているようなので、
ここで細かく紹介するまでもないはず。
「就任式に集まった観衆が過去最高だった」(明らかなウソ)と強弁したり、
大統領選挙では「300万人の不法移民が不正投票した」
と何の根拠もなくいい張って調査を命じたり。
得票数でヒラリーに300万票近くの差をつけられて負けた事実が相当悔しいらしい。
支持率も40%ちょっとで、政権発足直後でありながら驚くほど低い。
いまさらながらこれでよく大統領になれたなと思ってしまう。
また、オーストラリアの首相との電話会談の際、
切れて電話を叩ききった事実などは、彼の本性がそのままでた感じだ。
大統領選挙のときから現在にいたるまで、
やはり一番気になるのがトランプの「ウソ」だ。
枚挙に暇がないとはまさに彼のウソのことで、
明らかなウソでも権力をかさに事実だと大声でがなりたてる。
当然ながら彼はウソを認めたりはせず、
逆にウソを指摘した方を「ウソつき」だと一方的に罵倒、
恫喝まがいの発言さえいとわない。
絶対子どもにはまねさせたくない態度だけど、
それを絶対的な権力を持つ大統領やその側近がしているんだから、
常識的に考えれば、いまのアメリカ政治(トランプ政治)は、
既に破綻しているといってもいいのかもしれない。
分かりやすい例が、ご存知トランプのメディア対応だ。
お仲間メディア(FOXニュースなど)には愛想よく、
自分に批判的だったり、都合の悪い事実を伝えるメディアにたいしては、
「インチキだ」「フェイクニュース(偽ニュース)だ」
とまくし立てて聞く耳を持たない。
CNNやニューヨークタイムス、
ワシントンポストなんかに対する敵愾心は尋常じゃない。
(photo:kazuhiko iimura)
そんなトランプに嫌われているニューヨークタイムスが先月、
「偽ニュース」をでっちあげたある人物に関する記事を載せた。
大統領選挙が終盤に差しかかった頃、
【オハイオ州で投票箱に入った大量の不正ヒラリー票が発見された】
というウソの記事を書いた男性についてだ。
この捏造記事は、当時またたくまに広がり、
トランプ本人も鬼の首でもとったように、
無思慮にその「偽ニュース」をツイートしてばんばん拡散させた。
“その後の顛末”まで仔細にフォローしていない人の中には、
今でもこの「偽ニュース」を本当にあったことだと信じている人が多いかもしれない。
「偽ニュース」をでっち上げて広げた動機についてその男性は、
ニューヨークタイムスの取材に「金のためにやった」と答えている。
そんな行為がいい金になるのがネット社会の負の側面なのだ。
さらにある時点でそれが偽ニュース、ウソ情報だと分かったとしても、
そこに書かれている内容が自分に都合よかったり、
自身の考えに近いものであったりすると、
「いいね」を押したり「シェア」したりする人も少なくないだろうし、
もしかすると、「そんなこともあるかもしれない」、「きっと本当なんだ」
と勝手に思い込むようになるのかもしれない。
特に自分の支持する権力者のものいいに迎合するような人たちは、
その傾向が強いんじゃないか?
その上にネットの世界では偽ニュースやウソ情報が、
削除や訂正されずにのそのまま残ってしまうことが多々ある。
試しに関心のあるテーマでそれなりに事実関係をつかんでいる事柄について、
幾つかキーワードを打ち込んで検索してみよう。
結構な数の事実誤認、ウソ情報、根拠のない噂話がでてくるはずだ。
でもそれがウソやインチキだと分かるのは、あなたがそのテーマに関して詳しいから。
そうでない人や物事の真偽についてあまり検討を加えたりしない人は、
そこに書かれている内容がウソか本当なのか、なかなか判断できないに違いない。
「偽ニュース」や「ウソ情報」は昔からあったものだけれど、
いま僕たちが直面しているそれはかなり厄介な代物なのだ。
トランプ政権を例にとれば、そんな偽ニュースやウソ情報を
トランプ本人はじめ、報道官ほか政府高官までがずる賢く悪用している訳だから驚く。
例えばトランプの顧問で、就任式に来た観衆の数について、
「もう一つの事実」という訳のわからない発言をして、
物議をかもしたケリーアン・コンウェー氏。
今度は米ケーブルテレビ局(MSNBC)の番組で、
実在しない「イラク人過激派による虐殺事件」について語り、また問題になった。
ご丁寧にも今回は、
「これまで報道されていないから多くの人は今まで知らなかったはず」
とまで言ってのけた。
問題を指摘されるた彼女は後にツイッターで釈明したが、
そんな彼女のツイッターをいったいどれだけの人が見るというのか。
影響の大きいメディアで自分たちに都合のいいウソの情報を流して、
間違いを指摘されたら個人のツイッターでしらっと訂正する。
けれども流された情報の絶対量は断然ウソ情報の方が勝り、
結果少なくない人がウソ情報を事実として受け止め続ける可能性が高くなる。
そもそもが「もう一つの事実」ってなんだ?
