2010年02月

2010年02月22日

松坂大輔 18歳の頃



横浜高校3年、松坂大輔。
当時、彼は「平成の怪物投手」と呼ばれていた。
そんな松坂の取材を始めたのは、
「怪物」の高校生活も終わりに近づいた、
2月末のこと。

「怪物といわれているが、
自分ではどこが凄いと思う?」

そんな質問に対して、
刹那、戸惑った表情を見せた松坂だったが、
すぐに、明快な答えを口にした。

「うーん、何だろう…。
みんなと違うとは感じていた。
(例えば?)…負けないこと!」



ボール2



その年の夏の甲子園。
延長 17回に及んだPL学園との戦いを、
250球の熱投で制した松坂は、
準決勝も勝ち進み、
8月23日、
甲子園、春夏連破をかけた京都成章戦に臨んだ。

連投の疲れも見せず、
松坂は三振の山を築いていった。
そして迎えた9回2アウト。
27個目のアウトは、狙いすました三振だった。
59年ぶりの、決勝戦ノーヒットノーラン。
以降、松坂は、
「平成の怪物投手」として、
メディアの注目を一身に浴びるようになっていく。

卒業の日。
松坂は3年間の高校生活について、
幾分、頬を赤らめながら語った。

「3年間、男だけの生活をして、色々と体験できた。
(どんな体験?)
それはちょっと喋れないので…」

それは、18歳の青年の言葉だった。
ところが野球の話になると、
松坂の口調は一転、自信に満ちたものへと変化する。

「(プロ初球は?)…まっすぐ」
「(戦いたい選手は?)
…イチローさんを力でねじ伏せたい」

“プロに入るからには、記録にはこだわりたい”
そんな松坂は、
西武への入団が決まった直後には、
“二桁勝って新人王を獲る”と明言していた。

「(新人王の他、一年目の目標は?)
獲れるタイトルは沢山あるので、
出来るだけ多く獲りたい。
(例えば?)…最多勝とか、最優秀防御率賞とか」

爪入りの学生服を着た松坂は、
いとも簡単にいってのけた。
彼が、「平成の怪物投手」といわれる所以。
それは、他人のためではなく、
自分自身のために高い目標を設定し、
それを実現していく強さだった。

「少年の頃は、どんな子だった?」
「太っている時は、若の花に似ていると言われました」

若の花似の少年が、
「怪物」になった瞬間はいつなのか。
はっきりした答えは出ないと知りつつも、
以後、
何人もの“松坂関係者”にインタビューをしていった。

小倉清一郎、横浜高校野球部・部長。
松坂の資質を誰よりも早く認め、育て上げた人物である。
小倉氏が初めて松坂を見たのは、
彼が中学1年の時だった。

「堂々としていて、
振りかぶった時の雰囲気が、非常に格好いい。
それが第一印象でした」

特に小倉氏が注目したのは、松坂の背筋力。
振りかぶった時に背スジがピーンと伸び、
胸を大きく張って腕を振り下ろす投球ホーム。
それは、背筋が強くなければ出来ないものだった。

中学時代、
松坂は、全国でも有数の少年野球チームに所属していた。
当時の松坂はリーダー格ではなく、
“リーダーのグループにくっついて行く”タイプの少年。
だが、野球に関しては、
誰もが一目を置く存在だったという。

少年野球チームの監督だった大枝茂明氏は、
当時の松坂少年の意外な側面を、
冗談交じりに懐古した。

「言ってやらせないと出来ないんです。
普段、何も言わないと手抜きをするんですよ(笑)。
それで、怒って注意すると出来ちゃう。
それが素晴らしい天性のセンスなんです」

この松坂のセンスについては、
横浜高校で松坂の指導にあたった小倉部長も、
似た見方をしていた。

「どんどん、どんどん、
やればやるほど、力が身について行くんだなと。
それが、松坂の素質だった」

やればやるほど力が身に付く…。
横浜高校に進んだ松坂は、
来る日も来る日も小倉氏の激しいノックを受け、
そして、それに耐えた。

しかし、身体能力や技術の高さだけでは、
松坂を説明できない。そこには、
“自分の原点になった”と松坂自身が回想する、
ある大きな出来事があった。

それは、横浜高校2年のとき。
松坂はエースとして、
夏の甲子園・神奈川県大会、
準決勝のマウンドに立っていた。

悪夢が訪れたのは9回裏。
同点に追いつかれた後の1アウト1,3塁の場面だった。
「スクイズを外そうと思った」という、
この日134球目のボールが、
捕手・小山のミットをはじいて、
バックネットへと転がった。

「心に余裕がなくて、二年生でしたから。
もうただ、すぐアウトを取りに行きたくなって…」
これは、小山良男捕手の言葉だ。

痛恨のサヨナラ暴投。
試合後、松坂はベンチの中で泣き崩れた。

しかし、その悔し涙が松坂を変えた。
この日の屈辱が、
高い目標を求めて野球に取り組むという、
松坂の原点になっている。

当時を振り返りながら、
横浜高校の渡辺元智監督は指摘した。

「あれで確かな目標を立てることが出来るようになった。
それが大きな要素だと思います。
そしてそれが、松坂大輔自身の信念に変った」

松坂の信念。
プロ野球選手として初めてキャンプに参加する前日、
ふとした拍子に、松坂はこんな言葉をはいた。

「(いつも思っていることは?)
自分が一番うまいと思って、練習はやっています」

プロとは人に夢を与える仕事。
その最高の舞台がプロ野球だと松坂は話していた。

「(プロ初登板は緊張すると思う?)
その時になってみないと分かりません。
甲子園の時も、周りの人は、
マウンドに立ったら緊張するといっていましたが、
全然なかったので…」

