ダブル

2020年07月17日

「Double2 The Freedom to Dream 2020」(English edition)=「ダブル2 夢見る自由 2020」(英語版)です


Double2 2020 Paper cover



*For residents of the United States(アメリア在住の方)

Kindle version(電子書籍 Kindle版)
Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura(English edition) Kindle
Paperback version(書籍版)
Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura (English edition) Paperbak


"Double2 The Freedom to Dream 2020" is the electronic and updated version of Double which was originally published in 2005 and Double2 originally electronically published in 2013. To make it easy to follow, the content of the previous two books are included in this edition. The voice of Double and, in fact, his whole family have changed greatly in the intervening years. Additionally, this edition provides updates on the thoughts of Double and the family's life during the reunion of the family in 2020 due to the COVID-19 pandemic.What exactly has changed in the past 25 years? What has remained the same? Why? Meditating on those questions while re-examining our photos has led me to the words on these pages. Children grow up. This gives us adults a chance to grow as well. Have we made something of that chance or not? There are many regrets. Have there also been moments of pride? Updating this book has had me thinking acutely about these issues.When the original book was published in 2005, those who supported it most enthusiastically were female junior and senior high school students. They are now all adults. I am sure they are not just "fine" but unique and special women. Some may be mothers of a child with their own "I" voice. I am fascinated to know how "Double2 The Freedom to Dream 2020" appears to them now.

Thank you.



P.S.

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Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura (Bilingual edition-Kindle)

Double2 The Freedom to Dream 2020 by Kazuhiko Iimura (Bilingual edition-Paperback)



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2020年07月13日

写詩集「ダブル2 夢見る自由, 2020」日本語版も出版になりました!



ダブル2 2020 日本語版 表紙


電子書籍 「ダブル2 夢見る自由 2020」 (日本語版)飯村和彦

もしかすると「Kindle-電子書籍」ということで、
Kindleリーダーとか持ってないから読めない…
と思っている方もいらっしゃるかもしれません。
が、違います。

※Kindle電子書籍は誰でも読めます!

iPhone, iPad, Android端末で読みたい方は、
無料アプリをインストールすれば読めます。
WinPCからは、Kindle for PC、
MacからはKindle for Macアプリで読めます。

ということなので
本書に関心のある方は宜しくお願いします。


写詩集「ダブル2 夢見る自由 2020」で表現された世界は、
過去から現在へ繋がっている私や妻、子ども達の記憶そのものです。
さらにそれらの記憶は、私たち家族だけのものではなく、
おそらく多くの人たちの記憶とも必ずどこかで底通していると思います。
この本の中で「僕」が見せる表情は、
きっと皆さんの子ども達と同じであり、
自分が幼かったころのものと変わらないはずです。

本書の「僕」は今年25歳です。
これまでの25年間で「僕」とその家族の何が変わって、
何が変わらずにそのままなのか。その理由はどこにあるのか。
あれこれ思いをめぐらしながら何度も写真を見つめ、
事象や出来事を普遍化するための言葉を選びました。

また本書では、
新型コロナウイルス禍の影響で家に再集合した
2020年の「僕」やその家族の生活についても詳しく紹介しています。
“コロナ後”の世界の在りよう…気になります。

なお、タイトルになっている「ダブル」は、
「ハーフ」という言葉の代わりに
私たち家族が積極的に使っている表現です。
「お子さんは、日本人とアメリカ人のハーフですか?」
と訊ねられれば、いつも
「ええ...、ダブルです」と返答しています。
半分ずつではなく、それぞれが「全て」という思いからです。

最後に「ダブル2 夢見る自由 2020」は、
英語と日本語で書いた「バイリンガル版」も出版されています。

電子書籍「ダブル2 夢見る自由 2020 (バイリンガル版)飯村和彦

海外のご友人と「家族のカタチ」を語り合う際に
ご活用していただければ幸いです。

どうぞ宜しくお願いします。



newyork01double at 03:56|PermalinkComments(0)

2018年10月10日

動画「Hana's Life 〜ハナばあちゃんと子どもたち、7年間の物語〜」




Hana1
(photo:kazuhiko iimura)




長い間やろうと思っていても、
なかなか実行に移せなかったこと。
それが撮りだめた家族の日常映像を編集して、
ひとまとまりの記録にすること。

まずは祖母に関するところだけでも…と決心して、
数年前から仕事の合間に少しずつ作業をして、
去年の夏、一応完成した。


以下は、そのときに記した文章です。

がんとの闘いを何度も克服し、97歳まで生きた祖母。

完成したVTRは、
祖母が90歳のときの正月から始まり、
97歳でこの世を去るまでの7年間の話だ。
その間に生まれた、
うちの子どもたちの素材も組み込んだ。

撮影舞台は、ほとんどが実家。
シーンも私どもが実家を訪れる盆と正月が大半だから、
当然、似たような場面の繰り返しになる。
ところが、実際に映像や写真を時間軸で見ていくと、
毎年の繰り返しだからこそ、
「そうなのか…」
と合点するところが多々あった。





ばあちゃんと万弥とブレットb 6月21日1998年
(photo:kazuhiko iimura)





当然ながら祖母は年々、老いていく。
“老いが深まる”といった方が適切かもしれない。
けれども、


「生きよう!」
「生き切ろう!」



とする意思は健在で、
末期がんで死の淵に瀕したときも、
70年間連れ添った夫(祖父)と死別したときも、
祖母は強い意志でその都度、奇跡的な回復を遂げた。

もちろん歳が歳だから、顔に刻む皺は年々深くなるし、
幾度となく繰り返される玄関をでる様子は、
一人でスタスタ歩いている姿から、
家族の誰かに抱えられて移動する姿へと変わっていく。

けれども、それは単なる身体的な老いでしかないようで、
祖母の老いと反比例するように、
年々成長するひ孫たちに接しては、
祖母は自身の中にある、
「生きる力」を再確認していたように思える。





62ダブル
(photo:brett iimura)




家族の中に高齢者が存在していること。
自宅とケアハウスを行き来する祖母の生活。
そんな祖母の生活を支える父や家族の日常。

話を少し一般化してみると、
当時のあの家には、
「在宅介護」や「老老介護」、「施設と自宅」…等々の問題が、
すべて当たり前に存在していた。
その上で、家族や親族が高齢者を敬い、ともに日常を生きる。

もちろん、介護する側の負担は大きい。
実家にいる家族たちの苦労は並大抵ではなかったはずだ。
でも、だからといって特別なことをする訳じゃない。


明るく楽しく…
どんなときでも…いつも通り、普段通り。



そんな「いつも通り」がどれほど大切で、
どれだけ掛けがえのない時間だったことか。


懐かしいというより、尊い。





Hana3
(photo:kazuhiko iimura)





さて、現実的な編集作業はといえば、
これが思っていたより大変だった。

7年間とはいえHi-8やDVの映像が、テープで約40本分。
その中から祖母にまつわる部分だけを抜きだす。
もちろん写真もたくさんある。
そんな素材を時系列にそって忠実に並べていった。

ナレーション原稿を読んだのは娘(現在、大学生)。
彼女が生まれたとき、祖母は94歳。
当時の記憶なんてないだろうけれど、映像は雄弁だ。
きっと彼女なりに「なにか」を見つけたはず。

結局、1時間15分ほどの「記録」になった。

それ自体は極めて個人的なものだけれど、
先に触れたように見ようによっては普遍的でもある。


だから、
今回再編集してブログにアップすることに…。

とはいってもネットで見る動画としては、
さすがに1時間15分は長い。なので全体を40分ほどに短縮。
さらに「上」「中」「下」と、
約15分ほどの動画、3本に分けました。

ひとつの「家族のかたち」として眺めて頂ければ幸いです。

興味のある方は、
時間のある時に、
一本ずつご覧ください。



Hana's Life〜ハナばあちゃんと子どもたち(上) ↓




Hana's Life〜ハナばあちゃんと子どもたち (中) ↓




Hana's Life〜ハナばあちゃんと子どもたち (下)↓


(飯村和彦)

newyork01double at 21:22|PermalinkComments(0)

2017年03月18日

人生が劇的に変わった瞬間〜自宅出産に立ち会うということ



先ごろ、我が家の二人の子どもたちがお世話になった助産師さんが現役を引退しました。
今回の文章は、上の息子が生まれた日のことについて書いたもので、去年の夏に「原爆投下から終戦までの信じがたい経緯を!21年前の夏、子どもが誕生した日に考えたこと」の中に、“「ヘイ ボーイ!」より抜粋”として掲載した部分の続きになります。
ひとつ付け加えるとすれば、下の娘が生まれたときも同じように自宅出産に立会い、さらに“その思い”が強くなったこと。
かなり長文なので、時間に余裕のあるときにお読みいただければ幸いです。

以下、「ヘイ ボーイ!」より抜粋



こどもたち
(photo:kazuhiko iimura)



考える人

一階部分がデジタル写真印刷会社の店舗兼作業場になっている三階建てのマンション。その三階の一番手前、303号室が『現場』である。
「いま帰ったよ、どう?」
玄関ドアをあけるより先に父さんは口をひらいていた。
上がり口に靴を脱ぎ捨て、短い廊下をドタドタと進む。キッチンに入ったところで、隣のリビングから母さんの声が聞こえてきた。
「あなた…」

ドアを開けると、なにかの上に全裸で座っている母さんの姿が目に飛び込んできた。
折った膝頭に頬杖をついて、顔だけをこちらに向けたポーズ。
例えるなら『考える人』。そんな格好だった。
「おか、えり」
母さんは、必要以上に声を張らない、呼吸をするようなしゃべり方で父さんに応えた。細い息を吐きながら声をだし、幾分長めのブレスをとって、また息を吐きながら言葉を繋げる。
その顔には色濃い疲労が見てとれた。

「グーはどうした、まだだね」
状態を見れば一目瞭然なのだが、父さんは確認せずにはいられなかった。
すると母さんは、ふわりとした笑みを浮かべていった。
「この子は、父さん思いの、いい子みたい」
そして、足元に置いてあった麦茶のグラスにそっと手を伸ばすと、唇を湿らすように音をたてずにひとくち飲んだ。

母さんの頬はうっすらと紅潮していて、グラスを持つ指先だけがやけに白かった。
そんな母さんの仕草や表情には、どこか人の気持ちを落ち着かせる力があって、朝からずっと走り続けていた父さんには、いわば長い文章の読点のように作用した。
「ほ〜っ」
父さんはジャケットを脱ぐとカーペットの上に腰を下ろし、部屋の中をゆっくりと見回した。
エアコンのスイッチはONになっていたが、室内はやはり蒸し暑かった。
けれども、その暑さは外の射るような暑さではなく、どこか柔らかな、いってみれば母さんの体温のようなもので、思っていたより不快なものではなかった。
繭の中というか、子宮の中というか、想像するとそんな感じ。

胎内の温度は37度ぐらいだというから、そこまでではないにしても君が生まれてくるのには丁度いい室温だったのかもしれない。

そして、考える人。

よくよく見れば、母さんが座っていたのは逆さまにしたプラスチック製のバケツだった。床掃除のときに使う、あのなんの変哲もない水色のもの。お尻の下にはクッションの代わりにバスローブが敷かれていた。
――考える人のポーズ。
それは陣痛と戦うのではなく、折り合うための方法として母さんが辿り着いた究極の姿勢だったのだろう。どこか原始的な風景のようでもあり、そこには何かしら父さんの心をしんとさせるものがあった。
父さんは本棚の上にのせてあったキャノンを手にとると、そんな母さんの姿を一枚写真に収めた。

「ともかく、写真はたくさん撮ろう」
それも、父さんと母さんの決め事だった。
胎児の成長に伴い、母体の形はどのように変化していくのか。
その変遷をあとでビュジュアル化できるように、父さんたちは定期的に同ポジ撮影まで敢行していた。
一回の撮影で36枚撮りのフィルムがなくなることもしばしばあった。もちろんカラーと白黒の両方である。

「でも、この写真をいつかグーが見ると思うとわくわくするね。どんな顔をするかしら。お腹の中にいたときの記憶は残らなくても、写真にはそのときの事実が残るからいいわよね。私もそんな写真、欲しかったな」
撮影のたびに母さんはそういっていたが、父さんにしても気持ちは同じだった。

記念写真というのは、そこに写っている自分の姿を見るというよりは、その写真が撮られたときに自分の周りにいた人たち、つまり自分と一緒に写っている人たちがどんな風だったのかを知ることができるから楽しい。
だから、自分が胎内にいたときの母の姿状や、胎動を感じたときの母の表情をとらえた写真がもしあったら、自分が「生きる」ということを考える年齢になったときに、欠かせないものになっていたはずだ。




お腹が大きい
(photo:kazuhiko iimura)



父さんは、そんなことを考えながらわが家の『考える人』をファインダー越しに眺めていた。
そして、はたと気づいたことがあった。
君が生まれる瞬間にその場にいるべき、もうひとりの人物がいないのだ。
父さんは慌てて尋ねた。
「藤井さんは? まだ来ていないの」
腕時計に目を落とすと、時刻はすでに午後2時近くになっていた。
確か、昼前には到着しているはずだったのでは?

学芸大学駅から碑文谷のマンションまでの道順をかいた地図(かなり丁寧なもの)は、きのうのうちにファックスで送ってあったし、そのあと電話でも確認した。だから、相当な方向音痴でもないかぎり道に迷うことはない。
指を噛んで、陣痛に耐えていた母さんがいった。
「お昼ごろ、電話があって、少し遅れるって」
「それで大丈夫だって?」
目の前の母さんの状態からして、父さんにはとても大丈夫そうには思えなかったのだが。
「そういっていた。たぶん、早くても、夕方だろうって」
「ふーん」

自然分娩は、文字通りかなり自然の力の影響を受ける、といつか藤井さんが説明してくれたのを思いだした。
満月や新月の前後にはお産が増えるし、一日のなかでは潮の満ち引きが重要なファクターになるのだといった。陣痛でいえば満潮の数時間前から強くなり、逆に引潮の時間になると弱くなる。だから陣痛が弱くなっても焦らず、次の満ち潮を待つのが懸命なのだという。
しかし、そうはいってもそれが全てではないだろうし、万が一、助産師の藤井さんが到着する前に分娩がはじまってしまったらどうなるのだろう。
そう考えると父さんはゾッとした。

胎児のとり上げ方までは、出産準備クラスでも教えてくれなかった。
ヌルッと出てきた君をしっかり受け止められなかったら。
上手く生まれたら生まれたで、へその緒はどう処置しらいいのか。
無闇に切っていいはずがない。
切るべき最適なタイミングと、「ここを」という位置があるに違いない。
君が生まれ出た後、どれぐらいたってから胎盤やらなにやらが母さんのお腹の中から出てくるのか。それをどう扱ったらいいのか。
不安の種は尽きなかった。
それでも、あれこれ思案した末に父さんは一つの結論に達した。
「ともかく、手だけはきっちり洗っておこう」
とっても簡単なことだが、なによりも大切なことに感じられたのだ。
綺麗で清潔な手。

――オーケー、さっそく手を洗おう。

そう思って父さんが立ち上がったときだった。
「あなた、お風呂、入れてくれる?」と母さんがいった。
「ずいぶん楽になるって、藤井さん、いっていたでしょ」
お湯の温かさと浮力で収縮(陣痛)が緩むので楽になるのだ。最近、妊婦のあいだで水中出産が人気になっているのもそんな理由からだという。
「わかった、すぐに入れる」
その後の父さんの行動は機敏だった。

バスルームに入ると、まず洗剤をつけたスポンジでキュッキュ、キュッキュと浴槽を洗った。そして、シャワーで泡を洗い流しながら同時にお湯の適温(この場合は幾分ぬるめ)を探る。それで、これだという温度になったら、綺麗になった浴槽にお湯を溜めはじめる。
その間、額やまつ毛から汗がポトポトと滴り落ちたが、まったく気にならなかった。無心とまではいわないが、黙々と山道をのぼるあの心境に近かった。


