気になるBOOKs
2016年09月18日
「3回以上」読んだ本、何冊ありますか? 読み返すたびに浮かぶ違った景色
「自分の意見をもつのと頭のいい悪いは別のこと」
週末、村上春樹の「海辺のカフカ」を読み返していてふと目に留まった一節。これは主要登場人物の一人であるナカタさんをトラックで富士川まで送る運転手の台詞だ。以前読んだときにはそれほど気にならなかった台詞だが、今回はこの部分でパタリととまった。
「自分の意見をもつのと頭のいい悪いは別のこと」
頭の良し悪しの基準はどこにあるのか、どんな状況でなにをしているときなのか…。それを第三者がどう判断するかは難しい(きっと本来的にはそんな判断はできない)ことだけど、それと「自分の意見をもつこと」は確かにまったく別ものだ。当たり前のことなんだけど普段改めて考えないので余計気になったのかもしれない。
で、そのとき突然頭に浮かんだのが、つい最近のヒラリーが口にした言葉だった。
ニューヨークで催された資金集めのイベントでのこと。ヒラリーは、「トランプ氏の支持者の半数は私の考える嘆かわしい人々の部類に入る」(“…you could put half of Trump's supporters into what I call the 'basket of deplorables”)としたうえで、「人種差別主義者、男女差別主義者、同性愛者や外国人やイスラム教徒に偏見を持つ人々だ」と主張した。問題となったのはこの中の「嘆かわしい(deplorables)」という表現だ。これなどは選挙戦のタイミングを考えれば、不用意な、あまり頭の良くない発言だと思った人が多いかもしれない。事実、これ幸いとトランプ陣営に付け入る隙を与えたわけから。
けれどもそうは考えず「事実なんだから仕方ないだろう」と感じた人も少なくないはず。実際ヒラリーはその後この自分の発言について「後悔している」として訂正したのだが、訂正部分は「嘆かわしい」という表現ではなく、「半数」としたその嘆かわしい人々の割合の方だった。つまり彼女は自分の意見、主張そのものの肝は変えなかったのだ。
さて、村上春樹の「海辺のカフカ」からヒラリー発言に話が飛んでしまったけれど、こんなことが頻繁に起こるから、気に入った本は幾度となく手にしたくなるのだ。
本を読んでいて何が面白いかといえば、そこに書かれている内容もさることながら、物語とは直接関係のない事象が奔放に頭に湧いてくる現象だ。同じ本でもそのときに自分の置かれている状況や社会情勢が違えば、喚起される考えやイメージも違ってくる。これは二度目、三度目のときの方がより顕著だ。たぶん一度目のときは物語そのものの内容や流れをつかむのに忙しいからだろう。それが二度目、三度目ともなるとこちらに余裕があるから、そのぶん心置きなく自由に連想を楽しめる。だから自分の場合は、二度目、三度目の方が一冊の本を読み終えるのに断然時間がかかる。先を急ぐ必要がないからね。
きっと本を読むときの自分の思考が、3+7=□ではなく、□+□=10 の設問的なものに変わっているからだろうと個人的には思っている。
とはいうものの、これまでに三回以上読んだ本が何冊あるかと考えると、実はそう多くない。仕事、またはその関連で何度も読み返す本はあるが、この場合は自由連想なんてしてる暇はないし、どちらかといえば必要に迫られて読むわけだから、たとえ楽しくてもその質は異なる。半藤一利の「昭和史」などがその例だ。だからそうではなく、「ふと読みたくなって手に入れた本」のうちで「三回以上読んだ本」となると結構少ない。アメリカに引っ越すときに大半の本を日本に置いてきたから、いま手元にある本はいわばいつでも読みたい本に違いないのだが、それでも三回以上となると…
「坂の上の雲」「胡蝶の夢」(司馬遼太郎)、「リセット」(北村薫)、「コロンブスの犬」(菅啓次郎)、「砂糖の世界史」(川北稔)、「鍵のかかった部屋」(ポール・オースター)、「罪と罰」(ドストエフスキー)、「世界の終わりとハードボールド・ワンダーランド」(村上春樹)、「冷血」(トルーマン・カポーティ)、「幸福な死」(カミュ)、「変身」(カフカ)、「武士道」(新渡戸稲造)など。これらはすぐに手の届く場所にある。
幾つか本自体の写真を撮ってみたが、多くが手軽に持ち歩ける文庫本で、カバーの擦り切れ具合から相当前に買ったものだと分かりにわかに嬉しくなる。この感覚は電子書籍では絶対味わえないものだ。
北村薫の「リセット」は五回以上読んだ。直近でこの本を読んだのは去年の夏で、そのとき目に留まったのは以下の部分。例の安保法制反対の渦が日本で沸き起こっていたからだろう。
「特攻に出られた方々が最後の門出に献金していかれたお金をもとに《神風鉢巻》がつくられ、檄文の朗読と共に配られました。悠久の大義のために殉じた隊員のごとく、一人一人が神風となり、闘魂を燃え上がらせよ、というのです。
忠勇、義烈、純忠、至誠----と、厚化粧のような言葉が並べられました」(「リセット」より)
戦後70年たって、戦中に氾濫していた“厚化粧のような言葉”がまた市民権をとり戻し、政治家が真顔で口にするようになるんじゃないか。そしてそんな張りぼて感いっぱいの言葉を耳にして強く頷く人たちが増えていくんじゃないか。そんな不安に駆られたのだ。
その前に読んだときに印象に残ったのは別の箇所だった。
「自分が、このささやかな今を忘れなければ、この瞬間は《記憶の缶詰め》になり、自分が生きている限り残る。ちょうど、絵日記の中に、三年前の《夏》が残っていたように」(「リセット」より)
これらの気になった箇所は、本を読むたびにつける「うさぎの耳」があるからすぐ分かる。心に響いたり、自分なりに「ん?」と思った箇所があるとページの上隅を小さく折る。実はこの「うさぎの耳」、本を読み返すときにはいい指標の一つになる。例えば、何年か後に改めてある小説を読み返したとしよう。で、「うさぎの耳」のあるページに差し掛かったときに、前にその小説を読んだときはどのセンテンスが気になったのか、それはなぜだったのか…を確認できる。つまり、自分の感情やものの見方の変化を知ることができのだ。もちろん、なぜそのページに「うさぎの耳」があるのか思い出せないときもあるけれど。
なかには「ある一ヶ所」を読みたいために幾度となく手にする本もある。カミュの「幸福な死」はそんな類の本で、これはわりと最近読み返した。で、その「ある一ヶ所」が以下の部分だ。
「自分がこのままこうした無意識の状態で、目の前のものを見ることができなくなって死んでしまうのかもしれないという不安が、かれの想念に浮かんできた。村では教会の時計が時を告げたが、かれはその数が幾つだったかわからなかった。かれは病人として死にたくはなかった。…かれがまだ無意識のうちに望んでいたことは、血潮と健康でみたされている生と、死との対峙であった。そしてそれは、死と、すでにもうほとんど死であったものを対峙させることではなかった」(「幸福な死」より)
この部分を読むたびに考えるのは“意識された死”(=自覚的な死)とそうではない“突発的な死”(例えば事故やテロで突然命を落とすような場合)について。とくに後者の場合は刹那的な“死への予感”だけで、血潮と健康にみたされていた生が、突然、死に一転してしまうのだから。例えばいまのシリア。空から轟音を伴って降ってくるミサイルを見たとき、少女はなにを思うのだろうか。
また最近のことだが、落石が走行中の車を直撃し、助手席に座っていた19歳の女子大生が命を落とすというニュースもあった。極めて低い確率でしか発生しない事故。信じられないような不幸が、突然ふって沸いたとき、自分はどうなるのだろう。
と、ここまであれこれ書いていて、そういえば娘は小さい頃からある本を何度も何度も読んでいたなあ…ということを思いだした。
「やかまし村のこどもたち」。アストリッド・リンドグレーンといスウェーデンの作家の本だ。日本でも人気のある作家だから彼女の作品(ほかに「長くつ下のピッピ」「名探偵カツレくん」など)を読んで育ったというひとも多いと思うけれど、娘の場合は尋常じゃなかった。そこで彼女に聞いてみると、「何十回どころじゃないよ」という答えだ。で、「どこがいいの」と聞いてみると、「全部」とひとこと。そして「家が三軒しかない小さな村で暮らす6人の子ども達の毎日が、ともかく面白いのよ」と続けた。
木の枝を伝って隣の家の仲良しの部屋へ行ってみたり、犬や猫との子ども達の係わり。そして奇想天外な遊びに没頭する彼らをいつだって温かい目で見守る大人たち。とっても狭いエリアで展開される物語なのだが、ふと自分の子どもの頃の日常と比べてみたり。大人が読んでも十分楽しめる本だ。
「猫を好きになったのも、木登りが得意になったのも、やかまし村を読んだからだと思う」と娘はいう。
小学校の低学年から中学、そして18歳になった現在にいたっても「やかまし村の子どもたち」は、娘にとって大切な一冊なわけだ。もちろんその古びた本はいま住むアメリカの家の本棚に持ち込まれている。
羨ましいなあ…と思う。
そんな本が一冊あるだけで、どれだけ彼女の人生が豊かなものになったことか。残念ながら自分には彼女の「やかまし村の子どもたち」にあたるような本はなかったから。
まあ、これからそんな本を探せばいいのか? 読書の秋だし。
ちょうど我が家の近くに、読み終わった本を自由に交換できる「森の小さな本棚」があるから。でもあそこのはみんな英語の本だからなあ。
(photo:kazuhiko iimura)
(飯村和彦)
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2016年05月18日
がん治療の新しい地平!アメリカ発「がん免疫療法」(1)
毒をもって毒を制す!