多くの人に注目されればされるほど、
力が沸いてくる。
18歳の松坂はそんな言葉も口にしていた。
現在、松坂の舞台は、
彼の望んでいたメジャー・リーグへと変った。

怪我で不本意な成績しか残せなかった昨シーズン。
今年、松坂はどう巻き返してくるのか。
20勝を目指すのか、
それともノーヒットノーランか…。
2年続けて低迷するような男ではない。

「ONE FOR ALL」

高校時代、
松坂が野球帽のひさしに書いていた言葉である。
いま松坂はそこに、
いったいどんな文字を記しているのか。


(飯村和彦)


newyork01double at 22:30|PermalinkComments(0) 放送番組 | 取材ノートより

2010年02月19日

原爆投下の原点(下)〜目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)



原爆投下命令をだしたハリー・トルーマンという男

トルーマン自身は、
ミズーリの「一農夫」。
妻(ベス)は、
ミズーリの「一流の家系」であり、上流階級。
それが当時のアメリカ人一般の見方だった。


トルーマンが、政治家になった経緯

1922年に洋品店の経営に失敗して、
仕事を探していた。
ミズーリ州ジャクソン郡には友人が多いし、
親戚もやたらいたので、
東部地区の判事に立候補した。

全部で5人立候補したが、
その中で、
誰よりも知り合いが多かったので、当選できた。


副大統領に就任できたのは、
ルーズベルト大統領が、
「忠実な小物政治家」を欲したから。

しかし、

副大統領になってからも、
トルーマンは政権内で孤立し、
重要な外交政策については、
情報を与えられていなかった。
そのことは、
トルーマン自身も知っていた。


1945年4月11日のトルーマンの日記

「働いて、
副大統領の職務を作らなければならないが、
なんとも退屈な仕事だ」 


ところが、
日記にこう記した翌日(4/12)、
ルーズベルトの突然の死により、
トルーマンは大統領に就任してしまう。
本人も驚いたろうが、
困惑したのは、
アメリカ政府内の高官たちだった。

スティムソン陸軍長官の日記(4/12)
「新大統領は、
自分が引き継いだ仕事について、
ほとんど何も知らない。
そして、
小さな問題で決断を迫られると、
そんな力はないとでもいうように、動揺する」

また、

ニューヨークタイムズ紙は、
ルーズベルト大統領の後継者となったトルーマンを、
「単なる人形」
と、決めつけた。


しかし、どうしてそこまで、
皆が皆、トルーマンに不安を感じたのか。
答えは簡単である。
その大きな理由は、
彼が、
「フランクリン・ルーズベルトではない」
からだった。

ルーズベルトは、
皇帝のように堂々としていたが、
トルーマンは、
まさに、
「つぶれた洋品店のオヤジ」のようだった。


そこで、
トルーマンは、
あることを決意した。


「責任は引き受けた(back stop here)」


自信はないものの、
大統領としての決意を固めたトルーマンは、
周囲の政策責任者に敬意を持たれるようにするには、
決断力を示さなくてはならないと考え、
「最終決定はすべて私が下す」
ときっぱり宣言した。


子供の頃から、
“意気地なし”で、
“男らしさに欠ける”
と、いわれ続けてきたトルーマンは、
大統領に就任して、
男らしさを証明する機会をはじめて掴んだ。


そんなトルーマンによって、
原爆の投下命令は下されたのだ。


「原爆を、
いつ、どこに投下するのかの最終決定は、
私が下した。
この点に誤解がないようにして欲しい」
(トルーマン回顧録)


そうはいっても…


トルーマンの眼前には、
そもそも、
「ノーとは言えない現実」が、横たわっていたのだ!


原爆開発計画

マンハッタン・プロジェクトは、
約12万人が加わり、
全米各地に施設を持つ巨大な官僚機構であり、
生産体制だった。

「アメリカは、
わずか3年間で、
当時のアメリカの自動車産業全体に匹敵する、
途方もない規模の工場と研究所を作り上げた」
(科学者:バートランド・ゴールドシュミット)

このプロジェクトには、
巨額の連邦予算(総額20億ドル)がつぎ込まれており、
支出が正当であったことを示すためには、
どうしても、
プロジェクトを成功させる必要があった。


ところが、


トルーマンが、
スティムソン陸軍長官から、
「アメリカが歴史上、最も破壊力のある武器を開発している」
と、
原爆について初めて知らされたのは、
大統領に就任した、
その日(4/12/1945)のことだった。


そして、その2週間後。


1945年4月25日 
トルーマンは、スティムソンから、
「4ヶ月以内にはまず確実に、
人類の歴史の中で、
最も恐るべき武器が完成する。
一発でひとつの都市を破壊しつくせる爆弾になる」
と報告を受ける。


だが、
この段階ではまだ、
トルーマンは原爆投下を決断していない。



夜の街
(photo:kazuhiko iimura)




1945年5月7日にはドイツが降伏し、
日本も、
軍事的に見て絶望的な状況に追い込まれていた。
つまり、
原爆を使う理由はなくなっていたのだ。


さらに、


もし、原爆を日本に使うとしても、
「事前に示威実験(デモンストレーション)を行い、
最後通告をだしてから」
というのが、
ルーズベルト大統領の決定(1944年12月)であり、
トルーマンは、
その方針を受け継ぐ姿勢を表明していた。


西欧方面連合軍最高司令官アイゼンハワー将軍は、
「日本はすでに敗北している」とし、
「原爆投下はまったく必要ない」
と語っていた。

大統領付き参謀長レーヒ提督も、
「軍事的に見て、
すでに、完全に打ちのめされている日本に、
侵攻する理由はない」
としていた。


ところが…


原爆計画の中で最も重要な委員会である、
1945年5月31日と6月1日の暫定委員会
(委員長はスティムソン陸軍長官)で、
原爆を、
「非軍事的な示威行動」の形で爆発させ、
日本の指導者に衝撃を与えることで降伏を引き出す、
…という案は、退けられてしまう。


