2009年10月

2009年10月02日

「コンビニでタバコ一箱を奪う」という事件記事



これはいったいどういうことなのだろう。
10月2日付けの朝日新聞に、
「コンビニでたばこ奪う、容疑の男を逮捕」
という小さな記事があった。
行にして僅か18行、240文字ほどのものだがとても気になった。

逮捕されたのは26歳の男で、犯行の動機については、
「金が無かったが、たばこが吸いたかった」
と供述しているらしい。
以下、記事の一部(というか大半)を抜粋してみる。

〈…(略)
新宿署によると、容疑者(新聞では本名を記載)は、
午前10時20分ごろ、新宿区歌舞伎町一丁目のコンビニエンスストア
「ローソンベストウェスタン新宿店」で、
女性店員(25)にカッターナイフを突きつけ、
「金が無いから(たばこを)よこせ」と脅し、
店員が差し出したたばこ一箱と、
レジにあったライターを奪って逃げた疑いがある〉

さて、この記事がどうして気になったのか?
まず、最初に感じたのは、
「どうしてこの事件が記事として新聞に載ったのか」ということ。
そして、その理由を、
今盛んに言われている「格差社会」の一端を表すためなのか、
とも推量してみた。
たった一箱のたばこを手に入れるにも
犯罪を犯さなければならない。
そんな状況に置かれている若者もいるのだ…と。

しかし、改めてその短い記事を読み直して、
最初の思いは即座に消えた。

26歳の男がコンビニで、
「金が無いから(たばこを)よこせ」と脅し、
店員が差し出したたばこ一箱と、
レジにあったライターを奪って逃げていく光景を想像すると、
そこには、「格差」などという背景は皆無のように思えた。
これはあくまで「心象」だが、

「ああ、一服してぇー。金ねぇーけど、まあコンビニにあるな…」

というような軽さというか、
無軌道な行動しか思い浮かばない。
浅薄で軽薄。
善悪の判断であるとか、
思慮のなさであるとか、
そんな次元以下の行為のように思えたのだ。

極端な話になるが、
例えばこれが終戦直後の社会状況であったらな心象は当然違う。

1945年10月29日に、戦後第一回の宝くじが発売された。
国家公務員の給与が月最低四十円(1945年末段階)の時代。
一等、十万円(100本)
二等、一万円。
三等、千円。
四等、五十円。
五等、二十円。
副賞にはそれぞれ、純綿のキャラコ(下着のこと)。
そして、外れ券4枚で「たばこ10本」が貰えたという。

それも、宝くじ一枚が10円という、
当時にしてはかなり高額だったことを考えれば、
いかに「たばこ10本」の価値が高かったが伺える。
もしそんな状況下での、
「金が無いから(たばこを)よこせ」であったなら、
(幾分強引な言い回しだが…)理解できなくもない。

それでは、26歳の男がコンビニで奪ったものが、
「たばこ」ではなく「おにぎり」だったらどうなのか。
「金は無かったが、おにぎりが食いたかった」
というのが犯行動機であれば、受ける印象は多分、まったく違う。
もしかすると新聞読者の中には、
「盗んだことは悪いにしても、
おにぎり一個も買えないなんて、可哀想…」
というような感想をもつ人もいるかもしれない。
記事の書かれ方にもよるが、
それは十分考えられることだ。


社内ステッカー


先週だったか、車上生活をしている男が、
「ポリ容器」に入れてあったガソリンを盗んだ、
という事件もあった。
この件では、被害者の対抗策(…というか上手い罠)、
つまり、
「絶対また盗みにくるから、容器に水を入れて待っていた」
という作戦が見事にあたり、
犯人は、ガソリンタンクに盗んだ「水」を入れ、
車がエンストしたところで取り押さえられた。

この容疑者の年齢は忘れたが、
その犯行行為を想像すると、
犯行に至るまでの男の生活であるとか、
あたりに気を配りながら、
ポリ容器から自分の車にガソリンを注ぎ込んでいる表情などが思い浮かぶ。
それは、空虚で浅はかな「たばこ強奪」の男とは明らかに異質のものだ。

周到のようだが、どこか間抜けな生活苦で疲弊した男。
もし、そこまで思いを巡らす読者がいたとすると、
ごく小さな記事でも、
事実を伝える以外に、
正誤とは別の“心象”として、
「何かを訴えた(…または訴えてしまった)」ことになる。

読者は、良くも悪くも記事を読んで「勝手に想像」する。
当然ながら、ひとりひとり想像は同じではない。
考え方も違う。
行動様式も違う。
主義も異なれば、生活環境も違う。

従って、
事実(とされること)を「たった18行」で伝えただけでも、
その記事のもつ意味は計り知れない、ということになる。
だから、
伝える側は何をどう伝えるかを注意深く吟味する必要があるし、
読者も、書き手(…というかその記事を載せた報道機関)の意図を、
自分なりに考えることが大切になる。

「事実(とされること)」は、伝えられる内容だけでなく、
新聞なら新聞が、
どうしてその事実を「伝えるべきもの」として「選択」したのか。

一面に載るような大きなニュースではない、
ごく小さな記事を理解する場合、
少し砕けた表現でいえば「楽しむ」ためには、
特にそんな読み方が大事になる。
だから、
たった数行の記事でも、ないがしろにはできない訳だ。


(飯村和彦)

newyork01double at 14:34|PermalinkComments(0) 東京story