ふざけた話だけど、こうして一つの表現としてあちこちで見かけるようになると、
そんな訳の分からないものいいまでいったん立ち止まって考える必要がでてくる。
まったくもって嫌な現状だ。
(トランプ大統領令反対集会 アマースト大学/ photo:kazuhiko iimura)
極めつけはトランプお得意の個人攻撃だ。
イスラム圏7か国出身者の入国を禁止した大統領令について、
その一時差し止めを命じたジェームズ・ロバート連邦地裁判事を攻撃。
「この、いわゆる判事の意見は本質的にわが国から法執行というものを奪うもので、
ばかげており、覆されるだろう!」
とツイッターに投稿したのだ。
法の精神(司法の独立)を疎んじているとしか思えないトランプに、
法執行云々を語る資格があるのか?
さらに6日には、「なにか起きたら判事のせいだ」とまでいい放った。
とても大統領の言葉とは思えない。
判事に対する個人攻撃は前代未聞で現職大統領としてはほとんど前例のないことらしい。
トランプは、大統領選挙期間中にも「トランプ大学」詐欺疑惑をめぐり、
訴訟を担当していた判事を「メキシコ人」と呼んで人種差別だと批判されたけど、
大統領に就任してもそのままな訳だ。
そんなアメリカ大統領トランプと日本の安倍首相の首脳会談が開かれる。
いったいどんな展開になるのだろう。
ニコニコ笑っていても、意に反することが持ち上がれば、
あっという間に豹変して激高するトランプ。
そんなトランプ個人やトランプ政権を見るいまの世界の眼は極めて厳しい。
にもかかわらず、きちんと言うべきことを言わないまま、
巷間伝わっているようにエアフォースワンに同乗してフロリダまで赴き、
一緒にゴルフまでしてしまうのか?
そんなお気楽な映像が世界中に発信されると思うと恥ずかしいし、
アメリカ人の多くはきっと“いったいどんな神経をしているんだろう”
と白い目で見るに違いない。
それよりなにより、
「トランプ大統領と安倍首相は同類だ」
とテロを企む連中は確信するだろう。
これからアメリカという国はどうなってしまうのか。
分断社会、モラル低下、もろもろの差別…。
ウソを言っても大声でまくし立てれば、
何でも通ってしまうような社会になってしまうのか?
(それが「強いアメリカ」なのか?)
うちの奥さんは、大統領選挙の結果を知ったあと体調を崩した。
ショックというよりも、
これからアメリカで生活していくことが「とっても怖い」からだと。
不安ではなく「恐怖」なのですね。
たぶん、トランプ的なものの考え方に対して嫌悪感を抱いている人の多くは、
うちの奥さんと似たような精神状態だと思う。
50年以上アメリカ人をやってきて、
この地にずっと住んでいる人間がひりひりと肌で感じる怖さ。
これから先何年か(そんなに?)その怖さを感じながらこの地で生活していくこと。
それは日本人の僕なんかには到底感じられない皮膚感覚で、
長いことアメリカに住んでいても、
決して分からない類のものなんだろうなあ…と思う。
こうしてトランプについてつらつら書いているとかなり重たい気分になる。
だからという訳じゃないけれど、
最後にかなり笑える「フェイク新聞」を紹介しよう。
約30年前、初めてニューヨークに住み始めた頃、
その並外れた馬鹿馬鹿しさがおかしくて購入していた、
「National Enquirer」なる新聞(?)だ。
(photo:kazuhiko iimura)
記事の内容はといえば、「その子は、お父さんにそっくりだった!」
として紹介されている「人面馬(?)」の記事だったり、
墜落したUFOから「宇宙人の赤ちゃんが“生きたまま”発見された」というもの。
さらには、407ポンド、つまり約185キログラムもある、
「世界一大きな赤ん坊」の話まで。
ともかく、
いったいどこからそんなアイディアが沸いてくるんだろうという代物ばかりだ。
この新聞(?)が、いま世界中で問題になっている「偽ニュース」とは、
まったく質の異なるものであることは明らかだけれど、
これがスーパーマーケットのレジ横なんかで堂々と販売されているんだから
少なからず驚いたもの。
でも、いまある「虚構」をウリにした「虚構ニュース」などと違って、
この「National Enquirer」は、
“内容は虚構です”とも“ジョークです”とも表明していないから、
なかには「偽ニュース」とは思わないで記事内容を信じる人もいるのか?
30年前は“ほぼ”そんなことはないだろうと考えていたけれど、
今だと、もしかするとこんな新聞(?)でさえ、
情報ソースとして利用している人がいるかも知れないと思えてしまうから怖い。
それだけ世の中がウソと偽ニュースに汚染されてしまっているということなのか?
