2012年10月12日

「スバル」、アメリカで快走中!



マサチューセッツ州アマースト。
この街に越してきてすぐ、あることに気づいた。

「やたらとスバルが走ってなあ」

信号待ちの車の群れ、
レストランの駐車場、
街中の道路沿いのパーキング、
そこには「必ず!」スバルがある。
東京では考えられない頻度でお目にかかるのだ。

で、自分なりに納得していた。
「この一帯には山や丘が多い。
おまけに冬は冷え込み、雪も少なくない。
スバルにはもってこいの市場なのだろう」…と。

もちろん、その見方は間違いじゃなかった。
ここ米国・ニューイングランド地方は、
スバルの持つ「技能」(高い安全性や走行性)が、
より発揮しやすい地域であることは確かだから。

けれども、
あれこれ調べてみると、
スバル車がやたらと多いのはそれだけの理由じゃないようだ。



スバル1
(アマースト大学駐車場、photo:Kazuhiko Iimura)



まずは、今どれぐらい「スバル」が好調なのか。
数字で見てみると…

世界販売は今期、前期比13%増の72万台。
2年ぶりに最多記録を塗り替える。
そして史上最高益!
日本国内工場は24時間フル稼働状態。
その半分がアメリカ向けである。


「スバル」人気、いまや全米規模に拡大中!

アメリカ北東部のニューイングランド地方や山の多い地域には、
「スバリスト」と呼ばれる人たちいて、
彼らは、スバル車で大いなる自然を疾走している。
まあ、これは理解できる。
スバルならでは「走り」が堪能できるわけだから。
それがこのところ、
これまでの地盤だった山岳地帯だけではなく、
西海岸のロサンゼルスやアトランタ、
ダラス、オーランドなど南部でも販売が急増している。

アメリカの有力な消費者情報誌「コンシューマー・レポート」が発表した、
2012年の自動車メーカーランキングでは、
「スバル」が堂々の1位を獲得!
部門別でも、
「インプレッサ」が小型セダン部門で首位になっている。



スバル6



成功の鍵は?

各種報道を総合すると、スバルの成功の秘密は、
ドライバーの好みをしっかり理解していることにつきる。
スバル好きの客層は、知性的で、新しいものへの関心が強い。
年齢では、業界平均よりも3歳若く、
その四分の一以上が大学卒だといわれている。
さらに、
自由を好み、経済力はしっかりしている。

「平均所得は88,000ドル。これはホンダとほぼ同じ、
トヨタよりも1万ドル高い」
(市場調査会社Strategic Visionデータ)

その一方で、彼らは倹約家。
自分の経済力で余裕をもって買える車を選ぶ。
36%は、現金で車を買うという。

スバル・オブ・アメリカのマーケティング責任者は…
「スバルに乗る人々は高級車のオーナーとは違い、
品物を買うのではなく、経験を買っているのだ」と説明。
「堅実な購買層にセンスある商品を提供することで、
市場環境の悪化した2009年を乗り切り
その後、過去最高の販売と市場シェアを獲得した」



スバル3



ちなみに、
増産を続けるスバルのインディアナ州の工場。
この工場は、野生生物保護区域(環境保護地域)に立地しているため、
埋め立て地に送るような廃棄物をださないことが義務付けられているという。

ここに工場をつくったのは、
環境保護に取り組んでいるスバルの理念からだが、
結果として、
環境保護に関心をもってる人からの強い支持を得ている。
同時に、構築される「ブランド力」は当然強い。



スバル2



メインストリート
(アマースト・センター、photo:Kazuhiko Iimura)



スバル、いいじゃない。
改めてそう思うようになったのは、
マサチューセッツに住みはじめ、
街中を快走する多くの「スバル」を日々目にするようになったから。

もう10年以上前になるけれど、
東京で経済系の報道番組を担当していたころ、
富士重工の社長がゲストとして番組に登場した。
そのときの社長のコメントが印象的だった。

「わが社は“ふかぼり”ですから」

水平対向エンジンやら四輪駆動技術。
スバル車の安全性と走行性は、
車種を少数に絞り込み、技術面等々で深く掘り込んだ結果…。

で、考える。
こんど車を買い替えるときがきたらどうしようか…と。
いま我が家には、古〜い「サーブ」(おまけにコンバーティブル)がある。
それも親戚からの「おさがり」だ。
そう遠くない将来に走れなくなるだろう。
さてそのとき「スバル」を選ぶのか?
どうだろう…
まあ、そのときだ。

(飯村和彦)

newyork01double at 08:58|PermalinkComments(0) 取材ノートより | 週末だから!

2012年10月04日

米国・シェールガス革命の「明暗」〜経済発展と環境破壊〜



IEA(International Energy Agency=国際エネルギー機関)は、
「近く、地球全体が、天然ガス黄金時代に入る」と予測している。
その根拠が、シェールガス。

「シェールガス」とは、
シェール層と呼ばれる地層に含まれる天然ガスのこと。
これまで採掘が難しかったが、
「水圧破砕法」と呼ばれる新技術により、
通常の天然ガスと同程度の費用で生産可能になった。

シェール層はカナダ、北米で多く見つかり、
急ピッチで掘削作業が進んでいる。

米国メディアの紙面には景気のいい見出しが溢れる。

「シェールガスブームは、
すでに60万件の新しい雇用を生み出し、
2025年までには160万件になる」
「アメリカ経済再生の切り札になるのでは」との期待から、
一部にはゴールドラッシュの再来…との声まで!

ところが!

シェールガス生産には大きな副作用が伴う。

環境への悪影響である。
採掘作業による地下水や河川の汚染。
さらには、
「地震」を誘発するとの報告もある。

北米大陸同様、
シェールガス埋蔵量の多いヨーロッパでは、
フランスとベルギーが、
水圧破砕法による掘削を禁止した。

いまアメリカで沸き起こる、新エネルギー・シェールガス革命。
そこにある「光と影」とは?



シェールガス



まずはシェールガス革命の「明部」から

1)シェールガスがもたらす明るい未来

「多くの新雇用の創出」
「シェールガスは、すでにに60万件の新雇用を生み出し、
2025年までには160万件になる」(HIS Global Insight)

「天然ガス価格は2008年より80%低下。去年一年間だけで45%も下がった」

「2025年までに石油輸入量が20%減る」

「今後10年では、3割から4割、原油輸入量を減らせる。
4割だと年間およそ$160billion
それがこの先ずっと続くことの経済効果は計り知れない」
「大幅減税と同じ効果をもたらす」
( Moody’s Analytics)

そして、
米政府やエネルギー関係者が夢見るのが、

「Energy independence(エネルギー自給)」

シティグループの分析によると、
米国は2020年までに「エネルギー自給」を達成。
同時に原油や精製石油製品、天然ガスの輸出国になりえるという。

すると…

(エネルギー自給が達成されると)
350万件の新しい雇用が創出され、
失業率は2%減る。

そのうえ、

エネルギー自給(エネルギー輸入に掛かっていたコスト軽減)により、
製造業ほかで構造改革が進み、輸出競争力も高まる。

最近では、
シェールガス埋蔵量の多い北米、カナダ、メキシコのことを
「”New Middle East”(新たな中東=北米、カナダ、メキシコ)の誕生!」
と表現し、その価値を強調する向きまである。



2)“シェールガス革命”に沸く現場
ペンシルバニア州ウィリアムズポートでは…

「6つの新しいホテルが誕生」
「約100の企業が街に入ってきた」

「2010年の経済成長率は7.8%、全米でもっとも早く経済成長している都市」

もちろん、
ペンシルバニア州のトム・コルベット知事の鼻息も荒い。
「長い間失業していた人が、職につけた。
まさにゴールドラッシュならぬ“シェールガスラッシュ”。
家や店、レストランへの需要も高くなった」

「ピッツバーグ郊外に天然ガスから薬品をつくる新しい化学会社ができる。
これだけで10000件の建設関係の仕事が生まれる!」



3)新エネルギー革命の発端は?

約12年前、
テキサスの試掘者、Geoge Mitchell(ジョージ・ミッチェル)が、
「水圧破砕法(hydraulic fracking)」という天然ガス掘削技術を商業化。
これがニューエネルギーブームに火をつけた。

水圧破砕法とは、
大量の水、化学薬品、砂を使い、
岩盤の中にあるガスを出す技術。
この方法では、ガスの含まれた岩盤を水平に掘っていくため、
これまでの垂直掘削より簡単に多くのガスや原油を産出できる。

水圧破砕法によって、
これまで割高だった
シェール層(=頁岩(けつがん)層)に含まれるオイルの採掘が、
安くできるようになった。

その結果、アメリカ国内の石油生産量は…

シティグループ予測:2015年までに「現在より3割」増える
アメリカ政府の予測:2020年までに「22%増加」。一日あたり670万バレル

ちなみに、
いま世界では、一日あたり8600万バレルの原油を生産している。
そのうちの1900万バレルをアメリカ消費。
米国政府によると、
一日に消費する1900万バレルのうち、890万バレルが輸入で、
そのうちの420万バレルが中東(OPEC)からの原油。

つまり、シェールガスの開発により、
アメリカ国内でエネルギー革命が進展して、
海外(特に中東諸国)に頼っている原油の一定量を国内で賄えるようになれば、
米国経済は劇的に変わる…と考えられているのだ。


しかし、シェールガス革命には大きな「副作用」が!



シェールガス革命の「暗部」とは?

1)水圧破砕法にシェールガス掘削は、環境に深刻な悪影響を与える!

イギリスの環境保護団体は、
水圧破砕法によってアメリカの地下水が汚染されていると警告。
フランスとベルギーでは、
すでに水圧破砕法による掘削を禁止した。

さらには、
「地震」を誘発する危険性もあるといわれている。

イギリスの会社、カドリラ・リソースが、
イギリス北西部で掘削を始めたところ、
現場近くで二度地震が発生。
そのため昨年春から掘削作業を中断している。
カリドラが後に発表した調査報告では、
水圧破砕法が「地震」を誘発したとしている。



2)汚染現場を検証:アメリカ河川の危機=「サスケハナ川」

サスケハナ川とは、アメリカ東海岸最長の川。
ニューヨーク州に始まり、ペンシルバニア州とメリーランド州を抜けて、
ワシントンD.C.のチェサピーク湾に流れ込む。
ペンシルバニア州の東部3分の2を占めるなど、
流域面積は7万1224平方キロに及び、
天然ガスの採掘地域「マーセラス・シェール」も通過する。

また、600万以上の周辺住民の水源としても利用されている。

実はこのサスケハナ川がいま、
深刻な危険に晒されつつあるという。

環境保護団体「アメリカンリバーズ」が毎年発表する
「アメリカで最も危機に瀕している川」というリスト。
このリストは、「最も汚染された川」ではなく、
「今後数年で運命が決する岐路に立っている川」を対象にしている。

その2011年度のトップが、サスケハナ川だった。
理由としては、この川の流域に含まれる
「マーセラス・シェールの採掘地域」を主な汚染源として挙げている。
この場所は近年、豊富な埋蔵量の天然ガスを目当てに、
急速に開発が進んでいる地域である。

汚染の理由は、「水圧破砕法」だとしている。

地下のシェール層から天然ガスを取り出す
「水圧破砕法(フラッキング)」は、大量の水を消費する。
砂や化学物質を含む大量の水をポンプで圧送し、
極めて高い圧力で気孔のない岩石層を砕く。

環境保護団体は、
「フラッキングの廃水は人体に有害で、発がん性の可能性もある。
しかし、現在ほとんどの施設で適切な廃水処理ができていない」
と懸念を表明し、
「地下や地表の源泉の汚染を防ぐ法律が不十分だ」
とも指摘している。



では、米国のシェール革命と日本の関係は?

シェールガスの米国内での生産量が、
ガス全体の2割に達した今、米国政府は次なる目標に向かっている。

「ガス輸出国にもなりえる状況になった」
(エネルギー省ポネマン副長官:2011年12月東京講演)

その実現に向け現在、
シェールガスを液体のLNG(液化天然ガス)にして、
輸出する基地作りが進行している。

これを受けて日本は、
そのアメリカ産LNGを輸入すべく動いている。

原則としてアメリカは、
FTA(自由貿易協定)を結んだ国にしか輸出を行わない。
そこでアメリカとFTAを結んでいない日本は、
「特別許可」を求めている。
今年中にもその結論がだされる予定だという。

現在日本は、LNGを中東や東南アジアからの輸入に頼っている。
おまけに価格はアメリカ国内価格の5倍と高い。
もし、米国から輸入できるようになれば、
輸入ルートを増やせるのはもちろんのこと、
「これまでより安く、LNGを買えるのではないか」と期待されている。

東日本大地震以後、
原子力エネルギーの代わりにLNGが多く使用されているため、
輸入量も急増中(去年38%増。今年は47%増の見込み)

日本でも今月(10月)3日、
石油開発大手の石油資源開発が、
秋田県にある鮎川油ガス田でシェールオイルの採取に成功した(国内初)。
国産資源の開発や、掘削技術の向上に繋がるとの期待されるが、
推定埋蔵量はわずか。
これで日本のエネルギー不足を解消する…とはいい難い。

「明と暗」が交錯するシェールガス革命。
新しいエネルギーはわれわれの未来を豊かにするのか、
それとも、大きな「負荷」を世界に与えるのか、
今後も注視が必要だ。

(飯村和彦)


newyork01double at 15:30|PermalinkComments(1) 取材ノートより | 地球環境を眺めると…

2012年03月28日

福島第一原発と同型「ヤンキー原発」・運転延長反対デモ!



