2010年05月
2010年05月05日
坂本龍馬と千葉さな子(佐那)の墓
このところの「歴史」ブーム。
本屋をのぞけばその特設コーナーに、
戦国から近代、現代に至るまでの書籍がズラリと並ぶ。
福山さんが主役を勤める大河ドラマの影響だろう、
特に坂本竜馬の関連本は凄い。
司馬さんの「竜馬がゆく」などの有名なものから、
“図解・竜馬”的なブームに便乗した「お手軽本」まで、
それこそ何種類もの本が山積みになっている。
もちろん、いいこと。
多くの人が歴史に興味をもって、
この日本という国の成り立ちに思いを馳せることは大切だ。
最初はそれこそ土佐藩の「坂本竜馬」でいいじゃない。
そこからスタートして、
長州の「高杉晋作」、越後の「河合継ノ助」
新撰組の「土方歳三」、最後の将軍「徳川慶喜」、
穢多頭「弾左衛門」、幕府医官「松本良順」。
英国公使館通訳「アーネスト・サトウ」
孝明天皇や明治天皇、
終戦時の首相「鈴木貫太郎」等々へ、
興味の幅が広がっていけばいい。
そうなれば、さらに微細で専門的なところにも入っていける。
明治維新って?
近代化で得たものと失ったものは?
「統帥権」って?
陸軍の暴走って?
占領軍GHQの「G2」、「GS」の役割は?
いつの時代のどんなところを起点にしても構わない。
そこから縦横に歴史の世界を探検する。
するとどうだろう。
面白いことに、そうすることで歴史だけではなく、
「今」がくっきりと浮かび上がってくる。
現代を知ることは歴史を知ること。
歴史を知れば現代が分かる。
言い古されたことだけど、これって真実で本当に興味深い。
さて、
そんなこんなをダラダラ述べたところで本日の本題。
「私は坂本竜馬の婚約者だった」
と生涯いっていたといわれる千葉さな子について。
↓の写真は、彼女の眠る長野県にある墓。
場所は、甲府市にある日蓮宗清運寺である。
では、千葉さな子とはいったいどんな女性で、
坂本竜馬との関係はいかなるものだったのか。
この件についてはそれこそ数多くの本に書かれているから、
それぞれが好きなものを参照にすればいい。
という訳で、
ここでは司馬遼太郎さんの「余話として」から、
千葉さな子について記述したところの一部を…。
以下、「余話として」より抜粋
…剣の千葉家には、周作の神田お玉ヶ池道場と、
周作の実弟定吉の桶町道場とのふたつがあり、
たとえば坂本竜馬はその桶町千葉の塾頭であった。
…竜馬と千葉家(定吉)の娘さな子との交情について…
…竜馬は桶町千葉で剣を学んだが、ほとんど千葉家のい家族同様に待遇され、
のち諸国を奔走しているときも、
江戸にきればかならずこの千葉家を宿にした。
自然のなりゆきでさな子は竜馬に好意をもったが、
竜馬もむろん同様だったにちがいない。
かれは技能をもった才女がすきで、
それからみればさな子は娘ながら北辰一刀流の免許皆伝の持ち主である。
ところがこの恋は結ばれなかった。
竜馬はその若い晩年、最後に江戸を発つとき、
さな子から胸中をうちあけられ、
かれもおどろいた。あるいは驚いたふりをした。
なぜならば、竜馬は妙に艶福家で、
このときすでに京において「おりょう」という娘を得ており、
これを結局は妻にした。
という事情から、その事情をうちあけられもせず、
かといって恩師の娘をいたぶることもならず、
窮したあまり、
「自分は危険な奔走をしている。いつ死ぬかわからず、
だから結婚ということは考えられる境涯ではない」
と婉曲にことわり、
「しかしうれしい」などといって、
いきなり自分の着ている着物の方袖をひきちぎり、
「浪人の身でなにもさしあげるものはないが、
これを私の形見だとおもってください」
といって、
その桔梗紋入りの方袖をさな子に渡し、千葉家を去った。
その後、竜馬は死んだ。
…さな子は、維新後は、
女子学習院の前身である華族女学校が永田町にあったころの
舎監のような仕事をしていた。
教え子たちにときどき昔ばなしをし、
私は坂本竜馬という人の許婚者でした、と語ったりしたが、