助産師の藤井さん

「ど〜も!」
インターフォン越しに、助産師の藤井さんの明るいの声がマンション内にこだましたのは午後3時をまわったころだった。
急いで玄関に走りドアをあけると、紫色の大きな風呂敷包みを抱えた藤井さんがにっこり笑って立っていた。
「お待たせ!」
普段通り、元気一杯の藤井さんである。
「どーも、待っていましたよ。道にでも迷ったんですか?」
父さんとしては、やはり遅れた理由が気になったのだ。
「とんでもない。パパさんの書いてくれた地図、バッチリでした」
藤井さんは、父さんのことを『パパさん』と呼んでいた。
「出がけに、おとといお産をすませたお母さんから電話があって…。ごめんなさいね、遅くなって。ママさん大丈夫かしら」

だからといって、藤井さんが恐縮していたかといえばそうじゃない。
余裕しゃくしゃくといった感じで、抱えていた風呂敷包みを床に置くと、履き口がマジック開閉タイプになっている健康シューズの甲の部分を勢いよくバリバリと剥がした。
父さんは訊いた。
「そのお母さんに、なにかあったのですか?」
すると藤井さんは、呆れたとばかりに手のひらをひらひらさせて応えた。

「赤ちゃんの手足が干からびて大変なんです。象みたいに皺だらけになっちゃったんですけど〜、どうしたらいいんでしょうか〜って。もう慌てちゃってね」
そういいながら藤井さんは、脱いだ健康シューズの向きをくるりと変えた。
ちなみに藤井さんは50歳代の後半である。
再び、父さんは訊いた。
「新生児によくある、脱水症状のあれですか?」
妊婦のバイブルといっても過言ではない名著、岩波書店の「家庭の育児」にそんなことが書いてあったのを思いだしたのだ。父さんはすでに、あのぶ厚い本にひと通り目を通していた。

「そうそう。オッパイあげていれば二、三日でよくなるの。でも最近のお母さんはそれが普通のことっだて知らないから、なにか大変な病気かもしれないって思っちゃうのよ。なかには母乳を止めてミルクを沢山飲ませた方がいいんでしょうか…なんてことを聞いてくるお母さんまでいるのよ」

藤井さんはいつでも、さばさばとした口調で物事の核心をついてくる。
玄関の隣にあるバスルームで入念に手を洗いながら、藤井さんは続けた。

「ほら、人工乳の缶があるでしょ。赤ちゃんといえば、あのかわいい笑顔のプチプチ肌だって思い込んでいるお母さんが多いから。本当はその人工乳が問題なのにみんな惑わされちゃうのよ、あの写真にね」

人工乳など母乳の足元にも及ばない。なのに多くの母親がなにかあると母乳育児を放棄して人工乳に走ってしまうのは、乳業メーカーの巧妙な宣伝活動によるところが大きいのだ、と藤井さんは常々怒っていた。
免疫力の高い母乳を飲んで育った赤ちゃんは、人工乳(いわゆるミルク)で育てられた赤ちゃんにくらべて、アトピー性皮膚炎などにも罹りにくいのは証明済みなのだという。
もちろん、他の病気に対しても強い。
そもそも万人に効く薬がないのと同じように、どんな乳児にも対応する人工乳(乳業メーカーにいわせれば母乳代用品)など存在しないのだ。
だからこそ人間には母乳がある。
「それぞれの赤ちゃんの体質にぴったりあった完璧な滋養物が母乳なの!」
それが藤井さんの口癖でもあった。
そんなことに考えをめぐらしながら、父さんは藤井さんをリビングに案内した。

「ママさん、どう? 顔色いいみたいね」
すでに風呂からあがり、再び『考える人』になっていた母さんを目にするや否や藤井さんはいった。
助産師としての藤井さんの関心は、妊婦がどんな格好でどんな呻き声をあげているのかではなく、その顔色や目つきにあるようだった。
例のとぎれとぎれの話し方で母さんが応えた。

「痛いけど、なんとか、頑張っています」
「今、陣痛がくる間隔はどれぐらい?」と藤井さんが尋ねた。
「だいたい、3、4分」
「もうちょっとね。お風呂には入ったの?」
「さっき」
「それはよかった。何度でも入っていいのよ。特にきょうみたいに暑い日は、清々するから」

そういうと藤井さんは風呂敷包みを開いて、荷物の一番上に載っていた真っ白い木綿の割烹着を取りあげた。そして、左右の握り拳を交互に突き上げるような格好で袖に腕を通すと、「さて」と軽く気合いを入れた。
肝っ玉母さんの勝負服。やはり割烹着は白に限る。


「そのとき」までの数時間

「蒲団の部屋に、いく」
短い息をひとつついて、母さんは、君をいたわるようにお腹の下に両手をあてがいながらゆっくりと立ち上がった。
「どっこいしょ」
藤井さんが、母さんの代わりに声をだして拍子をとった。
慎重な足取りでのろのろと四畳半の和室に入った母さんは、白いビニールシートのかけられた敷き蒲団の上に横になった。
三方が襖になっている室内は薄暗い。でもきっとそんな明るさの方が気分が落ち着くのだろう。
すると藤井さんは、母さんの横に座ってマッサージをはじめた。
膝頭から脹ら脛の裏側をゆっくりと揉んでいく。ごつごつした手。でもその手は、生身の人間に触れながら多くの夢や希望をたぐり寄せてきた手に違いないのだ。

藤井さんが父さんの方を向いていった。
「パパさんは、足の裏を押してあげてね」
脚の長さの割には、母さんの足は小さい。
父さんは母さんの足を自分の膝の上に載せると、土踏まずのあたりに右手の親指をぐっと押しあてながら、左の手で母さんの足の指全体を軽く揉みはじめた。
冷え性の母さんの足は、夏の暑さのなかにあっても指先が冷たかった。

しばらくして、室内にノーザン・オリオール(ムクドリ科の小鳥)のさえずりが響きわたった。この日のために買った掛け時計で、12種類の野鳥の鳴き声で時刻を知らせてくれる。
ノーザン・オリオールがさえずれば午後6 時ということ。
掛け時計のほかにも、リビングには君が生まれたときに必要なありとあらゆるものが準備されていた。

まず柔らかい綿製の産着。これは兄夫婦から譲り受けたもので、白地に薄水色の花火模様が入っていた。そしてバスタオル5枚と布オムツ14枚(これも兄夫婦から)。マジックテープのついたオムツカバーが2枚。
その横の木製の盆の上には、抗菌性のあるハーブの目薬(自家製。出生直後の新生児に必要)とヘソの緒を切るときに使うハサミ、熱湯で殺菌されたガーゼが入ったタッパー。
壁際にある入れ子式テーブルには、新生児(つまり君だ)の身体測定に必要な折り畳み式の木製物差しとフックのついた古めかしいバネばかりが、胸囲を測るときに使用する一巻きのたこ糸と共に並べてあった。

「お湯を沸かすのは、もう少したってからにしましょう」
分娩まであと一、二時間。母さんの子宮口の開き具合を診て、藤井さんはそう読んでいた。
「いま8センチ弱だから」
母さんはといえば、もうほとんど言葉を発せない状態だった。
俯せの姿勢で枕に顔を押しつけ、うーん、うーんと唸っては、はーッ、はーッと息を継ぐ。
目の端には涙が浮かび、右手には軟式のテニスボールが握られていた。
父さんはそんな母さんの背中を両手で撫でていた。

力んではいけない。
母さんの規則的な呼吸のリズムを乱さないように細心の注意を払う。
そのとき、藤井さんがはたと思いだしたようにいった。
「パパさん、シチューのルーは買っておいてくれた?」
「はい!」
文字通りの即答である。
「種類はなんでもいいんですよね」
「そう、ママさんの好きなもの。まあ最初は抵抗があるかもしてないけど、シチューにすればおいしく食べられるから。パパさんも試さないとダメよ」

――ああ、やっぱりマジだったんだ。

母さんの背中を撫でていた父さんの手が一瞬とまった。
藤井さんのいう[抵抗があるもの]とは、胎盤のことだった。
広辞苑には、
【妊婦の子宮内壁と胎児との間にあって、両者の栄養や呼吸、排泄などの機能を媒介・結合する盤状器官】
そして、【胎児の分娩後、続いて胎盤も排出される】とあった。

藤井さんによると、産後、母体から排出された胎盤には、お産を終えた妊婦に必要な栄養素が全て含まれているのだそうだ。
だからそれを食べる。
よって「胎盤シチュー」なのだ。
父さんは訊いた。
「みんな食べるんですか? あまり聞いたことがないけど」
父さんなりの最後の抵抗である。
ところが藤井さんは、
「野生動物は、大方食べるんじゃないかしら」
とサラリと受ける。そして続けた。
「私のところにきた妊婦さんたちには勧めているの。産後の肥立ちが抜群によくなるから。病院なんかだと生ゴミ扱いにされちゃうけど、もったいないもいいとこね」

そういいなが藤井さんは、うーうー唸っている母さんの手のひらを揉んでいた。親指と人差し指の付け根部分。そこを適度に圧迫すると痛みが和らぐらしい。
仕方なく父さんは、既に進行中の現実を受け入れるべく、実際的な質問をすることにした。
「味なんかはどうなんですか。その胎盤の…」
「悪くないわよ。塩をひとつまみ余計に入れるのポイントかな。ちょっと筋っぽいけど、じっくり煮込めばいい味がでてくる。それから胎盤と一緒にへその緒も輪切りにして一緒に煮込むの。こっちはコリコリした歯触りでホルモンみないな感じかな」

――へその緒?

そんな話は聞いていなかったような気がしたが、父さんにそんな疑問を口にする余裕はなかった。
ともかく、味の問題である。
「バジルなんかも入れていいのかな…」と父さん。
「もちろん。なんでも好きなものを入れていいの。パパさんも食べてみればわかるわよ。おいしいから。ともかく、ママさんは向こう一週間、胎盤シチューだけでOK!」
右手の指でOKサインをつくると、藤井さんはひとり笑って見せた。
やれやれ。

胎盤は(多分、へその緒も…)、藤井さんが全て切り分けてくれることになっていたのだが、当然一度に全部食べられる訳ではない。したがってそのほとんどは冷凍保存されることになる。
要するに、食事のたびにそれらを適量解凍してジャガイモやら人参やら椎茸やらと一緒に煮込んで、胎盤シチューをつくるのは父さんの役割になるのだ。
溜息の一つぐらいは許されるだろう?
その点、母さんは違っていて、藤井さんから最初に胎盤シチューの話を聞いたときから興味津々で、どこか楽しみにしている節まであった。

それは母さんの生命観とどこかで通底しているようでもあった。
人間に生来備わっている機能、広い意味でいえば生き物が生きるために自ら作りだすありとあらゆるものには固有の目的があり、それに抗うことは生き物としての自己を否定することに他ならない。
母さんはそのような信念というか、生命観の持ち主だった。
だからなのだろう。
母さんと藤井さんは妙にうまがあった。
そんな二人のまわりを衛星のように回っていたのが父さんなのだ。


そして、誕生の瞬間に…

午後7時過ぎ。
四畳半の和室(わが家の分娩室である)で母さんの触診をしていた藤井さんが、ぼそりといった。
「自然破水。子宮口も全開。ぼちぼちかもね」
実はその少し前から母さんの様相が一変していたのだ。
それまでは、陣痛の痛みをうーうーという呻き声の形に還元して体外に放出していた母さんが、突如、猛り狂った野獣のような叫び声を発するようになったのだ。

「くるくるくる、やだやだやだ!」

容赦なく打ちよせる陣痛の荒波に漂い揉まれながら、あらん限りの声を張り上げて助けを求めているといった感じ。小節の利いただみ声というのか、かすれぎみの太い悲鳴というのか、なににしろその声は襖や壁はおろかマンション全体が揺れるほどの大きさだった。

「いやーッ、いやーッ!」
「NO! NO------------OH! 」

ともかく母さんは叫びまくった。
すでに日は暮れかけていて、室内に差し込んでいたオレンジ色の西日もだいぶその明度を失っていた。東側に掛けてある遮光カーテンの隙間からは、隣のマンションの部屋に明かりが灯っているのが見えた。父さんのマンションと隣のマンションは、幅約2メートルの通路を挟んで並んで立っている。
で、ふと思った。

――隣近所にも、この絶叫は聞こえているんだろうなあ。

そう考えると、にわかに父さんの胸の中に不安が広がった。
母さんの絶叫を耳にしたどこかの誰かが、慌てて受話器を握る光景が頭に浮かぶ。
目の前では、藤井さんが触診用の新しいゴム手袋の用意をしていた。
父さんはいった。
「事情を知らない人がこの声を耳にしたら、ドメスティック・バイオレンスかなんかと勘違いして警察に通報しちゃうんじゃないかな」
状況からすれば、充分あり得ることのように思えたのだ。

ところが藤井さんはといえば冷静沈着。父さんの心配事など荒唐無稽だとばかりに軽く受け流した。
「まあそのときはそのときで、お巡りさんに近所まわりをしてもらいましょうよ」
そして、穏やかな口調で父さんに現実的な指示をだした。
「パパさん。ママさんを背中から抱えてあげて」
静かだが有無をいわさぬ力がそこにはあった。

父さんは素早く持ち場についた。
背中を押入と押入の間にあった柱につけ、両腕を母さんの背後から脇の下にまわす。それから上半身を抱え込むようにして中腰になる。そして、その体勢を保ちながらビニールシートの掛けられた敷き蒲団の上に静かに腰を下ろした。
傍から見れば、パンダかなにかを背後から抱きかかえているような格好である。

一方、藤井さんはといえば、母さんを抱えている父さんの正面で立て膝の姿勢をとっていた。
「口の痺れ、手の痺れはどう?」
藤井さんが母さんに尋ねた。
絶叫を繰り返していても状況判断はできているらしく、母さんは藤井さんの問いに二度三度、首を横に振って応えた。
特に痺れはないようだ。
そんな母さんの仕草をみて藤井さんは頷く。
「大丈夫、大丈夫。落ち着いて」
しかし、そういわれてもやはり痛いものは痛いらしく、数秒、長くても十数秒ごとに、耳を劈くような叫び声が、母さんの口から飛びだしてきた。

「いやーッ」
「ぎゃーッ」
「Oh my god!」

まさに激闘である。
よく考えてみればそれもそのはずで、母さんにとってはどれもこれもが初めての経験なのである。
肉体的な痛みのほかに、未知の世界に一歩一歩足を踏み入れていくような恐怖感だってあるだろう。ほんとうに自分は子供を産み落とせるのかという不安も拭いきれてはいないだろう。
藤井さんが、幼子を慰めるような口調でいった。
「はーい、力抜いて。そう大丈夫よ。ほーら、卵胞が出てきたよ」
卵胞? 
なんだろうと思い、一応訊いてみた。
「卵胞ってなんです?」
「赤ちゃんが入っている袋。それが出てきているから、もう直ぐのはずなんだけど」
そういいながら藤井さんは、母さんの子宮口のあたりを触診しているようだった。
「力抜いて。さあもう一回、息んで息んで!」

藤井さんの息んで息んでの声がかかるたびに、父さんの前腕を掴んでいる母さんの手に力が入った。するとその指先の爪が、ギュッと父さん皮膚にくい込んでいく。
最初のうちはかなりの痛みを感じていたのだが、何度か繰り返されているうちに徐々に感覚が鈍ってきて、暫くするとなにも感じなくなっていた。
父さんの腕はもはや父さんのものではなかった。

さらに、母さんと柱の間に挟まれている身体もまた、すでに部屋の一部になってしまったかのような感覚だった。
だからなのだろう。耳を劈くような母さんの叫び声すら、いつしかまったく気にならなくなっていた。それは、意識だけが自分の身体から遊離し、薄暗い室内の高みにそっと浮かんでいるような感覚だった。

藤井さんがぽつりとつぶやいた。
「ママさんの勢いに負けて、なかなか出てこないね」
それは母さんにではなく、父さんに向けられた言葉のようだったので、ほんの少し考えてから、父さんは応えた。
「恥ずかしがり屋なのかな」
すると藤井さんは、「照れているのかも」といって今度はけらけらと笑った。
と、そのとき午後8時を知らせるブラックキャップ・ティカディ(シジュウカラの一種)のさえずりが聞こえた。

――ということは、母さんはかれこれ一時間以上も髪を振り乱しながら雄叫びをあげていることになる。自然破水したのが午後7時過ぎだったから、いくらなんでもそろそろ出てきてもいい頃なのに…。

そう思うと父さんは少し心配になった。
「ちょっと、時間がかかり過ぎですか?」
藤井さんにそれとなく訊いたのだが、そんな父さんの言葉は母さんの絶叫にかき消されてしまったらしく、父さんへ応える代わりに、藤井さんは母さんに声援を送った。
「どんな声をだしてもいいから。がんばれ、がんばれ。もう、このお腹ともサヨナラだよ」
さすが肝っ玉かあさん。
藤井さんの落ち着きぶりはまさに百戦錬磨の強者といった感じで、その表情は、苦悶に満ちた母さんのものとは対照的に心底楽しそうでさえあった。

そのときだった!