(飯村和彦)
2016年12月11日
報道における「匿名性」の問題
薬物疑惑が報じられていた俳優の成宮寛貴さんが9日、
芸能界引退を電撃発表した。
「心から信頼していた友人に裏切られ
複数の人達が仕掛けた罠(わな)に落ちてしまいました」
としたうえで、
「自分にはもう耐えられそうにありません」
成宮さんはそう自ら文書に綴っていた。
ことの発端は、今月2日の「FRIDAY」の記事。
成宮さんのコカイン使用現場とする写真を掲載し、
その写真を提供したのは成宮さんの友人男性だと伝えた。
記事内容の根幹すべてをこの「友人男性」の話や提出素材に頼ったものだ。
“薬物疑惑”の事実関係について、
実名で報じられているのは、成宮さんだけであり、
成宮さんへ直撃取材のときの彼のコメントのみが、
匿名ではない人物の肉声だった。
事実がどうなのか、当然ながら不明。
それもそのはずで、
「友人男性」の証言などにもとづいた、
「FRIDAY」のいうところの“疑惑”でしかないのだから。
けれども現実をみると、
その“疑惑”と題した記事により、一人の役者の人生が一転してしまったのだ。
「事実無根」と成宮さんは訴えていた。
その彼の言葉を信じるのか、
「FRIDAY」のいうところの“疑惑”を信じるのか…
(photo:kazuhiko iimura)
今回の成宮さんの件とは直接関係ないけれど、
ここ数年、ずっと気になっているのが、
報道における「匿名性」の問題。
少し前に書いたものだけれど、加筆して改めてアップしました。
象徴的な例は、数年前長野県で発生した、
小学5年生の少年が諏訪湖で遺体となって発見された事件。
この事件では、
行方不明になった少年の足取りが、
若い女性の「ウソ」の目撃証言によって大きく歪められた。
「ずぶ濡れの少年を自宅に招きいれ、
カップヌードルを食べさせた」
「自宅まで送って行こうとしたら、
白いワゴン車にのった若いカップルが、
“僕たちが送るから”といったので、そうしてもらった」
この目撃証言は極めて重要な意味をもった。
少年の足取りのヒントであり、
なにより彼の「生存」の証明であったから。
ところがその目撃証言がウソ、
若い女性による狂言であることが後に分かる。
動機は面白半分。
報道各社のインタビューに彼女は「顔なし・匿名」で答えていた。
ウソの目撃情報にもとづいた捜索が行われれば行われるほど、
事実から遠のいてしまったという現実は重い。
もちろん、
各報道機関にも問題がある。
ここ数年、
事件が発生するたびに目にするのは「匿名報道」の洪水。
「顔も名前も出しませんから取材に応じてもらえませんか?」
溢れかえる匿名報道を見るにつけ、
現場で取材に当っている記者や番組担当者たちのそんな姿が目に浮かぶ。
「匿名報道」は、
プライバシー保護など取材対象者のやむにやまれぬ理由により、
どうしても実名報道ができない場合に限って許されるもの。
しかしそれとて、
事実関係をきちんと掴んだ上で、
当事者(取材対象者)への実名報道の必要性を説いた後に、
「それでも実名では困る…」
となった場合にだけ許される手法のはずだった。
そのプロセスをきっちり踏むことによって、
取材対象者も証言の重要性を認識し、
さらには、証言につきものの「責任」についても考えられる。
同時に、このプロセスを通して取材者側は、
取材対象者が本当のことを証言しているのかどうかを
少なからず見極めることができるのだ。
「顔も名前も出しませんから…」
この言葉を取材する側が、
安易に発しているように思えてならない。
報道現場における取材する側、取材される側の「責任」。
その所在がいま、
大いに揺らいでいる気がしてならない。
(飯村和彦)
2016年11月09日
トランプの勝ち!アメリカはどうなってしまうのだろう
トランプ勝利にはもの凄く驚かされた。
さらには選挙の4日前、各種データの分析をもとに「神風でも吹かないかぎり、第45代アメリカ大統領はヒラリーだ!」という文章を、ある種の確信をもって一歩踏み込んだ形で書いていた自分としてはショックですらあった。
「どうしてこんなことが起こるのだ?」と…。
けれども結果がでてしまったからにはその事実をきちんと受け止めるしかない。
潔く、自分の分析やらものの見方の甘さを認めます。
(写真:BBCより)
じゃ、どうしてトランプ勝利なんてことになってしまったのか?