明治の初年は生き残った元勲たちの全盛時代で、
物故者の名はほとんど世間で語られることがなく、
娘たちも坂本某とは何者であるかよくわからなかったそうである。
さな子は、竜馬の「妻」として生涯空閨をまもった。
さな子自身も、
京や長崎で奔走する竜馬にはおりょうという者が存在したということを
おそらく知らなかったにちがいない。
…自然石の墓碑に、「千葉さな子墓」ときざまれ、
碑の横側には、「小田切豊次建之」とあり、
さらに「坂本竜馬室」と、刻まれている。
さな子は生涯、竜馬の妻のつもりでいたらしいが、死後、
墓碑によってその思いが定着した。
【以下3/22・読売新聞より抜粋】
坂本龍馬が江戸で剣術修行中に知り合い、
婚約したとされる千葉佐那(さな)が、飛び切りの美人だったとの記述が、
愛媛県に残る宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり)の記録、
「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」にあることがわかった。
龍馬研究者の宮川禎一・京都国立博物館学芸部室長が確認し、
「同時代史料で確認できたのは初めて」と話している。
佐那は北辰一刀流の達人千葉周作の弟、定吉の娘で、
定吉の道場に学びに来た龍馬と知り合い、
婚約して結納を交わしたとされる。
公記は宗城の直筆の日記などから明治期にまとめられたもの。
安政3年(1856年)6月19日の項で、当時19歳だった佐那が、
「世子殿」(9代藩主宗徳、当時27歳)の剣術の相手をして打ち負かしたくだりに
「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」などとあった。
伊達家の御殿は江戸に2か所あり、
出入りする多数の女性の中で、
宗城が佐那を一番の美人とみていたことが読み取れる。
安政3年は佐那が龍馬と知り合った少し後で、
伊達家の姫君の剣術教師だったらしい。
【以下、4/25・スポニチより抜粋】
坂本龍馬の婚約者だったとされ、
NHK大河ドラマ「龍馬伝」では貫地谷しほり(24)が演じる
千葉佐那が眠る清運寺(甲府市朝日)の墓参者が急増している。
これまで年間200人程度だったが、
番組開始以降は1000人を突破。龍馬を思い続け、
生涯独身を貫いたいちずさに魅せられ、
墓前で永遠の愛を誓うたカップルも多いという。
番組に佐那が登場したのは1月24日放送の第4話。
以降、墓参者は後を絶たず、
清運寺では3月に急きょ道標を設けたほど。
20代以上のカップルが目立つようになり、
田中宏昌住職は、
「お墓の前で永遠の愛を誓われているようです。
以前はこんな光景は見られませんでした」と驚いている。
佐那は北辰一刀流を開いた千葉周作の弟、定吉の長女。
剣術使いとして、男性を寄せ付けず「千葉の鬼小町」と呼ばれた。
それを一変させた出来事が、剣術修業で土佐から江戸に上り、
定吉の道場に入門してきた龍馬との出会い。
福山雅治(41)が演じる龍馬に、
いつも真っすぐな視線を向けて、
いちずな思いを表現する貫地谷の演技は見せ場の1つだ。
以前の清運寺は、
剣術向上などを目的とする墓参がほとんどだったという。
田中住職は、
「佐那はただいちずなだけではなく、
剣も琴も絵もお灸(きゅう)も得意とする才女。
このドラマで初めて人柄を紹介されて、
魅力に気付いた方も多いと思います」
佐那は板垣退助にも灸の治療を施したといわれる。
龍馬が姉の乙女にあてた手紙にも佐那の記述がある。
広末涼子(29)が演じる初恋相手の平井加尾よりも
「かほ(顔)かたち少しよし」
その後、龍馬は京都で出会ったお龍と結婚する。
佐那は、龍馬が死亡したことを伝え聞いた後も思いは曲げず、
1896年に58歳で亡くなるまで独身だった。
清運寺の墓は東京・谷中にあった墓地から分骨して建てられた。
JR甲府駅から徒歩13分ほど。
自然石の墓石の裏には、
龍馬の妻を意味する「坂本龍馬室」と刻まれている。
(飯村和彦)