先週、FDA(アメリカ食品医薬品局)が、デューク大学の開発した「ポリオウィルス」を使って脳腫瘍(正確には膠芽腫)を攻撃する治療法を「Breakthrough Therapies」(仮訳:画期的治療法(治療薬)」に指定した。
「Breakthrough Therapies」指定制度は、「FDA安全性及び革新法」(2012年施行:FDA Safety and Innovation Act: FDASIA)に付随するもので、単独または他剤との併用により重篤または致命的な疾患や症状の治療を意図した新薬の開発と審査を加速することを目的としている。(参照:FDAホームページ)
この「ポリオウィルス」を用いた脳腫瘍の治療法は、2013年の米国臨床腫瘍学会(ASCO)で発表されて以来注目を集めてきたもの。その特徴はがん細胞をポリオウィルスが直接死滅させるだけではなく、その療法によって免疫機能も誘発され、がん細胞を攻撃するようになること。
当然ながら素朴な疑問が浮かぶ。なぜ「ポリオウィルス」なのか。
デューク大学の説明によると、がん細胞の表面には、ポリオウイルスを磁石のように引き寄せる受容体が多数あるため、“ポリオウイルスの感染によりがん細胞が死滅するから”だという。
使用されるポリオウィルスは、遺伝子組み換え技術によってつくられた「改良型ポリオウィルス」。ポリオウィルスの基本的な遺伝子配列の一部をインフルエンザウィルスのものと組み換えたもので、この「改良型ポリオウィルス」は正常細胞には無害だが、がん細胞に対しては致死作用があるらしい。
さらには前述した通り、「改良型ポリオウィルス」を患者の腫瘍に直接注入する治療法には、身体の免疫機能を誘発して、ポリオウイルスに感染した腫瘍への攻撃を開始させる効果もあるという。
研究者によると、実はこの免疫系の働きがとっても重要で、ポリオウィルスをがん細胞に感染させて死に追いやるのは、全体の流れでいえば最初のきっかけにしか過ぎず、実際に腫瘍全体を死滅させるのに大きな役割を果たしているのは、この免疫系なのだという。
ここ数年、アメリカで研究されている先端がん治療をあれこれ調べ、取材してきたけれど、やはりその多くが人間に生来備わっている免疫機能を活性化させたり、呼び覚ましたりするものが多い。
これまでは、がんになったら病巣を外科手術で摘出し、その後は抗がん剤や放射線を使用して転移や再発を抑える…という方法が一般的に行われきた。
ところがご存知の通り、この治療法は患者本人への負担が大きい。特に末期がん患者の場合、一定の治療効果があって余命を伸ばすことに成功したとしても、多くの患者が厳しい副作用に苦しむことになり、残された大切な時間を苦悶の中で過ごさざるを得なくなる。
理由は明らか。
外科手術はもとより、抗がん剤を使った治療はその特性から患者本人の身体や正常細胞を激しく損なうからにほかならない。そこでここ数年、先端がん治療の現場で注目され、研究が進んでいるのが人間の持つ免疫機能を活用してがんを叩く、「がん免疫療法」ということなのだろう。
例えば、ペンシルバニア大学を中心にした研究チームは、「エイズウィルス」を使ったがん免疫療法を開発した。ここでのコンセプトは、「患者の免疫細胞(T細胞)をがんを直接攻撃する細胞に作り変える」こと。対象とされたがんは、急性リンパ性白血病、及び慢性リンパ性白血病だった。
この免疫療法が一躍全米の注目を浴びたのは2012年12月。急性リンパ性白血病を患い、残された治療法はなく、あとは死を待つのみと宣告されていた少女(7歳)が、この治療法の臨床試験に参加して奇跡的な回復を遂げたことだった。(この成功例は当時、ニューヨークタイムスによって大きく報じられた)
その後も研究チームは、急性リンパ性白血病、及び慢性リンパ性白血病の患者を対象に臨床試験を継続。治験者は、従来の治療法である化学療法や幹細胞移殖などを繰り返したあと、ほかに残された治療方法がない人たちだったが、2013年12月に発表された結果は、75人の白血病患者のうち45人は、後に再発した患者もいるが、回復しているというものだった。
では「エイズウィルス」を使ったがん免疫療法とは、具体的にはどんなものなのか。
その流れは以下のようになる。
まず、患者本人から取り出した免疫細胞の遺伝子を、不活性化させたエイズウィルスを利用して組み替え、がん細胞を攻撃するように改変する。次に、こうして改変した免疫細胞を培養で増やした後、また患者の体内に戻す。すると、体内に戻された改変した免疫細胞が、がんを叩くという寸法である。
この改変された免疫細胞は、ほとんどのがん細胞の表面上に見られる「CD19」と呼ばれるプロテイン(タンパク質)に向かって進むようにしてあるので、結果、直接がん細胞を攻撃することになり、順調に機能すればがん細胞を破壊しはじめるのだという。
そう、ここでまたしても疑問。どうして「エイズウィルス」だったのか。
臨床試験の指揮をとるペンシルバニア大学のジュン教授によると、「(不活性化させた)エイズウィルスは、免疫細胞のDNAに入り込むのが得意だから」…だそうだ。「エイズウィルス」と聞くとみんな驚くかもしれないが、不活性化して病原性をなくしてあるから問題ないらしい。
確かに、エイズ=「免疫不全症候群」。だからエイズウィルスは免疫細胞に巧妙に進入するのだろう。
余談になるけれどこのジュン教授、取材の問い合わせをした際、ものの1時間もしないうちに返信メールをくれた。何かの役に立てばと自分の研究室にいた日本人研究者(医師)の連絡先も沿えて…。いつも思うことだけれど、リスポンスの速い人ほど素晴らしい仕事をしている。頭が下がる。
さて、このペンシルバニア大学の治療法のコンセプトそのものは50年ほど前からあり、ヒトを対象にした臨床試験も過去20年間ほど行われてきたという。しかし、患者に戻した免疫細胞をその体内で生存させるのがとても難しかったのだそうだ。試行錯誤の末、免疫細胞に組み込む遺伝子を運ぶために使う「乗り物」(ベクターと呼ぶ)に、「改変エイズウイルス」を用いたところ、いい結果が得られるようになったのだという。
このペンシルバニア大学を中心に行われている研究は大手製薬会社の協力のもと現在も着実に進んでいる。
とここまで書いてきて、25年以上前に読んだ一冊の本について触れたいと思う。
「明るいチベット医学〜病気をだまして生きていく〜」(センチュリープレス)
特別な理由もなくふと書店で手にしたものだったが、取材対象の一つの柱として自分が医療分野(…というか医療行為の神秘)に興味を持つきっかけを与えてくれた一冊だ。
改めて著者の大工原弥太郎さんについて調べてみると、『…昭和19年生まれ。チベット医学を専攻。昭和46年インドのダージリンで診療開始。翌年ブッダガヤに移ってのち、印度山日本寺境内に私設の無料診療所を開所。以来、臨床畑を歩むかたわら、招聘に応じてたびたびイギリス、スペインでの講座講義と臨床。昭和50年に国連ユニセフ・フィールド・エキスパートとしての専属契約によりネパール、ブータン、タイ、カンボジア、ヴェトナム、チベット等で、教育・福祉・健康・医療面での諸プロジェクトに従事店』(一般社団法人・仏教情報センターHPより抜粋)とあった。
実はこの「明るいチベット医学」の中にも大変興味深い「がん治療法」が紹介されていたのだ。いま手元にその本自体がないのが残念だが、当時書いた取材メモが残っていたので以下に…。
『…病気を取り除くのではなく、いかに上手く病気と付きあっていくかが大切。例えば、チベット医学のがん治療法。これにはがんの種類、進行具合、患者の資質によって二つの方法があるという。
一つが患者の体力を落として体質改善を図る方法。この方法は主に上皮肉腫に用い、消化器、循環器以外のがんの場合に用いられる。がんはその発生から豊富な栄養をもとにしており、細胞分裂するごとに勢いを増していく病気。だから逆に、がんの進行に拮抗できるような体力の“落とし方”をすればがんの勢いも衰えるという考え方に基づいている。
例えばこんな具合だ。ある期間、ブドウ糖と塩水以外は一切患者に食べ物を与えない。そうして、ほとんど皮下脂肪が無くなった頃合をみて断食を解除、段階的に正常な消化活動を再開させる。ところが、いったん脂肪も体力もギリギリまで落ちた身体は、もう身体にとって望ましい量の食物しか受け付けなくなっている。こうなればもう“出来あがり”らしい。
通常、がんが消えてなくなることはないが、それ以上大きくなることも無く、みんなガンと同居しながら苦しみもせず10年、15年と生きていくのだという。