3月22日。
稼動開始から40年が過ぎたヤンキー原発(米国・バーモント州)対して、
その運転延長の反対を求める大規模な抗議デモが行われた。

デモに参加したのは約1000人の市民。
小さな子どもからお年寄りまで、
古い原発の運転継続に強い不安を覚える人たちが、
手に手に、
「ヤンキー原発、運転継続反対!」
「シャットダウン!ヤンキー原発」のプラカードや旗をもって、
およそ3.5マイル(約6キロ)の道のりをデモ行進した。






[filmed by Kazuhiko Iimura]





この日の抗議活動では、
93歳の女性を含む130人が地元警察によって逮捕された。
ただし、
地元警察も、
原発反対運動には一定の理解を示しているため、
この日の「逮捕劇」には、いわば「暗黙の了解」があり、
すべて混乱なく整然と行われ、
逮捕された130人は、後に全員釈放となった。

今年の3月21日で、
稼動開始(1972年)から40年が過ぎたヤンキー原発の、
運転期限延長(20年!)をめぐっては、
ここ数年、
アメリカで大きな議論となっていた。

施設の老朽化が進み、
冷却塔が壊れたり、
放射性物質を含む冷却水が漏れだすなどのトラブルが続出していたのだ。
さらに、ヤンキー原発は、
現在深刻な事態に陥っている福島第一原発と「同型」だった。
(備:同型の原子炉格納容器「マーク1」)

この事実が、
ヤンキー原発周辺住民の不安をいっそう深いものにした。

福島原発第一の事故発生前から、
バーモント州議会は、
原発周辺住民の意思を尊重する形で、去年2月、
ヤンキー原発の運転延長を認めない決定を下していた。

(備:去年2月、バーモント州上院が、
今年3月で期限切れとなる運転免許の更新を否決した。
同州は全米で唯一、
州憲法で原発の稼働への否決権を規定していた)

ところが、
アメリカ原子力規制委員会(NRC)は、去年3月21日、
(東日本大地震による福島第一原発事故発生の直後にあたる)、
20年間の操業延長を許可したのだ。

さらに、去年4月18日、
ヤンキー原発を所有するエンタジー社(電力会社)は、
バーモント州の決定権に異議を唱えて訴訟を起こした。

さて、この裁判で、
アメリカの司法が、どんな判断を下したのかというと…

今年1月19日。
アメリカ連邦地裁は、
エンタジー社の主張を受入れ、
ヤンキー原発の稼働期限延長を認める決定を下した。
40年稼動してきた原発を、
今後さらに20年、運転させるということだ。

「Shut down Yankee Nuke!」

運転反対を叫ぶ大規模なデモが行われた
3月22日は、
ヤンキー原発が期限延長運転に入った第一日目。
今年生まれたばかりの子どもにしてみれば、
彼、または彼女が成人するまで、
老齢の「ヤンキー原発」と共に生きていくことになる。
これって、
どう考えても無理があるだろう。

(飯村和彦)


newyork01double at 13:36|PermalinkComments(0) 取材先にて記す! | 地球環境を眺めると…

2012年03月23日

水飢餓の世紀!取材ノートより



時事通信によると、米国家情報長官室は3月22日、
2040年までに世界の水不足が深刻化し、
地域情勢の不安定化や紛争を招く恐れがあると分析した報告書を発表。
水不足の主な要因として、
人口増加、経済発展、気候変動を挙げた。

報告書は、
「今後10年間に水不足が原因で国家間の戦争が起きるとは考えにくいが、
地域の不安定化や緊張を高める可能性がある」と指摘。
一部の農業地帯では地下水が枯渇し、
世界の食料市場にも影響が出るとした。

2020年以降は、特に中東や北アフリカ、南アジアで、
水を「武器」あるいは「テロの手段」として利用し、
ダムなど水源施設が攻撃対象となる危険性が高まると分析。
また、
水の問題が主要国の食料・エネルギー生産を妨げ、
経済成長の足かせとなると警告している。

以下は、
「水飢餓の世紀」のテーマで調べた際の取材ノートを纏めたもの。
今私たちが抱えている「水(=淡水)問題」を知る上で、
多少の手助けになるのでは…と思い、改めてアップした。
参考にして貰えれば幸いです。


【水飢餓の世紀〜取材ノートより〜】


地球上に存在する水の総分量は、約14億立方キロメートル。
地球が「水の惑星」だといわれる所以である。
しかしそのほとんどは海水で、淡水は全体の約2.5%。
しかも淡水の3分の2以上は、
南極や北極の永久凍土や氷河である。


地球1
                   (アポロ11号が月から撮影した地球:NASA)


つまり、私たちが日常利用する河川や湖などからの淡水は、
地球全体の僅か0.01%にも満たない。

近年、その貴重な淡水が枯渇し、
急速なスピードで砂漠化が進行している。

国連の予測では、2025年には、
世界人口の2人に1人が深刻な水不足に陥る可能性があるという。
水は地上に生きる全生命の源であり、
すべての産業もまた、水なしでは成り立たない。
深刻化する水資源の現状に対して、なにができるのか。

東京大学の沖大幹教授は指摘する。
「水というのは量だけを確保すればいいのではなく、
汚れていて使えない水を綺麗にして使えるようにすることは、
水を作るのと同じなので、
そういう技術は短期間に導入可能だし、
非常に効果的な場合が多い」

そこで今、
日本の水処理技術が世界の注目を集めている。


日本の川
(東京・羽村取水場/ photo:kazuhiko iimura)


20世紀は石油の世紀だったが、21世紀は水の世紀

現在、世界の人口70億人のうち、
安全な飲み水を手軽に利用できない人は約11億人。
下水設備や衛生設備がない地域に住む人は25億人を超す。

中東や北アフリカの窮状はよく知られているが、
インドやインドネシア、韓国、マレーシア、シンガポールなども、
衛生設備の不備などもあり水飢餓状態にある。


川辺の人たち1
(インドネシア/ photo:kazuhiko iimura)


当然、中国も水は大問題。
水需要の増大による物理的不足の他、
工業廃水や生活排水による河川汚染が深刻で、
黄河や長江ともに大きな問題になっている。

また、
先進国でも水問題は深刻。
アメリカ中西部やスペイン、オーストラリアなども、
酷い水不足に陥っている。


日本の水資源、その実情とは?

日本は、水に恵まれた国である。
水道の蛇口を捻れば、安心で安全な水が手に入る。

例えば、
多摩川上流にある羽村取水堰を基点としている玉川上水は、
およそ350年前の江戸初期に、
多摩川の水を、
飲料水、農業用水として利用するために作られた。

羽村取水堰で一旦せき止められた水は、
毎秒2トンを川へ戻し、
その他は、一秒間に6トンが浄水施設へ送られる。
現在、多摩川水系の水は、
東京都民の約20%が使う水道水になっている。

しかし…

地球全体で見ると、
利用できる淡水の量は急速に減少している。
その僅かしかない淡水の使用状況はといえば、
70%が農作物と家畜を育てるために使用され、
その他は、
工業用水が20%、生活用水が10%の割合となっている。

特に農業用水の大部分は、
乾燥地域や半乾燥地域での灌漑用に使われている。

東京大学で、
グローバルな水循環と世界の水資源に関する研究を行なっている
沖大幹教授は、
水不足といっても地域によって実情が異なると話す。

「例えば安全な水がないというのは、
どちらかといえば物理的に水が少ないというよりは、
安全で安心な水を安定して供給する施設が足りない。
これは途上国が中心になる。
逆にそれなりに発展していても、
もともと乾燥した地域で、
無理やり循環型ではない資源を使っている地域。
地下水に頼っている地域は、
だんだん使える水資源が減ってきていて、
食糧生産に影響すると懸念される」


船2隻
(インドネシア/ photo:kazuhiko iimura)


世界の水資源問題の現状

下水や衛生施設の整備が進んでいない
インドネシアや中国、マレーシアなどの国々でも、
多くの人が、
きれいで安全な水にアクセスできない状態にある。

驚異的な経済成長を続ける中国では、
主要都市の3分の2が深刻な水不足に陥っている。
下水の大半は、
未処理のまま川や湖に垂れ流されているため、
中国全土では、およそ7億人が、
人間や動物の排泄物で汚染された水を飲んでいるという。

黄河流域では、
農業や生活用に多量の水を取水したため、
その流量が40年前の僅か10%にまで低下。
また、
長江(揚子江)には、
毎日約4000万トンものゴミや汚水が投棄されているという。
これら河川の汚染は酷く、
飲料水はおろか農業用水としても使えない地域も多い。

アメリカでも、
中西部を中心に水不足は大きな問題になっている。

北米・ロッキー山脈の東側に広がる
グレートプレーンズと呼ばれる平原。
日本の国土面積の10倍もあるこの乾燥地帯は、
本来、農業に適した場所ではないのだが、
なぜか大穀倉地帯になっている。
その訳は地下水の利用だ。


穀倉地帯1
(米国・中西部/ photo:kazuhiko iimura)


この地域の灌漑施設では、
井戸を掘って大量に汲み上げた地下水を利用。
半径・数100メートルの腕木に設置したパイプから水を撒いて、
作物を栽培している。

だが、
その水源であるオガララ帯水層の水は急速に減少。
井戸が枯れ、作物を作れない農地が急増している。


日本の食糧自給率と「水資源」の関係

世界の人口は2025年までに、
今より20億人増えると予測されている。
当然その分、食料と水の需要も膨れ上がる。
すると日本はどうなるのか。

日本の食料自給率はおよそ4割。
つまり、
食料の6割を海外からの輸入に頼っている。
実はここに、日本の抱える深刻な「水問題」が潜んでいる。


バーチャル・ウォーター(仮想水)

現在、日本が輸入に頼っている食料を、
もし国内で作るとしたら、どれ位の水が必要になるのか。
それが、
「バーチャル・ウォーター」の考え方である。

東大の沖教授の試算によれば、
「日本が輸入している主要な穀物や肉類を日本で作ったら、
どれ位の水が必要なのかを計算すると、だいたい640億トン。
日本国内で使っている農業用水が560億トンなので
それより多い水が必要だということになる。
我々は食料を輸入しているために、
国内の水資源を使わずに済んでいる」

つまり日本は、
食糧という形で毎年640億トンもの水を輸入していることになる。
これは作物や家畜のために、
日本全国で使われている水の量より遥かに多い。

幾つかの食料について、
もしそれを輸入せずに国内でつくったとしたら、
1キログラム当たりどれ位の水が必要になるのかを試算すると…

牛肉なら僅か1キロの肉を作るのに20トン、2万リットル。
これはエサとなる穀物に大量の水が使われるため。

鶏肉なら4.5トン、4500リットル。
小麦は2トン、2000リットル。
玉ねぎは160リットル。


穀倉地帯2
(米国中西部/ photo:kazuhiko iimura)


例えば、
牛丼を一杯つくるための材料には1890リットル、
およそ2トンの水が必要になるのだという。

21世紀は水の争奪戦になる」といわれている。
大切な水を使って生産された食料を大量に輸入している日本は、
その恩恵を世界に還元する必要がある。

そこで注目されているのが、
日本の持つ水処理技術。
飲み水や農業のために使える水を増やしてあげる。
その一つの方法が、
地球上にある水の約98%を占める海水から真水をつくること。


海水の淡水化とは?

もともとはアメリカのケネディ大統領が、
国家事業として始めたプロジェクトだったが、
今では日本企業の技術が世界をリードしている

例えば、
福岡にある日本最大の海水の淡水化施設、
「海の中道奈多・海水淡水化センター」
ここでは、
玄界灘の海水を処理して
一日最大5万トンの真水を生産している。
これは、福岡都市圏、25万人分の水になるという。

福岡市は人口が多い割に水源が乏しく、
渇水は日常茶飯事。
その解消のために選択された方法が、
海水の淡水化だった。


逆浸透膜1


逆浸透膜2
(逆浸透膜ユニット/ photo:kazuhiko iimura)


ここで使われているのが、
「逆浸透膜」と呼ばれる特殊な膜。
高圧をかけた海水をこの膜に通すことで、
塩分を除去し、真水だけを取り出す。
淡水の回収率はおよそ60%
つまり10トンの海水から6トンの淡水が生産できる。

コストは、
建設費の減価償却を含めて1トン当たり210円から220円だが、
ランニングコストだけだと、約100円。
平均1トン当たり150円とされる一般的な水道水よりは幾分高い。
しかし、施設の建設費が日本よりも安い海外になると、
一トン当たりのコストはもっと抑えられる。。

逆浸透膜は、
東洋紡、日東電工、東レなどが高い技術を持っており、
現在、
日本企業が占める逆浸透膜の世界シェアは、約7割。

地球レベルで深刻化する水問題に対応するため、
各企業では、
地域の事情に合わせた膜処理技術を構築、
海外展開を加速させている。

東レ、担当部長の説明。
「水源が海に近いところだと海水の淡水化が主に使われるが、
内陸部や、事情によっては下廃水を再利用するという考え方もあるので、
東レとしては、
海水淡水化専用の膜とか、下廃水専用の膜とか、
河川水・かん水用の膜とか、使い方に合わせた膜を開発している」


納豆菌群を使用したブロックで水質浄化も…

福岡県には、
汚れた川や池の底に並べるだけで水の浄化が図れるという、
画期的なブロックを開発した会社がある。

社長は、古賀雅之さん。
古賀さんが水質浄化ブロックの研究を始めたのは20年ほど前。
大手セラミック会社を退社し、
家業のブロック会社を継いだときのことだ。

「池でも非常に汚れたところがあれば、
そこに土を持ってきて混ぜてじっとしていれば、
いつの間にか綺麗になっている。それがヒント。
土の中には浄化する菌が沢山あるというのが最初の発想」

コンクリートブロックは、空気をたくさん含んでいる。
そこに水を浄化する微生物を
生きたまま入れることは出来ないか。

候補となる微生物を何種類も試し、
10年間に及ぶ試行錯誤の末、
最後に辿り着いたのが納豆菌だった。

納豆菌は、強酸性でも強アルカリでも生存し、
環境にも左右されにくい。
さらに、
コンクリートとのマッチングも非常に良かったらしい。

そして出来上がったのが、
納豆菌を含む有用微生物群を使った「エコバイオ・ブロック」。
休眠状態にある納豆菌群は、
水に触れると外へ飛び出し、
大腸菌や水の汚れであるデンプン、タンパク質などの有機物を分解。
同時に悪臭も消えるという。


ブロック(株)コヨウ・古賀さん提供) 


この水質浄化ブロックは、
大掛かりな装置や多額の建設費を必要としないこともあり、
ここ数年、新興国からの引き合いが急増しているという。

2002年にはマレーシアの前首相、マハティール氏が、
マレーシア工科大学の協力のもと、
ナショナルプロジェクトとしてバイオ・ブロックを採用。

2006年から2007年にかけては、
インド政府が、
ニューデリーを流れる河川を使って、
バイオ・ブロックの大規模な性能試験を行なった。

去年7月、
インド政府の中央汚染管理局がまとめた詳細な検査結果によると、
水の汚れを表す指標が、
使用前に比べいずれも低下、30%以上改善された。
浮遊物質の量も60%以上改善。
アンモニア成分も大幅に減り、
バイオ・ブロックに一定の水質浄化効果があると認められた。
さらにインド政府は、
「エネルギーやメンテナンス、大きなプラントなどを必要としない利点がある」とも報告している。


マレーシア1
(マレーシア・古賀さん提供)


「現状から、例えば2割から3割、水の浄化を行なう。
またさらにその後、2割減らす、3割減らす…というように、
徐々に減らしていくという位置づけ。
その後は、もっと高度な処理技術が日本には沢山あるので、
その前段階として使ってもらうには非常にいい」(古賀社長)

インドや中国のバイオ・ブロック導入理由は、
河川の水質浄化という現実的な目的のほかに、
目に見える対策をとることで、
真っ黒に汚れた河川周辺に住む住民に
環境保全意識を持たせる目的もあるという。

どんなに優れた浄化剤や設備・プラントをもってきても、
人間が、
その処理能力を超える勢いで水を汚していたのでは話にならない。
どちらの現場にも、
「バイオ・ブロック導入の理由が書かれた表示」が立ててある。


二羽のかも
(photo:kazuhiko iimura)


地球上に存在する水の量は概ね変わらない。
だから、
使用できる水は、大切に扱う。
汚染された水が、
一夜にしてクリーンな水に変わるとも考えにくい。
身の回りの「水」に注意を払いながら、
気球規模の水環境にも視野を広げて、
ともかく、できることから一日でも早く。
そうしないと、
本当に、取り返しのつかないことになってしまう。


(飯村和彦)

newyork01double at 11:29|PermalinkComments(0) 地球環境を眺めると… | 放送番組

2011年11月03日

Amherst 季節外れの大雪! 数十年ぶりらしい…



「ここに住んで23年になるが、
この時期に、これだけの雪が降って、
これほどの被害がでたの初めてだ」

↑は、
道を挟んだ向かいの家に住む隣人のコメント。
まだ紅葉の時期で、
多くの落葉樹は、枝に沢山の葉を残していた。
そこに今回の大雪。
葉に降り積もった雪は、その重みで枝を折り、
幹も折り、木そのものまでをボキリと折り、倒した。

雪が降り始めたのは土曜日の午後。
それが翌朝まで続いた。
静かな降雪だった。
風はない。
文字通り、しんしんと降る雪で、その眺めは悪くなかった。



降雪の始まり

1




「明日の朝は綺麗だろうね」
そんな会話を子どもたちと交わして就寝しようとした頃、
室内灯が一旦消え、そして元に戻った。
そんなことが一回、二回。
で、三回目に灯りが消えたときは、元に戻らなかった。
停電。確か夜の10時半ごろだった。
仕方なく、家族みんな同じ部屋に集まり、
床に敷いた布団やらベッドに入った。
夜だし、停電だから、もう寝るしかない…。