アメリカの新聞・テレビ等の各メディア(たぶん日本のメディアも…)は、今回の結果を受けて「選挙の最終盤にFBIが発表したヒラリーのメール問題」を一因にあげている。
きっとそれも影響したのだろう。でもそれにしたところで数あるファクターのうちの一つでしかなく、それがヒラリー敗因の決定打になったとも思えない。
先の文章にも書いたように、アメリカのメディア(特にテレビメディア)がトランプ勝利に果たした役割(トランプは見事にテレビ報道を利用した)は少なくないと思うけれど、それ自体は選挙戦が始まったときからずっと続いていた訳だから、これ自体が最後の逆転に大きな影響を与えたともいえないだろう。
トランプが勝った、というかトランプを勝たしたのは、
やはりトランプが作り上げた世界(現実的な言葉でいえば彼のいうところの「政策」やら「政治姿勢」やら「理念」なんかになるのだろうけど)、そのトランプ・ワールドに入った人たちの団結力が想像以上に強かったということなのだと思う(これについては前回の文章でも触れたけれど)。
彼らは間違いなく8日の投票日にきちんと投票にいっているだろう。
その意味では、ヒラリー支持派(多くはトランプ嫌悪派)は、最後にきて隙ができたのかもしれない。
数えられないほどのトランプの醜聞により、ヒラリーはそれなりのリードを保っているように見えたし、
実際それを肌で感じていたはずだから。
だた、映画監督のマイケル・ムーアは、そのことをだいぶ前から懸念して以下のように熱心に語っていた。
「トランプを大統領にしたくなければ、あなた自身が自分の住む地域の選挙対策本部長になったつもりで、自分はもとより知り合いを引き連れて確実に投票にいきなない。でないと本番で必ず負ける」
はからずもマイケル・ムーアのいっていた通りになってしまった訳だ。
これからアメリカっていう国はどうなってしまうのだろう。
随分前にも書いたけれど、選挙戦の間にトランプが叫んでいた、彼のいうところの「選挙公約(らしきもの)」がすぐにそのまま現実のものになるとは考えにくいけれど、今回の大統領選を通してアメリカ社会に広がった「分断」は相当厄介だ。
さらにはモラルの低下、人種や民族や性別の違いによる差別、溢れる銃…考えただけでぞっとする。
平気でウソを言っても、大声でまくし立てれば何でも通ってしまうような社会(それが「強いアメリカ」?)になってしまうのでは…と心配になる。
いま、アメリカ国内からカナダに移住を希望する人が急増しているらしい。
(飯村和彦)
2016年11月04日
神風でも吹かない限り、第45代アメリカ大統領はヒラリーだ!
さてアメリカ大統領選挙のことだ。
投票日を8日に控え、各メディアの報道もラストスパートといったところのようだが、そんな報道のあれこれに接するたびにげんなりする。これまでの選挙戦をずっと眺め、きちんと取材して地域や人種等の違いによる投票傾向などを見てきた人間であれば、もう結果は分かっているだろう。
ここにきて“ヒラリーとトランプの差が数ポイントに縮まった”というような世論調査の結果がでているけれど、文字通りそれだけのこと。あくまで“縮まった”にしか過ぎない。
(ヒラリー、選挙キャンペーンメールより)
ヒラリー勝利予測の理由はいたってシンプルだ。
勝敗を決める幾つかの重要な州でトランプの勝ちが見込めないから。
ご存知のようにアメリカ大統領選は、州ごとの勝敗によって得られる選挙人の数で勝ち負けが決まる(総得票数ではない)。もともと民主党の強い州、共和党の強い州というのがあり、極端な話これらの州では誰が大統領候補だったとしても結果は動かないので、重要なのは“結果が流動的な州”。それが今回の大統領選挙では15州程あり、激戦州と呼ばれているわけだ。
トランプが大統領になるためにはこの激戦州といわれている15程の州で少なくとも7つか8 つ以上は勝つ必要がある。ところが実際は、各メディアによって予測に若干の違いはあるももの、よくて4つか5つでしかない。
ニューヨーク・タイムスのデータ予測を例にあげれば、トランプが優勢なのはアリゾナ、オハイオ、アイオワ、ジョージア、ミズーリの5つの州だけだ。残りの10州は全てヒラリーが優勢となっている。なかでも勝った場合の獲得選挙人の数が多い、フロリダやペンシルバニア、ミシガン等でヒラリーが優位を保っているから、それこそ神風でも吹かない限りトランプが勝つ見込みはないだろう。
つまり、このところの世論調査の数字が例え数ポイント差であったとしても、間違いなく第45代・アメリカ大統領はヒラリーである。
米国史上初の女性大統領が誕生する可能性が断然高いのだ。
にもかかわらず、各種データやその傾向を仔細に検討していない方々や薄々わかってはいても“大統領選ネタで引っ張ろう”という思惑のある一部メディアは、「ヒラリーの支持率が下がってトランプと3ポイント差になったゾ!」とか、「これは最後までわかりません」であるとか、ここぞとばかりに煽るような伝え方をする。
挙句にはこの期に及んでも、「もしトランプが大統領になったら…」というような「もし○○だったら□□」形式の特集なんかを流したり。極端な話し、内容のほとんどを可能性の大きくない「もし○○だったら□□」の「□□」の部分に費やしたりする。
今回の大統領選挙でいえば、実情がどうあれメディア的(とくにテレビメディア的)にはトランプ話をした方が視聴率もいいのだろう。
本来であればより現実性の高い事象について時間をかけて検討すべきなのに“視聴者受けしそうな事象”を厚く扱う。これってとっても無責任な報道姿勢であり、これほど視聴者を馬鹿にした話はない。
派手な音楽をつけて赤や青のテロップが画面に踊る…見ていて情けなくなるでしょう?