父さんから見て左側、つまり東側のサッシ窓に掛かっていた銀箔色のカーテンが一瞬波打った。
母さんの左足が遮光カーテンの裾に触れたらしく、その爪先を見ると親指がこちら向きにギュッと反り返っていた。
その反り返った母さんの左足の親指を発見するや否や、父さんは思わず声をあげていた。

「きたきたきた、きたゾ〜っ!」

知らず、母さんを抱えていた腕にも力が入った。
前方では藤井さんが、
「はッはッはッはッ、いいよ。大丈夫。はいはい、そら頭がでたよ!」
と叫んだ。
そんな藤井さんの声を追いかけるように母さんの荒い息づかいが聞こえた。
「はッはッはッはッ、はッはッはッはッ」
いよいよである。
父さんの腕の中で母さんの身体がめいっぱい緊張する。
そして、この日最大級の雄叫びが室内にこだました。

「いやだ〜ッ!」

すると、抱えていた母さんの身体全体からスーッと力が抜けていき、同時になにかがズルリとビニールシートの上に滑り落ちる音がした。
束の間、室内がしんとした。
直後、
「はーい!」という甲高い声に続いて、「時間確認して下さ〜い」と叫ぶ藤井さんの言葉が父さんの耳に飛び込んできた。
――やった。というのか、
――終わった。というのか。
そんな感情が胸に湧きあがるのを感じながら掛け時計に目をやると、時刻は午後8時10分を少しまわったところだった。

「8時12分です」

そういいながら父さんは、母さんの肩越しにビニールシートの上をのぞき込んだ。するとそこには、藤井さんの手の中で臆病なウサギのように縮こまっている君がいたのだ。
皮膚はグレーがかった薄紫色。
顔を下にして手足をくの字に曲げているその姿は、メスのカブトムシに似ていた。それにしても小さい。

藤井さんが母さんの目の高さに君を持ち上げながらいった。
「さあ、どっちだ? あッ、男だ!」
その藤井さんの言葉に呼応するように母さんも、小さく叫んだ。
「男だ、男だ」
母さんは藤井さんから君を預かると、汗ばんだ自分の胸の上にそっとのせた。

生まれたての命である。

目はまだ閉じられたままだったが、ほの字につぼんだ口は、母さんの乳房と乳房の間で微かに動いていた。それは開花を躊躇っている小さな花の蕾のようで愛おしかった。

「息、しているね」
と父さんがいうと、
「大丈夫。グーは大丈夫」
と母さんが応えた。

その声は、幾分ざらつき掠れてはいたものの、柔らかな調子になっていた。
そんな母さんの表情をニコニコしながら眺めていた藤井さんは、「胎脂をからだに塗り込みましょうね」というと、君の身体についていた乳白色の胎脂を丁寧に皮膚全体に塗り込みはじめた。
マッサージの要領で小さな背中から細い手足へ。小さな一本一本の指にも手早く胎脂を塗っていく。
そして藤井さんがいった。
「よく頑張ったよ、きみ。どこにも問題ないね」
すると、おずおずというか、にわかにというか、君が泣き声をあげた。

「キャー、キャー、キャー」
と三回。
その後ひと呼吸おいて、また、
「キャー、キャー、キャー」
と三回。

それが、はじめて耳にした君の声だった。
産声である。
その声は想像していたよりも遙かに細く危ういものだった。
はかなくて頼りなげな泣き声。
それは生まれたばかりの子猫の鳴き声のようでもあり、どちらかといえば心許ないものだった。けれども産声があがるたびに全身が薄紫色から淡いピンク色に変わっていく様子は、神秘的でありかつ感動的だった。
新しい命が君のからだ全体に浸透していくようで見ていてぞくぞくした。

「凄いなあ」

父さんには、他にいい表しようがなかったのだ。
そんな君を目を細めて見つめていた母さんの横顔に、藤井さんがいった。
「最後、きつかったね」
「うん。でも、もう忘れたみたい」
そういいながら母さんはトントントンと三度、君の背中を優しくたたいた。
トン、トン、トン。
すると君の目が静かに開いた。
母さんの胸の上で、ほんの少し顎を上に向けるようにしながら、君はしっかりと目を開けたのだ。
父さんと母さんはほぼ同時に小さな君の顔を覗き込んだ。

ブルーグレー、鳶色の瞳。

それは父さんの色でも母さんの色でもない瞳の色だった。

「やあ、父さんだよ」

その瞬間、それまでに感じたことのない激しい感情が父さんの全身を貫いた。


生き方が変わるということ

人生が一夜にして変わるなんて到底ありえない。
常々、父さんはそう考えていたのだが、違っていた。
父さんの人生は君の真っすぐな視線を目の当たりにした瞬間、真っ二つに分かれた。
前と後にすっぱりと分離したのだ。
それも、決定的に。

厳密にいえば、君が母さんの胎内にいたときから父さんとの親子関係は始まっていたのだけれど、ともかくあの瞳だ。
あの瞬間の君の瞳がすべてだった。
その瞳は森羅万象を呑み込んでしまう深淵であり、知恵の実を食べ過ぎて穢れきった大人(親と言いかえてもいい)の本性を映しだす純粋だったように思えた。




かえるかな
(photo:kazuhiko iimura)




「ママさん、パパさん、見て。目を開けたわよ」(藤)
「見た見た。母さんを探しているんじゃない?」(父)
「あっ、今、あなたの方を見たわよ」(母)
「うん、見てる見てる」(父)
「おなかの中で聞いていたパパさんの声、覚えてるのよ」(藤)
「全然まばたきしないけど。あっ、また母さん見てるな」(父)
「顎あげちゃってどうしたの。ねぇ、君、オッパイ飲む?」(母)

そういうと母さんは、君の口を自分の乳首にあてがった。
「おっ、いきなり口にいれたぞ」
「パクパク、すごく強く吸ってる。オッパイ出ているかどうか分からないけど、すっごく強い。痛い、噛んじゃダメよ」
「でも、なんとなく老けた顔してないか?」
「どの子もそうなの。目の形なんてあなたにそっくりよ、アーモンドみたいで」
「どっち似かしら。涼しい顔してるわよね」
そんなたわいもない会話を母さんと交わしながらも、父さんの胸は自分が父親になったのだという実感で溢れていた。
それは信じられないぐらい硬い信念であり、自分自身が存在していることの最大の意味であるように感じられた。

――どんなことがあっても、とことん、わが子を守り抜く。

それ以外に父親としての存在価値はないのだ。
君の命が危険に晒されたとき、君を救う唯一の方法が自分の命を差し出すことであったなら、父さんは喜んでこの命を差し出す。
そう考えただけで父さんの身体は幸福に震えた。
喜びに胸が躍った。

大袈裟ないい方をすれば、それはまさに根元的な啓示であり、君を、そして君という新しい生命を生み出した母さんを守ることが自分の生きる目的であると確信したのだ。

これには父さん自身が驚いた。
そんな心境になるとは夢にも思っていなかったのだから。
ではどうしてそんな確信が父さんのなかに沸きあがってきたのだろうか。
それはひとえに、君が病院などの非日常的な場所ではなく、自宅という見慣れた空間で生まれたということがとっても大きいような気がする。
見慣れた空間の、連続した時間の流れのなかに生じた変化。
きのうまでは、父さんと母さんしかいなかった部屋にきょうは君がいる。
ただそれだけの変化なのだが、その変化がありふれた日常の中で起こったという事実は、想像以上に父さんの心を激しく揺り動かしたのだ。
多分、それは母さんにしても同じだったろう。

――とことん、守る!

そう決心すると父さんは、自分が実際よりもいい人間になったような気がして嬉しかった。
そう感じた自分自身が誇らしかった。
それもこれもすべて君のお陰なのだ。


サヨナラ、あんころもち、又きなこ。グー!

約束通り、母さんの胎内で「産出」された胎盤やヘソの緒は、藤井さんによって無事調理された。
ステーキナイフが胎盤を切り刻んでいく光景は、お世辞にも美しいとはいえないものだったが、そこから流れでた血液の鮮やかな赤い色には度肝を抜かれた。
胎盤シチューを楽しみにしていた母さんがあの血液を見たら、さぞや感動したことだろう。24時間近く陣痛と戦った母さんは、そのときにはもうぐっすりと眠っていた。
静かで規則正しい寝息。
そんな母さんの横には籐製のバスケットが一つ。なかでは、つい今しがたまでその鳶色の瞳でこの世の不思議(?)をしげしげと眺めていた君が穏やかな表情で眠っていた。
小さな尻をポコン!と突きだした格好は、実に滑稽だった。

やはり、カブトムシの形である。

帰りの支度を済ませた藤井さんが、そんな君と母さんに目をやりながらいった。
「ママさん、疲労困憊ってとこかしら。でも、ぐっすり眠っていられるのも今晩だけだから。パパさん、明日から頑張ってね」
昼夜の区別がない赤ん坊の世界。
そんな生活がこれから先しばらく続くのだということを、藤井さんはやんわりと父さんに伝えたかったのだ。

「重々承知しております」

父さんがわざと慇懃に応えると藤井さんは、
「OK、それじゃ」といって、すたすたと玄関に向かった。
ところが靴を履く間際になって突然クルリと振り返ると、いきなりある唄のようなものを口ずさんだ。

「サヨナラ、あんころもち、又きなこ。ギュッ!」

最後の〈ギュッ〉のところでは小さな握り拳をつくった。
「なんですか、それ?」
父さんが尋ねると藤井さんはニコリと笑って、
「わらべ唄よ、いいでしょ」と応えた。
「サヨナラ、あんころもち、又きなこ。ギュッ!」
口ずさんでみると、ほっかりした語感がとっても良かった。
すると藤井さんは、最後の〈ギュッ〉のところを〈グー〉に代えてもう一度口ずさんだ。もちろんその〈グー〉のところでは小さな握り拳をつくった。

「サヨナラ、あんころもち、又きなこ。グー!」

さすがは肝っ玉かあさん。なにげに洒落た真似をしてくれる。
藤井さんのつくった右手の握り拳を見ながら父さんは思った。

――そうだなあ。もうグーじゃないんだなあ。

玄関からマンションの外階段にでてみると、やはり外は真夏の夜だった。
三夜連続の熱帯夜。
もわっとした熱気が辺り一帯をおおっていた。
唯一、遠くに聞こえるセミの鳴き声だけが、沈滞した空気に微かなアクセントをつけていた。懸命に胸を震わせて一心に生命を放散するセミ。
もし命が7日間しかないのなら、それこそ昼も夜もないのだろう。
藤井さんはこちらに手を振りながら、マンションの横にある月極め駐車場沿いの舗道を歩いていた。
その遙か向こう側。夜陰に濃い緑が点在する碑文谷の低い住宅街の彼方では、東京タワーの航空障害灯が赤く、静かに明滅していた。

(飯村和彦)


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2010年12月13日

「half or double」=英語スピーチコンテストで優秀賞に!



我が家の息子によるスピーチ。
日本人の父親とアメリカ人の母親をもつ中学生の彼が、
「ハーフ」と呼ばれることについて発表した。

皆さん知っていますか。
日本人と外国人の間に生まれた人を「ハーフ」という言葉で表現しているのは、
日本だけです。
例えばアメリカにいって、
「私はアメリカ人とのハーフです」といっても、
“何が半分なの?”ということになって、
まったく通じません。









さて…。
このところ我が家では、ちょっとした「Youtube」ブーム。
時代は「ツイッター」であり「Facebook」なのだろうが、
まあ、我が家の場合は“一周遅れ”といったところか。

きっかけは長男だった。
自身が練習中のスケートボードの映像をi-Macで編集。
試行錯誤を繰り返しながら作品を製作しているうちに、
その延長線上にあるYou Tubeに気が付いたようだ。

作品ができれば発表したくなる!
当然の帰結だ。
そこで、
「Youtubeのチャンネルにアップロードしよう!」
ということになった。

Youtube が脚光を浴び始めた数年前に、
「どんなものなのか、まずは試してみよう」
ということで開設し、
幾つかの動画をアップしたきり放置状態にあったチャンネル。
それが、俄に息を吹き返したのだ。

そうとなれば、まずは父親から再開ということで、
暇を見つけてつくっていた
「ニューヨーク写真クリップ」をアップロード。
続いて長男が、
自らつくったスケートボード作品(本人曰く、“ごく短いハイライト”)と、
「half or double=ハーフかダブルか」をアップした。

英語スピーチコンテストの動画については
長男自身の顔や名前をネット上に曝すことになるので、
「本当にアップしたいの? いいのか?」
と念押し確認。すると長男は、
「いいんだ!」と即答。
そのきっぱりとした返答は、見事であり、
“自分がスピーチコンテストで訴えたことを、より多くの人に聞いて欲しい”
という強い意志のようなものを感じた。

そこで長男のスピーチしている動画を改めて見てみた。
会場にいる聴衆に対して、堂々と自分のメッセージを伝える。
そこには、立派に成長していた長男の姿が映っていた。
威風堂々…。
いい表情の、いい男だ。


(飯村和彦)

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2008年08月15日

光陰矢の如し

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2008年05月23日

バレエに没頭、娘の個性



好きなことを見つけて、
それに没頭できること。
そして、
集中すること。
楽しむこと。

娘は今、バレエの虜になっている。
レッスンを開始して、まだ3ヶ月。
にも係わらず、
その上達ぶりには目を見張る。


バレイ練習


9月に催されるという発表会。
今は、その振り付けの練習をしているのだが、
驚くべきスピードで覚えていく。
「きょうは2曲目の途中まで習ったの」
そういいながら、
その日のレッスンで覚えたステップを披露。
つま先から指先まで、
彼女なりにきちんと気を配っている。

元来、娘の身体は柔らかい。
手足、身体がグニャリと曲がる。
それもバレエには向いているらしい。
「父さん、見ていて!」
そういった直後の彼女の目は真剣なものになる。
そして舞う。
一点を見つめ、
頭の中を流れるメロディーにのって、彼女は踊る。
その姿は、なんだろう…
個性そのもの?