ところが今度は、
「ミシミシ、バリバリ、ドドーン!」
木の枝が折れ、地面に落下する音だ。
そんな音が、二度三度四度…。
「この部屋、ヤバくない?」
息子の意見だった。
我々は一階の東端の部屋に寝ていたが、
その部屋の上に建屋はなく、大きな木の林立する森のすぐ隣。
すぐに、
「リビングに移ろう!」ということになった。
二階家の一階部分にあたるリビングなら、
大きな木が倒れ掛かっても、「まあ、なんとか…」
強い根拠のある対処方法ではなかったのだが、
まあ、そんな風にして眠りについた。

そして、翌朝。
↓が、数十年ぶり、
季節外れの大雪後の風景だ。




枝に積もった雪

雪6





雪の重みで木々が…

雪4





倒れた樫の木

雪9





眉毛の形に撓んでしまった木

雪3





大木が倒れ道をふさぐ

雪11




我が家の停電は、運良く日曜日の夜には復旧した。
ただし、火曜日の段階でアムハースト市内の約6割の世帯は停電のまま。
水曜日(11月2日)の今日段階でも、多くの家で電気が止まっている。

子どもたちの通う中学校、高校は、週明けの月曜日からずっと休校で、
木曜日も、そして金曜日も「休校」のまま。
スクールバスの(決められた)通る道のうち、
10のルートがまだ通行できない状態らしい。
尚且つ、電気などの復旧に時間が掛かっているのと、
上から落ちてくる可能性のある「大枝」に注意が必要なためもある。
多くの大木の枝には、「折れた大枝」が沢山引っかかったままで、
それがいつ頭上に落下してくるとも限らない。
確かに、我が家の周りにも何本もそんな木がある。




雪と紅葉

雪7




ともかく、
ものごとが落ち着くまでには、もう数日必要ということらしい。
紅葉と雪…。
風景は美しいのだが、生活への影響は大きかった。
そうそう、
10月31日のハロウィンは、来週の日曜日に「延期」になった。(そんなものなの?)
市役所からの連絡である。
子どもたちと「売れ残っていたカボチャ」には朗報…。



(飯村和彦)

newyork01double at 08:02|PermalinkComments(0) 世界の風景 | マサチューセッツ州・Amherst

2011年09月06日

再考9.11テロ・予見されていた悲劇の裏側



2001年9月11日
米国同時多発テロで犠牲になった人の数は2973人。

ある人は迫り来る死の恐怖と闘いながら、
そしてある人は、
悲鳴をあげる間もなく、
その命を落としていった。



メモリアルタワー
[photo:kazuhiko iimura]



あれから10年。
ニューヨークの現場では今、
「9.11メモリアル」
(=The National September 11 Memorial & Museum)の建設が進んでいる。
けれども、
この場所を訪れる多くの人は、
いまだに、
かつてそこに聳えていた“アメリカ経済の象徴”、
世界貿易センタービルの幻影を見ているに違いない。



機影
[photo:kazuhiko iimura]



2001年9月11日、晴天。
あの日…
悲劇は、以下のようにして幕を開けた

アメリカン航空11便が、
世界貿易センタービル北棟に急接近

午前8時45分
アメリカン航空11便、世界貿易センター「北棟に激突」

午前9時3分
ユナイテッド航空175便、「南棟に激突」

午前9時43分
アメリカン航空77便、「ペンタゴン(国防総省)激突」

午前10時00分
世界貿易センター「南棟が崩壊」

午前10時6分
ユナイテッド航空93便、「ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落」

午前10時29分
世界貿易センター「北棟が崩壊」



マンハッタン、縦位置、空撮
[photo:kazuhiko iimura]



あの同時多発テロの実像を求めるために、
時計の針を、
9.11テロ発生の約8ヵ月後、2002年5月頃に戻してみる。

悲劇を冷静に見つめ直す機運が高まりはじめたこの頃、
多くのアメリカ国民やメディア、議会の目が、
ある方向に向けられはじめた。


テロは本当に防げなかったのか?


多くの人の胸の中に沸いたこの疑念は、
次第に大きなうねりとなって、
ブッシュ政権(当時)に向けらるようになった。

ダイアン・ファインスタイン上院議員(当時)
「大きな疑問の一つは、アメリカ国内での諜報活動の問題です」

ヒラリー・クリントン上院議員(当時) 
「ブッシュ大統領は全ての疑問に答える必要はありませんが、
幾つかには必ず答えるべきです。
特に“テロの事前情報があった”ということを、
どうして私たちが、きょう、5月16まで知らされなかったのか」

そのどれもが、
ブッシュ政権は、テロ事前情報を持っていたにも係わらず、
9.11テロを阻止できなった。
その理由を明らかにせよ!
…というものだった。


真相はどこに?


ブッシュ政権に向けられたこの大きな疑問にたいして、
長年、テロ対策の現場で捜査活動、諜報活動にあたっていた、
FBI、CIAの元幹部たちはどう応えるのだろうか。


FBI元特別捜査官、スミス氏は…

「国内でテロが起きる可能性を示す警告は、全部すぐそこにあった」

では、
もしそうであるとすれば、
なぜ、悲劇を避けられなかったのか?

「事件を未然に防ぐために諜報活動をしますが、
それを嫌がるFBIの性格が、
致命的なミスを引き起こしたのです」
(FBI元特別捜査官、スミス氏)

長年にわたり、
アメリカにおけるテロ対策の指揮にたっていた
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「一連のテロの最終的な狙いを見抜けなかった点では、
CIAも同罪です」


2002年に入り、
米国議会では、
テロ事前情報についての大規模な調査が開始されていた。

そのきっかけとなったのが、
「フェニックス・メモ」と呼ばれる捜査報告書。
2002年5月、
連邦議会の調査で、その存在が明らかになったものである。
(参考:ニューヨークタイムズ記事)

報告書を作成したのは、
FBIフェニックス支部のケネス・ウィリアム捜査官。
その内容は、9.11テロ発生の2ヶ月前、
つまり2001年7月の段階で、
ワシントンのFBI本部や
アルカイダの動きを追っていたニューヨークのテロ対策部門にも送られていた。

「報告書(フェニックス・メモ)」の内容について、
CIA元テロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ウィリアムFBI捜査官は報告書の中で、
フェニックス近郊のアリゾナ航空学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだと提言しています」

その理由として、
イスラム教過激派と思われる複数の中東系男性が
アリゾナにある飛行学校に入学している事実を指摘。
彼らの追跡調査により、

ビンラディンの信奉者が、
パイロットなどの人員として
民間航空システムに侵入しようとしている」

と断定していた。

ところが…

そのアリゾナからの報告書「フェニックス・メモ」を、
ワシントンのFBI本部も、
ニューヨークのテロ対策部門もまったく無視し、信用しなかったのだ。
当然、
その情報がCIAやホワイトハウスに送られる事もなかった。

ダッシェル下院内総務(当時)  
「FBI本部がどうしてその情報を不要としたのか、まったく理解できない」

「フェニックス・メモ」が見過ごされていたという事実は、
テロの遺族たちに、
新たな苦しみを与えることとなった。


しかも、FBI本部の失態は、これ一つだけではなかった。


実は2001年8月、
ミネアポリスでも、
現場のFBI捜査官たちが、一部のテロ実行犯たちを追いつめていたのだ。

この事実は2002年5月、
FBIミネアポリス支部の女性捜査官、
ロウリー氏の告発によって明らかになった。

13ページに及ぶ告発書簡の中で、
ロウリー氏は、

「9月11日のテロ実行犯の一部を、
事前に摘発できた可能性をFBI本部が握り潰した」

と訴えている。

告発の内容は、
テロ計画に関与したとして、
9.11テロ直前に逮捕、起訴されたムサウイ被告をめぐるものだった。

ムサウイに関する通報に対応したミネアポリスの捜査官は、
“彼がテロリストである可能性がある”と、初動捜査の段階から確信していました」
(告発書簡より一部抜粋)

2001年8月15日(=同時多発テロ発生の約一月前)
FBIミネアポリス支部は、地元の飛行学校から、
「小型機の操縦も出来ないのに、
ボーイング747の水平飛行のみの訓練を要求する不審な男がいる」
との通報を受けた。

8月16日
移民局が入国管理法違反でムサウイを逮捕

その直後、FBIミネアポリス支部は、
テロ防止関連で、
ムサウイの所持品などについて捜索令状を取ろうしたが、
この申請をワシントンのFBI本部は却下したのだ。

この件に関して、
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「これはムサウイのコンピューター通信と
電話の盗聴をするために必要な裁判所の許可の事ですが、
証拠不十分ということでFBI本部は、
この申請を却下したのです」

この時、ワシントンのFBI本部に提出された
ミネアポリスの捜査官のメモには、

「ムサウイは、
大型航空機を乗っ取って、世界貿易センタービルに突っ込むつもりだ!」

とまで書かれていたのだ。

以下に、
ロウリー氏の告発書簡の一部を紹介する、

「運が良ければ、
9月11日以前に、
飛行学校にいた一人以上のテロリストを発見できた可能性がありました。
テロを防げたかどうかは分かりませんが、
少なくとも…
9月11日の人命の損失を小さく抑えるチャンスはあった筈です」

だが、
これらのテロ事前情報が、
同時テロを防ぐために生かされる事はなかったのだ。

元FBI特別捜査官のスミス氏は…       

「ミネアポリスからFBI本部に届いた情報は驚くべき内容で、
通常のものとは全く違っていました。
しかし、
“分析に余計な時間をかけるな”…というのが
事件が発生してから行動を起こす事に慣れていた
FBIテロ対策本部の考え方だったのです。
つまり、
テロを未然に防ぐ努力が足らなかったのです。

さらに、
もう一つの要因があります。
これは捜査当局に共通する問題点で、
多分、日本の警察庁も同じ問題を抱えていると思います。

それは、
全国規模の捜査組織は、
どうしても大きな支部からの情報を優先してしまうのです。

つまりFBI本部では、
"ミネアポリスの現場の捜査官に何が分かるんだ!"
と感じていた部分があると思います。
テロ対策タスクフォースが設置されているニューヨーク支局や、
海外テロ関係の捜査経験が豊富な
ワシントンDCの捜査官から上がった情報ではなかったので、
"ミネアポリスやフェニックスで燻っているような素人に何が分かるんだ!"
という気持ちがFBI本部にはあったと思います」


それでは
ホワイトハウスやCIAの方はどうだったのか?



ホワイトハウス
[photo: noa iimura]



ブッシュ大統領は、
“同時テロに関する事前情報は一切なかった”
という立場を一貫して取っていた。
しかし、
これがウソだった事が連邦議会の調査で明らかになったのだ。
                    
2001年8月6日、ブッシュ大統領は、
「ビンラディンが、アメリカ国内でハイジャックを計画している」
との報告をCIAから受けていたのだ。

この件に関して、
ライス大統領補佐官(当時)は以下のように弁明した。


「アルカイダが飛行機を何機も乗っ取って、
それをミサイル代わりにして、
世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むなんて、
だれも予想できなかったと思います。
大統領への報告は、従来型ハイジャックについてでした」


しかし、
もしそれが本当だとしたら、
“それこそ由々しき問題だ”と
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は憤る。

「彼女(ライス大補佐官)は間違っている。
9月11日のテロの前兆となる、
ハイジャックした民間航空機で建造物に突入するというテロ計画は、
以前、実際に計画されていたのだから」

CIAテロ対策センターの元上級分析官のベドリントン氏も…

「ボジンカ計画と呼ばれるテロ計画があった。
1995年に、この計画が発覚したのは、全くの偶然だったが…」


9.11テロの6年前の1995年
CIAやFBIは既に、
アルカイダ一派が、
航空機を使った自爆テロ計画を持っているという事実を掴んでいたのだ。


暗号名・ボジンカ
いったい、どんな計画だったのか?



航空機
[photo:kazuhiko iimura]



1995年2月、
一人の男がフィリピンからニューヨークへ空路、移送されてきた。
男の名はラムジ・ヨセフ (注:ラムジ・ユセフとも表記される)

ヨセフは、
マンハッタン上空から世界貿易センタービルを眺めながら、
FBI捜査官の問い掛けにこう答えた。

FBI捜査官:「見ろ、世界貿易センターはちゃんと立ってる」
ヨセフ:「もっと金と爆薬があったら倒すのは簡単だった」

実はこのラムジ・ヨセフこそが、
1995年のボジンカ計画の首謀者であり、
また、
その2年前の1993年に発生した、
最初の 世界貿易センタービル爆破事件 の犯人でもあった。


では、
問題のボジンカ計画とは、
どんなテロ計画だったのだろうか。
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ラムジ・ヨセフは、
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで極東に運行しているアメリカの民間機を含む、
数機の民間旅客機を同時爆破する計画でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります」

アジア、アメリカ間を飛ぶ
11機の旅客機を狙った同時爆破テロ。

しかもそのほとんどが、
9.11テロと同じように、
アメリカン航空やユナイテッド航空など、
アメリカの旅客機を狙ったものだった。

【9.11テロ取材ノートより】


手向けられた花1
[photo: noa iimura]


(飯村和彦)


newyork01double at 09:45|PermalinkComments(0) テロとの戦い | 取材ノートより

2011年03月01日

日本の「記者クラブ」というものについて



引越しに備え、
昨晩、過去の取材資料の整理をしていたら、
とっても興味深い書類がでてきた。

「記事解禁
新聞、テレビ・ラジオ
5月28日 17:00」

書類に押された赤のスタンプ。
そこに、これまた赤字で記された注意書き。



行革2
(photo:kazuhiko iimura)



(↑)この書類は、1997年5月28日に開かれた
政府(内閣府だったか…)主催のある会議で配られたものだ。
書類の内容は、当時の橋本内閣(自民党)が力を入れていた
「行政改革会議」の進捗状況を省庁毎にまとめたもの。

会議の出席者は、新聞・テレビ・ラジオの編集責任者たちで、
具体的には、新聞なら「編集主幹(=社説を書くような人)」、
テレビ・ラジオなら「編集長(又は報道局次長)クラス」で、
各々、自社の報道内容に直接責任を持つ立場の人である。

当然、私(=Bloomberg TV 統括プロデューサー・当時)と
Washington Post の担当者(=多分、東京支局長)を除けば、
すべて、各省庁で「記者クラブ」に所属している報道機関だ。

私たち「海外メディア」は、ある経緯から、
その会議に「オブザーバー」として参加していた。

会議の司会(=主催者)は橋本首相の補佐官だった国会議員。
そこでは、各「記者クラブ」メディアの責任者に、
その日の夕方に「報道解禁」される内容について説明がなされる。
その後、意見を求めた上で、
「くれぐれも宜しく…」とメディア側に関係資料が渡される。

通常であれば、行政関係の報道資料は省庁ごとに、
「記者クラブ」を通じて配られる(=多くの問題をはらんだシステム)。
ところがそれとは別に、
各メディアの編集責任者を全員集め、
謂わば、“因果を含めるように…”関係資料を配布していたのだ。

政府(=行革会議)が提示した内容について、
どんなスタンス、視点で報道するかは各報道機関の判断だが、
政府側としては、少しでも「(いい)影響」を与えたかったのだろう。
ある種、「部外者」としてその会議に出席していた自分としては、
たいへん興味深い光景だった。

また、会議を主催している政府側、
そして出席しているメディア側の双方に、
“この会議室の大机を囲んでいる報道機関が「主流」なのだ”
という暗黙の了解のようなものがあったのも気になった。
この国の記者クラブ制度ってやつの最悪なところだ。

では、そんな「偉い人たち」(…当然、皮肉です)の会議に、
どうして「部外者」である海外メディアが参加していたのか。
増してや当時、日本ではまったく認知されていなかったBloomberg TVが…。
その「経緯」は、以下のようなものだった。