さらには驚くことに、「トランプリスク」とかいうらしいのだが、トランプが「もし」大統領になったら世界経済が混乱するからということで株価や為替レートまで変調をきたしている。「おいおいちょっと落ちつこうよ」とは誰もいわないようだ。
「混乱=儲けどき」…と考えている方々も少なからずいるのだろう。
(ヒラリー、選挙キャンペーンメールより)
当初は泡沫候補だとしか思われていなかったトランプが共和党の大統領候補になり、(九分九厘負けるにしても)最後まで選挙戦を続けてこられた背景ってなんだったのか。
たぶんその答え、もしくは答えに近いものを求めてトランプのTシャツを着て集会に集うような「トランプ支持者」に話を聞いてもあまり意味はないだろう。耳を傾けるべきなのは、ずっと民主党を支持してきたが今回は仕方なく(トランプは嫌いだけれど)共和党の大統領候補に票を入れる人たちの考えだ。
例えばペンシルバニア州あたりにある鉄鋼関連の小規模企業の経営者や従業員。
産業構造の変化に取り残された彼らの中には、長いあいだ民主党を支持してきたがその間まったく自分たちの生活はよくならなかった、「もう我慢の限界だ」として“熟慮の末”、今回の大統領選挙では民主党に見切りをつけた人も少なくない。
本体なら鉄ではなく、時代が求める新規素材の扱いに取り組むべきところを、それを実行に移すだけの技術やその下地になるはずの教育を受ける機会も少なかった。当然ながら新規事業に転換する体力、つまり資金もないから、これまで通り細々と鉄鋼で生きていくしかない。いわば八方ふさがりの状態に陥ってしまった人たちである。
多くの人が指摘するように、今回の大統領選挙では、いわゆる「トランプ支持者」(信奉者ともいえる人たち)と“普通の”共和党支持者をきちんと分けて考えるべきなのだろう。
誤解を恐れずにいえば、トランプTシャツを着て声高にあれこれ叫んでいるような方々は、もしかすると“普通じゃない環境‘”の中にいるのかもしれない。
彼らはトランプがつくりだしたある種の閉じた世界に誘い込まれ、そのまま出口を閉ざされた人たちじゃないのか。その世界の中では日頃のうっぷんを晴らすことができる。それなりに理屈も通っているし、悩むこともない。強いアメリカ、最高! 迷いもない。
異物は排除(“つまみ出せ!”はトランプの口癖だ)されてしまうから、その閉じた世界にいる人たちの団結力は強い。
けれどもそんな彼らを閉じた世界の外側から見ると、どこか普通じゃないのだ。
ヒラリーのように「嘆かわしい人たち(deplorables)」とはいわない。
でも、“普通の”共和党支持者や、苦渋の選択の末に民主党を見切った人たちとは明らかにタイプが違う気がする。
そもそも、自分はこうだ!という明快な結論を持っているのが凄い。
普通(といって“普通”の定義はそれぞれ違うのだろうけれど)、結論なんてなかなかでないのだ。あーでもないこーでもないと逡巡を繰り返して、悩んで困って、いったんは「これかな」と決めてもまた元に戻る。最終的に「仕方ないけどトランプに入れよう」と意を決して実際に投票したとしてしても、「でも、これでよかったのかな」と思ってしまう。
きっと最近の世論調査にでている数ポイントの揺れは、そんな人たちの判断の揺れを表しているのだろう。
最後になるけれど、今回の大統領選挙で一番残念だったのは民主党の予備選でサンダースが敗れたことだった。政治に新しい風が吹き込む絶好のチャンスだったし、76歳(予備選のときは75歳)のサンダースが若い世代から圧倒的な支持を受けたことの意味も大きかった。
サンダースが訴えた政治改革。
それはアメリカだけじゃなく日本の政治にも間違いなく大きなインパクトを与えたはずだから。
(飯村和彦)
2016年10月16日
死を悼む方法
家族やある時期ともに大切な時間を過ごした友人や知人の訃報にせっしたとき、
あなたはどんな方法でその人の死を悼むのだろう。
自分にとってのそれは、亡くなった家族なり友人との記憶をたどり、
共有できた感情や時々の出来事について自分なりに書き残すこと。
強く印象に残っていることや真っ先に頭に浮かぶ光景はもちろんなのだが、
どちらかといえば日常的な、
些細でささやかな事柄の記憶を飾ることなく綴っていく。
ひとを思いやるということ。
それは何か一つのことでも、毎日その人のことを書きとめて置くということだ。
いつだったか誰かの本で読んだ。
どんな小さなことでもいい。短くてもいいからともかく言葉を書きとめ続ける。
ところがこれは簡単なようで現実には非常に難しい。
だから自分は、せめて大切な人がこの世を去ったときだけでも言葉にして書きとめることにしたのだ。
その際の心境はといえば、遺影に向かって手を合わせているときに似ていて、
結果としてより長い時間、亡くなった家族や友人と静かで親密な対話をすることになる。