そして、
暫定委員会は、
事前警告を行うことなく原爆を投下することを勧告した。

この決定を強く支持したのは二人の男。
ひとりは、バーンズ
トルーマンに選ばれて暫定委員会のメンバーになり、
そのすぐ後(7月2日)に、国務長官に就任した人物。

もうひとりが、グローブス将軍
マンハッタン・プロジェクトが始まった時点で、
司令官に任命され、
巨大な原爆開発組織の指揮をとっていた男。


1945年7月18日
アラマゴードで原爆実験成功


このとき、グローブス将軍は、
次のように語っている。

「我々は最大の目標が、
まだ達成されていないことを十分に認識している。
日本との戦争で重要なのは、
“実戦テスト”である」


この時点で、
トルーマンが迫られた決断は、
「実戦テスト」へ向けて進んでいる計画を、
止めるかどうかであった。

この点についてグローブス将軍は、
「大統領の決断は、
我々の動きに干渉しないというものだった。
…どちらかといえば、
“イエス”と言ったというより、
“ノー”と言わなかった、というべき」
と、後に回顧している。


さらに、
ソ連の脅威がトルーマンを焦らせた。


ポツダムでのバーンズ国務長官の助言
「日本に対する戦争で、
新兵器(原爆)の威力を示すことが、
ソ連を脅して従順にさせる手段になりうる。
原爆の力で戦争が終わったとき、
アメリカは、
こちらの条件をソ連に飲ませる立場に立てる」


結局…、広島・長崎への原爆投下


トルーマンは原爆投下を決めた理由を、
「本土上陸作戦を避け、
50万人のアメリカ人の命を救うためであった」
とした。
だが、トルーマンは、
本土上陸作戦を行っても、
50万人もの戦死者がでないことは、
自分の要請で分析させた結果から、知っていた。


統合戦争計画委員会の報告書(1945年6月15日付)

本土上陸作戦の戦死者数を4万人と予想。
マッカーサー将軍の、
「この作戦は極めて容易で、
死傷者数が少ないものになると見ている」
との覚書も報告書には添付されていた。


つまり


トルーマンは、
原爆を使った目的が、
戦争を早く終わらせ、
アメリカ人の命を守るためだけではなかったことを、
十分認識していたのだ!


原爆投下により、
戦争のあらゆる倫理的制約は消滅した。
それは、
破壊の手段がより残酷になったということではなく、
個人としての戦闘員が存在しなくなったことを意味する。


目的のためなら、
敵国の一般人を何人殺そうが正当化される。



それは、
「今」のアメリカの理屈でもある。


そのアメリカ政府に、
今日まで日本政府は、
盲目的なまでに、追随してきたのではあるまいか。
ここにも「変化」が必要だ。

【了】


(飯村和彦)

newyork01double at 10:27|PermalinkComments(0) 戦時における目的のための犠牲 | 放送番組

〜原爆投下の原点(中)〜目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)



アメリカ陸軍飛行隊の将校らは、
真珠湾攻撃(1941年12月8日)のかなり前から、
日本の人口密集部に対し、
「火炎兵器(焼夷弾)」
を使用することを考えていた。



ストップ



日本本土の爆撃目標に関する、
1939年の飛行隊戦術学校の講義録
「一般住民に対する直接攻撃は、
国民の志気喪失には多大な効果があるにしても、
“人道的配慮”によって排除される。
…しかし、この目標(一般住民)は、
ありうる報復手段として銘記すべきである」


関東大震災をヒントに…
「1923年の関東大震災は、
焼夷弾が、
日本諸都市に恐るべき破壊をもたらしうることを、
実証したものであり、
日本の一般市民に対する直接攻撃は、
日本人の志気破壊にきわめて有効である」
(1939年春、C.E.トーマス)


そんな背景から…


真珠湾攻撃の数日後、
アメリカ化学戦局は、
マサチューセッツ工科大学内に焼夷弾研究所を設立。
スタンダード石油会社のグループが、
尾部からナパームを噴出する、
小型で極めて有効な「焼夷弾M-16」を開発した。


1943年2月:大量焼夷弾空襲効果に関する報告書(外国経済局)
日本の市街地は、
火炎攻撃に対して極度に脆弱であり、
火炎攻撃は、
労働者から家を奪うことによって、
日本の生産を著しく妨げると結論づけた。


そこで、ある実験を行なった。


小東京・攻撃実験
1944年初頭、
国防調査委員会と陸軍航空軍の委員会は、
エグソン・フィールドに、
日本の建物群に見立てた、
「小東京」とよばれる小さな村を幾つか建設、
焼夷弾を使った攻撃実験を実施。


さらに…


調査をより現実的にするため、
日本の地震の歴史、特に関東大震災から、
火災の広がりと生産低下に関する情報を引き出した。


焼夷弾小委員会は、
「大都市に対する攻撃は、
日本経済を相当痛めつけ、
当該地域の住宅の70%を破壊し、
50万人以上の一般市民を殺害するであろう」
とし、直ちに、
圧倒的兵力をもって、
6都市(東京・横浜・川崎・名古屋・大阪・神戸)を、
爆撃するよう陸軍航空軍に勧告した。


また、


1944年11月末、
第20航空軍のノースタッド将軍は、
日本社会の中核的制度に向けられる航空攻撃が、
日本人を震撼させうると考えた。
そこで、
アーノルド総合司令官に対し、

東京の皇居に対し大規模攻撃を実施することで、
パールハーバーを追悼するよう提案

(…しかしこの提案は、時期尚早ということで却下された)


そして… 東京大空襲。


「東京が焼き払われて、
地図からも一掃され、
その地域のあらゆる工業標的が破壊され、
都市が魅力化されれば、
我々は戦争を短縮できる」
(1945年3月9日:ルメイ将軍)

1945年3月10日午前零時過ぎ
1665トンの爆弾を東京に投下。
焼夷弾により工業地域の18%、
商業地域の63%、
労働者階級の住宅地帯の全域がことごとく焼かれ、
25万戸の家屋が焼き払われた。


アメリカ戦略爆撃調査団は、
3月10日の空襲で、
8万7793人(実際には10万人と言われるが…)が死亡、
4万918人が負傷、
100万8005人が家屋を失ったと見積もった。


ところが、予想外の事態が発生!