そもそも、Bloomberg TVなどと言われても、当時(…もしかすると今でも)
金融業界の人以外は、ほとんど知らなかった筈。
簡単に説明すれば、
ニューヨークに本社がある
Bloomberg News(=金融・経済情報に特化した通信社)が、
日本での知名度を上げるための手段として、
「24時間ニュース放送」を衛星(CS)放送で開始した。
それが1996年(試験放送期間も含む)。

私はといえば、
日本テレビのワシントン支局にいた方(=日本法人社長)と一緒に、
放送の立ち上げ業務から関わった訳だが、
想像通り、これがそう簡単なことじゃない。
ニュース映像の大半はテレビ朝日から買っていたが、
当然ながら、独自取材分も多く入れていく必要がある。
だが、放送局の性格上、
やれ事件だ、スポーツだ…という部分に重きを置く訳にもいかない。
やはり、政治・経済が主体になるから、
当然、永田町や霞ヶ関への取材が必要になってくる。

それまで日本の放送局の報道番組にいたので、
「まあ、今までと同じようにやればいい」
と考えていたのだが、これが甘かった。
立場が変われば全てが変わるという「定理」を忘れていたのだ。

そうです。察しのいい方はもう分かりますね。
そこで壁になったのが「記者クラブ」。
(注:東京証券取引所にある兜倶楽部だけは例外で、
ここはBloomberg Newsが申請したらすぐに入れてくれた)

無名の海外メディア「Bloomberg TV」では、
各省庁で開かれる会見を取材するのも一苦労。
いちいち記者クラブの幹事社に「取材願い」の連絡を入れ、
「お許し」を貰わなければいけない。
で、大抵は「じゃ、オブザーバーで」
ということになるのだが、
「オブザーバー」=「質問は許されない」

だが、
無名の海外メディアを「永田町・霞ヶ関」で認知させるには
取材実績(=あちこちに出没)を積み重ねるしかない訳で、
機会を見つけては各省庁に取材カメラを入れ、
一人でも多くの政治家にインタビューするということを繰り返した。

一方、海外の大手テレビ・新聞や大手通信社はといえば、
日本語で日本国内向けに24時間ニュースをやる訳ではないので、
当時のBloomberg TVのように「ガツガツ」取材する必要はない。
だから、「記者クラブ」に対する立ち位置も当然ちがっていて、
最近の「自由報道協会」(仮)の活動のように、
“みんなで記者クラブと闘い、問題を解決しよう”
という空気にはならなかった。
その意味でも今の「自由報道協会」(仮)の活動は評価すべき。

(備考:ただし、調査・検証報道など独自取材をしている場合は、
大事な案件を記者会見などで“質問”することは、まずしないので、
その意味においては、“どんな取材活動をしているのか”によって、
当然、記者会見の位置づけが違ってくる)

さて、
上記したような「あちこち出没作戦」を数ヶ月続けた結果、
ほとんどの省庁にある記者クラブで、
それなりに「Bloomberg TV」は知られるようになり、
たまにある代表取材で、
「国内記者クラブから一社」、「海外から一社」などという場合は、
海外からの一社として、“質問してもいい”権利をゲットしたり。
(…聞こえはいいが、大抵の場合、他の海外メディアはきていない)

そんなこんなの経緯があって、
冒頭に書いた、場違いの、
日本の「主流メディアの責任者」が一同に介す会議への参加となった。
直接のきっかけは、その数週間前に、
会議の主催者である首相補佐官への単独取材をしたからで、
そこで、
「定期的に編集主幹会議を開いているから、そこに参加したら」
という話になったのだ。

あの会議が14年前。
私はその後、Bloomberg TV の「社内文化」が肌に合わず、
一年弱で当時の(日本法人の)社長と共に退社して、
“古巣”に戻ってしまったので、偉そうなことはいえないが、
少なくとも、
海外のメディアでも、
日本の「記者クラブ」を要領よく使えば「実」を得られるのだという、
一つの方法を実践できたと思っている。

けれども、
あれから14年たった現在でも日本の「記者クラブ」は、
当時のままの「姿」で存在している。
どんな組織にも良いところと悪いところがある。
それを踏まえた上でも、
やはり、今の記者クラブ制度は問題を抱えている。
全ての取材者に開かれた場を…。
それしかないだろう。

一方、
時代の流れというものは早いもので、
衛星(CS)放送や一部のケーブルテレビジョンなどで放送していた
Bloomberg TV の日本語放送は、
2009年の4月末をもって終了したという。
スタッフの出入りの激しかった会社ゆえに、
思い出す顔は数少ない。
けれども、
昔、一緒に仕事をした人物の名前を、
Bloomberg Newsの記事(ネット)で見ることがある。
いまだに頑張っている人がいると思うと、
少しだけ、嬉しくなる。


(飯村和彦)

newyork01double at 15:30|PermalinkComments(0) 東京story 

2011年02月07日

ひど過ぎるアメリカ「銃犯罪」



またアメリカで「銃」による乱射事件である。
6日。オハイオ州の州立ヤングズタウン大学の近くにある
学生寮で銃乱射事件があり、
学生1人が死亡、学生6人を含む11人が負傷したという。

今年1月には、アリゾナ州トゥーソンで男が銃を乱射し、
連邦判事と9歳の少女を含む6人が死亡、12人が負傷したばかり。
この事件では、
同州選出のギフォーズ下院議員が頭に銃弾を受け、重体になった。

「1日に約40人が射殺され、
3分に1人が銃で傷ついている。
それがアメリカの姿だ」

これは1993年のアメリカ。
しかし、そんな状況が「改善」されたという話は聞かない。
1999年には、13人の犠牲者をだしだ
コロンバイン高校乱射事件も発生。
銃による凶悪な犯罪は今日にいたるまで、まったく減っていない。



ガン



「誰も自分を守ってはくれない。
だから、自分の命は自分で守るしかないんだ。
銃? 当たり前さ…。
だってみんなが銃を持っているから。
撃たれる前に撃つ、
それがこの国の正当防衛なのさ」


5ドルの金、踏まれたスニーカー…
そんな些細な理由でも人が殺されいく。


「拳のケンカ? 冗談じゃないぜ。
そりゃ昔の話だ。
そんな事してたらアッという間に後ろから撃たれてお陀仏さ。
殺られる前に殺る、それには銃が必要って事さ」

かつて、
ロサンゼルスの少年ギャングの取材をしたとき、
少年たちは、そういってうそぶいた。

銃社会アメリカ。
その数は、2億丁以上といわれている。
この数字には警察や軍隊が持っている銃は含まれていない。

まずは、歴史的な背景を確認しよう。

開拓時代のGun 所持者は、主に裕福な人たちだった。
彼らは自分の土地や財産を他の侵入者や盗賊から守るため、
Gun(ほとんどがライフル) を買った。
なぜなら、この時代の警察システムは、
田舎の広大な地にあっては往々にして無力であったからだ。
南部アメリカに於いては、
現在でもこれと似た考えを持つ人たちが多い。

また、アメリカの政治的伝統にあっては、
銃を持つ事は、
自己を防衛していく上でのごく自然な権利であると考えられてきた。
多くのアメリカ人は市民が武器を持つ事が、
政府の圧政から自分たちを守っていく基本であると考えている。

市民戦争に於いて、
民主主義の名のもと、
市民が武器を持って政府に立ち向かった精神からきている。

しかし、
時代と共にアメリカ国民が銃を買う理由、
及びその種類も変わってきている。

連邦政府のデータによると、
1950年代後半に於いては、
そのほとんどが狩猟目的のライフルやショットガンで、
ハンドガンの割合は、
当時の年間売上 200万丁の約5分の1に過ぎなかった。

全米で犯罪が多発し、
各地で暴動や暗殺事件が発生するようになった1960年代になると、
銃の売上も急上昇し、1966年には 300万丁。

Martin Luther King、Robert F. Kennedy が暗殺された、
1968年には 500万丁に達した。
この銃の売上増加の原因が、
ハンドガンの割合の増加にあった事は言うまでもない。

50年代末、その数が50万丁であったハンドガンが、
70年代初頭には年間 200万丁にまで膨れあがった。
現在では、
アメリカ国内で買われている銃の二つに一つは、
ハンドガンという事になっている。

手軽に扱える銃が、
全米に溢れているということだ。



ガン2



1990年代になると、
少年たちの好むGunも小さい型のものになっていった。
『nines』と呼ばれる、
9mmのセミオートマチック銃が人気の的だった。

少年たちに言わせれば、
Tシャツの下でも目立たないこの“nines ”は、
夏用の銃として最適なのだそうだ。
おまけにとっても性能がいいらしい。

だが当然、その分値段も高く、
ストリートでは高値で売買されている。
よって、こんなGunを手にしているのは、
少年たちの中でも『crew』と呼ばれる麻薬や銃のディーラーや、
脅し・恐喝・殺人で金を得ている少年ギャングたち。

真新しいスニーカーを履き、
BMWを乗り回し、
金のネックレスやブレスレットを輝かせ灰色の街を闊歩する。

彼らは、普通の(?) 少年たちの憧れの的だ。
だから、『crew』のメンバーではない少年たちも、
Gunを持ち始めるようになる。

「何でGunが必要かって? 
そりゃ他の連中がみんな持ってるからさ。
格好いいし、強くなった気分になる。
それに、いざという時、
殺られる前に自分を守るにはGunしかない」

これが少年たちのごく普通の反応だ。
『crew』のメンバーにしてみれば、
Gunは簡単に金を稼ぐ最高の道具であり、
ケンカや抗争にあっては不可欠な武器だ。

一方、『crew』のメンバーではない少年たちにとっては、
Gunはファッションであり、
架空の力を他人に保持する為の道具でもある。

彼らは、crewの真似をして、
自分が、
『down』( “格好いい”の意味)な人間になった錯覚を楽しみ、
時には銃を見せびらかせて、
さもcrewのメンバーであるかのように振舞ったり。

「もし俺に何かしたら、
俺のバックにいるメンバーが黙っちゃいないゾ!」
という風に…。
これも自分の命を守っていく一つの方法だ。

『crew』のメンバーになる為には、
“人前で見ず知らずの人間を撃つ事”が条件である。
すると、「奴は本当にイッちまってる!」という、
『rep』(=reputation:評判の略。
殺人や強盗・麻薬などを評価する時に使われる)
が得られ、crewのメンバーになれるのだという。


では、連中は、どうやって銃を手にするのか。


一つが銃規制の緩やかな州から街に持ち込まれた銃を、
ディーラーを通してStreetで買う方法。
人気の9mm semiautomatic から
Saturday Night Special(小型で少年が最初に手にするような銃) 、
T字型の MET Machingun や 、
AK-47 のような大型の銃までなんでも揃う。

もう一つが、
殺されたり、逮捕された仲間が持っていた銃を回してもらう方法。
こちらも、その種類と量には事欠かない。

これらのGunは、
新品から中古まで様々な値段で売られているが、
基本的に、
何人もの人を殺しているGunは安い。
何故ならその銃を持っていて逮捕された場合、
前の持ち主の殺人まで一緒についてくる事になるからだ。

「Gunはユニホームになっている。
野球をしていた時グローブが必要だったように、
今の彼らにはピストルが必要な訳だ」

これは、ロスで取材したあるGunプログラムのカウンセラーの言葉だ。
「彼らの世界では、スニーカーを踏んだだけで、
すぐに銃でパンパンパンという事になってしまう」

“口は災いのもと”という言葉があるが、
彼らの間では口はすぐ Gun Shot に繋がる。
相手への罵詈雑言のことを彼らの言葉では『Beef』と呼ぶが、
この『Beef』がすぐに、
「Yo! whachoo doin',Pow Pow Pow …」という事になり、
ゴロリと死体が地面に転がる。

ファッションで銃を持ち、
ラップを聴きながら、
ビルの屋上でネズミを撃って遊んでいるような少年でも、
こういい放す。

「俺は今まで人に銃を向けた事は無いし、
これから先も向けようとは思わない。
でも、誰かが俺に銃を向けてきたら、
俺は撃つ。
もしそうなったら、
俺の人生がみんな変っちまうだろうから、
考えたくは無いが…」と。

けれども、
こんな少年でも、
実際に銃を人に向けるようになるまでに、
そう時間はかからない。



スクーター


 
1968年、
ロバート・ケネディはこう演説した。

「現在のアメリカが抱えてる最大の問題は、
溢れるGun とそれによる犯罪だ」

しかし、
彼は、この演説の翌日に暗殺された。
あれから43年。
銃社会アメリカは、
いまだに、思考停止状態にあるようだ。


(飯村和彦)

newyork01double at 15:58|PermalinkComments(0) 取材ノートより 

2010年11月01日

阿川弘之氏の「山本五十六」に登場する興味深い人物



ある訳があって、
阿川弘之さんの書いた「山本五十六」を読んだ。
山本五十六という人物について、
個人的には、さほど興味を持っていなかったので、
この本では、山本五十六以外の登場人物が気になった。

そのような理由で、
以下に、「山本五十六」の中から二人を紹介しよう。


扇風機(娘・作)


まず、本の中で、
海軍霞ヶ浦航空隊における
搭乗員の適性検査に関する記述に登場する人物。
順天堂歴史課卒、水野義人。
水野は、手相骨相の専門家だった。

当時、海軍航空隊では、
何年もかけて隊員の適性を判別していた。
ところが水野は、たった5、6秒、
隊員の手相骨相を見るだけで適性を見抜き、
尚且つその結果は、
80%以上(83%)の確実性だったという。

水野義人は海軍航空本部嘱託となり、
練習生、予備学生の採用試験に立会い、
手相骨相をみることになった。

水野は、適性を甲、乙、丙の三段階で評価。

海軍が水野の観相術を利用した方法は、
飛行機乗りの選考にあたって、
学術と体格が共に甲であり、
さらに、水野が「甲」をつければ、
それを最も優先させるというやり方だった。

水野は山本五十六の手相も見たが、
山本の特徴は、
俗に天下線と称する、
秀吉の持っていたものと同じ線が、
中指の付け根まではっきり一直線に伸びていた。
途中で職業を変わらずに、
最高位まで行く人の相だというのが、
水野の説明だったという。

水野は戦後、司法省の嘱託となり府中役務所に勤務。
犯罪人の人相研究をしたが、
間もなく進駐軍司令部の一声で免職となり、
小松ストアの相談役になり、
店員の採用や配置に関し、助言する仕事についた。


もう一人は、
ハワイ真珠湾作戦の草案を書いた人物について。

昭和2、3年ごろ、
海軍大学校を出たばかりの少佐、草鹿龍之介が文書にした。
当時草鹿は、霞ヶ浦航空隊教官兼海軍大学校教官。
担当は航空戦術。

「第一次大戦後、飛行機が戦いの主力になりつつある。
アメリカ太平洋艦隊を西太平洋におびき出して、
日本海海戦のような艦隊決戦を挑むのが、
帝国海軍の対米戦略の基本だが、
もし相手が出てこなかった場合は、
向こうの最も痛いところ、
ハワイを叩いて出こざるを得ないようにする必要がある。
そしてハワイ真珠湾軍港を叩けるものは、
飛行機よりほかない」

というのが骨子だった。
それをその後、
所謂、「真珠湾攻撃作戦」としたのが山本五十六。

山本五十六は、海軍罫紙9枚に、
「戦備ニ関スル意見」という一書を、
海軍大臣の及川古志郎に送り、
その中で初めて公式にハワイ攻撃の構想を示した。
それは、
昭和16年1月7日のこと。
草鹿がその着想を得て、
ハワイ攻撃案を書いた14年も後のことである。

余談(…ではないか)だが、
アメリカのジョセフ・グルー駐日大使は、
1月28日(推定)の国務省への機密電報で、
日本の真珠湾奇襲がある得ることを本国に警告した。

「駐日ペルー公使の談によれば、
日本側を含む多くの方面より、
日本は米国とことを構ふ場合、
真珠湾に対する奇襲攻撃を計画中なりとのことを耳にせりと。
同公使は、計画は奇想天外の如く見ゆるも、
あまり多くの方面より伝えられ来るをもって、
ともかく知らせすとのことなりき」


(飯村和彦)


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2010年10月21日

筑波山、そろそろ紅葉か?