もう一つが、らい菌をがん患者(主に喉頭や食道、肺ガンなどの呼吸器系を中心とした、比較的症状が軽い患者) に感染させて、ガンを治す方法。この方法は患者をらい菌に感染させるまでに時間がかかるのが難だというが、らい病は、今では重症にしなければ完治させられるし、後遺症は起こらない。その治療効果は抜群だという。上手くらい菌に感染させられれば、がんは大方消えてしまうそうだ。
“医者は患者に関わりはするが結局は他人。頼りになるのは自分の身体だけだ”というのがインドの人たちの考え方だという。だから彼らは病気にならないように生きるべく、昔から語り継がれた知恵を沢山持っている。そしてそれらは、専門的な観点からみても理に適っている場合が多いのだという。…』
(以上、取材メモより抜粋)
いま改めて取材メモを読み返してみてやはりちょっと驚いた。
「らい菌」をがん患者に感染させる治療法は、いま最先端だといわれている「ポリオウィルス」や「エイズウィルス」を利用したがん治療法と通じるものがあるのでは? 当然だといわれればそれまでなのだが、つまり人が長い歴史の中で経験し、実践してきた治療法というものは21世紀の現在にいたっても、その発想に関しては脈々と息づいているということなのだろう。
遺伝子工学や分子生物学、有機・無機化学の急速な発展と共に医学そのものも様変わりしているけれど、人の身体の在りようは変わらない。たぶんそんなところなんだろうなと…。
(飯村和彦)
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2015年08月18日
「常野物語〜蒲公英草紙」より
「常野物語〜蒲公英草紙」(恩田陸)より抜粋
……………………
漠然とした不安は、いつも丘の向こうにありました。
声高に寄り合う男の人たち。
世の中はきなくさく、
何か殺伐としたものが
遠いところから押し寄せてきていました。
清国との戦争は、
海の彼方の国々がすぐ近くまで来て
我が日本の一挙一動を見張っていることを知らしめました。
小さな半島を巡って、
どろどろしたやりとりがが続いています。
ろしあが、いぎりすが、と
皆いきりたって拳を振り上げているのを見ると、
女たちは一様におどおどと表情を失います。
なぜわざわざ海を越え、
よその国に行って戦争をしなければならないのでしょう。
なぜ人のうちの物を欲しがることに
もっともな理屈をつけて偉そうに叫ぶのでしょう。
外国の脅威を語る人たちがいる一方で、
労働者が、資本家が、社会主義が、
と何やらその三つの言葉が
組み合わせを変えてあちこちで叫ばれていました。
かと思えば汚職に、猟奇的殺人に、
と次々に懲りずに衆目を集めるような騒ぎが湧いてでます。
……………………
赤ん坊が泣いています。
数日前に、広島と長崎に立て続けに落とされた新型爆弾は、
街を根こそぎなくしてしまったそうです。
市民のほとんどが死に絶え、毒がばらまかれ、
今後五十年は草も生えないだろうと噂されていました。
そっと重い身体を動かし、夕焼けの中を歩いてみます。
あちこちに呆然と座り込んでいる人達の姿が見えます。
今日、私は、そしてみんなも、
初めて陛下のお声を聞きました。
みんなでじっと地面を見つめて、
身動きもせずにそのお声を聞いたのです。
空は澄み切って高く、
よく晴れた一日が終わろうとしています。
彼らはどこにいるのだろう。
私は光比古さんの大きな瞳を思い出していました。
彼らは今、どこにいて、どんな気持ちであの陛下のお声を聞いたのだろう。
私は今、とても光比古さんに会いたくてたまりません。
今こそ彼に会いたいのです。
今でも私ははっきり思い出すことができます。
新しい世紀、海の向こうのにゅう・せんちゅりぃに
胸を躍らせていた多くの人々を。
私たちの国は、
輝かしい未来に向って漕ぎ出したはずだったのです。
けれど、日本は負けました。
夫も、息子も、孫の父親も死にました。
残っているのは飢えた女子供ばかりです。
これからも日本は続くのでしょうか。
この国は明日も続いていくのでしょうか。
これからは新しい、素晴らしい国になるのでしょうか。
私たちが作っていくはずの国が本当にあるのでしょうか。
私は光比古さんに会いたくてたまりません。
あの時、
光比古さんが私にした問い掛けを、
今度は彼にしたいのです。
彼らが、そして私たちが、
これからこの国を作っていくことができるのか、
それだけの価値のある国なのかどうかを
彼に尋ねてみたいのです。
……………………
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2014年10月22日
夢のような紫色クレヨン!
こんなクレヨン、
あったらいいなあ…。
ドラえもんが、
あのポケットから取り出すような、
「夢のクレヨン」の話。
「ハロルドと紫色のクレヨン」
…というタイトルになるのか。
ともかく、
この絵本、気に入っている。
ストーリーは簡単で、
欲しいものを紫色のクレヨンで描いいけば、
どんどん、
なんでも出てくる。
以下、抜粋。
この話の面白いところは、
ストーリーが、
「線」で繋がっていくところ。
紫色のクレヨンで描かれる世界は、
途切れることがない。
次から次へと、
夢の世界が広がっていく。
一度、
手にとって眺めてみる価値あり。
(飯村和彦)
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2010年11月01日
阿川弘之氏の「山本五十六」に登場する興味深い人物
ある訳があって、
阿川弘之さんの書いた「山本五十六」を読んだ。
山本五十六という人物について、
個人的には、さほど興味を持っていなかったので、
この本では、山本五十六以外の登場人物が気になった。
そのような理由で、
以下に、「山本五十六」の中から二人を紹介しよう。
(娘・作)
まず、本の中で、
海軍霞ヶ浦航空隊における
搭乗員の適性検査に関する記述に登場する人物。
順天堂歴史課卒、水野義人。
水野は、手相骨相の専門家だった。
当時、海軍航空隊では、
何年もかけて隊員の適性を判別していた。
ところが水野は、たった5、6秒、
隊員の手相骨相を見るだけで適性を見抜き、
尚且つその結果は、
80%以上(83%)の確実性だったという。
水野義人は海軍航空本部嘱託となり、
練習生、予備学生の採用試験に立会い、
手相骨相をみることになった。
水野は、適性を甲、乙、丙の三段階で評価。
海軍が水野の観相術を利用した方法は、
飛行機乗りの選考にあたって、
学術と体格が共に甲であり、
さらに、水野が「甲」をつければ、
それを最も優先させるというやり方だった。
水野は山本五十六の手相も見たが、
山本の特徴は、
俗に天下線と称する、
秀吉の持っていたものと同じ線が、
中指の付け根まではっきり一直線に伸びていた。
途中で職業を変わらずに、
最高位まで行く人の相だというのが、
水野の説明だったという。
水野は戦後、司法省の嘱託となり府中役務所に勤務。
犯罪人の人相研究をしたが、
間もなく進駐軍司令部の一声で免職となり、
小松ストアの相談役になり、
店員の採用や配置に関し、助言する仕事についた。
もう一人は、
ハワイ真珠湾作戦の草案を書いた人物について。
昭和2、3年ごろ、
海軍大学校を出たばかりの少佐、草鹿龍之介が文書にした。
当時草鹿は、霞ヶ浦航空隊教官兼海軍大学校教官。
担当は航空戦術。
「第一次大戦後、飛行機が戦いの主力になりつつある。
アメリカ太平洋艦隊を西太平洋におびき出して、
日本海海戦のような艦隊決戦を挑むのが、
帝国海軍の対米戦略の基本だが、
もし相手が出てこなかった場合は、
向こうの最も痛いところ、
ハワイを叩いて出こざるを得ないようにする必要がある。
そしてハワイ真珠湾軍港を叩けるものは、
飛行機よりほかない」
というのが骨子だった。
それをその後、
所謂、「真珠湾攻撃作戦」としたのが山本五十六。
山本五十六は、海軍罫紙9枚に、
「戦備ニ関スル意見」という一書を、
海軍大臣の及川古志郎に送り、
その中で初めて公式にハワイ攻撃の構想を示した。
それは、
昭和16年1月7日のこと。
草鹿がその着想を得て、
ハワイ攻撃案を書いた14年も後のことである。
余談(…ではないか)だが、
アメリカのジョセフ・グルー駐日大使は、
1月28日(推定)の国務省への機密電報で、
日本の真珠湾奇襲がある得ることを本国に警告した。
「駐日ペルー公使の談によれば、
日本側を含む多くの方面より、
日本は米国とことを構ふ場合、
真珠湾に対する奇襲攻撃を計画中なりとのことを耳にせりと。
同公使は、計画は奇想天外の如く見ゆるも、
あまり多くの方面より伝えられ来るをもって、
ともかく知らせすとのことなりき」
(飯村和彦)
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2010年07月14日
龍馬、晋作、歳三…彼らの武士道とは!