3月10日の東京大空襲は、
直接その空襲の影響を受けた人々の志気はくじいだが、
日本の一般市民の志気を、
「受忍限度」に導く者ではなかった。

そこでB-29は、
4月と5月にも数千トンの焼夷弾を投下。
ところが、
東京の約半分にあたる、
150平方キロを焼き払ったにも係わらず、
戦争終結にまでは持ち込めなかった。


日本人の戦意


日本軍が、降伏するよりも自決を選び、
神風特攻機のパイロットが、
米艦船に向けて突入してきたことは、
「日本人を降伏させるのは容易ではない」
ことを示唆していた。


それならば…!



ワースト



最初の原爆の炸裂は、
日本人に途方もない心理的衝撃を与えねばならず、
その兵器の重大性が、
国際的に(特にソ連に!)認識されるためには、
十分に壮大でなければならない。

1945年7月26日、
アメリカはポツダム会談で警告を発した。

連合軍は、
日本人を奴隷化したり、
国家として滅ぼしたり、
領土を、
恒久的に占領したりする意図の無いことを宣言したが、
日本側が戦闘を継続するなら、
国土は完全に破壊されるだろうと警告した。


しかし、


使用する兵器の種類は明らかにせず、
日本にとって極めて重要な問題である、
天皇の運命についても、
意図的に言及しなかった。
                

結果、


日本政府は、ポツダム宣言を「黙殺」
アメリカによる、
日本への原爆投下の“大義”ができた。

連合国側(特にアメリカ)にしてみれば、
ドイツの都市に無差別爆撃を行うのであれば、
日本の都市にも、
無差別爆撃を行うのは、
当然すぎるほど当然だった。


アメリカは、

「戦争を仕掛けてきたのは日本だし、
“われわれの捕虜”を虐待したのも、
日本に他ならない。
そんな国に戦闘員、非戦闘員の区別など無用であり、
そもそも、
現代の戦争に非戦闘員は存在しない」

…として、原爆投下を正当化した。


こうして倫理制約がなくなると、
数10万の人間が住む都市に原爆を投下するのも、
難しい決断ではなくなった。

【つづく】


(飯村和彦)

newyork01double at 10:15|PermalinkComments(0) 戦時における目的のための犠牲 | 放送番組

目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)〜原爆投下の原点(上)〜



原爆投下に関するトルーマン語録

「日本人が理解すると思われる唯一の言語は、
奴らを爆撃するために我々が使用しているものである。
けだものを相手にしなければならないときは、
けだものとして扱わなければならない。…」
(長崎への投下から二日後の声明)

「私は広島と長崎に原爆を投下するよう命じた。
…同じような状況であれば再度決断したであろう。
原爆は対ジャップ戦を終結させたのだ」
(ポツダム会談からの帰途、妹メアリーに語った言葉)

B-29による残虐な無差別爆撃(例:東京大空襲)、
そして、広島・長崎への原爆投下。

戦時における軍事的必要性」の名目で行われた、
これらの無差別大量殺戮は、
誰によって、いつ、どんな理由で、
正当化されるようになったのか。



自由の女神ロング
(photo:kazuhiko iimura)



第二次大戦で連合国側が掲げた大義は、
「正義と人道」だった。

ところが、アメリカの爆撃機は、
一般市民が住む市街地に、
無差別に爆弾と焼夷弾を投下、
小さな子供や赤ん坊を抱いた女性まで焼き殺した。


なぜか?


非武装の市民を殺さないという倫理観が崩壊した背景

第一次大戦後の20年間における、
科学技術の革新と航空戦力理論の開発は、
約200年にわって発達した、
ヨーロッパの騎士道精神を消滅させた。
これが、
アメリカの無差別爆撃戦略に影響を与えたといわれる。 


ジュリオ・ドウエット将軍(イタリア)の航空戦略理論

国家は、「制空権」を確立することによって、
第三次元を支配しなければならない。

いったん制空権を獲得すれば、
敵軍の施設を爆破でき、さらには、
主要目標である人口密集地に直接向かうこともできる。

爆撃機は敵国民を恐怖に陥れ、
彼らの肉体的・精神的抵抗力を破壊するだろう。

将来の戦争は、軍用機による都市爆撃(高性能爆薬)、
毒ガス、焼夷弾の投下で幕が切って落とされる。 
  
戦争手段に対する道義的制約は偽善にすぎない。
恐るべき攻撃が、
いかに非人間的で極悪非道であるとみなされようと、
誰もひるみはしない。
それが、勝利を得る道であると分かっている時、
司令官が軍隊の損失を甘んじて受け入れるように、
国家は、
人口密集地に対する航空攻撃を甘受しなければならない。