生まれ故郷。
うさぎお〜いし…
ふるさと。
田舎。
安らげる「環境」


筑波


疲労困憊。
本日は、
母なる山を眺めて、
就寝か。
「父なる山…」とは、
言わないなあ…。

やっぱり、
母は、
母なる大地だから…。


(飯村和彦)


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2010年07月14日

龍馬、晋作、歳三…彼らの武士道とは!



「幕末武士道、若きサムライ達」
山川健一氏の本。
そのタイトルに惹かれて即座に購入した。
巻末を見ると2004年8月初版。
つまり、6年ほど前に出版された本なのだが、
歴史もの故、無論色あせることはない。
幕末・維者の人物や出来事について、
「武士道とはなにか!?」という命題の元、
大変興味深く記されている。



武士道 山川健一



例えば坂本龍馬の武士道。
(大政奉還が成就するか否か)龍馬は二条城からの使者を待っていた。
徳川慶喜が大政奉還する気がないのなら、
流血討幕あるのみだと思っていた。
そこへようやく知らせが届いた時、
龍馬は畳みに突っ伏して泣き、声をあげてこういった。

「将軍今日の御心、さこそと察し奉る。
よくも断じ給えるものなか、
よくも断じ給えるものかな。
予は誓ってこの公のために一命を捨てん」

これこそが坂本龍馬の武士道であった、と山川氏は書く。
そこには強力な人間的な魅力があるのだという。
これは高杉晋作にも、土方歳三にも、
吉田松陰にも久坂玄瑞にも、
西郷隆盛にも共通することであり、
だからこそ、同じ日本人でありながら、
彼らはあんなにも遠くへ行くことができたのだという。

「彼らとて、特別な超人ではなかった。
悩み、苦しみ、臆病な自分を叱咤激励したにちがいない。
だから、何かを信じる気持ち。
誰かを愛する気持ちが、
幕末武士道の限界を遠くてまで広げていったのではないか」

そして山川氏は続ける。

「武士の徳目は、忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、
潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛である。
どれも意味深い言葉である。
そしてこれらの理念すべての上に成立した幕末武士道の本質とは、
愛することだったのだ」

さらに、

「彼らが信じたそれぞれの武士道には、
今のぼくら日本人が失ってしまった
とても大切なものがあったのではないだろうか。
とにかく、
敵も味方もなく力を合わせて新しい時代を切り拓くのだ、
そうでなければ日本という国が滅びてしまうという
…ぎりぎりの場所で彼らは動いた。
平成の日本に生きるわれわれも、
ぎりぎりの場所に置かれている意味では幕末と変わりはない」

僕らの胸の中には、幻の刀がある。
誰しもが心の闇の中で光る刀を持っている。
その刀がぼくたちに教えてくれる大切なことは、
以下の五つなのだと山川氏はいう。

その一。死の一点を置き、そこから限りある生を無限に照らしだすこと。
その二。日本の自然の懐に抱かれること。
その三。一身一命をなげうって人を愛すること。
その四。『公』という視点を持つこと。
その五。文武両道を実現すること。

そうすると、

「やがて、他とは交換不可能な、
かけがえのない自分だけの武士道が魂を支えてくれるようになるだろう」

同感である。
特に「公」のあり方が問われている昨今、
心の中の刀の教える「思想」をきちんと見すえる必要があるのだと思う。

この本では、
岡倉天心のある言葉が象徴的に紹介されている。

「もしわが国が文明国となるために、
身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないのだとしたら、
われわれは喜んで野蛮人でいよう」

大切な言葉だ。
この言葉に寄り添って生きる。
多分それが、
恒久平和を希求するわれわれの生き方なのだろう。

「戦略核?」
「戦術核?」
「抑止力?」

いったいなんの為に必要なのだろう。
人類を破滅させるため?
大切なことは、理屈ではない。
「志」の問題のような気がする。
ひとりひとり、志が高ければ、
「野蛮人」でもいいじゃない?
卑劣な戦争をするより、余程いい。


(飯村和彦)


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2010年05月05日

坂本龍馬と千葉さな子(佐那)の墓



このところの「歴史」ブーム。
本屋をのぞけばその特設コーナーに、
戦国から近代、現代に至るまでの書籍がズラリと並ぶ。
福山さんが主役を勤める大河ドラマの影響だろう、
特に坂本竜馬の関連本は凄い。
司馬さんの「竜馬がゆく」などの有名なものから、
“図解・竜馬”的なブームに便乗した「お手軽本」まで、
それこそ何種類もの本が山積みになっている。

もちろん、いいこと。
多くの人が歴史に興味をもって、
この日本という国の成り立ちに思いを馳せることは大切だ。

最初はそれこそ土佐藩の「坂本竜馬」でいいじゃない。
そこからスタートして、
長州の「高杉晋作」、越後の「河合継ノ助」
新撰組の「土方歳三」、最後の将軍「徳川慶喜」、
穢多頭「弾左衛門」、幕府医官「松本良順」。

英国公使館通訳「アーネスト・サトウ」
孝明天皇や明治天皇、
終戦時の首相「鈴木貫太郎」等々へ、
興味の幅が広がっていけばいい。
そうなれば、さらに微細で専門的なところにも入っていける。

明治維新って?
近代化で得たものと失ったものは?
「統帥権」って?
陸軍の暴走って?
占領軍GHQの「G2」、「GS」の役割は?

いつの時代のどんなところを起点にしても構わない。
そこから縦横に歴史の世界を探検する。
するとどうだろう。
面白いことに、そうすることで歴史だけではなく、
「今」がくっきりと浮かび上がってくる。

現代を知ることは歴史を知ること。
歴史を知れば現代が分かる。
言い古されたことだけど、これって真実で本当に興味深い。

さて、
そんなこんなをダラダラ述べたところで本日の本題。
「私は坂本竜馬の婚約者だった」
と生涯いっていたといわれる千葉さな子について。
↓の写真は、彼女の眠る長野県にある墓。
場所は、甲府市にある日蓮宗清運寺である。



千葉関係



では、千葉さな子とはいったいどんな女性で、
坂本竜馬との関係はいかなるものだったのか。
この件についてはそれこそ数多くの本に書かれているから、
それぞれが好きなものを参照にすればいい。

という訳で、
ここでは司馬遼太郎さんの「余話として」から、
千葉さな子について記述したところの一部を…。



余談として



以下、「余話として」より抜粋

…剣の千葉家には、周作の神田お玉ヶ池道場と、
周作の実弟定吉の桶町道場とのふたつがあり、
たとえば坂本竜馬はその桶町千葉の塾頭であった。
…竜馬と千葉家(定吉)の娘さな子との交情について…

…竜馬は桶町千葉で剣を学んだが、ほとんど千葉家のい家族同様に待遇され、
のち諸国を奔走しているときも、
江戸にきればかならずこの千葉家を宿にした。
自然のなりゆきでさな子は竜馬に好意をもったが、
竜馬もむろん同様だったにちがいない。

かれは技能をもった才女がすきで、
それからみればさな子は娘ながら北辰一刀流の免許皆伝の持ち主である。
ところがこの恋は結ばれなかった。
竜馬はその若い晩年、最後に江戸を発つとき、
さな子から胸中をうちあけられ、
かれもおどろいた。あるいは驚いたふりをした。

なぜならば、竜馬は妙に艶福家で、
このときすでに京において「おりょう」という娘を得ており、
これを結局は妻にした。
という事情から、その事情をうちあけられもせず、
かといって恩師の娘をいたぶることもならず、
窮したあまり、

「自分は危険な奔走をしている。いつ死ぬかわからず、
だから結婚ということは考えられる境涯ではない」
と婉曲にことわり、
「しかしうれしい」などといって、
いきなり自分の着ている着物の方袖をひきちぎり、

「浪人の身でなにもさしあげるものはないが、
これを私の形見だとおもってください」
といって、
その桔梗紋入りの方袖をさな子に渡し、千葉家を去った。
その後、竜馬は死んだ。

…さな子は、維新後は、
女子学習院の前身である華族女学校が永田町にあったころの
舎監のような仕事をしていた。
教え子たちにときどき昔ばなしをし、
私は坂本竜馬という人の許婚者でした、と語ったりしたが、

明治の初年は生き残った元勲たちの全盛時代で、
物故者の名はほとんど世間で語られることがなく、
娘たちも坂本某とは何者であるかよくわからなかったそうである。

さな子は、竜馬の「妻」として生涯空閨をまもった。
さな子自身も、
京や長崎で奔走する竜馬にはおりょうという者が存在したということを
おそらく知らなかったにちがいない。

…自然石の墓碑に、「千葉さな子墓」ときざまれ、
碑の横側には、「小田切豊次建之」とあり、
さらに「坂本竜馬室」と、刻まれている。
さな子は生涯、竜馬の妻のつもりでいたらしいが、死後、
墓碑によってその思いが定着した。



以下3/22・読売新聞より抜粋

坂本龍馬が江戸で剣術修行中に知り合い、
婚約したとされる千葉佐那(さな)が、飛び切りの美人だったとの記述が、
愛媛県に残る宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり)の記録、
「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」にあることがわかった。

龍馬研究者の宮川禎一・京都国立博物館学芸部室長が確認し、
「同時代史料で確認できたのは初めて」と話している。

佐那は北辰一刀流の達人千葉周作の弟、定吉の娘で、
定吉の道場に学びに来た龍馬と知り合い、
婚約して結納を交わしたとされる。

公記は宗城の直筆の日記などから明治期にまとめられたもの。
安政3年(1856年)6月19日の項で、当時19歳だった佐那が、
「世子殿」(9代藩主宗徳、当時27歳)の剣術の相手をして打ち負かしたくだりに
「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」などとあった。

伊達家の御殿は江戸に2か所あり、
出入りする多数の女性の中で、
宗城が佐那を一番の美人とみていたことが読み取れる。

安政3年は佐那が龍馬と知り合った少し後で、
伊達家の姫君の剣術教師だったらしい。



以下、4/25・スポニチより抜粋

坂本龍馬の婚約者だったとされ、
NHK大河ドラマ「龍馬伝」では貫地谷しほり(24)が演じる
千葉佐那が眠る清運寺(甲府市朝日)の墓参者が急増している。
これまで年間200人程度だったが、
番組開始以降は1000人を突破。龍馬を思い続け、
生涯独身を貫いたいちずさに魅せられ、
墓前で永遠の愛を誓うたカップルも多いという。

番組に佐那が登場したのは1月24日放送の第4話。
以降、墓参者は後を絶たず、
清運寺では3月に急きょ道標を設けたほど。
20代以上のカップルが目立つようになり、
田中宏昌住職は、
「お墓の前で永遠の愛を誓われているようです。
以前はこんな光景は見られませんでした」と驚いている。

佐那は北辰一刀流を開いた千葉周作の弟、定吉の長女。
剣術使いとして、男性を寄せ付けず「千葉の鬼小町」と呼ばれた。
それを一変させた出来事が、剣術修業で土佐から江戸に上り、
定吉の道場に入門してきた龍馬との出会い。
福山雅治(41)が演じる龍馬に、
いつも真っすぐな視線を向けて、
いちずな思いを表現する貫地谷の演技は見せ場の1つだ。

以前の清運寺は、
剣術向上などを目的とする墓参がほとんどだったという。
田中住職は、
「佐那はただいちずなだけではなく、
剣も琴も絵もお灸(きゅう)も得意とする才女。
このドラマで初めて人柄を紹介されて、
魅力に気付いた方も多いと思います」
佐那は板垣退助にも灸の治療を施したといわれる。

龍馬が姉の乙女にあてた手紙にも佐那の記述がある。
広末涼子(29)が演じる初恋相手の平井加尾よりも
「かほ(顔)かたち少しよし」
その後、龍馬は京都で出会ったお龍と結婚する。

佐那は、龍馬が死亡したことを伝え聞いた後も思いは曲げず、
1896年に58歳で亡くなるまで独身だった。
清運寺の墓は東京・谷中にあった墓地から分骨して建てられた。
JR甲府駅から徒歩13分ほど。
自然石の墓石の裏には、
龍馬の妻を意味する「坂本龍馬室」と刻まれている。


(飯村和彦)

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2010年04月17日

最高の台詞だ!「ホテル・ニューハンプシャー」



本を読んでいて楽しいことの一つは、
「いいなあ…」と感じる台詞に出会うことだ。
その台詞は、
作者によって考え抜かれたものなのか、
文章をつむぎだしているときに刹那的にでてきたものなのか、
読み手には判然としないのだが、
ともかく、素敵な台詞が散りばめられた会話はいい。

そういう訳で本日は、
ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」
1939年に始まるベリー一家の「愛の物語」である。
非常に有名な作品ゆえ、ご存知の方も多いはず。
文庫本の背表紙に記された内容紹介は以下の通り。
「…ホモのフランク、小人症のリリー、難聴のエッグ、
たがいに愛し合うフラニーとジョン、老犬のソロー。
それぞれに傷を負った家族は、父親の夢をかなえるため、
ホテル・ニューハンプシャーを開業する…」


ホテル・ニューハンプシャー


この物語の中で、
一番心動かされた場面が以下の部分。
フラニー(姉)とジョン(弟)の会話だ。
高校のアメフト部の連中に酷い暴行(レイプ)を受け、
心身共にボロボロになっている姉のフラニーを
弟のジョン(ぼく)がなぐさめている場面である。


……(以下、抜粋)……

フラニーはまた風呂にはいりたいと言った。
ぼくはベットに寝ころがって、
バスタブに湯が一杯になっていく音に耳をすませた。
それから起き上がって、バスルームのドアのところへ行き、
何か必要なものがあったら持ってきてあげると言った。
「ありがとう」
彼女は低い声で言った。
「外へ行って、昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい」
彼女は言った。
「それを返してほしいわ」
「それだけかい。昨日と今日だけ?」
「それだけよ」
彼女は言った。
「恩にきるわ」
「ぼくにできれば、そうするよ、フラニー」
ぼくは彼女に言った。
「わかってる」
彼女は言った。彼女がゆっくりバスタブに沈むのがわかった。
「あたしは大丈夫」
彼女は囁いた。
「あたしのなかのあたしは誰も取りはしなかった」
「愛してるよ」
ぼくは言った。
彼女は返事をしなかった。そしてぼくはベットにもどった。

……(以上、「ホテル・ニューハンプシャー」から抜粋……


なんといってもフラニーの台詞だ。

「外へ行って、昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい
彼女は言った。
それを返してほしいわ

損なわれてしまったもの。
その損なわれたものを取り戻すには、
取り返しのつかない時間を取り返すしかない。
でも、そんなことは非現実的であり無理だ。
つまり、
彼女の負った心の傷は、どんなことをしても癒されない。

「…昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい。」
「…それを返してほしいわ

なんだろう。
とっても切なくて、
とっても悲しくて、
とっても辛くて、
とっても絶望的な状況を、
これほど洒落た台詞に還元してしまうフラニー。
そんな彼女に惹かれない読者はいないだろう。
ジョン・アーヴィング、凄い作家だ。


(飯村和彦)