一週間ほど前、高校時代の同級生の訃報にせっした。
まだ50代半ば、がんだったという。
機会あるごとに新しいがん治療法や先端とされる研究機関を取材して、
「がん治療の新しい地平が拓けた」
というような記事を書いたり番組を制作している自分にはいちばん堪え、
どうしようもない無力感を感じざるをえない知らせである。
同じ青春の空気を吸い、ともに学び、笑い、
そして社会人になった後は、
ともに人の世の理不尽さに悔し涙を流した友人だった(…少なくとも僕はそう思っている)。
人の世、なんていうと少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、
あるとき(…確か27歳ぐらいのときだった)、
簡単には消化しきれない出来事がわれわれに個別に降りかかったのだ。
それは同世代の仕事仲間の不慮の死であり、
大切な知人の病死だった。
年齢は20代半ばから30代はじめ、どう考えても早すぎる死だった。
「なんでかね」
「悔しいね」
そんな会話を六本木あたりのバーで交わしたのを覚えている。
ポツリポツリと湧きでる言葉は、
静かに現われてはポッと消えていく、
お湯が沸騰する前のあの小さな泡のようにだった。
そんな時間を共有した友人だったからなおのこと、
本人の死を受け止めるのは難しく、いまだにできていない。
さらには長い間顔をあわせていなかったということも大きい。
「亡くなった」と知らされてもそこに現実的な手ざわりのようなものがないので、
悲しみというよりは永続的な「不在」、喪失感の方がより大きい。
最後に会ったのはニューヨークに引っ越す直前のことだから、
かれこれ25年以上前になる。
「死ぬなよ」
そういって御守りとその頃人気のあったムートンの手袋をくれた。
手袋の方は「ニューヨークの冬は耳が千切れるほど寒いから」という理由からだった。
(だったら本来なら耳あてなんじゃないか、とも思ったのだが…)
それはそれはさらりとしたもので、
その「さらり」具合が、
高校時代から変わることのなかった友人関係そのままでとても心地よかった。
「日本に帰ったときは連絡を!」
「ああ、電話するよ」
確か渋谷かどこかでそんな会話をかわして別れたのだ。
しかしその後われわれが再会することはなかった。
なぜだろうと考えてみてもこれといった理由はない。
気がついてみたら25年もの歳月が流れていたということで、
もし不幸がなければ、それはもしかしたら30年にも40年にも及んでいたかもしれない。
けれどもだからといって、
われわれが友人でなくなった訳じゃ全然ないだろうし、
もしふとした機会に再会を果たしたとしてもきっとこんな調子だったに違いない。
「どうしてた?」
「元気だよ」
「それはよかった。ビールでも飲む?」
ほんの二言三言で再会の挨拶は終了。
まるで2、3週間ぶりに顔をあわせたような気分で、
それぞれの25年なり30年なりに起きたエピソードを酒の肴にグラスを傾けたことだろう。
きっとこの文章を読んでいる多くの人たちにも、
「そういえば彼が(彼女が)そうだなあ」
と思いあたる素敵な友人がいるはずだ。
思うのだけれど、
僕たちはそんな十年一日の友人がいるからこそ、
例え辛い毎日が続いたとしてもなんとか頑張ってやっていけるんじゃないか?
普段は心の奥の方にいて意識されることはないけれど、
間違いなく自分の支えになっている存在。
だからこそ逆にそんな友人の「不在」は、にわかに信じがたく現実的感に乏しいのだ。
けれども当然のことながら、
身近にいたご家族や友人、知人の方々の悲しみは深く、
その心の痛みや喪失感ははかりしれない。
遠い夏の日の青い海。
仲間たちと泣き笑いした午後もあったでしょう。
雨降りの日は穏やかに、
風がたてば耳を澄ました。
目に痛いほどキラキラ輝いていたあの頃の記憶。
時間は進みません。
いつだってそこに在るだけ。
忘れずにいよう。
いまはもう、青空だけだから。
「生」と「死」は対峙しているものじゃない。
多くの人たちがそういうのはその通りなのだと思う。
「死」はいつだって人の「生」の中、日々の生活の中にあって、
あるときその姿をあらわす。
悔しいけれど、大抵の場合それに抗うことはできない。
だからそれぞれがそれぞれの方法で、
家族なり友人、そして自分自身の「死」と折り合いをつけるしかないのだろう。
もう数ヶ月前になるけれど、
アメリカCBSニュースが小さな私設ミュージアムの話題を放送していた。
館長は黒人男性で、自宅をそのままあるミュージアムにしていた。
室内に展示してあるのは、
4年前に亡くなったという妻との思い出の品々であり、写真だった。
音楽好きだったらしく、素敵なギターが並び、珍しいレコードもたくさんあったように思う。
そこで彼は最愛の妻と過ごした日々を回想しながら、
想い出の曲をかけて、ひとり笑顔でチークダンスを踊る。