さらに、
第二次大戦前のアメリカ航空軍に大きな影響を与えたのが、
ドウエット戦略。


ドウエット理論

ドウエット理論で最も重要な著書、
「制空権」第一章(1921年)は、
イタリア語版の出版から数ヶ月以内で英語に翻訳されていた。

後の第二次大戦で、
航空軍の司令官になった大半も「制空権」を読み、
影響を受けた。

「国民の志気は価値ある標的である」
というドウエットの概念は、
陸軍飛行隊戦術学校の1926年度版の教本、
「合同空軍力の採用」にも登場。

「制空権確保を第一の任務とする独立空軍」
という考えを容認したばかりでなく、
「戦時下の真の標的は、
戦場の敵軍隊ではなく敵住民と重要地点である」
と明言した。


しかし、まだこの時点では、
ドウエット戦略を支持しない司令官が大半を占めていた。

陸軍航空軍総司令官アーノルド将軍も、
「特別な状況を除けば、人間は優先的標的ではない」
として、
あくまでも軍事関連施設を狙った、
選択的爆撃の方が効率的あるとしていた。


ところが…


第二次戦争が始まり、
空軍力が増し、
闘いが長引きだすと、
政権内部や航空軍司令官たちの考え方が変質してくる。

第二次大戦初期、ルーズベルト大統領は、
「日本軍による重慶空襲は、
道義上許されない行為だと非難し、
アメリカ政府は、
民間人に対するいわれのない空襲と、
機銃掃射を心から非難する政策をといっている」
としていた。


しかし、
戦争が進むにつれ、その方針が徐々に揺らぎだす


1940年9月〜41年5月。
ドイツ空軍によるロンドン、コベントリー、
その他の市街地中心部に対する爆撃で、
住民約4万人が死亡。

イギリス軍による報復としての市街地爆撃。

1941年夏、
アメリカ航空軍は、
ある特殊な条件が発生した場合には、 
一般市民を直接攻撃することを提案した。


アメリカ戦略爆撃計画-1」(AWPD-1)
…一般市民は敵の戦争機構の一部であって、
苦難を受けなければならない。
ドイツが敗北の淵にたったとき、
ベルリンの住民に対し、
大規模な全面攻撃を加えるのが有効。


1943年7月末〜8月初頭、ハンブルグ空襲。
…イギリス軍が、
焼夷弾を使った夜間無差別爆撃で、
大きな戦果を上げる一方、
アメリカ軍の選択的爆撃(昼間)は、
「イギリス軍の夜間爆撃よりも“人間的”」
であることは証明したが、
ほとんど効果を上げなかった。


そして…
1943年8月17日。
アメリカ軍の爆撃戦略(選択的爆撃)に、
最も大きな影響を与える出来事が発生した!


レーゲンブルク-シュバインフルト作戦の失敗

アメリカ第八航空軍が行った、
レーゲンブルクにある飛行機工場と、
シュバインフルトの軍需工場を攻撃した作戦。
この攻撃でアメリカ第八空軍は、
約87機のB17爆撃機を失い、
550人以上が戦死、又は捕虜になるという犠牲を出した。

さらに問題だったのは、
「空飛ぶ要塞(=B17)」が、
軍需工場に、
十分な被害を与えることが出来なかったことだった。



DCモニュメント
(photo:kazuhiko iimura)



アメリカ航空軍司令官が、
ハンブルグ空襲と、
レーゲンブルク-シュバインフルト作戦の失敗から得た教訓は、
「市街地空襲は、
時として精密爆撃よりも成果をあげ、
陸軍航空軍の犠牲をはるかに少なくする」
というものだった

そして、1944年8月26日。
ルーズベルト大統領の発言

「アメリカとイギリスのあまりに多くの国民が、
戦争に責任があるのは、
少数のナチス指導者であって、
ドイツ国民全体ではないと考えているのは、間違いである」

1944年9月9日、
ルーズベルトは、スティムソン陸軍長官に書簡を送付し、
「ドイツと日本に対する爆撃効果を分析する機関、
(後のアメリカ戦略爆撃調査団)」
の設立を要請した。


つまり、このことは…


「敵一般市民を恐怖に陥れることを狙った攻撃は、
ルーズベルト大統領にとって容認可能」
であることを意味した。


そして…


1945年
2月3日、ベルリン空襲 
約2万5000人の一般市民が死亡

2月13〜14日、 ドレスデン空襲
約3万5000人の一般市民が死亡
(注:当時ドレスデンは、非武装都市であり、
東部戦線からの避難民で一杯だった)


「我々は軟弱になってはならない。
戦争は破壊的でなければならず、
ある程度、非人間的で非情なのである」
(アーノルド陸軍航空軍総指令官)


その後、
東京大空襲、
広島・長崎への原爆投下へと突き進む。

【つづく】


(飯村和彦)

newyork01double at 10:13|PermalinkComments(0) 戦時における目的のための犠牲 | 放送番組

2010年02月14日

偉大なる恐竜たちに乾杯! 

   
 

大人にも分かる恐竜の話、“Flying Dinosaurs!”

人類とは比較にならない、
約1億6000万年という長期に渡り、
この地球を支配していた恐竜たち。
恐竜研究の第一人者、ホーナー博士はかつてこう言った。

「みんなはよく、“どうして恐竜たちがこの世から姿を消したのか?”
とその理由を知りたがるようだが、
私は“どうして恐竜たちが約 1.6億万年もの間、この地球上に存在し得たのか、
彼らはどんな風に生きていたのか”、そこに興味があるのだ」

人類の歴史、それは恐竜たちが生きた歴史に比べれば、
ほんの瞬き程度の時間にしか過ぎない。
恐竜たちは、どんな地球に、どんな社会を持って、
どんな風に生きていたのか? 
そして、どうして歴史となっていったのか。

「恐竜? 子供じゃあるまいし、そんな事に興味ないね」

大人たちには目先の現実しか見えない。
さらには、その“現実”さえきちんと見えているのかどうかも疑わしい。
きっと、子供たちはこう叫ぶだろう。

「お父さんたちは、“本当の事”を知らないからさ」

さて、どちらに目を向けたらいいのか。
時には、子供たちの言葉に耳を貸してみようじゃないか。
きっと、新しい何かが見つかる筈だ。

どうして子供たちはあーまでも恐竜に夢中になれるのか。
また、どうして大人になると、夢を抱かなくなるのか。
恐竜と聞いて馬鹿にするのではなく、
彼らが持っていた生きる事に対する逞しさを見つめ、
変わりつつある地球の姿を太古に遡って眺める事が、今、大切な気がする。

大人が子供から学ぶもの。
恐竜はその格好のテーマになる筈だ。
“偉大なる恐竜たちに乾杯!”