(飯村和彦)


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2008年01月11日

英国流サッカー教室



愉快な練習に見えた。
というのは、
息子が参加した英国流サッカー教室のこと。
コーチたち(3人)はイギリス人で、
みんな声が大きく、明るく楽しい。


英国サッカー


練習そのものは、
基本である「止めて蹴って走る」が中心なのだが、
より楽しく学ぶための工夫がなされていた。
“黙々と…”という印象はない。


英国サッカー2


ベッカムやオーエンなどという選手たちも、
もしかすると、
こんな環境で練習していたのだろうなあ。
ハードでありながら、リラックスした雰囲気。
悪くない。
「結構、楽しかった」
とは息子の感想である。
いいじゃない、悪くない。


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(飯村和彦)


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2007年12月13日

ある祝祭の象徴


Happy Hannukah !

hannukah


世界には、
さまざまな祝祭がある。
そして、
それぞれに、
静謐な瞬間がある。


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(飯村和彦)


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2007年11月17日

ダイヤル式電話機、悪いことが出来難かった時代



その電話をみたとき、
娘はちょっと驚いたようだった。
というか、
かなり興味を惹かれたようだった。
考えると、
ダイヤル式の電話機など
身の回りにないから。


古い電話機


そういえば、
電車の切符についても似たことがあった。
「ちょっと前までは、
切符は一枚一枚、駅員さんが切っていた」
と子供たちに教えたら、
「ウソ? めんど(くさい)」
とのリアクションだった。

彼らは、
改札鋏の小気味いい音を耳にしたことがない。
駅員の、あの早業を目にしていない。
だから、そんな反応になるのだろう。

そのようなことは、
レコードであったり、
テレビのチャンネルであったり、
NY地下鉄トークンであったり、
猫のエサ(ちょっと質は違うが…)であったり、
季節ごとの果物であったり、
皆さんご存知のようにあれこれある。

そんないちいちについて、
改めて子供たちと見ていくと、
これが結構興味深い。
便利で効率的ではなくても、
そこにはいつも安心感があった。

だからかどうかは知らないが、
その頃は、
まんじゅうの賞味期限や、
肉や魚の生産地表示に、
神経を尖らせるようなこともなかった。
「悪くない時代」だったのだ。
言い換えれば、
「悪いことが出来難い時代」だったのだろう。


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(飯村和彦)


newyork01double at 16:42|PermalinkComments(2)

2007年09月29日

今日まで、そして明日から



このブログを始めて、もうすぐ2年。
時が経つのは、
やはり、…早い。


42


数年前に廃刊となった著書、
「ニューヨークが笑ってる」の、
復刻版的な意味合いで開始したこのブログ。
けれども、その内容は、
当然、それだけにとどまらず、
“日常とその周辺領域”にまで発展しました。

そして、この間に、
多くの方々と有意義なやり取りもできました。
感謝の気持ちで一杯です!


42nd.


さて、今後ですが、
これまで通りで…、
といいたいところでなのですが、
時間的余裕のあるなしの関係で、
多分、そうはならず、
更新頻度が、相当落ちることが予想されます。

どうか、
その点、ご容赦のほどを…。


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(飯村和彦)


newyork01double at 01:32|PermalinkComments(0)

2007年08月28日

夏を駆け抜ける子供たち



真夏のビーチ。
波音や風の強さに負けない、
子供らの歓喜…。


夏の海とキッズ


さて、
あと何年、
彼らと共に、
夏の砂浜を快走できるのか。

30回?
40回?

もし、30回だとすると、
自分は80近く、
息子と娘は40前後。

それで、
軽快なステップを踏める?

これって思考する類のものじゃないな。
その時は、
嬉々として…走るのだ。
Happyに!


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(飯村和彦)


newyork01double at 23:48|PermalinkComments(0)

2007年08月12日

真夏のピーチ(フロリダ)



広いビーチを貸し切り状態。
なんとも贅沢な気分。
シャワーもシンプルだ。


フロリダビーチ


フロリダの海。
透明度も抜群だった。



(飯村和彦)

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2007年08月09日

夏の女神(NY)



自由は、
未来の礎。


女神と…


彼は、「未来」そのもの。
そのまま、
そのまま。

何が邪魔する?
妥協?


Twinカッコイイ・NEWYORK 【Tシャツ】!



(飯村和彦)


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2007年08月05日

娘・夏の日の午後



ニューヨーク。
幼い娘、
なにを想う?


夏の日2000


2000年のことだ。
そう、
マンハッタンには、
まだ、
WTCが聳えていた。



(飯村和彦)


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2007年07月10日

洗濯された「猫」



約8年前、
マンハッタンで買った「猫」。


ニューヨークから、縫いぐるみ猫


娘が一番好きな縫いぐるみ。
今でも、
この猫は、
毎晩、娘の枕元で眠る。


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(飯村和彦)


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2007年06月17日

視界は良好?



親に似て、
長男、目が良くない。


検眼


さて、
今度はどんな感じ?


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(飯村和彦)

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2007年06月10日

サッカー公式戦!



息子、
1得点。見事なボレーシュートだった。
けれども、
試合は、1-2で敗退。
残念。


ゴール前


けれども、
諦めず、
走りに、走った。


走る走る


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(飯村和彦)


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2007年05月12日

奇妙な「顔」になった!



娘の誕生パーティ恒例。
我が家の「福笑い」
↓が今年の“作品”


顔


娘と、
彼女の仲良し5人+息子+妻による、
共作だ。
毎年のことだが、
これ、
最高に笑える。

世界に一つだけ、
ここだけの、
奇妙な「顔」。
極めて簡単にできるので、
皆さんも、
何かのパーティのときには、是非!

ポイントは、
元になる「顔」自体を、
“芸術的”に描くこと!


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(飯村和彦)


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2007年04月24日

君はサルか?



f1a76ab0.jpg


娘だ。

慎重に、
手足の置き位置を、
決める。
落ちるなんて、
考えない。


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(飯村和彦)


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2007年04月01日

自慢のサッカーボール



少し前になる。
サッカー教室に参加した息子が、
指導してくれたプロの選手たちから、
サインをもらってきた。


自慢のボール


ところが、
彼はといえば、
その後も、↑のボールを、
日常的に使用していたので、
いつしか、
大切なサインは消えてしまった。

まあ…、
ボールを蹴るたびに、
サインが目に入る訳だから、
練習で教えてもらったことを、
思い出す。

つまり、
サインは消えても、
「技術」は身に付いた、
…に違いない(?)。


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(飯村和彦)


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2007年03月27日

ビーターラビットと一緒に…



6a609ab7.jpg


娘が、
ピーターを好きかどうかは別として、
彼女は、ウサギが好きだ。
けれども、
このウサギには柔らかな毛がない。
となると、また、
話が違ってくるなあ…。


(飯村和彦)


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2007年02月17日

Baby人形を抱く、Baby



娘が今、
小学校の授業で、
「自分史」的なことをやっている。

↓の写真は、
彼女が1歳丁度の頃。
この写真を使って、
生まれてから一歳位までのことを、
娘なりに書くらしい。



娘1歳、ベービー人形



ベービーがBaby人形を、
スリングに入れて抱いている…。
いい写真じゃない?
我が著書「ダブル」にも、
多分(?)、使っていた筈。


(飯村和彦)

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2007年01月11日

娘は歌が好き、息子が撮った!



知っている曲を、
ラップ(?)風に歌う娘。
頻繁にではないが、
彼女、
気が向けば、
パフォーマンスを披露する。


魚眼写真、息子作


↑は、
そんな娘の姿を息子が撮影したもの。
写真に施されているエフェクトは、
彼自身の手によるものだ。
あれこれ、
やってくれる。



(飯村和彦)


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2007年01月09日

娘が見た、成人女性!



きのう、
成人式の日。
娘が、
「晴れ着姿の、
お姉さんたちを見たい!」
というので、
近所の駅へ行ってみた。

すると、
約1時間の間に、
「210人!」(…娘がカウント!)
もの、
成人女性を目撃した。


成人1


成人2


成人3


成人4


成人5


成人6


将来、
娘も“確実に!”、
この日を迎える。
その日に、
彼女は、
父と一緒に晴れ着姿を探した、
幼い日のことを、
どう、回想するのか…。

それを考えると、
胸が、
“きゅん!”としてしまう、
父親である。


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(飯村和彦)


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2006年12月17日

クリスマスツリーと吉田拓郎さん



「忙しいから」
…これって言い訳にしちゃダメ。
特に、
心身共に消耗している時ほど、
この言葉に逃げ込んだら負けだ。

という訳で、
本日は、
子どもたちと、
クリスマス・ツリーの飾りつけ。

毎年、
我が家のツリーは、
屋上に置いてあるパインの木を使用。
一年に一度だけ、
リビングに持ち込むから、
この木にとっては、
年に一度の「檜舞台」…。


さて、
↓は今年仲間になったカンガルー。


カンガルー


妻の知人からのプレゼント。
オーストラリア人らしい。

↓は、今年で3年目(?)になる、
ベリー系。


フルーツ


ラズベリーのような色合いが、
いいでしょ?

で、↓が「電球型」(?)
なんと呼ぶべきか、言葉が浮かばないので…。


ライト型


このオーナメントは、
実は、かなり重い。

そして、↓が「王室系」(?)
なんだか、
高貴な雰囲気が漂っているので…


王室系


子どもたちと一緒に、
あれこれぶら下げて、
約1時間で、
なんとなく完成。


ツリーと拓郎


例年通り、
無骨なツリーである。
形の整ったモミの木じゃないが、
我が家の個性を象徴しているようで、
悪くない。

ライトアップした姿は次回。
今日は、
妻が留守だったので…。

余談だが、
TVモニターに映っているのは、
吉田拓郎さん。
娘と一緒に、
彼の“つま恋コンサート”の模様を堪能…。
“人間なんて、ララーララララ、ラーラ…”
は、なかったけれど、
“今日まで、そして明日から”
で、“大人の祭り”を締め括った。

悪くない…。


(飯村和彦)


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2006年09月28日

子供にとってHappy!とは?



やっと…である。
約1週間続いていた、
息子の咳。
高い熱が引いた後も、
激しい咳だけはそのままだったが、
やっと収まった。

一安心。
顔色もだいぶ良くなったし…。

今朝、
そんな息子を見ていて、
ふと、ある日の記憶が蘇った。


あの頃、息子と花


彼がまだ、2歳の頃。
二人で、
目黒区にある円融寺の境内を歩いていた時のこと。
「座って!」
と息子に促され、参道沿いの石の上に座った。
すると彼も、
私のすぐ隣の石にちょこんと腰掛けた。

で、何をするのかと思えば、何もしない。
ニコニコ笑っては足をぶらぶら。
ただそれだけ…だった。

息子がして欲しかったのは、
そうして一緒に座ること…だけだったらしい。
けれども、
そのときの、彼の嬉しそうな表情といったらなかった。

Happy…。
“彼の幸せは、至る所にあるらしい”

あの日、父親である自分が実感したことだ。
もちろん、
それは自分にとっても幸せな時間だった。

ただ、石の上に並んで座るだけで、幸せ…。

あのとき、
胸が熱くなり、
以降、それまでに増して、
息子の所作を見るのが楽しくなった。

しかし…、
内戦が続く国々では、
幼い子供たちが、
ライフルを構える"少年兵士”へと“成長”していく。
彼らにとって幸せって何?

Happy boy…。

うちの息子は、
きょう、元気に学校へいったはず。
そんな幸せを大事にしたい。
東京は、
久しぶりに快晴である。


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(飯村和彦)


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2006年07月06日

妻と息子と娘が渡米!



成田空港で見送り。
たった30メートル。
でも、
既に寂しがっている自分がいた。


2feba9d6.jpg


こんなとき、
家族の存在の大きさに、
改めて驚かされる。

たった2ヶ月。
…されど2ヶ月。
この夏、
子供たちはどんな変貌を遂げるのか?

自分が、
彼らと合流できるのは、
もう少し先(追記:約1ヵ月後にアメリカで…)のこと。
それまで、
ちょっとの間…Good by。


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(飯村和彦)


newyork01double at 20:57|PermalinkComments(12)

2006年07月01日

図書館で「ダブル」を発見!



bf32b115.jpg「ダブル」は、日頃自分が行っている取材活動とは違い、
極めて私的な事柄から,
「家族」というものの在り方にアプローチした本だったので、
とても愛着がある。
そんな本が図書館の書棚に並んでいるのを見ると、
やはり、…嬉しい。


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(飯村和彦)


newyork01double at 11:54|PermalinkComments(8)

2006年05月29日

出来立ての豆腐と子供と近隣



見て、聞いて、
触って、食べて…。

朝4時半に起きして、
子供たちと一緒に、
近所の豆腐屋さんへいった。


とうふ1


いつも食べている豆腐である。
それを誰が、どんな風につくいっているのか。
テーマは明快だった。


とうふ2


「いつでも見に来ていいよ」
豆腐屋さんは、二つ返事だった。
で、
実行に移したわけだ。


とうふ3


子供たち、
豆腐を固める「にがり」が、
“海からもの”だと聞いてびっくり!

そうそう、
親切な豆腐屋さんは、
豆乳をグラスに注ぎ、飲ませてもくれた。


とうふ4


出来上がっていく豆腐を眺めていると、
なぜか、安心感が沸いてくる。
日常生活の「基本」を見ているようなものなのか…。


とうふ5


「プリンより美味しい」
「甘いね」
「温かい!」

出来立ての豆腐をご馳走になったときの、
子供たちの感想だ。
分かりやすい。

「また、おいで…」
と、親切な豆腐屋さん。
「また、来るね!」
と、息子と娘。

子供たちは、近所付き合いが実にうまい。
なんでも自然にやってのける。
「打算」なんってもの、もっていないから…。

素敵なご近所さんが大勢いれば、
子供たちも、
安心して街を走り回れるというものだ。


ranking人気ブログランキングへ! さてさて…!

(飯村和彦)


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2006年05月25日

ワクワクして、待ちきれない?



たった数年前のことなのに…。
それが、
遥か彼方の出来事のように思えるときがある。
「子育て」とは、不思議なものだ。


救命胴衣


息子は、今朝5時半に起きだした。
そして、
来週行われる「移動教室(=宿泊学習)」に持参する品々を、
スポーツバックに詰め込んでいた。
まだ6日も先のことなのに、
居ても立ってもいられないらしい。

ワクワクして、待ちきれない…。
そんな心境になったのはいつだった?
息子が、
少しだけ、羨ましい。


ranking人気ブログランキングへ! さてさて…!

(飯村和彦)


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2006年05月07日

ヒップな「鯉のぼり」である



おとといで、
2006年の役目を終えた鯉のぼり。
「自家製!」である。



こいのぼり



5年前。
私、妻、息子、娘。
4人が勝手にデザインして、
思い思いに、筆で描いた。

この世に「我が家だけ」の鯉のぼり。
それぞれ、
勢いがあっていいでしょ?

来年の子供の日まで、good-by…。



(飯村和彦)


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2006年04月05日

最初に死ぬのは父さんだ!



「見る見るうちに…」、とはこのことである。
なにがといえば、
日々、大きくなっている、
プラティの子供たちのことだ。

生後2週間。
最初、
糸切れのようだった体形も、
既に、魚のそれになっている。


稚魚1


当初、「7尾ぐらいかなあ…」
と思って見ていたのだが、
個体が大きくなるにつれ、
観察できる尾数も増し、これまでに12尾が確認できた。
まだ、
カナダ藻の中に潜んでいるチビがいる可能性もあるので、
総数は、もう少し増えるかもしれない。

エサは朝晩2回、
パウダー状にして与えている。
当たり前のことだが、
早くも個体差が見られ、
仲間内で一番大きなものが、
その大きな口で、最初にエサをたいらげていく。


稚魚2


大きな口をしたデッカイ奴が、
断然早く成長する。
至極当然な話だ。

すると、
息子が、我が意を得た…、とばかりに「発言」した。

「うちの家族4人のうちで、
一番、最初に死ぬのは父さんだね


なんのことかと尋ねると、
息子曰く、

「だって、家族の中で、
口が一番小さいのは父さんだから」


これには家族一同爆笑した。
確かに、私の口は他の家族のそれより、
最大に開けても、
指の太さでいえば、2本分も小さい。
納得である。

ちなみに、
プラティの子供たちは、
陶器の中で成長している。
↓の写真で、ミルキーの後方に見える青い陶器がそれ。


ミルキーと魚鉢 (撮影者:娘)


当初はミルキーの反応も心配だった。
水面に上がってきた魚たちを「パクリ!」、
なんてこともあり得るから。

しかし、彼女の場合、
興味深く眺めるだけで、ちょっかいは出さない。
動くもの全てに手を出す彼女なのに…である。

まあ、
ときどき首を突っ込んで、
「水」は飲む。
だから、
「事故」が発生する可能性は否定できないのだが…。


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(飯村和彦)


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2006年04月01日

サッカー練習場で、娘。



娘サッカー場


兄が活躍する試合は、必ず見に行く。
妹の基本である。
妹は、毎回試合を見に行く。
だから兄は、毎回活躍するのだ。
いい兄妹である。


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(飯村和彦)

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2006年03月12日

春の海、爽快!