「幕末武士道、若きサムライ達」
山川健一氏の本。
そのタイトルに惹かれて即座に購入した。
巻末を見ると2004年8月初版。
つまり、6年ほど前に出版された本なのだが、
歴史もの故、無論色あせることはない。
幕末・維者の人物や出来事について、
「武士道とはなにか!?」という命題の元、
大変興味深く記されている。
例えば坂本龍馬の武士道。
(大政奉還が成就するか否か)龍馬は二条城からの使者を待っていた。
徳川慶喜が大政奉還する気がないのなら、
流血討幕あるのみだと思っていた。
そこへようやく知らせが届いた時、
龍馬は畳みに突っ伏して泣き、声をあげてこういった。
「将軍今日の御心、さこそと察し奉る。
よくも断じ給えるものなか、
よくも断じ給えるものかな。
予は誓ってこの公のために一命を捨てん」
これこそが坂本龍馬の武士道であった、と山川氏は書く。
そこには強力な人間的な魅力があるのだという。
これは高杉晋作にも、土方歳三にも、
吉田松陰にも久坂玄瑞にも、
西郷隆盛にも共通することであり、
だからこそ、同じ日本人でありながら、
彼らはあんなにも遠くへ行くことができたのだという。
「彼らとて、特別な超人ではなかった。
悩み、苦しみ、臆病な自分を叱咤激励したにちがいない。
だから、何かを信じる気持ち。
誰かを愛する気持ちが、
幕末武士道の限界を遠くてまで広げていったのではないか」
そして山川氏は続ける。
「武士の徳目は、忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、
潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛である。
どれも意味深い言葉である。
そしてこれらの理念すべての上に成立した幕末武士道の本質とは、
愛することだったのだ」
さらに、
「彼らが信じたそれぞれの武士道には、
今のぼくら日本人が失ってしまった
とても大切なものがあったのではないだろうか。
とにかく、
敵も味方もなく力を合わせて新しい時代を切り拓くのだ、
そうでなければ日本という国が滅びてしまうという
…ぎりぎりの場所で彼らは動いた。
平成の日本に生きるわれわれも、
ぎりぎりの場所に置かれている意味では幕末と変わりはない」
僕らの胸の中には、幻の刀がある。
誰しもが心の闇の中で光る刀を持っている。
その刀がぼくたちに教えてくれる大切なことは、
以下の五つなのだと山川氏はいう。
その一。死の一点を置き、そこから限りある生を無限に照らしだすこと。
その二。日本の自然の懐に抱かれること。
その三。一身一命をなげうって人を愛すること。
その四。『公』という視点を持つこと。
その五。文武両道を実現すること。
そうすると、
「やがて、他とは交換不可能な、
かけがえのない自分だけの武士道が魂を支えてくれるようになるだろう」
同感である。
特に「公」のあり方が問われている昨今、
心の中の刀の教える「思想」をきちんと見すえる必要があるのだと思う。
この本では、
岡倉天心のある言葉が象徴的に紹介されている。
「もしわが国が文明国となるために、
身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないのだとしたら、
われわれは喜んで野蛮人でいよう」
大切な言葉だ。
この言葉に寄り添って生きる。
多分それが、
恒久平和を希求するわれわれの生き方なのだろう。
「戦略核?」
「戦術核?」
「抑止力?」
いったいなんの為に必要なのだろう。
人類を破滅させるため?
大切なことは、理屈ではない。
「志」の問題のような気がする。
ひとりひとり、志が高ければ、
「野蛮人」でもいいじゃない?
卑劣な戦争をするより、余程いい。
(飯村和彦)
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2010年05月05日
坂本龍馬と千葉さな子(佐那)の墓
このところの「歴史」ブーム。
本屋をのぞけばその特設コーナーに、
戦国から近代、現代に至るまでの書籍がズラリと並ぶ。
福山さんが主役を勤める大河ドラマの影響だろう、
特に坂本竜馬の関連本は凄い。
司馬さんの「竜馬がゆく」などの有名なものから、
“図解・竜馬”的なブームに便乗した「お手軽本」まで、
それこそ何種類もの本が山積みになっている。
もちろん、いいこと。
多くの人が歴史に興味をもって、
この日本という国の成り立ちに思いを馳せることは大切だ。
最初はそれこそ土佐藩の「坂本竜馬」でいいじゃない。
そこからスタートして、
長州の「高杉晋作」、越後の「河合継ノ助」
新撰組の「土方歳三」、最後の将軍「徳川慶喜」、
穢多頭「弾左衛門」、幕府医官「松本良順」。
英国公使館通訳「アーネスト・サトウ」
孝明天皇や明治天皇、
終戦時の首相「鈴木貫太郎」等々へ、
興味の幅が広がっていけばいい。
そうなれば、さらに微細で専門的なところにも入っていける。
明治維新って?
近代化で得たものと失ったものは?
「統帥権」って?
陸軍の暴走って?
占領軍GHQの「G2」、「GS」の役割は?
いつの時代のどんなところを起点にしても構わない。
そこから縦横に歴史の世界を探検する。
するとどうだろう。
面白いことに、そうすることで歴史だけではなく、
「今」がくっきりと浮かび上がってくる。
現代を知ることは歴史を知ること。
歴史を知れば現代が分かる。
言い古されたことだけど、これって真実で本当に興味深い。
さて、
そんなこんなをダラダラ述べたところで本日の本題。
「私は坂本竜馬の婚約者だった」
と生涯いっていたといわれる千葉さな子について。
↓の写真は、彼女の眠る長野県にある墓。
場所は、甲府市にある日蓮宗清運寺である。
では、千葉さな子とはいったいどんな女性で、
坂本竜馬との関係はいかなるものだったのか。
この件についてはそれこそ数多くの本に書かれているから、
それぞれが好きなものを参照にすればいい。
という訳で、
ここでは司馬遼太郎さんの「余話として」から、
千葉さな子について記述したところの一部を…。
以下、「余話として」より抜粋
…剣の千葉家には、周作の神田お玉ヶ池道場と、
周作の実弟定吉の桶町道場とのふたつがあり、
たとえば坂本竜馬はその桶町千葉の塾頭であった。
…竜馬と千葉家(定吉)の娘さな子との交情について…
…竜馬は桶町千葉で剣を学んだが、ほとんど千葉家のい家族同様に待遇され、
のち諸国を奔走しているときも、
江戸にきればかならずこの千葉家を宿にした。
自然のなりゆきでさな子は竜馬に好意をもったが、
竜馬もむろん同様だったにちがいない。
かれは技能をもった才女がすきで、
それからみればさな子は娘ながら北辰一刀流の免許皆伝の持ち主である。
ところがこの恋は結ばれなかった。
竜馬はその若い晩年、最後に江戸を発つとき、
さな子から胸中をうちあけられ、
かれもおどろいた。あるいは驚いたふりをした。
なぜならば、竜馬は妙に艶福家で、
このときすでに京において「おりょう」という娘を得ており、
これを結局は妻にした。
という事情から、その事情をうちあけられもせず、
かといって恩師の娘をいたぶることもならず、
窮したあまり、
「自分は危険な奔走をしている。いつ死ぬかわからず、
だから結婚ということは考えられる境涯ではない」
と婉曲にことわり、
「しかしうれしい」などといって、
いきなり自分の着ている着物の方袖をひきちぎり、
「浪人の身でなにもさしあげるものはないが、
これを私の形見だとおもってください」
といって、
その桔梗紋入りの方袖をさな子に渡し、千葉家を去った。
その後、竜馬は死んだ。
…さな子は、維新後は、
女子学習院の前身である華族女学校が永田町にあったころの
舎監のような仕事をしていた。