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2010年02月22日

松坂大輔 18歳の頃



横浜高校3年、松坂大輔。
当時、彼は「平成の怪物投手」と呼ばれていた。
そんな松坂の取材を始めたのは、
「怪物」の高校生活も終わりに近づいた、
2月末のこと。

「怪物といわれているが、
自分ではどこが凄いと思う?」

そんな質問に対して、
刹那、戸惑った表情を見せた松坂だったが、
すぐに、明快な答えを口にした。

「うーん、何だろう…。
みんなと違うとは感じていた。
(例えば?)…負けないこと!」



ボール2



その年の夏の甲子園。
延長 17回に及んだPL学園との戦いを、
250球の熱投で制した松坂は、
準決勝も勝ち進み、
8月23日、
甲子園、春夏連破をかけた京都成章戦に臨んだ。

連投の疲れも見せず、
松坂は三振の山を築いていった。
そして迎えた9回2アウト。
27個目のアウトは、狙いすました三振だった。
59年ぶりの、決勝戦ノーヒットノーラン。
以降、松坂は、
「平成の怪物投手」として、
メディアの注目を一身に浴びるようになっていく。

卒業の日。
松坂は3年間の高校生活について、
幾分、頬を赤らめながら語った。

「3年間、男だけの生活をして、色々と体験できた。
(どんな体験?)
それはちょっと喋れないので…」

それは、18歳の青年の言葉だった。
ところが野球の話になると、
松坂の口調は一転、自信に満ちたものへと変化する。

「(プロ初球は?)…まっすぐ」
「(戦いたい選手は?)
…イチローさんを力でねじ伏せたい」

“プロに入るからには、記録にはこだわりたい”
そんな松坂は、
西武への入団が決まった直後には、
“二桁勝って新人王を獲る”と明言していた。

「(新人王の他、一年目の目標は?)
獲れるタイトルは沢山あるので、
出来るだけ多く獲りたい。
(例えば?)…最多勝とか、最優秀防御率賞とか」

爪入りの学生服を着た松坂は、
いとも簡単にいってのけた。
彼が、「平成の怪物投手」といわれる所以。
それは、他人のためではなく、
自分自身のために高い目標を設定し、
それを実現していく強さだった。

「少年の頃は、どんな子だった?」
「太っている時は、若の花に似ていると言われました」

若の花似の少年が、
「怪物」になった瞬間はいつなのか。
はっきりした答えは出ないと知りつつも、
以後、
何人もの“松坂関係者”にインタビューをしていった。

小倉清一郎、横浜高校野球部・部長。
松坂の資質を誰よりも早く認め、育て上げた人物である。
小倉氏が初めて松坂を見たのは、
彼が中学1年の時だった。

「堂々としていて、
振りかぶった時の雰囲気が、非常に格好いい。
それが第一印象でした」

特に小倉氏が注目したのは、松坂の背筋力。
振りかぶった時に背スジがピーンと伸び、
胸を大きく張って腕を振り下ろす投球ホーム。
それは、背筋が強くなければ出来ないものだった。

中学時代、
松坂は、全国でも有数の少年野球チームに所属していた。
当時の松坂はリーダー格ではなく、
“リーダーのグループにくっついて行く”タイプの少年。
だが、野球に関しては、
誰もが一目を置く存在だったという。

少年野球チームの監督だった大枝茂明氏は、
当時の松坂少年の意外な側面を、
冗談交じりに懐古した。

「言ってやらせないと出来ないんです。
普段、何も言わないと手抜きをするんですよ(笑)。
それで、怒って注意すると出来ちゃう。
それが素晴らしい天性のセンスなんです」

この松坂のセンスについては、
横浜高校で松坂の指導にあたった小倉部長も、
似た見方をしていた。

「どんどん、どんどん、
やればやるほど、力が身について行くんだなと。
それが、松坂の素質だった」

やればやるほど力が身に付く…。
横浜高校に進んだ松坂は、
来る日も来る日も小倉氏の激しいノックを受け、
そして、それに耐えた。

しかし、身体能力や技術の高さだけでは、
松坂を説明できない。そこには、
“自分の原点になった”と松坂自身が回想する、
ある大きな出来事があった。

それは、横浜高校2年のとき。
松坂はエースとして、
夏の甲子園・神奈川県大会、
準決勝のマウンドに立っていた。

悪夢が訪れたのは9回裏。
同点に追いつかれた後の1アウト1,3塁の場面だった。
「スクイズを外そうと思った」という、
この日134球目のボールが、
捕手・小山のミットをはじいて、
バックネットへと転がった。

「心に余裕がなくて、二年生でしたから。
もうただ、すぐアウトを取りに行きたくなって…」
これは、小山良男捕手の言葉だ。

痛恨のサヨナラ暴投。
試合後、松坂はベンチの中で泣き崩れた。

しかし、その悔し涙が松坂を変えた。
この日の屈辱が、
高い目標を求めて野球に取り組むという、
松坂の原点になっている。

当時を振り返りながら、
横浜高校の渡辺元智監督は指摘した。

「あれで確かな目標を立てることが出来るようになった。
それが大きな要素だと思います。
そしてそれが、松坂大輔自身の信念に変った」

松坂の信念。
プロ野球選手として初めてキャンプに参加する前日、
ふとした拍子に、松坂はこんな言葉をはいた。

「(いつも思っていることは?)
自分が一番うまいと思って、練習はやっています」

プロとは人に夢を与える仕事。
その最高の舞台がプロ野球だと松坂は話していた。

「(プロ初登板は緊張すると思う?)
その時になってみないと分かりません。
甲子園の時も、周りの人は、
マウンドに立ったら緊張するといっていましたが、
全然なかったので…」

多くの人に注目されればされるほど、
力が沸いてくる。
18歳の松坂はそんな言葉も口にしていた。
現在、松坂の舞台は、
彼の望んでいたメジャー・リーグへと変った。

怪我で不本意な成績しか残せなかった昨シーズン。
今年、松坂はどう巻き返してくるのか。
20勝を目指すのか、
それともノーヒットノーランか…。
2年続けて低迷するような男ではない。

「ONE FOR ALL」

高校時代、
松坂が野球帽のひさしに書いていた言葉である。
いま松坂はそこに、
いったいどんな文字を記しているのか。


(飯村和彦)


newyork01double at 22:30|PermalinkComments(0) 放送番組 | 取材ノートより

2010年02月19日

原爆投下の原点(下)〜目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)



原爆投下命令をだしたハリー・トルーマンという男

トルーマン自身は、
ミズーリの「一農夫」。
妻(ベス)は、
ミズーリの「一流の家系」であり、上流階級。
それが当時のアメリカ人一般の見方だった。


トルーマンが、政治家になった経緯

1922年に洋品店の経営に失敗して、
仕事を探していた。
ミズーリ州ジャクソン郡には友人が多いし、
親戚もやたらいたので、
東部地区の判事に立候補した。

全部で5人立候補したが、
その中で、
誰よりも知り合いが多かったので、当選できた。


副大統領に就任できたのは、
ルーズベルト大統領が、
「忠実な小物政治家」を欲したから。

しかし、

副大統領になってからも、
トルーマンは政権内で孤立し、
重要な外交政策については、
情報を与えられていなかった。
そのことは、
トルーマン自身も知っていた。


1945年4月11日のトルーマンの日記

「働いて、
副大統領の職務を作らなければならないが、
なんとも退屈な仕事だ」 


ところが、
日記にこう記した翌日(4/12)、
ルーズベルトの突然の死により、
トルーマンは大統領に就任してしまう。
本人も驚いたろうが、
困惑したのは、
アメリカ政府内の高官たちだった。

スティムソン陸軍長官の日記(4/12)
「新大統領は、
自分が引き継いだ仕事について、
ほとんど何も知らない。
そして、
小さな問題で決断を迫られると、
そんな力はないとでもいうように、動揺する」

また、

ニューヨークタイムズ紙は、
ルーズベルト大統領の後継者となったトルーマンを、
「単なる人形」
と、決めつけた。


しかし、どうしてそこまで、
皆が皆、トルーマンに不安を感じたのか。
答えは簡単である。
その大きな理由は、
彼が、
「フランクリン・ルーズベルトではない」
からだった。

ルーズベルトは、
皇帝のように堂々としていたが、
トルーマンは、
まさに、
「つぶれた洋品店のオヤジ」のようだった。


そこで、
トルーマンは、
あることを決意した。


「責任は引き受けた(back stop here)」


自信はないものの、
大統領としての決意を固めたトルーマンは、
周囲の政策責任者に敬意を持たれるようにするには、
決断力を示さなくてはならないと考え、
「最終決定はすべて私が下す」
ときっぱり宣言した。


子供の頃から、
“意気地なし”で、
“男らしさに欠ける”
と、いわれ続けてきたトルーマンは、
大統領に就任して、
男らしさを証明する機会をはじめて掴んだ。


そんなトルーマンによって、
原爆の投下命令は下されたのだ。


「原爆を、
いつ、どこに投下するのかの最終決定は、
私が下した。
この点に誤解がないようにして欲しい」
(トルーマン回顧録)


そうはいっても…


トルーマンの眼前には、
そもそも、
「ノーとは言えない現実」が、横たわっていたのだ!


原爆開発計画

マンハッタン・プロジェクトは、
約12万人が加わり、
全米各地に施設を持つ巨大な官僚機構であり、
生産体制だった。

「アメリカは、
わずか3年間で、
当時のアメリカの自動車産業全体に匹敵する、
途方もない規模の工場と研究所を作り上げた」
(科学者:バートランド・ゴールドシュミット)

このプロジェクトには、
巨額の連邦予算(総額20億ドル)がつぎ込まれており、
支出が正当であったことを示すためには、
どうしても、
プロジェクトを成功させる必要があった。


ところが、


トルーマンが、
スティムソン陸軍長官から、
「アメリカが歴史上、最も破壊力のある武器を開発している」
と、
原爆について初めて知らされたのは、
大統領に就任した、
その日(4/12/1945)のことだった。


そして、その2週間後。


1945年4月25日 
トルーマンは、スティムソンから、
「4ヶ月以内にはまず確実に、
人類の歴史の中で、
最も恐るべき武器が完成する。
一発でひとつの都市を破壊しつくせる爆弾になる」
と報告を受ける。


だが、
この段階ではまだ、
トルーマンは原爆投下を決断していない。



夜の街
(photo:kazuhiko iimura)




1945年5月7日にはドイツが降伏し、
日本も、
軍事的に見て絶望的な状況に追い込まれていた。
つまり、
原爆を使う理由はなくなっていたのだ。


さらに、


もし、原爆を日本に使うとしても、
「事前に示威実験(デモンストレーション)を行い、
最後通告をだしてから」
というのが、
ルーズベルト大統領の決定(1944年12月)であり、
トルーマンは、
その方針を受け継ぐ姿勢を表明していた。


西欧方面連合軍最高司令官アイゼンハワー将軍は、
「日本はすでに敗北している」とし、
「原爆投下はまったく必要ない」
と語っていた。

大統領付き参謀長レーヒ提督も、
「軍事的に見て、
すでに、完全に打ちのめされている日本に、
侵攻する理由はない」
としていた。


ところが…


原爆計画の中で最も重要な委員会である、
1945年5月31日と6月1日の暫定委員会
(委員長はスティムソン陸軍長官)で、
原爆を、
「非軍事的な示威行動」の形で爆発させ、
日本の指導者に衝撃を与えることで降伏を引き出す、
…という案は、退けられてしまう。


そして、
暫定委員会は、
事前警告を行うことなく原爆を投下することを勧告した。

この決定を強く支持したのは二人の男。
ひとりは、バーンズ
トルーマンに選ばれて暫定委員会のメンバーになり、
そのすぐ後(7月2日)に、国務長官に就任した人物。

もうひとりが、グローブス将軍
マンハッタン・プロジェクトが始まった時点で、
司令官に任命され、
巨大な原爆開発組織の指揮をとっていた男。


1945年7月18日
アラマゴードで原爆実験成功


このとき、グローブス将軍は、
次のように語っている。

「我々は最大の目標が、
まだ達成されていないことを十分に認識している。
日本との戦争で重要なのは、
“実戦テスト”である」


この時点で、
トルーマンが迫られた決断は、
「実戦テスト」へ向けて進んでいる計画を、
止めるかどうかであった。

この点についてグローブス将軍は、
「大統領の決断は、
我々の動きに干渉しないというものだった。
…どちらかといえば、
“イエス”と言ったというより、
“ノー”と言わなかった、というべき」
と、後に回顧している。


さらに、
ソ連の脅威がトルーマンを焦らせた。


ポツダムでのバーンズ国務長官の助言
「日本に対する戦争で、
新兵器(原爆)の威力を示すことが、
ソ連を脅して従順にさせる手段になりうる。
原爆の力で戦争が終わったとき、
アメリカは、
こちらの条件をソ連に飲ませる立場に立てる」


結局…、広島・長崎への原爆投下


トルーマンは原爆投下を決めた理由を、
「本土上陸作戦を避け、
50万人のアメリカ人の命を救うためであった」
とした。
だが、トルーマンは、
本土上陸作戦を行っても、
50万人もの戦死者がでないことは、
自分の要請で分析させた結果から、知っていた。


統合戦争計画委員会の報告書(1945年6月15日付)

本土上陸作戦の戦死者数を4万人と予想。
マッカーサー将軍の、
「この作戦は極めて容易で、
死傷者数が少ないものになると見ている」
との覚書も報告書には添付されていた。


つまり


トルーマンは、
原爆を使った目的が、
戦争を早く終わらせ、
アメリカ人の命を守るためだけではなかったことを、
十分認識していたのだ!


原爆投下により、
戦争のあらゆる倫理的制約は消滅した。
それは、
破壊の手段がより残酷になったということではなく、
個人としての戦闘員が存在しなくなったことを意味する。


目的のためなら、
敵国の一般人を何人殺そうが正当化される。



それは、
「今」のアメリカの理屈でもある。


そのアメリカ政府に、
今日まで日本政府は、
盲目的なまでに、追随してきたのではあるまいか。
ここにも「変化」が必要だ。

【了】


(飯村和彦)

newyork01double at 10:27|PermalinkComments(0) 戦時における目的のための犠牲 | 放送番組

〜原爆投下の原点(中)〜目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)



アメリカ陸軍飛行隊の将校らは、
真珠湾攻撃(1941年12月8日)のかなり前から、
日本の人口密集部に対し、
「火炎兵器(焼夷弾)」
を使用することを考えていた。



ストップ



日本本土の爆撃目標に関する、
1939年の飛行隊戦術学校の講義録
「一般住民に対する直接攻撃は、
国民の志気喪失には多大な効果があるにしても、
“人道的配慮”によって排除される。
…しかし、この目標(一般住民)は、
ありうる報復手段として銘記すべきである」


関東大震災をヒントに…
「1923年の関東大震災は、
焼夷弾が、
日本諸都市に恐るべき破壊をもたらしうることを、
実証したものであり、
日本の一般市民に対する直接攻撃は、
日本人の志気破壊にきわめて有効である」
(1939年春、C.E.トーマス)


そんな背景から…


真珠湾攻撃の数日後、
アメリカ化学戦局は、
マサチューセッツ工科大学内に焼夷弾研究所を設立。
スタンダード石油会社のグループが、
尾部からナパームを噴出する、
小型で極めて有効な「焼夷弾M-16」を開発した。


1943年2月:大量焼夷弾空襲効果に関する報告書(外国経済局)
日本の市街地は、
火炎攻撃に対して極度に脆弱であり、
火炎攻撃は、
労働者から家を奪うことによって、
日本の生産を著しく妨げると結論づけた。


そこで、ある実験を行なった。


小東京・攻撃実験
1944年初頭、
国防調査委員会と陸軍航空軍の委員会は、
エグソン・フィールドに、
日本の建物群に見立てた、
「小東京」とよばれる小さな村を幾つか建設、
焼夷弾を使った攻撃実験を実施。


さらに…


調査をより現実的にするため、
日本の地震の歴史、特に関東大震災から、
火災の広がりと生産低下に関する情報を引き出した。


焼夷弾小委員会は、
「大都市に対する攻撃は、
日本経済を相当痛めつけ、
当該地域の住宅の70%を破壊し、
50万人以上の一般市民を殺害するであろう」
とし、直ちに、
圧倒的兵力をもって、
6都市(東京・横浜・川崎・名古屋・大阪・神戸)を、
爆撃するよう陸軍航空軍に勧告した。


また、


1944年11月末、
第20航空軍のノースタッド将軍は、
日本社会の中核的制度に向けられる航空攻撃が、
日本人を震撼させうると考えた。
そこで、
アーノルド総合司令官に対し、

東京の皇居に対し大規模攻撃を実施することで、
パールハーバーを追悼するよう提案

(…しかしこの提案は、時期尚早ということで却下された)


そして… 東京大空襲。


「東京が焼き払われて、
地図からも一掃され、
その地域のあらゆる工業標的が破壊され、
都市が魅力化されれば、
我々は戦争を短縮できる」
(1945年3月9日:ルメイ将軍)

1945年3月10日午前零時過ぎ
1665トンの爆弾を東京に投下。
焼夷弾により工業地域の18%、
商業地域の63%、
労働者階級の住宅地帯の全域がことごとく焼かれ、
25万戸の家屋が焼き払われた。


アメリカ戦略爆撃調査団は、
3月10日の空襲で、
8万7793人(実際には10万人と言われるが…)が死亡、
4万918人が負傷、
100万8005人が家屋を失ったと見積もった。


ところが、予想外の事態が発生!