春の海。
とちらかといえば、
夏よりいい。
なにより、人が少ない。



春の海1



まさに、
ビーチ「独占使用」状態。



春の海2



水は確かに、
まだ、冷たい。
でも、
子供たちには関係ないようだ。



春の海3



ちなみに、
先日、多くのイルカたちが、
集団で浜に打ち上げられたのは、この海岸線だったはず。

地震、こないだろうなあ…。


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(飯村和彦)



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2006年02月26日

エネルギーの塊だ!



子供たちの熱気に圧倒された。
きのうは、
息子たちの「ドッジボール」大会。
遊びじゃない…ところがいい。

円陣組んで、
「気合」
を入れる。

オリンピックもいいが、
未来のアスリートたちの表情も真剣そのもの…。


円陣


ドッジボール…。
子供の頃、一時期熱中した記憶があるが、
これほど、
タフなスポーツだとは思っていなかった。
体力が落ちた証拠だなあ…。


ドッジ、投げる!


投げて、受けて、また投げて…。
一喜一憂しながら、
真剣勝負。
いいゾ! まったくいい。


体育館


今週末は、
取材で、
北海道の最果てに行く選択もあった。
けれども、
息子たちとのドッジボール大会の方を優先。
正解だった。

子供たちの懸命な表情を見ていると、
無闇に、
力が沸いてくる。

間違いなく、
子供たちから、
「力」というか「エネルギー」をたっぷり頂いた。


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(飯村和彦)



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東京タワーのはずだ!



携帯写真の整理をしている。
放って置いた自分が悪いのだが、
これだけ(…かなり)溜まると、
ため息がでてしまう。

下の写真など、
どこで撮ったものなのか、
最近のことなのに忘れている。


東京タワー1


子供たちに聞くと、
「東京タワー」
との答えが返ってきた。


東京タワー2


東京タワーの展望台にある、
「真下の風景」
を覗く窓。そこから眼下を見たときだった。

しかし、
東京タワーなら、
一枚ぐらい、
東京タワー「そのもの」の写真があってもいいじゃない?
それがないんだなあ…。
我ながら、驚く。


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(飯村和彦)


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2006年02月22日

「ダブル」が東京ウィメンズプラザに!




ダブル表紙2



去年出版した写詩集「ダブル」が、
東京・青山にある、
「東京ウィメンズプラザ」の図書資料に加えられた。
図書資料室の入り口付近に、
ポップ付で、飾ってある。

悪くないなあ…。

もし、青山に行くようなことがあれば、
ここで「ダブル」を読んで、眺めて下さい!
場所は、“こどもの城”の近く、
国連大学の隣…です。



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(飯村和彦)


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2006年02月16日

猫のミルキー、版画になった!



ちょっとだけ自慢…。
息子の版画が、美術館で展示された。
図柄は、
当然のように、猫のミルキーだ!


乃亞たちのグループ作品


場所は、↓の美術館。
ルソーの絵画などが常設展示されている、
立派な美術館だ。


美術館



さて、↓が息子の版画。
猫の「ミルキー」と熱帯魚の「プラティ」らしい。
彫刻刀をはじめて握り、最初に彫った版画…である。


版画


おどけた表情をした、味のある猫になっている。
びっくり眼のミルキーか…。
あまり多く彫りこまず、「線」で描いてあるところは、
面倒臭がり屋の息子らしい。


作品多数グループ


この展覧会は、
小学校に通う子供たちの作品を集めたもの。
創造性に富んだ、素晴らしい作品が目白押し!

本来なら、
彼らの作品を、一点一点紹介したいところだが、
「ちびっこ芸術家」の権利を尊重し、
このブログへの掲載は控えた。

けれども、その雰囲気ぐらいは伝わった?
子供たちの作品は、
その視点もテーマも対象も…
実に興味深く、面白いものばかりである。


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(飯村和彦)

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2006年02月14日

笛吹き童子だ!




廊下から、
軽快なメロディが流れてきた。
見ると、
息子が、
鏡に向かって、「たてぶえ」(リコーダーと呼ぶらしい)
を吹いていた。


笛吹き童子


上体を軽く反らせ、足でリズムを刻んでいる。
その姿は、
サクスフォーンを奏でるジャズミュージシャンのようで、
それなりに様になっていた。

鏡を見ながら、
指の動きを確認していたらしいのだが、
完全に、「自分の世界」に浸っていた。
それがいい。

しかし、私が写真を撮ったことに気付くと、
恥ずかしがって止めてしまった。
大失敗である。
まあ、それでも息子は、満足気に笑ってくれた。
とってもいい。

彼が演奏していた曲は、
「茶色の小瓶」。
6年生を送る会で、
みんなで合奏するらしい。

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(飯村和彦)


newyork01double at 11:26|PermalinkComments(14)

2006年02月13日

大人には真似できない創造性




それを見たとき、
一瞬、言葉を失った。
そして、
無性に嬉しく、感心した。

6歳になったばかりの頃、
「ひらがな」を覚えた娘が、
あるドリルに書いた下記の文言である。


娘のあいさつ!


見ての通り、
設問は、
絵に合った「あいさつ言葉」を、
例示されている中から選ぶもの。

ところが、娘はといえば、
そんな例示などお構いなしに、
絵を見て、
自分なりに、勝手に! 
文言を書き込んだのだ。

どうだろう?
どれもが絵にピッタリであるばかりか、
驚くほど創造性に富んでいる。

「やるなあ…!」
そして、
「参った」

それが父親としての私の感想だった。
子供の能力というのは、
計り知れない。

実際、例示されている「答え」より、
はるかに「絵」の内容を明快に説明しているし、
それよりなにより、
大切な「感情」が伴っている。

当然だが、
この回答に私は「花◎」をあげた。

けれども、
今の教育現場にあっては、
“設問にきちんと答えていない”という理由で、
この答えに、「×」をつけてしまう教師がいるかもしれない。

それを考えると、
「怖い」
本当に、怖い。

文部科学省によると、
「ゆとり教育」にかわる新指導要領のテーマは、
「ことばの力」
だという。
さて、どんな教育が行われるのだろうか。

私と妻は、
娘が書いたこのドリルを大切に保管し、
「タカラモノ」としている。

いつでも“自分なりの答え”を堂々と…!

型にはまらず、
いつまでも、
そんな子供であって欲しいと思っている。

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(飯村和彦)


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2006年02月08日

だるまと[グー」と「GOO PAPA」と…



だるまだ!



「いづれ死んでいく父からの伝言」
きのう、
一気にアップしたので、
「To much!」
との声もあがっているはず…。

よりて、きょうは、
その「死んでいく父」と「グー」の写真を一枚。
妻が撮ったもの。
照れくさいが、まあ…仕方ない。
息子ばかりに、
重荷を背負わせる訳にはいかないので…。


rankingご協力を…、お願いします!

(飯村和彦)


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2006年02月07日

残りは一気に! 「いづれ死んでいく父からの伝言」




花の匂い



「いづれ死んでいく父からの伝言」
No.(14)まで、
書き上げたので、全部!!! アップしました。

(1)から(3)まで、すでに読んだ方は、
(4)から、最後の(14)まで、
一気に(上から順番に)読んで頂けるようになっています。

読後の感想、
なんでも書き込んで下さい!

rankingご協力を…、お願いします!

(飯村和彦)



newyork01double at 13:20|PermalinkComments(2)

いづれ死んでいく父からの伝言(4)




午前8時ちょうどに碑文谷のマンションをでた父さんは、
意識して、
いつもと同じ道順で、東急東横線の学芸大学駅へ向かった。

〈いよいよ、きょう自分が父親になるんだ〉
という、高揚感よりも、
〈いよいよ、きょう自分が父親になってしまうんだ〉
という、鬱々とした気持ちの方が強かったので、
敢えて日々のルーティーンにこだわりたかったのかもしれない。

ベージュ色の麻のサマースーツに同系色のバックスキンの靴。
どちらもニューヨークにいた頃に買ったもので、
特に羊皮の[arche]の履き心地は抜群で、
へたなジョギングシューズなどよりも、
よっぽど足にフィットした。

まずは、
碑さくら通りを目黒通りの方向へ右折し、
住宅街を貫く一方通行の道を直進する。
午前八時とはいえ、すでに気温は30度以上。
太陽は地上にいるすべての生きものを、
容赦なく痛めつけていた。

何軒かの家の玄関先では、
朝顔の花が既にくしゃくしゃにしぼみ、
夏の象徴であるはずのヒマワリでさえ、
だらりと頭を垂らしていた。
コンクリートの電信柱から聞こえてきた油蝉の声に至っては、
悲鳴そのものだった。

8時4分ごろ、警視庁捜査一課長宅(官舎)の前を通過。
表札には寺尾とあった。

余談だが、寺尾といえば1985年の9月、
「ロス疑惑」で渦中の人物となっていた
三浦和義氏を逮捕する際、
三浦氏のフェアレディZのボンネットに飛び乗った捜査員である。
場所は確か赤坂東急ホテルだった。
父さんはその時現場で取材にあたっていたのだが、
逮捕された三浦氏よりも、
鬼瓦のような顔をしたその捜査員の方が印象に残ったほどだった。



テレビカメラ



あれから10年。
出世した捜査員が住む家のブロック塀の上には、
赤外線センサー式の防犯装置が取り付けられていた。

3月20日(1995年)に発生した、
オウム真理教による地下鉄サリン事件と、
そのひと月後に起きた、
国松警察庁長官狙撃事件の影響だった。
近々、仮設のポリボックスまで設置され、
二十四時間体制で警戒にあたるという話も耳にしていた。
つまり、
警視庁の捜査一課長を閣僚級の警護体制で守るということ。
鬼瓦とオウム、…前代未聞だ。

8時6分ごろ、
青々と繁ったイチョウの葉が目に涼しい田向公園の角を右折。
同、7分には、
点滅をはじめた青信号を見ながら小走りで目黒通りを横断して、
そのまま道なりに学芸大学駅へと歩を進めた。

いつになく大股。
自然、背筋がピンと延びる。

「グーとふたりで頑張るから、あなたも早く帰ってきてね」

母さんはそういって、玄関口で父さんを見送った。
うっすらと充血した目が前の晩の苦悩をもの語っていた。
築18年の狭い2DKのマンションにひとり。
不死鳥の刺繍の入ったシルクのバスローブに身を包んだ母さんは、
その光沢のある濃色の生地越しに、
突きでたおなかを撫でていた。

「どうしても自宅で産む!」
六ヶ月検診を前にしたある日、
母さんがそう宣言したときには驚いた。
驚いたと同時に不安にも襲われた。

その不安がどこからきていたのかといえば、
それは父さん自身が帝王切開で生まれたという事実からだった。
さらには、
その出産で、
母が生命の危機に晒されたということも聞いていた。

「お母ちゃんの命を救うのが先だったから、
おまえは取りだされた後、
しばらく洗面器に入れられたままだったんだ」
いつか、父がそんな話をしてくれたことがあった。

けれども、その父さんの不安を、
母さんは見事に払拭してみせたのだ。

――自宅出産だろうが病院出産だろうが、リスク自体は同じである。
という研究データや、
「病院の都合で出産スケジュールを決められたり、
そのスケジュールにあわせるための陣痛誘発剤の投与など、
絶対いやだ!」
という、母さんの主張を聞いているうちに、
〈それなら自宅での自然分娩の方がいいよな〉
との考えに至ったのだった。

万が一に備え、
母さんは、広尾にある病院のバックアップ
(…緊急時には、いつでもその病院が対応するという約束)
まで取り付けていた。

だが、そうはいっても、
いざその日になってみるとやはり心配になるもので、
自宅なんかで本当に大丈夫なのだろうか、
という掴みどころのない不安が、
改めて父さんの胸に沸き上がっていた。

朝7時の段階で陣痛の間隔は5分から7分。
もう、いつ破水してもおかしくないのでは…。
父さんも母さんも、そんな判断をしていた。

8時11分ごろ、学芸大学駅の東口商店街の通りを左折。
ここまで来ると駅へ向かう通勤客の数はぐっと増える。
幾つもの小川が川の奔流に流れ込んでいく感じで、
それまで単調に聞こえていた革靴やハイヒールの音が、
一気に雑多なリズムの音の集合体に変わる。
そして、8時14分ごろには駅の改札を抜けていた。

普段より2、3分早いペース。
いつもはホームの売店でスポニチを買ってから、
その直後にくる電車に乗り込むのだが、
この日はそれをやめて、
すでにホームに到着していた日比谷線直通電車に飛び乗った。
発車のアナウンスとほぼ同時、駆け込み乗車だった。

東郷夫人とのアポ(ポアではない)は、
午前十時と決まっていたので、
その前に幾ら時間を節約しても意味はないのだが、
父さんはそうすることで逸る気持ちをおさえていたのだ。

地下鉄の車輌は混んでいて、乗客はみな汗をかき、
互いに不満げな表情で手足を緊張させていた。
つい入り口付近の座席下に目がいってしまう。
新聞紙で包んだサリン入りのビニール袋が置かれた場所。
テロリストたちは傘の先でその包みに穴を開け、
素知らぬ顔で逃走したのだ。

日比谷線を六本木駅で下車すると、
テレビ局までは[arche]の蹴り足に力を入れて、
ほぼ全力で走った。
溜池方面へ向かう通勤客の間を走り抜ける父さんの姿は、
きっとサイドステップを踏みながらフィールドを駆け抜ける、
ラグビー選手のようだったに違いない。
三十四歳にしてはまずまずの走りだ。



8番



そんな調子だったので、
アークヒルズの十階にあったスタッフルームについたのは、
午前8時40分ごろ、
部屋にはまだ誰もいなかった。
ブラインド越しに窓から差し込む日の光りが、
週刊誌と夕刊紙がごちゃごちゃと積まれた共用テーブルにあたり、
縞模様の陰影をつくっていた。

結果的には、
通常より10分近く所要時間を短縮したことになるのだが、
あんなに急いだのにたったの十分か、
という落胆の方が強く、
それよりなにより、身体じゅう汗だくで不快だった。

机に脱ぎ捨てたジャケットの背中には汗がにじみ、
ぐっしょり濡れたスプレッドカラーのコットンシャツは、
胸と背中にぺったりと貼りついていた。
その上、
エアコンの冷気に晒された髪からは、
湯気が立ちのぼっているという有様で、どうしたことか、
ひどく惨めな気分にすらなっていた。

けれども、
だからといって暢気に汗を拭っている訳にもいかない。
その汗の意味を知っている父さんは、
すぐさま電話の受話器を取り上げた。

〈もしかすると、もう生まれてしまったかもしれない〉

そう考えると、
8桁の電話番号を押す時間さえもどかしいほどだった。

呼び出し音が一回、二回、三回。
四回目が鳴る前にカチャッといって回線は繋がった。

「もしもし…?」

普段と変わらない、少し甲高い母さんの声がした。
こちらの気が焦っていた分、なんとなく拍子抜けしたが、
その母さんの声はグーがまだ生まれていない証でもあった。
ひとまず安心した父さんは、
ギギーッというバネの軋む音を立てないように、
慎重に椅子に腰を下ろした。

「どんな調子?」
「頑張ってる。ちょっとだけ陣痛のくる間隔が延びたから、
もう少しは大丈夫だと思う。
横田さんに電話したら彼女もそういっていた。
今、だいたい7分ぐらいだから」