教え子たちにときどき昔ばなしをし、
私は坂本竜馬という人の許婚者でした、と語ったりしたが、
明治の初年は生き残った元勲たちの全盛時代で、
物故者の名はほとんど世間で語られることがなく、
娘たちも坂本某とは何者であるかよくわからなかったそうである。
さな子は、竜馬の「妻」として生涯空閨をまもった。
さな子自身も、
京や長崎で奔走する竜馬にはおりょうという者が存在したということを
おそらく知らなかったにちがいない。
…自然石の墓碑に、「千葉さな子墓」ときざまれ、
碑の横側には、「小田切豊次建之」とあり、
さらに「坂本竜馬室」と、刻まれている。
さな子は生涯、竜馬の妻のつもりでいたらしいが、死後、
墓碑によってその思いが定着した。
【以下3/22・読売新聞より抜粋】
坂本龍馬が江戸で剣術修行中に知り合い、
婚約したとされる千葉佐那(さな)が、飛び切りの美人だったとの記述が、
愛媛県に残る宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり)の記録、
「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」にあることがわかった。
龍馬研究者の宮川禎一・京都国立博物館学芸部室長が確認し、
「同時代史料で確認できたのは初めて」と話している。
佐那は北辰一刀流の達人千葉周作の弟、定吉の娘で、
定吉の道場に学びに来た龍馬と知り合い、
婚約して結納を交わしたとされる。
公記は宗城の直筆の日記などから明治期にまとめられたもの。
安政3年(1856年)6月19日の項で、当時19歳だった佐那が、
「世子殿」(9代藩主宗徳、当時27歳)の剣術の相手をして打ち負かしたくだりに
「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」などとあった。
伊達家の御殿は江戸に2か所あり、
出入りする多数の女性の中で、
宗城が佐那を一番の美人とみていたことが読み取れる。
安政3年は佐那が龍馬と知り合った少し後で、
伊達家の姫君の剣術教師だったらしい。
【以下、4/25・スポニチより抜粋】
坂本龍馬の婚約者だったとされ、
NHK大河ドラマ「龍馬伝」では貫地谷しほり(24)が演じる
千葉佐那が眠る清運寺(甲府市朝日)の墓参者が急増している。
これまで年間200人程度だったが、
番組開始以降は1000人を突破。龍馬を思い続け、
生涯独身を貫いたいちずさに魅せられ、
墓前で永遠の愛を誓うたカップルも多いという。
番組に佐那が登場したのは1月24日放送の第4話。
以降、墓参者は後を絶たず、
清運寺では3月に急きょ道標を設けたほど。
20代以上のカップルが目立つようになり、
田中宏昌住職は、
「お墓の前で永遠の愛を誓われているようです。
以前はこんな光景は見られませんでした」と驚いている。
佐那は北辰一刀流を開いた千葉周作の弟、定吉の長女。
剣術使いとして、男性を寄せ付けず「千葉の鬼小町」と呼ばれた。
それを一変させた出来事が、剣術修業で土佐から江戸に上り、
定吉の道場に入門してきた龍馬との出会い。
福山雅治(41)が演じる龍馬に、
いつも真っすぐな視線を向けて、
いちずな思いを表現する貫地谷の演技は見せ場の1つだ。
以前の清運寺は、
剣術向上などを目的とする墓参がほとんどだったという。
田中住職は、
「佐那はただいちずなだけではなく、
剣も琴も絵もお灸(きゅう)も得意とする才女。
このドラマで初めて人柄を紹介されて、
魅力に気付いた方も多いと思います」
佐那は板垣退助にも灸の治療を施したといわれる。
龍馬が姉の乙女にあてた手紙にも佐那の記述がある。
広末涼子(29)が演じる初恋相手の平井加尾よりも
「かほ(顔)かたち少しよし」
その後、龍馬は京都で出会ったお龍と結婚する。
佐那は、龍馬が死亡したことを伝え聞いた後も思いは曲げず、
1896年に58歳で亡くなるまで独身だった。
清運寺の墓は東京・谷中にあった墓地から分骨して建てられた。
JR甲府駅から徒歩13分ほど。
自然石の墓石の裏には、
龍馬の妻を意味する「坂本龍馬室」と刻まれている。
(飯村和彦)
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2010年04月17日
最高の台詞だ!「ホテル・ニューハンプシャー」
本を読んでいて楽しいことの一つは、
「いいなあ…」と感じる台詞に出会うことだ。
その台詞は、
作者によって考え抜かれたものなのか、
文章をつむぎだしているときに刹那的にでてきたものなのか、
読み手には判然としないのだが、
ともかく、素敵な台詞が散りばめられた会話はいい。
そういう訳で本日は、
ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」
1939年に始まるベリー一家の「愛の物語」である。
非常に有名な作品ゆえ、ご存知の方も多いはず。
文庫本の背表紙に記された内容紹介は以下の通り。
「…ホモのフランク、小人症のリリー、難聴のエッグ、
たがいに愛し合うフラニーとジョン、老犬のソロー。
それぞれに傷を負った家族は、父親の夢をかなえるため、
ホテル・ニューハンプシャーを開業する…」
この物語の中で、
一番心動かされた場面が以下の部分。
フラニー(姉)とジョン(弟)の会話だ。
高校のアメフト部の連中に酷い暴行(レイプ)を受け、
心身共にボロボロになっている姉のフラニーを
弟のジョン(ぼく)がなぐさめている場面である。
……(以下、抜粋)……
フラニーはまた風呂にはいりたいと言った。
ぼくはベットに寝ころがって、
バスタブに湯が一杯になっていく音に耳をすませた。
それから起き上がって、バスルームのドアのところへ行き、
何か必要なものがあったら持ってきてあげると言った。
「ありがとう」
彼女は低い声で言った。
「外へ行って、昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい」
彼女は言った。
「それを返してほしいわ」
「それだけかい。昨日と今日だけ?」
「それだけよ」
彼女は言った。
「恩にきるわ」
「ぼくにできれば、そうするよ、フラニー」
ぼくは彼女に言った。
「わかってる」
彼女は言った。彼女がゆっくりバスタブに沈むのがわかった。
「あたしは大丈夫」
彼女は囁いた。
「あたしのなかのあたしは誰も取りはしなかった」
「愛してるよ」
ぼくは言った。
彼女は返事をしなかった。そしてぼくはベットにもどった。
……(以上、「ホテル・ニューハンプシャー」から抜粋……
なんといってもフラニーの台詞だ。
「外へ行って、昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい」
彼女は言った。
「それを返してほしいわ」
損なわれてしまったもの。
その損なわれたものを取り戻すには、
取り返しのつかない時間を取り返すしかない。
でも、そんなことは非現実的であり無理だ。
つまり、
彼女の負った心の傷は、どんなことをしても癒されない。
「…昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい。」
「…それを返してほしいわ」
なんだろう。
とっても切なくて、
とっても悲しくて、
とっても辛くて、
とっても絶望的な状況を、
これほど洒落た台詞に還元してしまうフラニー。
そんな彼女に惹かれない読者はいないだろう。
ジョン・アーヴィング、凄い作家だ。
(飯村和彦)
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2009年11月25日
この世に一人だけの人にあった瞬間とは?