(参)ホーナー博士:Jack Horner、古生物学者
映画『ジュラシック・パーク 』では、科学アドバイザーとして、
より正確な恐竜像を再現する大きな力となった人物であり、
映画に登場する古生物学者グラント博士のモデルは、
ホーナー博士だと言われている。
また、1978年に彼が発見した恐竜の集団営巣地は、
恐竜が鳥の様に集団で子育てをしていたという科学的な証拠になっている。



恐竜
(コロラド州 /photo: noa iimura)




 〔世蕕になりつつある恐竜たちの本当の姿

1822年、
イギリスの開業医によってたまたま発見された小さな歯の化石。
絶滅した巨大生物“恐竜”の物語は、その瞬間から始まった。
1億万年以上の歴史を越えて、
地中から現代に顔を覗かせる恐竜たち。

“恐竜の故郷”をめぐる米国の旅は、
Deadlandと呼ばれる壮大な地形でも有名なカナダのアルバータ州から始まる。
ここには世界最高の恐竜博物館もある。
次に、
ホーナー博士が「恐竜たちの巣」を発見したアメリカ・モンタナ州ボーズマン、
さらにユタ州ジェンセン、コロラド州デンバーに下る。
そして1986年、
全長約40〜50メートルはあったと推定される世界最大の恐竜化石が見つかった
ニューメキシコ州が最終地となる。

これらロッキー山脈沿いにある“恐竜たちの故郷”には、
数多くの恐竜博物館があるのは当然として、
コロラド、ユタ、ニューメキシコ、アリゾナの4州にまたがる赤いコロラド高原は、
それ自体が、地球の歴史の生きた博物館。
恐竜の歴史のみならず、
地球の歴史の1/3 にあたる15億年分が目の前に広がる。



レッドロック地帯
(コロラド州“レッド・ロック”/photo:kazuhiko iimura)




恐竜地層
(恐竜の足跡、骨の化石が表出している地層説明/ photo:kazuhiko iimura)




 ◆…擦亘榲に恐竜の子孫なのか!
 
   (a)恐竜はどんなものを食べていたのか?
   (b)恐竜の知能はどれぐらいだったのか?
   (c)恐竜は本当に温血だったのか?
   (d)恐竜は子育てをしていたのか?
   (e)最強の肉食恐竜ティラノサウルスとは?
   (f)驚くほど首が長かったマメンチサウスはどうして呼吸をしていのか?
   (g)恐竜はどうやって歩いていたのか?
   (h)恐竜時代にいた哺乳類はどんな生活をしていたのか?
   (i)恐竜時代に茂っていた植物は?
   (j)白亜紀後期にはどうして奇妙な形の恐竜が数多く現れたのか?

   そして・・

   (k)恐竜は、なぜ、絶滅したのか?
   (l)本当に“鳥は恐竜の子孫なのか?”


  恐竜と科学〜現代に甦る恐竜たち

映画「ジュラシック・パーク(JURASSC PARK)」に於いて、スピルバーグは、
その時点で考えられる全ての知識と科学を用いて、
極めて本物に近いとされる恐竜たちをスクリーン上で踊らせた。

「JURASSC PARK」の著者、マイケル・クライトン( Michael Crichton )は、
琥珀(Amber) の中に化石として状態よく残っている恐竜時代の昆虫、
それも恐竜の血を吸っていたと思われる昆虫などから遺伝子DNAを抽出して、
現代に恐竜たちを再生させるという発想を提示した。
現代科学を用いて出来る事と出来ない事。
また、出来るとすればどのレベルまで可能なのか?


───DNAによる恐竜再生の可能性について

昆虫学の権威であるGeorge O. Poinar Jr.博士は、
かつて「現実的には非常に難しい」といっていた。
瑚珀の中に恐竜時代の血を吸った昆虫を発見する事は可能だが、
その中から完全な形のDNAを含んだ細胞核を見つけるのは非常に困難であり、
また、たとえそれが出来たとしても、
さらにそれを微分して胚を識別、抽出しなくてはならない。
これは非常に!困難なことなのだそうだ。


───恐竜たちが闊歩している風景とは?

およそ7800万年前の肌寒い夜明け時、
一頭のトリケラトプスが所在なくあたりを見回しながらシダの葉や枝を食んでいた。
11トンの体重の割りには脳味噌が軽い彼。
そんな彼が身に危険が迫っている事をなんとなく感じたその時、
一頭のティラノサウルスが彼の後ろの林の中から突然姿を現した。

史上最強で最大の肉食恐竜。
まだ青年期であるにも係わらずこのティラノサウスの体長は約5m、
短剣のような鋭い歯を持っていた。
必死になって逃げようとするトリケラトプスだが、
冷血性の生き物がそうであるように彼は素早く動けなかった。

ましてはまだ夜が明けきらない時刻の事、
太陽の熱を吸収して身体を活性させる時間も無かった。
のっそりとしか動けない彼。
簡単にティラノサウルスの餌食になってしまうのかと思いきや、
ティラノサウルスの方もその長い足を素早く動かせない様子だった。
そう、ティラノサウルスも同じく冷血性の生き物だったからだ。

すると…

Wait! Wait! Wait! ・・・・・!!!!