横田さんというのは助産婦。
抜群に明るい、腕のたつ肝っ玉かあさんのような人
(体型ではなくキャラクターのこと)で、
父さんも母さんも彼女には全幅の信頼を寄せていた。

「横田さんは、何時にきてくれるの?」
「これから用意して、すぐに出るっていってたけど、
十一時ごろになるんじゃない」

肝っ玉かあさんは、
川崎区の稲田堤から南部線と東横線を乗り継いでやってくるので、
碑文谷まではそれなりに時間がかかる。
ここで、父さんはふたたび不安に駆られた。

〈果たして、横田さんは出産に間に合うのか?〉

自分のことは棚にあげて、
よくそんなことをいえたものだと叱責されるかもしれないが、
まあそれが人間というもの。
自分の行状よりは他人の行状の方が気になるのだ。

そうはいっても、そんなことを母さんにいう訳にはいかない。
なにか母さんの心の平穏を保たせる気の効いた言葉はないかと、
自分の持っている語彙を高速で検索した。
時間にしてほんの数秒。
ところが父さんの思いとは裏腹に、
口から出てきた言葉は、果たせるかな、
声にした途端自分でも愕然とするようなものだった。

「痛い?」

なんともまあ、不甲斐ない。
子細な事実を検証することをモットーとすべき、
ジャーナリストが口にする科白ではない。
それを聞いた母さんも一瞬、あっけにとられたようだった。

「そりゃ痛いわよ。それに暑いし」
「そうだよね。暑いよね」

自分を卑下するのは好まないが、こうなると笑止千万。
幾ら自分で手出しのできない事柄だといっても、
もう少し気のきいたやり取りができると思っていたのだが、
過信だった。

ともかく、
胎児に良くないということで、
ここ数日は部屋の冷房を極力抑えていたのだ。
和室にしてもリビングにしても、
東側全面にはアルミサッシの引き戸が入っていたので、
日の出とともに容赦なく日が射し込む。

それぞれの部屋に遮光カーテンは掛けてあったのだが、
カーテン嫌いの母さんがそんなものを使うとは思えないし、
レースのカーテンなどは、
「せっかく外が見えるんだから、要らないでしょ」
ということで、最初からその存在すら否定されていた。

だから、午前9時前といえども、
室内の温度はかなり高くなっていたに違いない。
水で濡らしたバンダナを首に巻き、
バスローブ一枚を羽織った母さんが、
汗まみれになってうんうん唸っている姿が目に浮かんだ。
長いまつげには粘っこい汗が、
玉になってくっついていることだろう。

「…早めにロケを済ませて、帰るから」
そういって電話を切ったとき、
耳の奥に「頑張れるから…」という、
母さんの最後のひと言が張りついた。
妊婦のかく汗ほどではないにしても、
父さんの汗もこの日ばかりは相当粘っこかったのだ。



戦争やめろ!



アークヒルズから西麻布にある東郷邸までは、
車で十分ほどだったで、約束の十時までにはまだ時間があった。
雑然と広い、誰もいないスタッフルームにあって、
壁際にあるロッカーの上に並んだ五台のテレビだけが、
音もなく、
きょうという日を雑多に伝えていた。
画面の右上では、
手書きのサイドマークが派手に踊っている。

〈死んでも尊師のお世話を…、青山被告の獄中秘話〉
〈生中継! 村井氏刺殺の徐被告、注目の初公判〉
〈ノコギリで児童を! 教師が仰天体罰〉
〈新進党躍進、村山首相の苦しい弁明〉
〈真相追及! 上祐氏が幽体離脱体験を激白〉

今朝まで徹夜作業をしていたスタッフの誰かが、
スイッチを消し忘れて帰ってしまったもの。よくあることだ。
だからといってそれらのテレビが、
全て消されているところを見たことがあるかといえば、
そうでもない。
つまりは、朝、テレビがついていようが消されていようが、
普段はまったく気にしていなかったということだ。

それにしてもグーが生まれようとしている日に、
一瞬のうちに、三十万を越える人の命を奪った原爆や、
その投下直後のこの国の在りようを取材している…、
というのも不思議な巡り合わせだった。

失われた命のなかには、
きょうの母さんと同じように、
新しい生命を、
今まさに産み落とそうとしていた妊婦の命もあったはずで、
そんな妊婦の夢や希望は、
胎児の未来と共にあのキノコ雲のなかに霧散してしまったのだ。

悲劇なんて言葉じゃ到底表現できない、
蛮人による冒涜そのものだ。

人類すべてを殲滅しつくせる兵器の出現。
あの日から、
“人間の生”という観念そのものが変わってしまったのだ。

では、
蛮人が手にした悪魔の兵器、原子爆弾について、
当時の日本陸軍の幹部はどんな見方をしていたのか。
これにも唖然とさせられる。



戦争反対



父さんは、デスクに積み上げたファイルの中から、
外交資料館で接写した「終戦記」(下村海南著)の一部文言を、
資料用に改めて書き起こした書類を取り出した。

そこには、
広島への原爆投下から3日後に開かれた、
臨時閣議の様子が書かれていた。

1945年8月9日、第一回臨時閣議の様子
14時半に開会。
陸相、原子爆弾について報告する。
――第7航空隊マーカス・エル・マクヒーター中尉の語る所、
――その爆力は、
五百ポンドの爆弾三十六を搭載せるB29二千機に該当する…。
――地下壕は丸太の程度で覆ふてあれば充分である。
――裸体は禁物で白色の抵抗力は強い。
――熱風により焼失する事はない。
――電車、汽車なども脱線する程度である。
――地上に伏しても毛布類を被っているとよい。
――本日十一時半長崎に第二の投弾があった…。
――原子弾はなほ百発あり一か月に三発できるが、
永持ちは出来ない……

この文言を見て、君はどう考える?

アメリカ軍による広島への原爆投下から3日目
(この3日間という時間を、どうとらえるかにもよるが…)
ということを考慮しても、
父さんには到底信じられない。

物事を正面から見据えることの出来ない、
否、見据えることを意図的に拒んだ人間がいかに罪深いか、
その見本のようなものだ。

陸軍側は、
原爆の威力を意識的に過小評価しようとしていた、
と後に東郷外相が述べているが、
それにしても程度というものがある。
そもそも、
文中に登場してくる、
第七航空隊マクヒーター中尉なる人物が、
本当にそんなことを語ったのかさえ怪しいものだ。

おそらく、彼らの目は特別なのだ。
事実がグニャグニャに歪んで見えたとしても、
吐き気を覚えるなんてことすらないのだろう。

〈もし僕たちが、五十年前の日本に生きていたとしたら…〉

そんなことを無防備に考えそうになって、
父さんは資料を読むのを止めた。
〈きょうは大安だっかか、それとも友引だったか…〉
ファイルを閉じながら、
ふとそんな些細なことが気になった。

[続く…]

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(飯村和彦)


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いづれ死んでいく父からの伝言(5)



西麻布の東郷邸の中庭には、
こじんまりしたプールがあった。
日本(というより東京)らしい大きさで、
母さんが見たらきっと、
〈うちにも、あんなジャグジーがあったらいいのに…〉
との感想をもらしたことだろう。

しばらく使っていないようで、
水も張ってなかったが、
父さんは生まれたばかりの裸の君を胸に抱いて、
そのプールに入っている自分の姿を想像した。

底抜けの笑顔、日差しを浴びて輝く肌。
小さな手に、澄んだ瞳…。

9ヶ月前、
湯船につかりながら初めて考える実験をしたときに比べると、
浮かんでくるイメージがだいぶ前向きなものになっていた。
この9ヶ月で、
自分も多少なりとも人間的に成長したのかも知れない、
と思った。



忍者



東郷邸での取材は予定通り午前10時から始まり、
ビデオテープ4本、
時間にしておよそ二時間で終わった。
一番印象的だったのは、
東郷夫人に見せてもらった外相の手記、
「時代の一面」の最後の方に書かれていた文言だった。

――自分の仕事はあれでよかった。
これからさき自分はどうなっても差し支えない。

信念を貫き通した人間だけがもちうる潔さというか、
常軌を逸した世界に身を置きながらも、
自分の内なる倫理に、
忠実に生きた人間だけが達する境地というか、
ともかく、父さんは心をうたれたのだ。

日本がポツダム宣言を受諾し、
終戦を迎えるまでの政府内部の状況はといえば、

〈日本としては皇室の安泰など、
絶対に必要なもののみを条件として提出し、
速やかにポツダム宣言を受諾、和平の成立を計るべきである〉

という、東郷外相を中心とした和平派の主張に対し、
陸軍側は、

〈皇室安泰、国体護持に留保するのは当然のことで、
保障占領については日本の本土は占領しない、
武装解除は日本の手によってする、
戦争犯罪の問題も日本側で処分する、
という四つの条件を連合国側が受け容れないかぎり、
戦いを遂行すべきである〉

との立場を崩さず、

〈今後二千万の日本人を殺す覚悟で、
これを特攻として用いれば決して負けはしない〉

などと、強行論を展開していた。
繰り返すが、
これらの議論は、
広島、長崎へアメリカ軍が原爆を投下した直後のものだ。

自分のでっちあげた嘘を事実だと信じ込んでしまうと、
人間というのは知性さえも失ってしまうらしい。
戦争は人を狂気に走らせるだけじゃない。
狂気が正当化され、
幻想が事実を呑み込んでしまう危険性を、
つねに孕んでいるということだ。

最終的には、

〈外相案をとる〉

という、天皇のいわゆる[聖断]で、
日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えるのだけれど、
もし天皇が、
〈忍び難きを忍び、世界人類の幸福の為に…〉
決断していなかったら、
もし二千万人もの日本人が特攻という形で[殺されて]いたら、
今の僕たちも(つまり、父さん自身や母さんの胎内にいる君も)
存在していなかった可能性が少なからずあるのだ。

そう考えると背筋が凍る思いというか、
やれ〈子供が嫌い〉だの、
やれ〈子供をもつと自分の人生に制約が加わる〉
などと考えていた自分が、改めてひどく陳腐な人間に思えた。

――自分の仕事はあれでよかった。
これから先き自分はどうなっても差し支えない。

などという科白を、口にしなくてはならないような世界に、
生きたいとは思わないけれど、
そんな心境になれるぐらい、
なにかに懸命になれたらとは考えた。
生きていくことの意味というか、生き切る価値だ。

父さんは、
一時メディアが盛んに流布させた、
[平和ボケ]
という言葉が嫌いだ。
戦後五十年、
平和が続くことに不満を漏らす訳にはいかないのだから。



墓地



西麻布での取材が済んだ後、
「それじゃ、このまま碑文谷へ行きましょうよ」
という提案をしてくれたのは、カメラマンの竹内さんだった。

仕事に私生活を持ち込みたくなかったというか、
なんとなくいいそびれたというか、
どこか格好悪いような気がしたというか、
(これが一番真実に近い)、
父さんは、
〈今にも女房が、自宅で赤ん坊を産み落とそうとしている〉
ということを、その日のスタッフには伝えていなかった。

そんな父さんが、
「実はさ、きょう父親になるんだよね」
と、ちょっと照れながら竹内さんいったのは、
一緒に、
撮影機材をハイヤーのトランクに積み込んでいるときだった。

なぜ、そんなタイミングで、
話すつもりのなかったことを急に口にしたのかといえば、
それは、ストレッチ素材の白いTシャツ姿の、
竹内さんの形のいい胸の膨らみにふと目がいったからだった。

妙な脈絡だなあ、と思うかもしれない。
しかし、事実そうだったのだから仕方ない。
その上、慎ましい襟首から微かにのぞく鎖骨のくぼみも、
目に眩しかった。

父さんの話を聞いて、当然、彼女は目を丸くした。
「うそっ、じゃ早く帰らないと」
化粧っけのない日焼けした顔。
極力女らしさを排除しようとしている竹内さんは、
指輪やイヤリングなどの類は一切身につけていない。
目を丸くしたまま彼女が訊いた。

「どこの病院なんですか?」
「病院じゃなくて、碑文谷の自宅なんだけどね」

この[自宅]という言葉が、
27歳の独身女性に与えたインパクトは想像以上で、
信じられないという大袈裟な表情になったかと思うと、
一拍あって、
「それじゃ、このまま碑文谷へ行きましょうよ」
ということになったのだ。

一刻も早く、
亭主を妊婦のもとに送り届けなければならない、
という使命感が、
突然、彼女の中に生まれたらしい。
そして彼女は、
最近買ったばかりだという携帯電話を、
ジーンズのヒップポケットから引きだすと、
「これ、使って下さい」
といって、父さんにひょいと投げた。

住宅地だったので近くに公衆電話はない。
かといって、
ハイヤーの自動車電話を使うのはなんとなく気が引ける。
そんな父さんの心中を咄嗟に察知したのだ。
さらにいえば、
父さんが携帯を持っていない!
ということを確信していた彼女はもっと凄い。

父さんとしては、
そんな竹内さんの好意の一つひとつについて、
「ありがとう」
と、ひと言感謝すればよく、
こんな場合の意志の疎通には多くの言葉を必要としないのだ、
ということをしみじみ実感していた。

竹内さんに借りた携帯で母さんに連絡を入れ、
グーがまだ生まれていないことを確認すると、
父さんたちはハイヤーに飛び乗った。

「首都高を目黒で下りて、
ダイエーを目標に目黒通りを真っすぐ行って下さい」

その時、父さんが考えていたことは二つ。
ひとつは、四の五のいわずに携帯電話は持つべきだということ。
もう一つは、女らしさを抑えようとすると、
かえって女らしさを際だたせる…、ということ。

[続く…]

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(飯村和彦)


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いづれ死んでいく父からの伝言(6)




首都高を下りるまでは順調だった。
ところが、目黒通りに入った途端、渋滞につかまった。
月曜日の昼過ぎ。
とりたてて酷い渋滞ではなかったのだが、
イライラするには十分な混み具合だった。

外の気温はゆうに三十五度を超えていたに違いない。
アスファルトに染み込んだ熱が、
灰色の蒸気になって通り全体を覆っていた。
むせ返るような空気の中、
商店街を歩く人たちの足取りは一様に重く、
だらだらと倦怠感を引きずっているように見えた。

「大鳥神社のところ、
山手通りとの交差点を過ぎれば流れると思うんですが…」
そういいながらハイヤーの運転手は、
また、センターライン寄りに車線を変えた。
車線を変えたところで事態が好転しないことは、
すでにその前の十数分間で学習しているはずなのに、
彼としては同じ車線に漫然としていることが許せないらしく、
機を見てはせわしく動いていた。



メモ書き日記



「あの、赤ちゃんは男の子、女の子どっちなんですか?」

竹内さんが、
なぜか躊躇いがちにそう尋ねてきたのは、
権の助坂をやっと下りきり、
目黒川をまたぐ目黒大橋に差しかかったあたりだった。
区民センターのプールへ行くのだろう、
大きなスポーツバッグを抱えた小学生ぐらいの男の子が、
妹らしい小さな女の子の手を引いて歩いているのが見えた。

「もう、分かっているんですよね」
「多分、おんな」

父さんは、
ピンクのサンダルを履いた女の子に目をやりながら、
平板に答えた。

「へぇー、そうなんだ」
「そう。本当は生まれるまで知りたくなかったんだけどね。
でも、検診のときに助産婦さんが、
お嬢ちゃんかもしれないって口を滑らせたから」
「どっちが良かったんですか?」
「元気ならどっちでも…。まあ、月並みだけど、
男だったら一緒にサッカーしたり、
キャッチボールしたりできるなって考えてた」
「じゃ、ちょっと不満?」
「そんなこと、ない」
「かわいい子になるんでしょうね、お母さんがアメリカ人だと」
「どうかな」
「そうに決まってますよ、ハーフなんだから」
「だといいんだけど。
でも最近は、ハーフじゃなくて、ダブルっていうらしいけどね」
「そうなんですか」
「らしいよ、女房にいわせると」
「羨ましい…」
「なにが?」
「なんでも」
「そんなでも、ないけど」

ハイヤーが、
碑文谷のマンションの横にあった月極め駐車場に滑り込んだのは、
午後1時半ごろ。
そんな時間に駐車している車はほとんどない。
で、最初に目に飛び込んできたのが、
奥のコンクリートの壁面いっぱいに、
赤と白のペンキで書かれた乱暴な文字だった。

――[この土地は絶対売らない]、[地ベタ師に注意!]