3月10日の東京大空襲は、
直接その空襲の影響を受けた人々の志気はくじいだが、
日本の一般市民の志気を、
「受忍限度」に導く者ではなかった。

そこでB-29は、
4月と5月にも数千トンの焼夷弾を投下。
ところが、
東京の約半分にあたる、
150平方キロを焼き払ったにも係わらず、
戦争終結にまでは持ち込めなかった。


日本人の戦意


日本軍が、降伏するよりも自決を選び、
神風特攻機のパイロットが、
米艦船に向けて突入してきたことは、
「日本人を降伏させるのは容易ではない」
ことを示唆していた。


それならば…!



ワースト



最初の原爆の炸裂は、
日本人に途方もない心理的衝撃を与えねばならず、
その兵器の重大性が、
国際的に(特にソ連に!)認識されるためには、
十分に壮大でなければならない。

1945年7月26日、
アメリカはポツダム会談で警告を発した。

連合軍は、
日本人を奴隷化したり、
国家として滅ぼしたり、
領土を、
恒久的に占領したりする意図の無いことを宣言したが、
日本側が戦闘を継続するなら、
国土は完全に破壊されるだろうと警告した。


しかし、


使用する兵器の種類は明らかにせず、
日本にとって極めて重要な問題である、
天皇の運命についても、
意図的に言及しなかった。
                

結果、


日本政府は、ポツダム宣言を「黙殺」
アメリカによる、
日本への原爆投下の“大義”ができた。

連合国側(特にアメリカ)にしてみれば、
ドイツの都市に無差別爆撃を行うのであれば、
日本の都市にも、
無差別爆撃を行うのは、
当然すぎるほど当然だった。


アメリカは、

「戦争を仕掛けてきたのは日本だし、
“われわれの捕虜”を虐待したのも、
日本に他ならない。
そんな国に戦闘員、非戦闘員の区別など無用であり、
そもそも、
現代の戦争に非戦闘員は存在しない」

…として、原爆投下を正当化した。


こうして倫理制約がなくなると、
数10万の人間が住む都市に原爆を投下するのも、
難しい決断ではなくなった。

【つづく】


(飯村和彦)

newyork01double at 10:15|PermalinkComments(0) 戦時における目的のための犠牲 | 放送番組

目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)〜原爆投下の原点(上)〜



原爆投下に関するトルーマン語録

「日本人が理解すると思われる唯一の言語は、
奴らを爆撃するために我々が使用しているものである。
けだものを相手にしなければならないときは、
けだものとして扱わなければならない。…」
(長崎への投下から二日後の声明)

「私は広島と長崎に原爆を投下するよう命じた。
…同じような状況であれば再度決断したであろう。
原爆は対ジャップ戦を終結させたのだ」
(ポツダム会談からの帰途、妹メアリーに語った言葉)

B-29による残虐な無差別爆撃(例:東京大空襲)、
そして、広島・長崎への原爆投下。

戦時における軍事的必要性」の名目で行われた、
これらの無差別大量殺戮は、
誰によって、いつ、どんな理由で、
正当化されるようになったのか。



自由の女神ロング
(photo:kazuhiko iimura)



第二次大戦で連合国側が掲げた大義は、
「正義と人道」だった。

ところが、アメリカの爆撃機は、
一般市民が住む市街地に、
無差別に爆弾と焼夷弾を投下、
小さな子供や赤ん坊を抱いた女性まで焼き殺した。


なぜか?


非武装の市民を殺さないという倫理観が崩壊した背景

第一次大戦後の20年間における、
科学技術の革新と航空戦力理論の開発は、
約200年にわって発達した、
ヨーロッパの騎士道精神を消滅させた。
これが、
アメリカの無差別爆撃戦略に影響を与えたといわれる。 


ジュリオ・ドウエット将軍(イタリア)の航空戦略理論

国家は、「制空権」を確立することによって、
第三次元を支配しなければならない。

いったん制空権を獲得すれば、
敵軍の施設を爆破でき、さらには、
主要目標である人口密集地に直接向かうこともできる。

爆撃機は敵国民を恐怖に陥れ、
彼らの肉体的・精神的抵抗力を破壊するだろう。

将来の戦争は、軍用機による都市爆撃(高性能爆薬)、
毒ガス、焼夷弾の投下で幕が切って落とされる。 
  
戦争手段に対する道義的制約は偽善にすぎない。
恐るべき攻撃が、
いかに非人間的で極悪非道であるとみなされようと、
誰もひるみはしない。
それが、勝利を得る道であると分かっている時、
司令官が軍隊の損失を甘んじて受け入れるように、
国家は、
人口密集地に対する航空攻撃を甘受しなければならない。


さらに、
第二次大戦前のアメリカ航空軍に大きな影響を与えたのが、
ドウエット戦略。


ドウエット理論

ドウエット理論で最も重要な著書、
「制空権」第一章(1921年)は、
イタリア語版の出版から数ヶ月以内で英語に翻訳されていた。

後の第二次大戦で、
航空軍の司令官になった大半も「制空権」を読み、
影響を受けた。

「国民の志気は価値ある標的である」
というドウエットの概念は、
陸軍飛行隊戦術学校の1926年度版の教本、
「合同空軍力の採用」にも登場。

「制空権確保を第一の任務とする独立空軍」
という考えを容認したばかりでなく、
「戦時下の真の標的は、
戦場の敵軍隊ではなく敵住民と重要地点である」
と明言した。


しかし、まだこの時点では、
ドウエット戦略を支持しない司令官が大半を占めていた。

陸軍航空軍総司令官アーノルド将軍も、
「特別な状況を除けば、人間は優先的標的ではない」
として、
あくまでも軍事関連施設を狙った、
選択的爆撃の方が効率的あるとしていた。


ところが…


第二次戦争が始まり、
空軍力が増し、
闘いが長引きだすと、
政権内部や航空軍司令官たちの考え方が変質してくる。

第二次大戦初期、ルーズベルト大統領は、
「日本軍による重慶空襲は、
道義上許されない行為だと非難し、
アメリカ政府は、
民間人に対するいわれのない空襲と、
機銃掃射を心から非難する政策をといっている」
としていた。


しかし、
戦争が進むにつれ、その方針が徐々に揺らぎだす


1940年9月〜41年5月。
ドイツ空軍によるロンドン、コベントリー、
その他の市街地中心部に対する爆撃で、
住民約4万人が死亡。

イギリス軍による報復としての市街地爆撃。

1941年夏、
アメリカ航空軍は、
ある特殊な条件が発生した場合には、 
一般市民を直接攻撃することを提案した。


アメリカ戦略爆撃計画-1」(AWPD-1)
…一般市民は敵の戦争機構の一部であって、
苦難を受けなければならない。
ドイツが敗北の淵にたったとき、
ベルリンの住民に対し、
大規模な全面攻撃を加えるのが有効。


1943年7月末〜8月初頭、ハンブルグ空襲。
…イギリス軍が、
焼夷弾を使った夜間無差別爆撃で、
大きな戦果を上げる一方、
アメリカ軍の選択的爆撃(昼間)は、
「イギリス軍の夜間爆撃よりも“人間的”」
であることは証明したが、
ほとんど効果を上げなかった。


そして…
1943年8月17日。
アメリカ軍の爆撃戦略(選択的爆撃)に、
最も大きな影響を与える出来事が発生した!


レーゲンブルク-シュバインフルト作戦の失敗

アメリカ第八航空軍が行った、
レーゲンブルクにある飛行機工場と、
シュバインフルトの軍需工場を攻撃した作戦。
この攻撃でアメリカ第八空軍は、
約87機のB17爆撃機を失い、
550人以上が戦死、又は捕虜になるという犠牲を出した。

さらに問題だったのは、
「空飛ぶ要塞(=B17)」が、
軍需工場に、
十分な被害を与えることが出来なかったことだった。



DCモニュメント
(photo:kazuhiko iimura)



アメリカ航空軍司令官が、
ハンブルグ空襲と、
レーゲンブルク-シュバインフルト作戦の失敗から得た教訓は、
「市街地空襲は、
時として精密爆撃よりも成果をあげ、
陸軍航空軍の犠牲をはるかに少なくする」
というものだった

そして、1944年8月26日。
ルーズベルト大統領の発言

「アメリカとイギリスのあまりに多くの国民が、
戦争に責任があるのは、
少数のナチス指導者であって、
ドイツ国民全体ではないと考えているのは、間違いである」

1944年9月9日、
ルーズベルトは、スティムソン陸軍長官に書簡を送付し、
「ドイツと日本に対する爆撃効果を分析する機関、
(後のアメリカ戦略爆撃調査団)」
の設立を要請した。


つまり、このことは…


「敵一般市民を恐怖に陥れることを狙った攻撃は、
ルーズベルト大統領にとって容認可能」
であることを意味した。


そして…


1945年
2月3日、ベルリン空襲 
約2万5000人の一般市民が死亡

2月13〜14日、 ドレスデン空襲
約3万5000人の一般市民が死亡
(注:当時ドレスデンは、非武装都市であり、
東部戦線からの避難民で一杯だった)


「我々は軟弱になってはならない。
戦争は破壊的でなければならず、
ある程度、非人間的で非情なのである」
(アーノルド陸軍航空軍総指令官)


その後、
東京大空襲、
広島・長崎への原爆投下へと突き進む。

【つづく】


(飯村和彦)

newyork01double at 10:13|PermalinkComments(0) 戦時における目的のための犠牲 | 放送番組

2010年02月14日

偉大なる恐竜たちに乾杯! 

   
 

大人にも分かる恐竜の話、“Flying Dinosaurs!”

人類とは比較にならない、
約1億6000万年という長期に渡り、
この地球を支配していた恐竜たち。
恐竜研究の第一人者、ホーナー博士はかつてこう言った。

「みんなはよく、“どうして恐竜たちがこの世から姿を消したのか?”
とその理由を知りたがるようだが、
私は“どうして恐竜たちが約 1.6億万年もの間、この地球上に存在し得たのか、
彼らはどんな風に生きていたのか”、そこに興味があるのだ」

人類の歴史、それは恐竜たちが生きた歴史に比べれば、
ほんの瞬き程度の時間にしか過ぎない。
恐竜たちは、どんな地球に、どんな社会を持って、
どんな風に生きていたのか? 
そして、どうして歴史となっていったのか。

「恐竜? 子供じゃあるまいし、そんな事に興味ないね」

大人たちには目先の現実しか見えない。
さらには、その“現実”さえきちんと見えているのかどうかも疑わしい。
きっと、子供たちはこう叫ぶだろう。

「お父さんたちは、“本当の事”を知らないからさ」

さて、どちらに目を向けたらいいのか。
時には、子供たちの言葉に耳を貸してみようじゃないか。
きっと、新しい何かが見つかる筈だ。

どうして子供たちはあーまでも恐竜に夢中になれるのか。
また、どうして大人になると、夢を抱かなくなるのか。
恐竜と聞いて馬鹿にするのではなく、
彼らが持っていた生きる事に対する逞しさを見つめ、
変わりつつある地球の姿を太古に遡って眺める事が、今、大切な気がする。

大人が子供から学ぶもの。
恐竜はその格好のテーマになる筈だ。
“偉大なる恐竜たちに乾杯!”


(参)ホーナー博士:Jack Horner、古生物学者
映画『ジュラシック・パーク 』では、科学アドバイザーとして、
より正確な恐竜像を再現する大きな力となった人物であり、
映画に登場する古生物学者グラント博士のモデルは、
ホーナー博士だと言われている。
また、1978年に彼が発見した恐竜の集団営巣地は、
恐竜が鳥の様に集団で子育てをしていたという科学的な証拠になっている。



恐竜
(コロラド州 /photo: noa iimura)




 〔世蕕になりつつある恐竜たちの本当の姿

1822年、
イギリスの開業医によってたまたま発見された小さな歯の化石。
絶滅した巨大生物“恐竜”の物語は、その瞬間から始まった。
1億万年以上の歴史を越えて、
地中から現代に顔を覗かせる恐竜たち。

“恐竜の故郷”をめぐる米国の旅は、
Deadlandと呼ばれる壮大な地形でも有名なカナダのアルバータ州から始まる。
ここには世界最高の恐竜博物館もある。
次に、
ホーナー博士が「恐竜たちの巣」を発見したアメリカ・モンタナ州ボーズマン、
さらにユタ州ジェンセン、コロラド州デンバーに下る。
そして1986年、
全長約40〜50メートルはあったと推定される世界最大の恐竜化石が見つかった
ニューメキシコ州が最終地となる。

これらロッキー山脈沿いにある“恐竜たちの故郷”には、
数多くの恐竜博物館があるのは当然として、
コロラド、ユタ、ニューメキシコ、アリゾナの4州にまたがる赤いコロラド高原は、
それ自体が、地球の歴史の生きた博物館。
恐竜の歴史のみならず、
地球の歴史の1/3 にあたる15億年分が目の前に広がる。



レッドロック地帯
(コロラド州“レッド・ロック”/photo:kazuhiko iimura)




恐竜地層
(恐竜の足跡、骨の化石が表出している地層説明/ photo:kazuhiko iimura)




 ◆…擦亘榲に恐竜の子孫なのか!
 
   (a)恐竜はどんなものを食べていたのか?
   (b)恐竜の知能はどれぐらいだったのか?
   (c)恐竜は本当に温血だったのか?
   (d)恐竜は子育てをしていたのか?
   (e)最強の肉食恐竜ティラノサウルスとは?
   (f)驚くほど首が長かったマメンチサウスはどうして呼吸をしていのか?
   (g)恐竜はどうやって歩いていたのか?
   (h)恐竜時代にいた哺乳類はどんな生活をしていたのか?
   (i)恐竜時代に茂っていた植物は?
   (j)白亜紀後期にはどうして奇妙な形の恐竜が数多く現れたのか?

   そして・・

   (k)恐竜は、なぜ、絶滅したのか?
   (l)本当に“鳥は恐竜の子孫なのか?”


  恐竜と科学〜現代に甦る恐竜たち

映画「ジュラシック・パーク(JURASSC PARK)」に於いて、スピルバーグは、
その時点で考えられる全ての知識と科学を用いて、
極めて本物に近いとされる恐竜たちをスクリーン上で踊らせた。

「JURASSC PARK」の著者、マイケル・クライトン( Michael Crichton )は、
琥珀(Amber) の中に化石として状態よく残っている恐竜時代の昆虫、
それも恐竜の血を吸っていたと思われる昆虫などから遺伝子DNAを抽出して、
現代に恐竜たちを再生させるという発想を提示した。
現代科学を用いて出来る事と出来ない事。
また、出来るとすればどのレベルまで可能なのか?