誰もがその瞬間を体験しているはずなのに、
その時はそれとは気づかない。
ある人は、しばらく時が流れたあとに、
「ああ、あのときの感情、あの胸のときめきがそうだったのか…」
と回顧できるかもしれない。
それはそれで幸福なことなのだが、
やはり、その瞬間に「これだ!」と心に突きあがるものを感じられたら、
その後の人生も大きく変わってくるのだろう。
パウロ・コエーリョの「アルケミスト」
その中に、
大切な人に出会った瞬間の心の在りよう、
理屈ではない刹那的な実感、
打算のない崇高さが明快に記されている。
以下、「アルケミスト」より抜粋
その瞬間、少年は時間が止まったように感じた。
「大いなる魂」が彼の中から突きあけてきた。
彼女の黒い瞳を見つめ、
彼女のくちびるが笑おうか、黙っていようか迷っているのを見た時、
彼は世界中で話されていることばの最も重要な部分
――地球上のすべての人が心で理解できることば――を学んだのだ。
それは愛だった。
それは人類よりももっと古く、
砂漠よりももっと昔からあるものだった。
それは二人の人間の目が合った時にいつでも流れる力であり、
この井戸のそばの二人の間に流れる力だった。
彼女はニッコリほほ笑んだ。
そして、それは確実に前兆だった。
――彼が自分では気づかずに、一生の間待ちこがれていた前兆だった。
それは、羊や本やクリスタルや砂漠の静寂の中に、
彼が探し求めていたものだった。
それは純粋な「大いなることば」だった。
それは宇宙が無限の時を旅する理由を説明する必要がないのと同じように、
説明を要しないものであった。
少年がその瞬間感じたことは、
自分が、
一生のうちにただ一人だけ見つける女性の前にいるということだった。
そして、ひと言も交わさなくても、
彼女も同じことを認めたのだった。
世界の何よりもそれは確かだった。
(飯村和彦)
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2009年11月03日
「自由連想」…沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読みながら
このことろ、
時間を見つけては沢木さんの本を読み返している。
だいぶ前に書かれたものでも、
読んでいる時代環境や、
そのとき自分の置かれている状況によって、
喚起されるものは当然変わる。
それがとっても興味深く楽しいので、
かつて読んだ本でも
改めて手にすることになる。
先日数年ぶりに読み返した「深夜特急」では、
これから↓(下)に抜粋する部分である。
何が楽しいのかといえば、
そこに書かれている内容そのものではなく、
文章を読んで勝手に頭に浮かんでくる景色というのか、
昨今の社会事象に対する想念というのか、
兎も角、
本の内容とは直接関係のない事柄が、
奔放に自分の頭に湧いてくる現象が面白いのだ。
例えばそれは、
現在、泥沼化しているアフガン情勢であり、
俳優や女優の薬物使用問題であり、
国民から「NO!」を突きつけられた自民党政治の醜さであり、
経済格差に喘ぐ限界集落の姿であり、
悲しげな表情で赤いランドセルを背負う少女の姿だった。
そこには明快さも脈絡もない。
このような「深夜特急」の読み方をしては、
沢木さんに申し訳ないかもしれないが、
少なくとも過去に一度は、
沢木さんの見ている風景を思い浮かべながら、
道程を共にするかの勢いで、
真剣に読んだのだから許してもらおう。
では、幾分長くなるが、
沢木さんの「深夜特急」から一部を抜粋させていただきます。
↓の文章から、いったいどんな事象が喚起されるのか、
皆さんも、
思いがけない「思考の自由性」を楽しんでみて下さい。
以下、「深夜特急」より抜粋
「昔、テヘランの北西に
「秘密の花園」と呼ばれる地があったといいます。
11世紀から13世紀にかけて西域を荒らした暗殺者集団、
イスラム教の一派であるイスマイリ派の根拠地がそう呼ばれていたのです。
四千メートル級の山に堅固な城を築いた彼らは、
そこから無数の暗殺者をおくりだしました。
彼はいかにしてその暗殺者を生み出していったのか。
書物によれば、
それは次のような方法だったということです。
教主ハッサンの腹心の男たちが村々を訪ね歩き、
これはという屈強な若者を見つけると、ある薬を飲ませてしまう。
飲まされた若者は幻想の中に浮遊し、我を忘れる。
その隙に、男たちは若者を「秘密の花園」に運び込んでしまうのです。
そこで彼らを待っているのは、地上と隔絶された夢のような生活です。
数日間の官能的な時を過ごした後、
彼らは再び薬を飲まされ、村に送り返されます。
しかし、そこには、以前と変わらぬ貧しい暗い生活があるだけなのです。
「秘密の花園」での数日をしった後では、
その生活の単調さが、
以前にも増して耐え難く感じられるようになります。
そこに再び腹心の男がやってきて、若者にいうのです。
楽園に戻りたかったら教主様の命に服せ、と。
このようにして、多くの若者が、
イスマイリ派に敵対する者を屠るために送り出されていくことになった、
といいます。
暗殺者になることを受け入れた若者は、
出かける直前に薬を与えられてこういわれます。
暗殺に成功したら楽園に連れていってやろう、
万一失敗しても、だから殺されても、
やはり楽園にいけることには変わりないのだ、と。
そしてその薬こそがハシシだったというのです。
西欧の言葉で暗殺者を意味するアサッシンは、
ここから来ていると言われています。」
以上、抜粋(句読点、改行等を一部変更)
どうでしたか?
電子化された文字では読みにくいですね。
自由を求めて、
皆さんも書籍で「深夜特急」を読んで見てください。
思いがけない、
自分なりの発見があるはずです。
(飯村和彦)
newyork01double at 23:35|Permalink│Comments(0)│
2009年06月15日
村上春樹さんの本「sydney!」
村上春樹さんの新刊、
「1Q84」 が、大変な勢いで増刷を重ねている。
まあ、予想通り。
5年(?)も新刊小説を発表していなかった訳だから…
村上さんの本を残らず(多分)読んでいる自分としては、
読者の心理が分からないでもない。
しかし、だからといって、
一刻も早く「1Q84」を手にしてしたい、
という衝動に駆られる訳でもない。
適当な時期に適宜時間を見つけて、読む。
村上さんの本とは、そんな感じで付き合っている。
さて、
そこできょうは「sydney!」
随分前に村上さんが書いた、シドニーオリンピック観戦記だ。
なんでまた今頃ここで「sydney!」なのかといえば、
文中に、コアラについての興味深い記述があったから。
村上さんらしく、実に丁寧に記している。
以下、若干長くなるがその部分を引用させ貰おう。
「どうしてコアラはそんなによく眠るのか?
気になったから本で調べてみましたよ。
まずだいいちにそれはコアラがいつも食べている
ユーカリの葉っぱに問題があるんです。
ユーカリの葉には一種の毒素が含まれています。
虫に食べられないように自衛しているわけなんだけど、
それをコアラはがつがつ食べちゃうから、
どうしても眠くなってしまうわけだ。
そしてまたユーカリの葉には多くの繊維質がふくまれているんだけど、
それをコアラは自分で消化することができない。
だから体内にバクテリアを飼っていて、
それに繊維質を分解してもらいます。
よくできていますね。
ところがこれにも問題がある。
とにかく時間がかかるんです。
バクテリアがのそのそと仕事をしているあいだ、
コアラは重い胃を抱えた状態のままでいなくてはならない。
牛みたいに地上で生きている大きな動物ならともかく、
コアラのように
樹上で生活している小さな動物にとってはかなり負担になる。
体重が増えると、敏捷性が落ちて、
枝から枝へ移動するのがむずかしくなり、
下手をすると転落しかねない。
だからある程度ダイエットしないと生きていけない。
となると栄養の絶対量は減るから、
行動を制限してエネルギーを減らす必要がある。
というわけでコアラはあまり動かないし、
いつもぐうぐう眠いっている。
だらだらするのにはするだけの理由があったんだ。
〈一部、省略〉
しかしコアラは一日のうちの80パーセントを
睡眠のうちに送っているんだそうです。
いくらなんでもなあ、とは思うけど、しょうがないんだろうな」
というわけで、
村上さんのこの文章のお陰で、
私も私なりに、
コアラに対する見方を一部変えることができた。
感謝である。
しかしここで、
「sydney!」という本について書いているのに、
コアラの部分だけを紹介するものなんなので、
一応、
村上さんの「オリンピック考」についても少々。
村上さんは、あとがきに以下のように記していた。
以下、あとがきの一部を抜粋させて貰おう。
「東京に戻ってきて、
ビデオで録画されたオリンピック中継を見てみたら、
まったく別のものに見えてしまったということだ。
同じひとつのゲームを
違った側面から見たというような生やさしいものではなく、
そもそもぜんぜん違うゲームみたいに見えたのだ。
だからちょっとだけビデオを見て、
あとはまったく見るのをやめてしまった。
そんなものを見ていたら、
僕の頭は混乱して、
何がなんだかわけがわからなくなってしまいそうだった」
村上さんはその事実に「呆然」としてしまったという。
いったいどうして村上さんがそのような心境になったのか。
まあ、それについては、
「わざわざ南半球まで行って実物を見てきた」という、
村上さんの本をお読みになってください。
もちろん、
新刊「1Q84」を読んだ後でもいいですね。
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(飯村和彦)
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2008年11月05日
「アメリカ素描」司馬遼太郎
100年に一度ともいわれている世界的な金融混乱。
その震源であるアメリカの景気は、
向こう数年間は好転しないのでは?