いったい誰に注意を喚起しているのか、
もしかしたら書いている当人が、
その[地ベタ師]なんじゃないのか、
と勘ぐりたくなるような最低の代物だった。
誰が見たって気分が悪くなる。

ちなみに碑文谷一帯には、
似たような下品な手書きの看板がやたらと多い。

ともかく、父さんは、
「取材テープは、報道フロアの番組棚に入れておきますから」
といってくれた竹内さんに、
「ありがとう」
と、短く礼をいって車を降りると、
そのままマンションの入り口へ走った。

ところが、
エアコンの効いた車内から急に炎天下にでたせいなのか、
足元がおぼつかず膝までガクガクした。
まさに、地に足がびっくりするほどついていない状態だった。

そんな様子が頼りなげに見えたらしく、
背後で竹内さんが小声で叫んだ。
「パパ、頑張って!」
父さんは彼女の声援に、
よろけながら(本当なのだ)軽く右手をあげて、
手の平の返しだけで応えた。
申し訳ないとは思いつつも、
振り返る余裕がなかったのだ(これも本当)。
ちょっと気障だったかもしれない。

一階が、
デジタル写真印刷会社の店舗兼作業場になっている、
三階建てのマンションに、エレベーターはなかった。
郵便受けが並んだ狭いエントランスを抜けると、
真っ直ぐに延びる外階段を、
三段飛躍で三階まで一気に駆け上がった。
一番手前が303号室。

「いま帰ったよ、どう?」

玄関ドアをあけるより先に口をひらいていた。
上がり口に靴を脱ぎ捨て、短い廊下をドタドタと進む。
壁に掛けてあった、
馬の鼻先に唇を押しつけている母さんの写真を横目で見ながら、
キッチンに入ると、
隣のリビングから母さんの声が聞こえた。

「あなた…」

ドアを開けると、
何かの上に、
全裸で座っている母さんの姿が目に飛び込んできた。
折った膝頭に頬杖をついて、顔だけをこちらに向けていた。
例えるなら[考える人]、
そんな格好だった。

「おか、えり」
必要以上に声を張らない、呼吸をするようなしゃべり方。
細い息を吐きながら声をだし、
幾分長めのブレスをとって、
また息を吐きながら言葉を繋げる。
その顔には色濃い疲労が見てとれた。

「グーはどうした、まだだね」
確認の意味で一応、訊いた。
すると母さんは、
「この子は、父さん思いの、いい子みたい」
といって笑みを浮かべ、
足元に置いてあった麦茶のグラスにゆっくりと手を伸ばした。
そして、
唇を湿らすように音をたてずにひとくち飲んだ。
頬はうっすらと紅潮していて、
グラスを持つ指先だけがやけに白かった。



紅茶



不思議なことに、
そんな母さんの仕草は、
人の気持ちを妙に落ち着かせるもので、
朝から走り続けていた父さんには、
いわば長い文章の読点のように作用した。
おのずと周囲に気を配る余裕も生まれる。

ひとまず、ジャケットを脱いだ。
エアコンのスイッチはONになっていたが、
室内はやはり蒸し暑かった。
けれども、
その暑さは外の射るような暑さではなく、
どこか柔らかな、
いってみれば母さん自身の体温のようなもので、
思っていたより不快なものではなかった。

繭の中というか、子宮の中というか、
想像するとそんな感じ。
胎内の温度は三十七度ぐらいだというから、
それまでではないにしても、
胎児が出てくるのには、
丁度いい室温なのかもしれない。

母さんが座っていたのは、
逆さまにしたプラスチック製のバケツで、
クッションの代わりにお尻の下に敷かれていたのは、
脱いだシルクのバスローブだった。

陣痛と戦うのではなく、
折り合うための方法として母さんが辿り着いた究極の姿勢、
それが[考える人]だったのだろう。

父さんは本棚の上にのせてあったキャノンを手にすると、
そんな母さんの姿を一枚写真に収めた。

[続く…]

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(飯村和彦)


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いづれ死んでいく父からの伝言(7)




〈ともかく、写真はたくさん撮ろう〉

それも、父さんと母さんの決め事だった。
胎児の成長に伴い、体型がどう変わっていくのか。
その様子をあとでビュジュアル化できるように、
定期的に[腹部同ポジ撮影]まで敢行していた。

毎月一回、
決まった位置に決まった姿勢の母さんを立たせ、
毎回同じ距離、同じ画格で撮影する。
つい数日前、最後の撮影を、
わが家の写真スタジオ(浴室)で終えたばかりだった。

せり出したおなかの下に両手をあてがい、
「どっこいしょ」と持ち上げるようなお決まりのポーズ。
そんなときの母さんはいつも嬉しそうだった。

「みてみて、ここ出っ張ってるでしょ。
これグーの足よ。
ほらほら、横に動いたの、いま撮れた?」
「どこだった? シャッターは押してたから、
撮れてるはずだけど」

…とまあ、そんな具合。



鏡の中



「でも、この写真をいつかグーが見ると思うと、
わくわくするね。どんな顔するかしら。
おなかの中にいたときの記憶は残らなくても、
写真には、そのときの事実が残るからいいわよね。
私もそんな写真、欲しかったな」

撮影のたびに母さんはそういっていたが、
父さんにしても気持ちは同じだった。

記念写真というのはそこに写っている自分を見るというよりは、
写真が撮られた時期に、
自分の周りにいた人たちがどんな様子だったのか…、
を知るのが楽しい訳で、
自分が胎内にいたときの母の姿状や、
胎動を感じたときの母の表情をとらえた写真がもしあったら、
自分が[生きる]ということを考える年齢になったときに、
欠かせないものになっていたはずだ。

そんなことを考えながら、
わが家の[考える人]をファインダー越しに眺めていて、
はたと気づいたことがあった。
グーが生まれる瞬間にその場にいるべき、
もうひとりの人物がいないのだ。

「横田さんは? まだきてないの」

腕のカシオに目を落とすと、
すでに午後の2時近くになっていた。
確か、昼前には到着しているはずだったのでは…。

学芸大学駅から碑文谷のマンションまでの道順をかいた地図
(かなり丁寧なもの)は、
きのうのうちにファックスで送ってあったし、
そのあと電話でも確認していた。
だから、相当な方向音痴でもない限り道に迷うことはない。

指を噛んで、陣痛に耐えていた母さんがいった。
「お昼ごろ、電話があって、少し遅れるって」
「それで大丈夫だって?」
目の前の母さんの様子からして、
父さんにはとても大丈夫そうには見えなかったのだが…。
「そういってた。たぶん、早くても、夕方だろうって」
「ふーん」

自然分娩は、文字通りかなり自然の力の影響を受ける、
といつか横田さんが話していたのを思いだした。
満月や新月の前後にはお産が増えるし、
一日のうちでは、
潮の満ち引きが重要になるのだという。

陣痛でいえば満潮の数時間前から強くなり、
逆に引潮の時間になると弱くなるのだそうで、
だからそんなときには焦らず、
次の満ち潮を待つのが懸命なのだという。

けれども、そうはいってもそれが全てではないだろうし、
万が一、
助産婦の横田さんが到着する前に分娩がはじまってしまったら、
と考えるとゾッとした。
胎児のとり上げ方までは、
出産準備クラスでも教えてくれなかった。

ヌルッと出てきたグーをしっかり受け止められなかったら。
そもそも、ヌルッと出てこなくて、
頭が、
子宮口かなんかに引っかかってしまったらどうしたらいいのか。
上手く生まれたら生まれたで、
臍の緒はどう処置しらいいのか。
無闇に切っていいはずがない。
切るべき最適なタイミングと、
「ここを」という位置があるに違いない。

母子ともに…、の母の方だって、
出産時に、もし母さんの出血がひどかったら何をすべきなのか。
どうやって止血するのか。
グーが生まれ出た後、
どれぐらいたってから胎盤やなんかが出てくるのか。
それをどう扱ったらいいのか。

不安の種は尽きなかった。
それでも、あれこれ思案した末に父さんは一つの結論に達した。

〈ともかく、手だけはきっちり洗っておこう〉

しごく簡単なことだが、何よりも重要なことに思えたのだ。
それでバスルームへいこうとすると、
「あなた、お風呂、入れてくれる?」
と、母さんがいった。

「ずいぶん楽になるって、横田さん、いってたでしょ」

お湯の温かさと浮力で収縮(陣痛)が緩み、
楽になるのだ。
最近、
水中出産が人気になっているのもそんな理由からだという。
「わかった、すぐに入れる」



猫さん



その後の父さんの行動は機敏だった。
スポンジでキュッキュ、キュッキュと浴槽を洗い、
シャワーで流しながら適温(この場合は幾分ぬるめ)を探る。
それで、
これだという温度になったらお湯を溜めはじめのだ。
その間、
汗がポトポトと額やまつ毛から滴り落ちたが、
一向に気にならなかった。
無心とまではいわないが、
黙々と山道をのぼるあの心境に近かった。

時間にしてほんの七、八分で風呂の準備は完了。
気づいたときには、
あやや…、麻のズボンがびしょ濡れになっていた。

キッチンの壁あったインターフォンのスピーカー越しに、
「ど〜も!」
という、明るい横田さんの声が聞こえたのは午後三時ごろ。
わが家の分娩室になる四畳半の和室で、
ベランダから取り込んだばかりの、
太陽の光で熱々になった母さんの敷き蒲団に、
洗い立てのシーツをかけているときだった。

急いで玄関に走りドアをあけると、
紫色の大きな風呂敷包みを抱えた横田さんが、
にっこり笑って立っていた。

[続く…]

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(飯村和彦)


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いづれ死んでいく父からの伝言(8)




「お待たせ!」
助産婦の横田さんは、普段通り、元気一杯だった。
「どーも、待ってましたよ。道にでも迷ったんですか?」
やはり、遅れた理由は気になった。

「とんでもない。
パパさんの書いてくれた地図、バッチリでした」
横田さんは、父さんのことを“パパさん”と呼んでいた。
「出がけに、
おとといお産をすませたお母さんから電話があって…。
ごめんなさいね、遅くなって。
ママさん大丈夫かしら」

だからといって、
彼女が恐縮していたかといえばそうじゃない。
余裕しゃくしゃくといった感じで、
抱えていた風呂敷包みを床に置くと、
履き口がマジック開閉タイプになっている、
健康シューズの甲の部分を勢いよくバリバリと剥がした。

撥水機能付き。
履き心地がソフトでソールには水に浮く軽量の新素材を使用、
などとよく新聞広告なんかで目にするあの靴だ。
確かにものはいいのだろう。
だが、もし四十歳以下の女性がそんなものを履いていたら、
どんな理由があろうと父さんは許さない。
それが、
男女が互いを尊びながら生きる社会というものだ。




かえる君



父さんは訊いた。
「そのお母さんに、なにか問題でも?」
すると、横田さんは呆れたとばかりに、
「赤ちゃんの手足が干からびて、
象みたいに皺だらけになっちゃったんですけど〜
っていうSOSでね。
どうしたらいいんでしょうか〜って。
もう慌てちゃってね」

そういいながら、横田さんは、
脱いだ健康シューズの向きをくるりと変えた。

履く人によっては、
つまり、ある年齢に達し、
本当にその靴を必要としている人が履くのであれば、
あんな靴(…失礼)でも、それなりに見えるから不思議なものである。ちなみに横田さんは五十歳代の後半。

父さんはいった。
「新生児によくある、脱水症状のあれですか?」
【家庭の育児】に書いてあったのを思い出したのだ。
父さんはそのときすでに、
あのぶ厚い本に、
ひと通り目を通していたのだ(内心、ちょっと自慢)。

「そうそう。オッパイあげてれば二、三日でよくなるの。
でも最近のお母さんは、
それが普通のことっだて知らないから、
なにか大変な病気かもしれないって思っちゃうの。
なかには母乳を止めてミルクにした方がいいんでしょうか…
なんて、馬鹿なことを聞いてくるお母さんまでいるのよ」

横田さんはいつでも、
さばさばとした口調で物事の核心をついてくる。
玄関の隣にあるバスルームで入念に手を洗いながら、
彼女は続けた。

「ほら、人工乳の缶。赤ちゃんといえば、
あのかわいい笑顔の、
プチプチ肌だって思い込んでるお母さんが多いから。
本当はその人工乳が一番の問題なのにみんな騙されちゃうのよ、
あの宣伝にね」

人工乳など母乳の足元にも及ばないのに、
多くの母親が母乳育児を放棄して人工乳に走ってしまうのは、
乳業メーカーの巧妙な宣伝活動によるところが大きい、
と横田さんは常々いっていた。

免疫力の高い母乳を飲んで育った赤ちゃんは、
人工乳(いわゆる粉ミルク)で育った赤ちゃんにくらべて、
アトピー性皮膚炎などにも罹りにくいのは証明済みなのだという。
当然、他の病気にも強い。

そういわれれば確かに、牛乳はアレル源の一つだ。
そんなこともあってか最近では、
豆乳をベースにした、
乳児用の人工乳を開発している乳業メーカーもあるけれど、
この豆乳のもと、大豆もまたアレル源である。
当然、体質に合わない赤ちゃんも大勢いる。

だいたいが万人に効く薬が絶対ないのと同じように、
どんな乳児にも対応する人工乳…、
乳業メーカーにいわせれば母乳代用品…など存在しないのだ。
だからこそ人間には母乳がある。
それぞれの乳児の体質にぴったりあった、
完璧な滋養物が母乳なのだ。
おまけに母乳はタダだし。

そんなことに思いをめぐらしながら、
父さんは横田さんをリビングへ案内した。
小柄だが肩から腕にかけての筋肉はたいしたもので、
重そうな風呂敷包みを軽々と持ち運ぶ。
年齢相応の短パン(草木染めのような柄)をはいたその後ろ姿には、どっしりとした安定感があった。

「ママさん、どう? 顔色いいみたいね」
すでに風呂からあがり、
また、[考える人]になっていた母さんを目にするや否や、
横田さんはいった。
助産婦としての横田さんの関心は、
妊婦がどんな格好でどんな呻き声をあげているのかではなく、
その顔色や目つきにあるようだった。
例のとぎれとぎれの話し方で母さんが応えた。

「痛いけど、なんとか、頑張ってます」
「今、陣痛がくる間隔はどれぐらい?」
「だいたい、3、4分」
「もうちょっとね。お風呂にはいったの?」
「さっき」
「そりゃ、よかった」
「そう、ちょっと楽になった」
「何度でもはいっていいのよ。
特にきょうみたいに暑い日は、清々するから」

そういうと横田さんは風呂敷包みを開いて、
荷物の一番上に載っていた真っ白い木綿の割烹着を取り上げた。
そして、
左右の握り拳を交互に突き上げるような格好で袖に腕を通すと、
「さて」と軽く気合いを入れた。

肝っ玉母さんの勝負服。やはり割烹着は白に限る。
そんな横田さんを目にして、
ふいに子供の頃に見ていた母の姿を思いだした。

夏でもひんやりと冷たい台所の板の間で、
ザクザクと野菜を刻んでいた母。
背丈も丁度、横田さんぐらいだった。
母は小学校の教諭をしていたので、
年がら年中台所にたっていたという訳ではなかったけれど、
それでも朝晩の食事の用意をするときには、
いつも真っ白い木綿の割烹着を身につけていた。