30年前ならこんな話でも良かったかもしれないが、今は違う。
恐竜の骨の化石や巣、卵や足跡などを、
CATスキャンやコンピューターなどのハイテク機器で分析できるようになった現在、
恐竜についての考え方はかなり変わっている。

トリケラトプスやその他の草食恐竜が間抜けである必要はないし、
彼らが森の中をふらふらと一頭で彷徨っていたとも言えない。
おそらく彼らは群れをなして動いていたろうし、
毎年“渡り”をしていたと思われる。
また親は子を育て、
それぞれ協力し合って凶暴な敵から自分たちの身を守っていた。

この事は凶暴な肉食恐竜にも言え、彼らもある社会を持っていたと考えられる。
歳をとり一番巨大になったティラノサウルスは別として、
彼らもまとまって行動し、小型の肉食恐竜がするのと同じように、
彼らもオオカミの様にチームを組んで獲物を捕らえていたと思われる。

また、恐竜は冷血性の生き物でもなかった。
彼らは、寒い気候の中にあっても活発に動く事が出来たし、
ある恐竜は夏でも太陽が顔を出さない北極圏でも生きていた。



恐竜の足跡
(恐竜の足跡・コロラド州にて/ photo:kazuhiko iimura)



更に、多くの専門家はこう信じている。
「今日でも恐竜と同じライン(系統)にある生き物が一つ栄えている。それが鳥だ」

15年ほど前、 Mark Norell博士ほかアメリカとモンゴルの科学者チームが発表した
モンゴルで発見された新しい恐竜の種、Mononychus( 一つの爪、という意味 )。
七面鳥ほどの大きさで、現代の飛べない鳥のようなものだそうだ。
身体は羽根で覆われていたと思われるが、
骨格の構造は鳥と恐竜、両方の特徴を持ってた。
この発見は、恐竜と鳥の関係をより強固なものにした。


 Q、恐竜はどんなものを食べていたのか?

まず、草食性の恐竜の場合。
ジュラ紀と白亜紀初期までの植物界は、まだシダ植物と裸子植物ばかり。
ソテツシダ類の種子や多汁質で年中実のなるベネチテス類などは、
当時繁栄していた竜脚類や剣竜たちの好物であったと思われる。
イチョウ類は一般に有害物質を含んでいた為食べられなかった。

白亜紀の終わり頃になると被子植物が進化し植物界を一変させた。
この栄養価の高い植物を食べて進化してきたのが、
カモノハシ竜や角竜、曲竜たちで、
剣竜はこの恩恵を授かる前に絶滅した。

草食恐竜の歯は、円錐形の単純な構造をしていたので、
馬や牛のように食べ物を歯で咀嚼する事が出来なかった。
そこで、石などを飲み込んで胃の中で食べ物と石をぶつけ合わせ、
咀嚼の変わりをさせていた。

肉食性の恐竜はというと、
彼らは相手の肉を食べるのであるからタンパク質そのものを食糧にしていた。
栄養価は極めて高く消化も良かった筈。
歯は鋭く、食べ物を切り裂き易いようになっていたが咀嚼する歯が無かった為、
まるごと飲み込んでいたと思われる。
ただ、殺したての新鮮な肉ばかりを食べたのか、
死んでから何日もたった肉を食べていたのかはハッキリしない。


 Q、恐竜の知能はどれぐらいだったのか? 

一般的に恐竜の知能はワニやトカゲ(下等脊椎動物)と同じ程度で、
それよりも良くもなければ悪くもなった。
しかし、恐竜の中でもその種類によってばらつきがある事には注意が必要だ。
肉食恐竜のティラノサウルスやアロサウルスは同じ恐竜でも体重の割に脳が大きく、
その知能は鳥類と同程度であったと考えられる。

肉食性の恐竜の場合、
草食性の恐竜が身に付けている防御用の角やトゲなどをかい潜り、
相手の動きに合わせて効果的な攻撃を仕掛けなければならなかった。
そのため、運動を脳によって統御する必要があった。
だから知能も発達したものと思われる。


 Q、恐竜は本当に温血だったのか?

〈参〉恐竜が温血性であったという場合、彼らが内温性(体内で発熱できる事)で、
 恒温性(体温が常に一定)であったという意味で使われれいる。

恐竜温血説を唱える科学者の一人 Robert Bakkerは、
その理由を次のように述ている。
恐竜は大きな心臓を持つのに充分な大きさの胸腔(鳥と似たもの)を持っていた。

「渡り」をしていたとされる恐竜は、
大陸の北から南まで幅広いレンジの気侯帯で生きていた事になるから、
温血性でなければとてもそんな事は出来ない。

この他、Bakkerは草食恐竜と肉食恐竜の割合が、
現在のサバンナでの草食動物と肉食動物との割合に近い事を指摘し、
恐竜が冷血なら食事量が少なくて済むので、
もっと多くの肉食恐竜がいた筈だとも理由づけた。

勿論、この他にも恐竜温血説を支える数々の理由がある訳だが、
一番の根拠はJohn Ostrom博士が1964年に、
小型肉食恐竜デイノニクスを発見した事にある。
高速で走り、
後足のカギ爪を振り回して獲物の飛び掛かるというデイノニクスの生態は、
高い活動レベルを維持できる温血性によらなければ説明がつかないとされた。

しかし、温血説に反対する研究者も多い。
現在生きている動物でさえ、温血とも冷血とも区別できないものが、
事実、5〜6種類はいるという。

特に、体重が200kgを越えるような生き物については、
いったん温まった体温はそう簡単には下がらなくなる。
つまり、外温性でありながら恒温性で温血性になる訳だ。
これを慣性恒温性と呼ぶが、
恐竜の体が巨大になった理由をこの現象に求める研究者もいる。

よって現在では、恐竜すべてが温血性であったとするのではなく、
デイノニクスのような小型の肉食恐竜たちは温血性だった、とする研究者が多い。


 Q、恐竜は子育てをしていたのか?