強い人だなあと感じた。
そして何よりとっても明るくてチャーミングなのが印象的だった。
到底自分は真似できない、そう思ったのを覚えている。
(飯村和彦)
2016年09月18日
「3回以上」読んだ本、何冊ありますか? 読み返すたびに浮かぶ違った景色
「自分の意見をもつのと頭のいい悪いは別のこと」
週末、村上春樹の「海辺のカフカ」を読み返していてふと目に留まった一節。これは主要登場人物の一人であるナカタさんをトラックで富士川まで送る運転手の台詞だ。以前読んだときにはそれほど気にならなかった台詞だが、今回はこの部分でパタリととまった。
「自分の意見をもつのと頭のいい悪いは別のこと」
頭の良し悪しの基準はどこにあるのか、どんな状況でなにをしているときなのか…。それを第三者がどう判断するかは難しい(きっと本来的にはそんな判断はできない)ことだけど、それと「自分の意見をもつこと」は確かにまったく別ものだ。当たり前のことなんだけど普段改めて考えないので余計気になったのかもしれない。
で、そのとき突然頭に浮かんだのが、つい最近のヒラリーが口にした言葉だった。
ニューヨークで催された資金集めのイベントでのこと。ヒラリーは、「トランプ氏の支持者の半数は私の考える嘆かわしい人々の部類に入る」(“…you could put half of Trump's supporters into what I call the 'basket of deplorables”)としたうえで、「人種差別主義者、男女差別主義者、同性愛者や外国人やイスラム教徒に偏見を持つ人々だ」と主張した。問題となったのはこの中の「嘆かわしい(deplorables)」という表現だ。これなどは選挙戦のタイミングを考えれば、不用意な、あまり頭の良くない発言だと思った人が多いかもしれない。事実、これ幸いとトランプ陣営に付け入る隙を与えたわけから。
けれどもそうは考えず「事実なんだから仕方ないだろう」と感じた人も少なくないはず。実際ヒラリーはその後この自分の発言について「後悔している」として訂正したのだが、訂正部分は「嘆かわしい」という表現ではなく、「半数」としたその嘆かわしい人々の割合の方だった。つまり彼女は自分の意見、主張そのものの肝は変えなかったのだ。
さて、村上春樹の「海辺のカフカ」からヒラリー発言に話が飛んでしまったけれど、こんなことが頻繁に起こるから、気に入った本は幾度となく手にしたくなるのだ。
本を読んでいて何が面白いかといえば、そこに書かれている内容もさることながら、物語とは直接関係のない事象が奔放に頭に湧いてくる現象だ。同じ本でもそのときに自分の置かれている状況や社会情勢が違えば、喚起される考えやイメージも違ってくる。これは二度目、三度目のときの方がより顕著だ。たぶん一度目のときは物語そのものの内容や流れをつかむのに忙しいからだろう。それが二度目、三度目ともなるとこちらに余裕があるから、そのぶん心置きなく自由に連想を楽しめる。だから自分の場合は、二度目、三度目の方が一冊の本を読み終えるのに断然時間がかかる。先を急ぐ必要がないからね。
きっと本を読むときの自分の思考が、3+7=□ではなく、□+□=10 の設問的なものに変わっているからだろうと個人的には思っている。
とはいうものの、これまでに三回以上読んだ本が何冊あるかと考えると、実はそう多くない。仕事、またはその関連で何度も読み返す本はあるが、この場合は自由連想なんてしてる暇はないし、どちらかといえば必要に迫られて読むわけだから、たとえ楽しくてもその質は異なる。半藤一利の「昭和史」などがその例だ。だからそうではなく、「ふと読みたくなって手に入れた本」のうちで「三回以上読んだ本」となると結構少ない。アメリカに引っ越すときに大半の本を日本に置いてきたから、いま手元にある本はいわばいつでも読みたい本に違いないのだが、それでも三回以上となると…
「坂の上の雲」「胡蝶の夢」(司馬遼太郎)、「リセット」(北村薫)、「コロンブスの犬」(菅啓次郎)、「砂糖の世界史」(川北稔)、「鍵のかかった部屋」(ポール・オースター)、「罪と罰」(ドストエフスキー)、「世界の終わりとハードボールド・ワンダーランド」(村上春樹)、「冷血」(トルーマン・カポーティ)、「幸福な死」(カミュ)、「変身」(カフカ)、「武士道」(新渡戸稲造)など。これらはすぐに手の届く場所にある。
幾つか本自体の写真を撮ってみたが、多くが手軽に持ち歩ける文庫本で、カバーの擦り切れ具合から相当前に買ったものだと分かりにわかに嬉しくなる。この感覚は電子書籍では絶対味わえないものだ。
北村薫の「リセット」は五回以上読んだ。直近でこの本を読んだのは去年の夏で、そのとき目に留まったのは以下の部分。例の安保法制反対の渦が日本で沸き起こっていたからだろう。