───DNAによる恐竜再生の可能性について

昆虫学の権威であるGeorge O. Poinar Jr.博士は、
かつて「現実的には非常に難しい」といっていた。
瑚珀の中に恐竜時代の血を吸った昆虫を発見する事は可能だが、
その中から完全な形のDNAを含んだ細胞核を見つけるのは非常に困難であり、
また、たとえそれが出来たとしても、
さらにそれを微分して胚を識別、抽出しなくてはならない。
これは非常に!困難なことなのだそうだ。


───恐竜たちが闊歩している風景とは?

およそ7800万年前の肌寒い夜明け時、
一頭のトリケラトプスが所在なくあたりを見回しながらシダの葉や枝を食んでいた。
11トンの体重の割りには脳味噌が軽い彼。
そんな彼が身に危険が迫っている事をなんとなく感じたその時、
一頭のティラノサウルスが彼の後ろの林の中から突然姿を現した。

史上最強で最大の肉食恐竜。
まだ青年期であるにも係わらずこのティラノサウスの体長は約5m、
短剣のような鋭い歯を持っていた。
必死になって逃げようとするトリケラトプスだが、
冷血性の生き物がそうであるように彼は素早く動けなかった。

ましてはまだ夜が明けきらない時刻の事、
太陽の熱を吸収して身体を活性させる時間も無かった。
のっそりとしか動けない彼。
簡単にティラノサウルスの餌食になってしまうのかと思いきや、
ティラノサウルスの方もその長い足を素早く動かせない様子だった。
そう、ティラノサウルスも同じく冷血性の生き物だったからだ。

すると…

Wait! Wait! Wait! ・・・・・!!!!

30年前ならこんな話でも良かったかもしれないが、今は違う。
恐竜の骨の化石や巣、卵や足跡などを、
CATスキャンやコンピューターなどのハイテク機器で分析できるようになった現在、
恐竜についての考え方はかなり変わっている。

トリケラトプスやその他の草食恐竜が間抜けである必要はないし、
彼らが森の中をふらふらと一頭で彷徨っていたとも言えない。
おそらく彼らは群れをなして動いていたろうし、
毎年“渡り”をしていたと思われる。
また親は子を育て、
それぞれ協力し合って凶暴な敵から自分たちの身を守っていた。

この事は凶暴な肉食恐竜にも言え、彼らもある社会を持っていたと考えられる。
歳をとり一番巨大になったティラノサウルスは別として、
彼らもまとまって行動し、小型の肉食恐竜がするのと同じように、
彼らもオオカミの様にチームを組んで獲物を捕らえていたと思われる。

また、恐竜は冷血性の生き物でもなかった。
彼らは、寒い気候の中にあっても活発に動く事が出来たし、
ある恐竜は夏でも太陽が顔を出さない北極圏でも生きていた。



恐竜の足跡
(恐竜の足跡・コロラド州にて/ photo:kazuhiko iimura)



更に、多くの専門家はこう信じている。
「今日でも恐竜と同じライン(系統)にある生き物が一つ栄えている。それが鳥だ」

15年ほど前、 Mark Norell博士ほかアメリカとモンゴルの科学者チームが発表した
モンゴルで発見された新しい恐竜の種、Mononychus( 一つの爪、という意味 )。
七面鳥ほどの大きさで、現代の飛べない鳥のようなものだそうだ。
身体は羽根で覆われていたと思われるが、
骨格の構造は鳥と恐竜、両方の特徴を持ってた。
この発見は、恐竜と鳥の関係をより強固なものにした。


 Q、恐竜はどんなものを食べていたのか?

まず、草食性の恐竜の場合。
ジュラ紀と白亜紀初期までの植物界は、まだシダ植物と裸子植物ばかり。
ソテツシダ類の種子や多汁質で年中実のなるベネチテス類などは、
当時繁栄していた竜脚類や剣竜たちの好物であったと思われる。
イチョウ類は一般に有害物質を含んでいた為食べられなかった。

白亜紀の終わり頃になると被子植物が進化し植物界を一変させた。
この栄養価の高い植物を食べて進化してきたのが、
カモノハシ竜や角竜、曲竜たちで、
剣竜はこの恩恵を授かる前に絶滅した。

草食恐竜の歯は、円錐形の単純な構造をしていたので、
馬や牛のように食べ物を歯で咀嚼する事が出来なかった。
そこで、石などを飲み込んで胃の中で食べ物と石をぶつけ合わせ、
咀嚼の変わりをさせていた。

肉食性の恐竜はというと、
彼らは相手の肉を食べるのであるからタンパク質そのものを食糧にしていた。
栄養価は極めて高く消化も良かった筈。
歯は鋭く、食べ物を切り裂き易いようになっていたが咀嚼する歯が無かった為、
まるごと飲み込んでいたと思われる。
ただ、殺したての新鮮な肉ばかりを食べたのか、
死んでから何日もたった肉を食べていたのかはハッキリしない。


 Q、恐竜の知能はどれぐらいだったのか? 

一般的に恐竜の知能はワニやトカゲ(下等脊椎動物)と同じ程度で、
それよりも良くもなければ悪くもなった。
しかし、恐竜の中でもその種類によってばらつきがある事には注意が必要だ。
肉食恐竜のティラノサウルスやアロサウルスは同じ恐竜でも体重の割に脳が大きく、
その知能は鳥類と同程度であったと考えられる。

肉食性の恐竜の場合、
草食性の恐竜が身に付けている防御用の角やトゲなどをかい潜り、
相手の動きに合わせて効果的な攻撃を仕掛けなければならなかった。
そのため、運動を脳によって統御する必要があった。
だから知能も発達したものと思われる。


 Q、恐竜は本当に温血だったのか?

〈参〉恐竜が温血性であったという場合、彼らが内温性(体内で発熱できる事)で、
 恒温性(体温が常に一定)であったという意味で使われれいる。

恐竜温血説を唱える科学者の一人 Robert Bakkerは、
その理由を次のように述ている。
恐竜は大きな心臓を持つのに充分な大きさの胸腔(鳥と似たもの)を持っていた。

「渡り」をしていたとされる恐竜は、
大陸の北から南まで幅広いレンジの気侯帯で生きていた事になるから、
温血性でなければとてもそんな事は出来ない。

この他、Bakkerは草食恐竜と肉食恐竜の割合が、
現在のサバンナでの草食動物と肉食動物との割合に近い事を指摘し、
恐竜が冷血なら食事量が少なくて済むので、
もっと多くの肉食恐竜がいた筈だとも理由づけた。

勿論、この他にも恐竜温血説を支える数々の理由がある訳だが、
一番の根拠はJohn Ostrom博士が1964年に、
小型肉食恐竜デイノニクスを発見した事にある。
高速で走り、
後足のカギ爪を振り回して獲物の飛び掛かるというデイノニクスの生態は、
高い活動レベルを維持できる温血性によらなければ説明がつかないとされた。

しかし、温血説に反対する研究者も多い。
現在生きている動物でさえ、温血とも冷血とも区別できないものが、
事実、5〜6種類はいるという。

特に、体重が200kgを越えるような生き物については、
いったん温まった体温はそう簡単には下がらなくなる。
つまり、外温性でありながら恒温性で温血性になる訳だ。
これを慣性恒温性と呼ぶが、
恐竜の体が巨大になった理由をこの現象に求める研究者もいる。

よって現在では、恐竜すべてが温血性であったとするのではなく、
デイノニクスのような小型の肉食恐竜たちは温血性だった、とする研究者が多い。


 Q、恐竜は子育てをしていたのか?

1978年、Jack Horner 博士が、
モンタナ州で恐竜の集団営巣地を発見した事に始まる。
巣の中からは、卵や孵化する直前の胎児をはじめ、
体長1m程の子供の恐竜が何頭も見つかった。
子供の歯はすり減っており、すでに食物をとっていたにも係わらず、
足の発育が不完全でまだ良く歩く事が出来なかった事を物語っていた。
このことは、
子供が巣の中で親から餌を与えられて成長していた事を示すとされた。

また、発見された巣は全部で14個あった訳だが、
それらの巣はみんな7m程の間隔で並んでいた。
これは丁度、成体のマイアサウラ(優しい母トカゲの意。Horner博士が名をつけた)の体長と同じであり、
鳥類の営巣と大変よく似た点を持っていた。

鳥が巣を作る場合、親が行き来できる最低限のスペースはとるが、
卵を保護する意味で巣を出来るだけ近付けて作る事が知られている。
この事から、
恐竜は爬虫類よりむしろ鳥類に近かったのではないかという説が出てきた。
最近では、ペンギンのように集団で、
ある社会を作って生活していたのではないかとも考えられている。



恐竜の骨
(茶色い部分が恐竜の骨・コロラド州にて/ photo:kazuhiko iimura)



さて、ではどうして、
巨大恐竜たちは約6500万年前に姿を消してしまったのだろうか。
約2億年にも渡って繁栄してきた恐竜に、一体なにが起こったのか。

恐竜はこれまでに約600種類以上知られているが、
これらが全て白亜紀末に一斉に滅んだ訳ではない。
発見されている化石の記録を調べると、
7300万年前から最後の6500万年前までの間に、
約70%の種類の恐竜が姿を消している。

これを恐竜化石の主要な産地である北アメリカ西部のデータで細かく見てみると、
7500万年前の地層から30属、7000万年前の地層から23属、
6900万年の地層から22属、
最上部の6500万年前の地層から13属となっており、
恐竜たちが最後の1000万年を通じて徐々に滅んでいった事が分かる。

このような事実にも係わらず、
恐竜の一斉絶滅として科学者の注目を集めてきたのは、
この時期、海洋動物の66%も同時に絶滅しているからである。

このように多数の動物種が同時に絶滅した場合、
それが異なる理由で偶然同時に絶滅したとは考えにくい。

では、なにが彼らを絶滅に追いやったのか。
以前までは、地球全体の天候変化説が主流であったが、現在では隕石衝突説である。
これはイタリアを皮きりに世界各地で、
白亜紀と第三紀の境界層から通常より1〜2桁高い濃度のイリジウムなどの隕石物質が発見されたからだ。

隕石の大きさは直径約10kmと推定され、
約6500万年前に落下したと考えられている。
また、その落下地点もメキシコのユカタン半島付近であると確認された。

隕石衝突説による絶滅のメカニズムは、
隕石の衝突により多量のちりが大気圏に舞い上がり、
長期に渡って太陽の光を遮ったというもの。
その為、地上の温度が低下して核の冬のような状態となり、
植物は光合性が出来なくなったと考えられた。

しかし、この説にも問題はある。
隕石の落下の前に恐竜たちはすでに衰退傾向にあったし、
アンモナイト類も白亜紀後期を通じて徐々に衰退しているからだ。


───ダーウィンが「種の起源」を発表してから核爆弾が炸裂するまで約80年。
もしかすると、我々人類は運が良かったのかもしれない。
なぜなら、
生きている間に人類がどこから来て、
どんな風に滅んで行くのかを知り得たのだから。


改めて、偉大なる恐竜たちに乾杯!


[追記(3/6)]

きのうの新聞には、下記のような記事がのっていた。
一歩一歩、地球の歴史が明らかになる。
以下、毎日新聞・記事の一部を…。

「恐竜絶滅 1回の小惑星衝突が原因 直径10〜15キロ」

恐竜など白亜紀末期の生物大量絶滅は、
現在のメキシコ付近への1回の小惑星衝突が原因とする論文を、
日本など12カ国の国際チームが5日の米科学誌「サイエンス」に発表した。
約6550万年前に、
地球環境を一変させた破壊的衝突の全容も明らかにした。

大量絶滅をめぐっては、
複数の地球外天体衝突説、火山噴火説も出されているが、
研究チームは「否定された」と結論付けた。

チームには専門家41人が結集。
メキシコ・ユカタン半島の巨大クレーター、
「チチュルブ・クレーター」(直径約180キロ)が形成された時期の
世界各地の地層などの最新データを解析し直した。

その結果、チチュルブ・クレーター形成と大量絶滅の時期は一致。
他の天体が前後に衝突した痕跡はない。
6550万年前ごろは火山活動が活発ではなかった、と判明。
クレーター形成による環境変化は大量絶滅に十分だったとした。

衝突した天体は直径10〜15キロの小惑星。
衝突速度は秒速約20キロ。
衝突時のエネルギーは広島型原爆の約10億倍。
衝突地点付近の地震の規模はマグニチュード11以上。
津波は高さ約300メートルと推定された。

衝突による放出物は世界約350地点で確認された。
放出物は大量のちりとなり、太陽光がさえぎられて地球上が寒冷化。
5〜30度の気温低下が約10年続き、
海のプランクトンや植物が死滅、
食物連鎖の上位にいた恐竜などが絶滅したと考えられるという。


(飯村和彦)

newyork01double at 22:26|PermalinkComments(0) 地球環境を眺めると… | 気になる映画

2009年11月25日

この世に一人だけの人にあった瞬間とは?



誰もがその瞬間を体験しているはずなのに、
その時はそれとは気づかない。
ある人は、しばらく時が流れたあとに、
「ああ、あのときの感情、あの胸のときめきがそうだったのか…」
と回顧できるかもしれない。
それはそれで幸福なことなのだが、
やはり、その瞬間に「これだ!」と心に突きあがるものを感じられたら、
その後の人生も大きく変わってくるのだろう。

パウロ・コエーリョの「アルケミスト」
その中に、
大切な人に出会った瞬間の心の在りよう、
理屈ではない刹那的な実感、
打算のない崇高さが明快に記されている。



アルケミスト



以下、「アルケミスト」より抜粋


その瞬間、少年は時間が止まったように感じた。
「大いなる魂」が彼の中から突きあけてきた。
彼女の黒い瞳を見つめ、
彼女のくちびるが笑おうか、黙っていようか迷っているのを見た時、
彼は世界中で話されていることばの最も重要な部分
――地球上のすべての人が心で理解できることば――を学んだのだ。

それは愛だった。
それは人類よりももっと古く、
砂漠よりももっと昔からあるものだった。
それは二人の人間の目が合った時にいつでも流れる力であり、
この井戸のそばの二人の間に流れる力だった。

彼女はニッコリほほ笑んだ。
そして、それは確実に前兆だった。
――彼が自分では気づかずに、一生の間待ちこがれていた前兆だった。
それは、羊や本やクリスタルや砂漠の静寂の中に、
彼が探し求めていたものだった。

それは純粋な「大いなることば」だった。
それは宇宙が無限の時を旅する理由を説明する必要がないのと同じように、
説明を要しないものであった。
少年がその瞬間感じたことは、
自分が、
一生のうちにただ一人だけ見つける女性の前にいるということだった。
そして、ひと言も交わさなくても、
彼女も同じことを認めたのだった。
世界の何よりもそれは確かだった。


(飯村和彦)

newyork01double at 14:43|PermalinkComments(1) 気になるBOOKs 

2009年11月12日

「自由の女神」が見つめる自由とは?




青女神



息子の撮影した写真をアート風に…。
基本的な色合いは決めるが、
出来あがりを明確に予想することはできない。
例えば、
焼き物を創るとき、
上薬を塗って釜に入れ、
その完成を待つのに少しだけ似ている。

写真の色合いを見たり、掠れ具合を調節したり…
そんなところにも、
自分の力ではどうにもならない、
ある種の現象がある。
当たり前といえばそれまでなのだが、
その現実が妙に楽しい。


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(飯村和彦)

newyork01double at 16:22|PermalinkComments(0) 世界の風景 | ニューヨーク