1978年、Jack Horner 博士が、
モンタナ州で恐竜の集団営巣地を発見した事に始まる。
巣の中からは、卵や孵化する直前の胎児をはじめ、
体長1m程の子供の恐竜が何頭も見つかった。
子供の歯はすり減っており、すでに食物をとっていたにも係わらず、
足の発育が不完全でまだ良く歩く事が出来なかった事を物語っていた。
このことは、
子供が巣の中で親から餌を与えられて成長していた事を示すとされた。

また、発見された巣は全部で14個あった訳だが、
それらの巣はみんな7m程の間隔で並んでいた。
これは丁度、成体のマイアサウラ(優しい母トカゲの意。Horner博士が名をつけた)の体長と同じであり、
鳥類の営巣と大変よく似た点を持っていた。

鳥が巣を作る場合、親が行き来できる最低限のスペースはとるが、
卵を保護する意味で巣を出来るだけ近付けて作る事が知られている。
この事から、
恐竜は爬虫類よりむしろ鳥類に近かったのではないかという説が出てきた。
最近では、ペンギンのように集団で、
ある社会を作って生活していたのではないかとも考えられている。



恐竜の骨
(茶色い部分が恐竜の骨・コロラド州にて/ photo:kazuhiko iimura)



さて、ではどうして、
巨大恐竜たちは約6500万年前に姿を消してしまったのだろうか。
約2億年にも渡って繁栄してきた恐竜に、一体なにが起こったのか。

恐竜はこれまでに約600種類以上知られているが、
これらが全て白亜紀末に一斉に滅んだ訳ではない。
発見されている化石の記録を調べると、
7300万年前から最後の6500万年前までの間に、
約70%の種類の恐竜が姿を消している。

これを恐竜化石の主要な産地である北アメリカ西部のデータで細かく見てみると、
7500万年前の地層から30属、7000万年前の地層から23属、
6900万年の地層から22属、
最上部の6500万年前の地層から13属となっており、
恐竜たちが最後の1000万年を通じて徐々に滅んでいった事が分かる。

このような事実にも係わらず、
恐竜の一斉絶滅として科学者の注目を集めてきたのは、
この時期、海洋動物の66%も同時に絶滅しているからである。

このように多数の動物種が同時に絶滅した場合、
それが異なる理由で偶然同時に絶滅したとは考えにくい。

では、なにが彼らを絶滅に追いやったのか。
以前までは、地球全体の天候変化説が主流であったが、現在では隕石衝突説である。
これはイタリアを皮きりに世界各地で、
白亜紀と第三紀の境界層から通常より1〜2桁高い濃度のイリジウムなどの隕石物質が発見されたからだ。

隕石の大きさは直径約10kmと推定され、
約6500万年前に落下したと考えられている。
また、その落下地点もメキシコのユカタン半島付近であると確認された。

隕石衝突説による絶滅のメカニズムは、
隕石の衝突により多量のちりが大気圏に舞い上がり、
長期に渡って太陽の光を遮ったというもの。
その為、地上の温度が低下して核の冬のような状態となり、
植物は光合性が出来なくなったと考えられた。

しかし、この説にも問題はある。
隕石の落下の前に恐竜たちはすでに衰退傾向にあったし、
アンモナイト類も白亜紀後期を通じて徐々に衰退しているからだ。


───ダーウィンが「種の起源」を発表してから核爆弾が炸裂するまで約80年。
もしかすると、我々人類は運が良かったのかもしれない。
なぜなら、
生きている間に人類がどこから来て、
どんな風に滅んで行くのかを知り得たのだから。


改めて、偉大なる恐竜たちに乾杯!


[追記(3/6)]

きのうの新聞には、下記のような記事がのっていた。
一歩一歩、地球の歴史が明らかになる。
以下、毎日新聞・記事の一部を…。

「恐竜絶滅 1回の小惑星衝突が原因 直径10〜15キロ」

恐竜など白亜紀末期の生物大量絶滅は、
現在のメキシコ付近への1回の小惑星衝突が原因とする論文を、
日本など12カ国の国際チームが5日の米科学誌「サイエンス」に発表した。
約6550万年前に、
地球環境を一変させた破壊的衝突の全容も明らかにした。

大量絶滅をめぐっては、
複数の地球外天体衝突説、火山噴火説も出されているが、
研究チームは「否定された」と結論付けた。

チームには専門家41人が結集。
メキシコ・ユカタン半島の巨大クレーター、
「チチュルブ・クレーター」(直径約180キロ)が形成された時期の
世界各地の地層などの最新データを解析し直した。

その結果、チチュルブ・クレーター形成と大量絶滅の時期は一致。
他の天体が前後に衝突した痕跡はない。
6550万年前ごろは火山活動が活発ではなかった、と判明。
クレーター形成による環境変化は大量絶滅に十分だったとした。

衝突した天体は直径10〜15キロの小惑星。
衝突速度は秒速約20キロ。
衝突時のエネルギーは広島型原爆の約10億倍。
衝突地点付近の地震の規模はマグニチュード11以上。
津波は高さ約300メートルと推定された。

衝突による放出物は世界約350地点で確認された。
放出物は大量のちりとなり、太陽光がさえぎられて地球上が寒冷化。
5〜30度の気温低下が約10年続き、
海のプランクトンや植物が死滅、
食物連鎖の上位にいた恐竜などが絶滅したと考えられるという。


(飯村和彦)

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