そんな観測も流れている。
これだけは史上初の黒人大統領となる
オバマ氏でも舵取りに窮するだろう。
そこでという訳ではなかったのだが、
ふと一冊の本を手にとった。
それが司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」
この本は、昭和60年9月から12月まで、
読売新聞に連載された司馬氏の手記を一冊にまとめたもの。
どこを読んでも、
司馬氏の思慮の深さと視線の鋭さに脱帽する。
例えば、「ウォール街」とサブタイトルのついた記述。
これは昭和60年当時、野村証券の常務だった
寺沢芳男氏のマンハッタンにある自宅を訪ね、
司馬氏なりにアメリカ経済を語ったものだが、
その洞察力の鋭さ、
時代の先を読み取る眼力には、改めて驚かされる。
少々長くなるが一部抜粋させていただく。
「以下はウォール街知識の初歩だろうが、
寺沢さんによると、
アメリカでは銀行が証券会社の要素をもち、
証券会社が銀行の要素をもっているという。
また、保険会社にとっては
客から金を集めるのは当然の業務ながらそれは半分の性格で、
あとの半分は投機をやる。
投機。むろん投資ではない。
三者とも投機をするためにこそ
ウォール街にオフィスを置いているのである。
バクチでありつつもソンをしないシステムを開発しては、
それへカネを賭け、カネによってカネをうむ。
(アメリカは大丈夫だろうか)
という不安をもった。
専門家の寺沢さんには決して反問できない不安である。
資本主義というのは、
モノを作ってそれをカネにするための制度であるのに、
農業と高度技術産業はべつとして、
モノをしだいに作らなくなっているアメリカが、
カネという数理化されたものだけで(いまはだけとはいえないが)
将来、それだけで儲けてゆくことになると、どうなるのだろう。
亡びるのではないか、という不安がつきまとった。
十九世紀末から、
世界通貨はポンドからドルにかわった。
イギリスの産業力を
アメリカの産業力が圧倒的に凌駕したためである。
そのドルを裏打ちしている産業力がもし衰えれば、
金融や相場という、
考えようによっては資本主義の高度に数理化された部分は、
どうなるのか、
素人の不安はとりとめもなくひろがるのである」
(以上、「アメリカ素描」より抜粋)
今のアメリカ経済の在りようを見れば、
上記文中にある
(アメリカは大丈夫だろうか)
という23年前の司馬氏の不安が、
そのまま現実のものになったといえる。
経済のグローバル化の名の下、
デリバティブに代表される高度な金融商品を武器に
金融市場で勝ち続け、
わが世の春を謳歌していたアメリカ。
ところが、
自らモノを作らず、マネーゲームに明け暮れた過ちのツケは、
ことのほか大きく、さらに悪いことには、
その災禍を世界中に伝播させてしまった。
モノづくりに関しては、
似たようなことが日本にもいえるのだろう。
日々汗水を垂らし、
懸命にモノを作っている人たちの生活は厳しい。
にもかかわらず、
偉い(と自ら思っている)人たちの言質は、いつも概ね同じだ。
「モノづくりこそが日本の生命線である」
しかし、高い技術を持っている会社であっても、
現場はいつだって辛く苦しい。
その苦悩の先には何があるのか?
将来、日本はどうなってゆくのだろう。
もしいま司馬遼太郎氏が生きていたら、
10年後、20年後、50年後…の日本をどう語るのだろう。
そんな思いに囚われながら、
「アメリカ素描」を読み終えた。
(飯村和彦)
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2008年01月28日
「聖の青春」
若くしてこの世を去った天才棋士、
村山聖の短い生涯を描いたノンフィクション。
「聖の青春」は、
大崎善生さん(元日本将棋連盟職員)のデビュー作である。
大崎さんの作品は、ほとんど読んでいるが、
それらは全て「小説」であった。
大崎さんが「聖の青春」で作家デビューし、
二作目の「将棋の子」もノンフクションであったことは
勿論知っていたのだが、
なぜか、この二作品をこれまで手にすることはなかった。
理由は単純で、
自分自身が将棋に疎く、将棋への興味も薄かったから。
振り返るに、
最後に将棋を指したのは小学生のときだ。
だから、幾ら素晴らしいといわれていても、
将棋界を舞台にしたノンフィクションには手が伸びなかった。
今にして思えば、もったいないことだった。
食わず嫌い?
やはり、
なじみの薄い領域にこそ目を向けるべきなのである。
今回、
「聖の青春」を(直後には「将棋の子」も)読んだのは、
ある番組の取材で将棋界の重鎮、
加藤一二三九段の話を聞いたのがきっかけである。
加藤九段の将棋にかける意欲というのか、
勝負魂というのか、
そんなあれこれを本人の口から聞いているうちに、
ふと、もう少し将棋界そのものについて知りたくなった。
それで、
その番組を制作したあとに、
大崎さんの本を読んでみたくなったのだ。
本来なら、加藤九段の取材の前に、
将棋界を知る上での一つの方法として、
大崎さんの作品を読むべきだったのだろうが、
まあ、その辺のところは仕方ない。
ものごとへの興味というのは、いつだって少しずつなのだ。
そんな経緯で「聖の青春」を読んだ。
そして、心を激しく揺り動かされた。
これでもかと…。
涙が止まらなかった。
感涙であり、悔し涙…。
純粋さのもつ力なのか、
ひとつのことに全人生をかけられる潔さなのか、
ともかく「聖の青春」の主人公、村山聖には圧倒される。
そして彼を好きにならずにはいられない。
さらに、
彼を支える家族や師匠や仲間。
人を信じ、未来を信じることの崇高さを実感させられる。
是非、ご一読を!
将棋に疎い方でも、
間違いなく心打たれます。
(飯村和彦)
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2007年12月16日
動物たちの「木の家」
娘の大好きな絵本。
小さな本なのだが、
そこに描かれている「夢」は大きい。
あらしで倒れた丘の上の大木。
その木は動物たちの大事な家だった。
けれども、
動物たちはへこたれない。
主人公のPercy(人間)の力を借りて、
みんなで素敵な「家」を再建する。
新しい住みかは湖のほとり。
↓がその「木の家」だ。
娘曰く、
「この本を見ると、
私もこの木に住みたくなるの…」
まったくもって、同感。
子供のころに夢見た、
木の上の“忍者小屋”。
最近でいえば、人気のツリーハウスのようなもの…か。
でも、この絵本に登場する「木の家」にはかなわない。
機会があれば、是非一度ご覧あれ。
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(飯村和彦)
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2007年09月25日
頭のうちどころが悪かった熊の話
説明や解説を、
あれこれ加える必要のない本。
登場する熊も、
トラもダチョウも、
キツネもカラスも、
ヘビもカエルも毛虫もハエも…、
みんないい。
例えば、
幾ら頑張っても、
“無意味に生きることが出来ない”牡鹿の失望感…。
深遠だ。
是非、ご一読を!
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(飯村和彦)
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2007年09月10日
原爆開発物語・「神の火を制御せよ」
史実をベースに、
マンハッタン計画を「物語」に仕上げた、
ノーベル賞作家、パール・バックの作品。
1959年に書かれたものなのに、
何故か、
これまで日本語訳は出版されていなかったという。
苦悶しながらも、
原爆開発に邁進せざるを得なかった科学者たち。
激しい自己矛盾。
けれども、戦時下の狂気には抗えなかった。
タイトル(邦題)には、
「神の火を制御せよ」とある。
しかし、残念ながら、
現実の世界は、
最悪の道筋を辿ってしまった。
この作品は、フィクションである。
だから、
実際のマンハッタン計画には存在しない科学者を主人公に、
物語が進行する。
その意味では、この作品を読んだ後、
原爆開発の詳細を忠実に記した本に目を通す必要があるだろう。
その上で、
パール・バックが、
架空の登場人物たちを通して訴えたたかったことを、
じっくり考えてみる。
すると、
人間が神の火を制御することなど、
到底不可能であるという現実を再認識させられる。
かつて、
テキサス州にある核兵器処理施設を取材した。
そこでは、ボーリングの玉ほどの大きさでしかない、
ミサイル核弾頭の処理が行われていた。
注意深くミサイルから取り外された核弾頭は、
処理後、特性の容器に収められ、
地中深くに埋められる。
そう、
それは“地中に埋められるだけ”でしかない。
また、数年前には、
全米に点在する核施設を回った。
例えばワシントン州ハンフォード。
長崎原爆に使用されたプルトニウムが製造されたプラントは、
赤土の荒野に現存していおり、
付近一帯(…といっても広大)は、
今でも、放射性物質で汚染されたままである。
戦時下の狂気が生み出した“神の火”は、
今尚、人類を脅かせ続ける。
核兵器を持つ国がある。
その保有を公には隠している国もある。
さらには、これから核兵器を持とうしている国もある。
“愚か”としか言いようがない。
パール・バックの作品を読むと、
改めて、その愚かさに激怒するに違いない。
(飯村和彦)
newyork01double at 12:44|Permalink│Comments(8)│
2007年06月14日
「虫養い」という言葉
前の回で紹介した、
池波正太郎さんの本、「ル・パスタン」。
その中で池波さんは、
「虫養い(むしやしない)」
という言葉に感嘆している。
“空腹の虫を一時的にしのぐ”ということで、
食欲だけではなく、
他の欲望にも用いることができるという。
「むかしの人は、
なんと気の利いた言葉を考え出したものだろう」
とは、池波さんの感想だ。
ちょっとした漬物に温かいご飯…、
そんな“虫養い”が目に浮かぶ。
ところが、
これがジャンクな食べ物だと、言葉にそぐわない。
↓のスナックなどはその最たるもの。
アメリカ移動中、
時たま口にするチョコレート系の菓子である。
このただ甘いだけの菓子を噛み砕き、
↓のDr.Pepperで流し込む。
ちなみに、炭酸飲料といえば「Dr.pepper」でしょ?