「特攻に出られた方々が最後の門出に献金していかれたお金をもとに《神風鉢巻》がつくられ、檄文の朗読と共に配られました。悠久の大義のために殉じた隊員のごとく、一人一人が神風となり、闘魂を燃え上がらせよ、というのです。
忠勇、義烈、純忠、至誠----と、厚化粧のような言葉が並べられました」(「リセット」より)
戦後70年たって、戦中に氾濫していた“厚化粧のような言葉”がまた市民権をとり戻し、政治家が真顔で口にするようになるんじゃないか。そしてそんな張りぼて感いっぱいの言葉を耳にして強く頷く人たちが増えていくんじゃないか。そんな不安に駆られたのだ。
その前に読んだときに印象に残ったのは別の箇所だった。
「自分が、このささやかな今を忘れなければ、この瞬間は《記憶の缶詰め》になり、自分が生きている限り残る。ちょうど、絵日記の中に、三年前の《夏》が残っていたように」(「リセット」より)
これらの気になった箇所は、本を読むたびにつける「うさぎの耳」があるからすぐ分かる。心に響いたり、自分なりに「ん?」と思った箇所があるとページの上隅を小さく折る。実はこの「うさぎの耳」、本を読み返すときにはいい指標の一つになる。例えば、何年か後に改めてある小説を読み返したとしよう。で、「うさぎの耳」のあるページに差し掛かったときに、前にその小説を読んだときはどのセンテンスが気になったのか、それはなぜだったのか…を確認できる。つまり、自分の感情やものの見方の変化を知ることができのだ。もちろん、なぜそのページに「うさぎの耳」があるのか思い出せないときもあるけれど。
なかには「ある一ヶ所」を読みたいために幾度となく手にする本もある。カミュの「幸福な死」はそんな類の本で、これはわりと最近読み返した。で、その「ある一ヶ所」が以下の部分だ。
「自分がこのままこうした無意識の状態で、目の前のものを見ることができなくなって死んでしまうのかもしれないという不安が、かれの想念に浮かんできた。村では教会の時計が時を告げたが、かれはその数が幾つだったかわからなかった。かれは病人として死にたくはなかった。…かれがまだ無意識のうちに望んでいたことは、血潮と健康でみたされている生と、死との対峙であった。そしてそれは、死と、すでにもうほとんど死であったものを対峙させることではなかった」(「幸福な死」より)
この部分を読むたびに考えるのは“意識された死”(=自覚的な死)とそうではない“突発的な死”(例えば事故やテロで突然命を落とすような場合)について。とくに後者の場合は刹那的な“死への予感”だけで、血潮と健康にみたされていた生が、突然、死に一転してしまうのだから。例えばいまのシリア。空から轟音を伴って降ってくるミサイルを見たとき、少女はなにを思うのだろうか。
また最近のことだが、落石が走行中の車を直撃し、助手席に座っていた19歳の女子大生が命を落とすというニュースもあった。極めて低い確率でしか発生しない事故。信じられないような不幸が、突然ふって沸いたとき、自分はどうなるのだろう。
と、ここまであれこれ書いていて、そういえば娘は小さい頃からある本を何度も何度も読んでいたなあ…ということを思いだした。
「やかまし村のこどもたち」。アストリッド・リンドグレーンといスウェーデンの作家の本だ。日本でも人気のある作家だから彼女の作品(ほかに「長くつ下のピッピ」「名探偵カツレくん」など)を読んで育ったというひとも多いと思うけれど、娘の場合は尋常じゃなかった。そこで彼女に聞いてみると、「何十回どころじゃないよ」という答えだ。で、「どこがいいの」と聞いてみると、「全部」とひとこと。そして「家が三軒しかない小さな村で暮らす6人の子ども達の毎日が、ともかく面白いのよ」と続けた。
木の枝を伝って隣の家の仲良しの部屋へ行ってみたり、犬や猫との子ども達の係わり。そして奇想天外な遊びに没頭する彼らをいつだって温かい目で見守る大人たち。とっても狭いエリアで展開される物語なのだが、ふと自分の子どもの頃の日常と比べてみたり。大人が読んでも十分楽しめる本だ。
「猫を好きになったのも、木登りが得意になったのも、やかまし村を読んだからだと思う」と娘はいう。
小学校の低学年から中学、そして18歳になった現在にいたっても「やかまし村の子どもたち」は、娘にとって大切な一冊なわけだ。もちろんその古びた本はいま住むアメリカの家の本棚に持ち込まれている。
羨ましいなあ…と思う。
そんな本が一冊あるだけで、どれだけ彼女の人生が豊かなものになったことか。残念ながら自分には彼女の「やかまし村の子どもたち」にあたるような本はなかったから。
まあ、これからそんな本を探せばいいのか? 読書の秋だし。
ちょうど我が家の近くに、読み終わった本を自由に交換できる「森の小さな本棚」があるから。でもあそこのはみんな英語の本だからなあ。
(photo:kazuhiko iimura)
(飯村和彦)