記憶の中では、その割烹着が、
みそ汁の染みやら何やらで、汚れているのを見たことがない。
いつでも洗い立てのようにシャンとしていた。


カクテルライト


本来なら、そんな母にも出産に立ちあって欲しかったのだが、
母はとうの昔にこの世を去っていた。
父さんが中学三年の秋だから、
かれこれ20年も前のことになる。

胃に癌が見つかり、
慌てて手術をしたもののすでに手遅れだった。
その後の半年間は、
モルヒネで痛みを和らげながら自宅で闘病生活を送り、
最期は枯れ葉が散るように静かに息をひきとった。
42歳の若死にだった。

〈もし母がいたら、今回の自宅出産についてなんというだろう?〉

横田さんに脹ら脛を揉んでもらっている母さんの横顔を見ながら、
父さんは自問した。
それよりなにより、
アメリカ人の母さんに対して母はどんな態度をとったのだろうか。
父さんたちの結婚を積極的に歓迎してくれただろうか。
それとも、
息子が選んだ妻だから…
という消極的な理由でしか接してくれないのだろうか。

その息子の妻がお産の日を迎えたきょう、
母も横田さんのように、
母さんの脹ら脛を優しく撫でてくれるのだろうか。
それともニューヨークにいる母さんの母親のように、
自宅出産と聞いただけで嫌悪感を露わにして、
孫の出産に立ちあうのを拒んだりするのだろうか。

人間の心の機微などというものは、
その日その日の生活の在りようによって変化するので、
20年前の母を現実に引きずり出して、
あれこれ推察しても意味のないことなのだが、
父さんはそんな自問を止めることができなかった。

そして、

〈もし、父さんや母さんが、
母のように、若くしてこの世を去るというようなことになったら、
グーはその後、どんな人生を送ることになるのだろうか?〉

という問いが脳裏を掠めたとき、
父さんの心は一気に、
自分が歩んだ母が死んだ後の日々へと飛んだ。

[続く…]

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(飯村和彦)


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いづれ死んでいく父からの伝言(9)




母親を亡くした後の日々。
悲劇のヒーロー然とした表情で、
級友に笑みを投げていた中三時代の自分。
進学校に通いながら、
他人と競争することを拒絶し、
自分の内なる世界を浮遊していた高校時代。

現代国語の試験では、
自分の回答が正しいとわかっていても、
書いた文字が気にいらなければ全部消して書き直したし、
数学では、
一番最初の問題が解けなければ、
幾ら二問目、三問目がたやすくても絶対先には進まなかった。

そんなことをしても、
何にもならないということは分かっていても、
どうしても気持ちの整理がつかず、
ついには吐き気を覚えるような心理状態に陥っていった。
その傾向はひとりでいるときにより顕著にあらわれ、
先にある答えが簡単であればあるほど、
頑固にその一歩手間にこだわった。



電飾系



今にして思えば、暗澹たる日々だったといえる。
こればかりは他人になんといわれようが、
決して変わることにない記憶として心の奥底に定着している。
もちろん、
周囲の大人たちの叱咤激励や友人の心遣いのおかげで、
ときには心が浮き立つような場面もないではなかったけれど、
もし、今誰かに、
〈もう一度、青春時代に戻りたいか〉
と問われれば、
逡巡しながらも、
〈NO〉
と返答するだろう。

そんな思いにとらわれているうちに、
父さんはあることに気がついた。
もしかすると、
自分が〈子供なんていらない〉と思っていたのは、
そんな過去と関係があるのかもしれない。
お腹をそっと押さえながら陣痛に顔を歪める母さんを見ていて、
その思いはある種の確信にかわっていった。

〈万が一にでも、
自分と同じ境遇にわが子が陥るようなことになったら…〉

意識の薄暗がりのなかに、
そんな危惧があったとしても不思議じゃない。
気づいてみれば単純なことのようだが、
単純だったからこそ気づかなかったのだろう。

糸がほぐれるのは、
たとえそれがほんの僅かであっても、いつだって心地よい。

「蒲団の部屋に、いく」
短い息をひとつ吐き、
グーをいたわるようにおなかの下に両手をあてがいながら、
ゆっくりと母さんが立ち上がった。
すでにグーは頭部を下にして、
この世に生まれでるタイミングを図っているに違いない。

「どっこいしょ」
横田さんが、母さんの代わりに声をだして拍子をとった。
のろのろと慎重な足取りで、
四畳半の和室へ向かう母さんの後ろ姿は、
幾分逞しくなった腰の周りをのぞけば、
妊娠する前と少しも変わっていないように見えた。
しなやかなそうな縦長の体型。
やはり、手足だけがでたらめに長い。

「しかし、どうしてあんなことをしでかしたかね」
母さんの緩慢な動き、
…仰向けに寝たまま、体をゴロリゴロリと左右に向ける…
にあわせて、
敷き蒲団の上に白いビニールシートをかけていた横田さんが、
唐突に訊いてきた。

「立派な大学を出ているエリートが多いっていうけど、
わたしにはそうは思えないのよ」

前フリなしだったが、
それがオウムの件であることはすぐにわかった。
横田さんは、
父さんがオウム関連の取材にも当たっているのを知っているので、
ときにそんな質問をしてきた。

「僕もそう思いますよ。
高学歴だからってエリートという訳じゃないし。
新聞やテレビは、…まあ僕もテレビの世界にいるけど、
高学歴のエリート集団がどうしてあんな犯罪を? 
という議論が好きだけど、
そもそもその議論の出発点が間違っているのは確かでしょう」

「違うわよね。
エリートっていうのはみんなのリーダーとか、
選ばれた人のことでしょ。
あの人たち、そんな風には見えないもの」

「一般社会じゃ、
絶対にリーダーとかにはなれない連中でしょ。
もちろん、リーダーだからって偉い訳でもなんでもないけど。
でも、だからといって他の人たちと一緒になって、
なにか社会に役に立つようなことができるかといえば、
そんな連中でもない。結局、
オウムに逃げ込むしかなかったんじゃないですか?」

「自分のことばかり考えてる人よね、きっと。
私にいわせりゃ、なんだかんだ理由をつけて、
奥さんのお産なんかには絶対立ちあわないタイプ。
もし立ちあったとしても、
赤ちゃんを見るより先に、
血を見て卒倒するようなタイプよね」

そういいながら横田さんは母さんの横に座り直して、
またマッサージをはじめた。
膝頭から脹ら脛の裏側をゆっくりと揉んでいく。
そのごつごつした手は、
鉛筆やペンで理想を訴えるのではなく、
生身の人間に触れながら、
夢や希望をたぐり寄せてきた手だった。



犬さん



「パパさんは、足の裏を押してあげてね」
脚の長さの割には、母さんの足は小さい。
父さんは、
母さんの足を自分の膝の上にのせると、
まずは、
左足の土踏まずのあたりに右手の親指をぐっと押しあてながら、
左の手で指全体を軽く揉みはじめた。
冷え性の母さんの足は、
夏の暑さの中でも指先が冷たかった。

「逮捕されたのは若い人が多いでしょ。
だから、親がかわいそうよね。
あんな子に育てたはずじゃなかったって悔やんでも、
悔やみきれないでしょう? 
自分の子供が、
テロ集団の一員になるなんて想像できないもの」

横田さんのいう通り、
子供がとんでもない宗教に引きずり込まれた…、
という認識をもっていた親はいても、
自分の息子や娘が、
教団幹部になってサリンやライフルを製造し、
国家転覆を目論んでいるなどと想像できた親は皆無だろう。

血で血を洗うようなパレスチナ紛争の真っ直中に身を置き、
日々の生活に絶望している両親を、
間近で見て育った若者ならまだしも、
オウムの場合は、
新聞社の部長の息子が信者だったりした訳だから。

父さんはいった。
「なぜ宗教がテロリストを生んだのかという議論があるけど、
それも違っていて、テロリストが宗教を利用したんだと思う」
すると横田さんは、
「そうよね、失礼しちゃうわよ。
だいだい、あの麻原って人、汚らしいもの。
水中出産なんかには絶対立ちあわせたくない」
といって、
これでもかと眉間に皺をよせた。

そんな話をしていると、
マッサージを受けていた母さんが、突然会話に割り込んできた。
うんうん唸っていても、
周囲の話はきっちり聞こえていたらしい。
ふッふー、はッはー息を継ぎながら母さんはいった。

「私の知っている日本の若い人たちは、いつも、
日本人だということを意識して、
自分たちだけの世界を、つくりたがるの。
ニューヨークにきた留学生なんかが、そうだった。
それで、日本に帰ってからのことばかり、いつも心配してた。
他の国からきた留学生は、そんなことないのに」

世界最終戦争だとかハルマゲドンだとか、
そんな荒唐無稽の話を多くの若い日本人が信じてしまったのは、
閉ざされた文化や、
社会の中で群れたがる多くの日本人の特性と無関係じゃない、
というのがニューヨーカーであり、
流浪の民を先祖にもつ母さんの見方だった。

そのとき父さんは、
ふとひとりの女性信者の顔を思いだした。

[続く…]

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(飯村和彦)


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いづれ死んでいく父からの伝言(10)




上九一色村の教団施設に、
警視庁の強制捜査が入った数日後の夜のことだった。
青山にあるオウムの東京総本部の道場で、
若い出家信者たちにあれこれ質問をぶつけていると、
薄汚れたスウェット姿のある女性信者が、
オウム信者特有の、
鼻を突く尿酸というかアンモニア系の臭いを発散させながら、
オウムに入信した理由を口にした。

「結婚にしてもなんにしても、
いくら一所懸命育んでも最終的には壊れてしまう。
同じように頑張るなら、壊れないものに対して努力したいから」

そして彼女は、
オウムに入信するにあたり、
全財産(といっても数十万円の銀行預金)をお布施として、
教団に納めたことを、さも誇らしげにつけ加えた。
「お金なんてね」…と。

視線を彼女の足元に落とすと、
白だったらしい靴下は黒ずみ、
その左右どちらにも、親指と小指の部分に穴があいていた。



猫の顔



そこまでいうのなら…と、父さんは、
幾分意地の悪い質問をぶつけた。
「それじゃ、逮捕されるときに君たちの教祖が、
九百万円の札束を、
後生大事に抱えていたことについてはどう考えるの? 
自分だけ秘密の小部屋に逃げ込んで、
失禁までしていた教祖ってどれぐらい高潔な人なのかな」

すると彼女は、目をきっと見開いていった。
「そんなこと分かりません。
だいたいマスコミが流す情報なんて当てにならないから」

彼女との会話はそこまでだった。
憮然とした表情でこちらに一瞥を投げると、
その女性信者は足早に道場をでていった。

ボブカット風の髪型に、
尻の部分がだらしなく弛んだスウェットパンツ。
右手には、
【マディソン・スクエア・ガーデン】
と金色の英文字で書かれた濃紺のスポーツバッグを下げていた。
そう、20年以上前、
よく小中学生がぶら下げていた、あのナイロン製のバッグだった。

〈分かろうとしても、やっぱり分からないなあ…〉
それが、素直な感想だった。
彼女が強調した、
[壊れないものに対する努力]
とはいったいなんなのか。

教団の手によって作られた覚醒剤を使った修行
…本人たちが知っていたかどうかは別として…や、
20ccで100万円だという教祖の澱んだ血を飲むことが、
その壊れないものに対する努力の一貫だとでもいうのだろうか。

信じがたいことにその女性信者は、
出家前、
幼児教育のトレーナーをしていたといった。
どんなトレーニングを幼児に施していたのか、
それについては語りたがらなかったけれど、
そんな彼女の目に、
純真な子どもたちの瞳はどのように映っていたのだろう。
確か、彼女、歳は二十九といっていた。

取材を終えて、
教団広報部の若い信者に押しだされるように東京総本部をでると、
突然、凄まじいフラッシュを浴びせられた。
信者の出入りを闇雲に撮影している、
報道陣のカメラだろうと思っていると、
型の崩れた灰色のジャンバーを着た男が、
使い込んだニコンを手につたつたと歩み寄ってきた。

チラリと身分証をこちらに向けると、
男は自己紹介なしでいきなり口をひらいた。
「きょうは何を?」
「取材です」
「なかの様子はどうでした?」
「別に、なにも…」
「教団幹部は誰か?」
「さあ、誰のこと?」
「いえ結構です。ご苦労さまです」
「そちらこそ」

公安警察も、
その存在価値を実証するチャンスだとばかりにしゃかりきだった。
ネタを引くのに公安に情報を流す記者などもいた。
騙し騙され、因果な商売だ。

ある人たちは、オウムを語るとき、
[なにも知らなかった]一般信者と、
テロを凶行した教祖や教団幹部を分けて考える必要があるという。
けれども、それは大いに疑問だ。
なかには、信者たちの日常を微細に撮影し、
彼らの口から流れでる種種雑多な言葉を、
色眼鏡なしで伝えることこそ、オウムの実像に迫る最善の方法だ…
として実践している人たちもいた。

しかしながら、
いくら教団内部にカメラを入れてその細部を撮影しても、
つまりはテロリストたちが利用した宗教の部分、
要するに表出しても構わない部分だけでしかない訳で、
そうなると、戦時中に、
大本営の発表をそのまま垂れ流していたのとなんら変わらない。

さらにいえば、
その教団内部のドキュメントをもとに、
オウムの実像を語りたがる人たちが、
凶悪テロに直結しているオウムの「本質」
(…メディアは「暗部」という言葉を使いたがるが、
それは妥当ではない)
を、あぶりだすようなドキュメントも、
並行して制作しているのかといえば、残念ながらそうじゃない。

あくまでも、
テロリストの狂気(信者はこれを教義と呼ぶ)に、
無自覚に心酔している、
多くの若者たちの姿を映しだしているにしか過ぎない。

事前にテロ計画を知らなくても、
結果として起きた凶悪犯罪に対し、
きちっと対峙して自らの判断を下すべきなのに、
信者の大半が然るべき態度をとっていないのは明らかだった。
驚くことに、
「マスコミが騒いでくれるから、教団のいい宣伝になる」
と、平気でうそぶく信者も少なくなかった。



公園サッカー



目の前の事実をきちんと見ようとしない点では、
原爆が投下された直後の陸軍幹部の妄想と差異はない。
オウム信者の多くは、
現実をまっすぐに見ることを、
能動的に放棄しているとしか思えないし、
それが許容されると考えている節さえある。

なかには、
「なにも知らなかった自分たちも被害者だ!」
などと、主張する信者までいるのだ。

全財産をなげうち、
自らの[選択]で参加した団体が犯した凶悪テロ。
それは、
[なにも知らなかった]だけで、
済ますことのできる話じゃないし、
もっと突き詰めれば、
[なにも知らなかった]こと自体が、当人たちの落ち度である。
遺言状まで書いて麻原にすべてを委ねていたのだから。

にもかかわらず、多くの信者は、
「真相が明らかにならないことには、なんともいえない」
「麻原尊師(この呼称、いい加減止めて欲しいが)の、
教義を信じるのは信教の自由だ」
「マスコミがいい加減な報道をするからいけないんだ」
などなど、あれこれ理由をつけては、
「なにも知らなかった自分たちに、どう責任を取れというんだ」
とばかりに、自分たちの権利だけを声高に叫んでいた。
冗談じゃない。

戦後、日本人はそれなりに豊かになった。
けれども、豊かになった分だけ、
なにか大切なものを日本人は失ったのだ。
例えば、慎みとか志の欠片とか…。
その結果として、
テロ集団「オウム真理教」が生まれてきたような気がしてならない。
嫌な時代だ。

室内に、ノーザン・オリオール(ムクドリ科の小鳥)のさえずりが、
響きわたった。
この日のために買ったアメリカ製の時計で、
12種類の野鳥の鳴き声で時刻を知らせてくれる。
ノーザン・オリオールがさえずれば、
午後6時ということだ。

この壁掛け時計のほかにも、
リビングにはグーが生まれたときに必要な、
ありとあらゆるものが用意されていた。

[続く…]

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(飯村和彦)


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