これ、「虫養い」には違いないのだが、
そこには、一切“趣”はない。
言葉の持つ意味は、
文化、風土とあいまってこそ、
生きるのだ。
ジャンクなチョコとDr.Pepperで「虫養い」。
まったくもって最低である。
とはいっても、
無性にこのジャンクな組み合わを欲するときがある。
理由は分からないが、
ともかく、「これ、最高!」と思える瞬間があるのだ。
無論、体にいい訳ないのだが…。
(飯村和彦)
newyork01double at 09:29|Permalink│Comments(0)│
2007年06月11日
池波正太郎さんの本
池波さんの文章は、
書き手の手本になるらしい。
若い頃、
編集者に勧められ、
池波さんの作品を書き写して、
文章のリズムや表現方法を学んだという人も多いという。
↑は池波さんのエッセイ。
タイトルからも分かるように、時代小説ではない。
本を開くと、“らしい”挿絵と共に、
池波さんの思考世界がドーンと広がっている。
是非!
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(飯村和彦)
newyork01double at 16:09|Permalink│Comments(0)│
2007年05月27日
スキップ、ターン…、そして「リセット」
「蔵書」…。
なんていうと大袈裟で笑っちゃうが、
手元にある本のなかで、
“何度も読む”ものとなると、
実は、それほど多くない。
理由は簡単で、
読みたい本が、次々に見つかるから。
けれども、そんな中、
北村薫さんの、「スキップ」(↓)と、
「ターン」、「リセット」の三冊は、
少なくとも、
三度以上は読んでいる。
スキップ、ターン、リセット。
内容については、四の五の…書かない。
兎も角、
是非、“何度も!”読んでもらいたい三冊。
私は「リセット」で、
幾度も幾度も…泣いた。本当に…泣いた。
悲しくて、切なくて、嬉しくて、
そして最後は、とめどなく。
既に読んでいる方も多いはず。
まだの人は、
是非、書かれた順番に、
スキップして、
ターンして、
リセットしてみて下さい。
時空を超える!
素敵な読後感を味わえます。
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(飯村和彦)
newyork01double at 15:42|Permalink│Comments(1)│
2007年05月09日
死者の奢り・飼育
大江健三郎さんの、
初期の作品集。
6篇が収まっているが、
個人的には、
「飼育」に強く心を揺すられる。
コミュニケーションを拒む見えない壁。
コミュニケーションを取れない苦悩。
コミュニケーションを図ろうとしない罪悪。
そして、
悲惨で、無残な結末。
“閉じた世界”
人間の本性が、
ものの見事に表出する世界。
そして、底なしに“醜い”世界だ。
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(飯村和彦)
newyork01double at 20:29|Permalink│Comments(0)│
2007年04月14日
「変身」、そのとき人格は?
ここでいう「変身」は、
主人公・ザムザが虫になる、
あの、
カフカの「変身」ではない。
東野圭吾さんの作品。
「脳移植手術」を受けた主人公が、
時と共に表出してくる、
ドナーとなった人物の人格に苛まれながら、
本来の「自己」を死守すべく、
新たな“自己”と対峙し、格闘する。
東野さんなりに、
「人間の尊厳」と「脳死」、
さらには、
臓器移植の在りようを問うたものなのだろう。
「自己形成」と「自己崩壊」
そこに「脳」は、
どんな形で関与しているのか。
考えるチャンスになる。
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(飯村和彦)
newyork01double at 17:24|Permalink│Comments(0)│
2007年03月25日
人類があと3年で滅亡するとしたら…
人類滅亡まで、あと3年。
もし、
そんな状況に置かれたら、
あなたは一体、どう生きる?
伊坂さんの作品を取り上げるのは、
二度目。
"7年後、巨大隕石が地球に激突。人類は死滅する…"
「終末のフール」は、
“人類滅亡”の発表から4年が過ぎた仙台が舞台。
人々に残された時間は、あと3年しかない。
もしそんな環境にあったら、
自分はどんな日常を送っているのだろう。
そもそも、
「日常」の概念も変質しているに違いない。
誰のために、生きるのか。
自分のために、生きるのか。
誰かのために、死ぬのか。
自分のために、死ぬのか。
「終末のフール」は、
作品自体を楽しむというよりは、
そんな環境に置かれた場合の、
“自分の行動を考える”、
いいチャンスを与えてくれる本だ。
ご一読を!
(飯村和彦)
newyork01double at 13:25|Permalink│Comments(4)│
2007年03月13日
「奇跡」は、奇跡にあらず!
タイトルになっている、
「スノーグース」はもとより、
他の2編も最上の物語。
物事に真摯に向き合えば、
願いは必ず叶う。
多分それは、
「奇跡」などではなく、
必然に違いない。
さて、
ギャリコの作品では、
「雪のひとひら」が有名。
ご存知の方、多いのでは?
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(飯村和彦)
newyork01double at 21:10|Permalink│Comments(0)│
2007年01月28日
夢のような紫色クレヨン!
こんなクレヨン、
あったらいいなあ…。
ドラえもんが、
あのポケットから取り出すような、
「夢のクレヨン」の話。
「ハロルドと紫色のクレヨン」
…というタイトルになるのか。
ともかく、
この絵本、気に入っている。
ストーリーは簡単で、
欲しいものを紫色のクレヨンで描いいけば、
どんどん、
なんでも出てくる。
以下、抜粋。
この話の面白いところは、
ストーリーが、
「線」で繋がっていくところ。
紫色のクレヨンで描かれる世界は、
途切れることがない。
次から次へと、
夢の世界が広がっていく。
一度、
手にとって眺めてみる価値あり。
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(飯村和彦)
あったらいいなあ…。
ドラえもんが、
あのポケットから取り出すような、
「夢のクレヨン」の話。
「ハロルドと紫色のクレヨン」
…というタイトルになるのか。
ともかく、
この絵本、気に入っている。
ストーリーは簡単で、
欲しいものを紫色のクレヨンで描いいけば、
どんどん、
なんでも出てくる。
以下、抜粋。
この話の面白いところは、
ストーリーが、
「線」で繋がっていくところ。
紫色のクレヨンで描かれる世界は、
途切れることがない。
次から次へと、
夢の世界が広がっていく。
一度、
手にとって眺めてみる価値あり。
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(飯村和彦)
newyork01double at 11:26|Permalink│Comments(2)│
2006年12月27日
「楽しかった!」…子供は自殺なんて、しない!
娘が大好きな「やかまし村」シリーズ。
その中の一冊にあった、
ある一文を目にして、
「なるほど、そうだ!」
…と膝を叩いた。
その一文は、
物語そのものの中にあった訳ではない。
“やかまし村賛歌”との題で、
長谷川摂子さんが巻末に載せていた文章。
そこに、以下のようなくだりがあった。
「ほんとうに楽しかった、という体験が、
体のうちに残っていれば、
子どもは自殺なんか絶対にしない。
その体験で生きていけるんだもん」
長谷川さんの息子さんの言葉らしいが、
まさに、
その通りである。
子ども達の心の中に、
“あれは本当に、楽しかったなあ…”
という記憶があれば、
それは生きていく上で、
なにものにも代えがたい、
「元気のもと」…になる訳だ。
でも、良く考えてみよう。
それって、
決して、だいそれたことじゃない。
子ども達みんな、
楽しかった思い出の一つぐらい、
持っている筈だから。
多分、
そう思っていないのは、
楽しかったことを、
思い出せないだけ。
みんなで、
本当に楽しかった出来事、
どんどん、
思い出そう!
そうすれば、
“死にたい!”なんて、
考える暇、
なくなる筈だから。
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(飯村和彦)
newyork01double at 15:00|Permalink│Comments(2)│
2006年10月19日
忙しい時に読む本は…「博物誌」
やらなければならないことが多い時ほど、
ちょっとした一休みは必要不可欠。
そんな、
時間に追われているときに最適な本が、
↓の「博物誌」
例えば、
10分間、休憩時間にこの本を手にとったとすると、
最初の5分で、楽しめて、
残りの5分で、“納得”できる。
せっかくだから、
ほんの少しだけ、短いものを抜粋すると…。
…………………
[蜻蛉(トンボ)]
彼女は眼病の養生をしている。
川べりを、あっちの岸へ行ったり、
こっちの岸へ来たり、
そして、
腫れ上がった眼を水で冷やしてばかりいる。
じいじい音を立てて、
まるで電気仕掛けで飛んでいるようだ。
[蝶]
二つ折りの恋文が、
花の番地を捜している。
[猫]
私のは鼠を食わない。
そんなことをするのがいやなのだ。
つかまえても、
それを玩具にするだけである。
遊び飽きると、
命だけは助けてやる。
それからどこかへいって、
尻尾で輪を作ってその中に座り、
拳固のように格好良く引き締まった頭で、
余念なく夢想にふける。
しかし、
爪傷がもとで、
鼠は死んでしまう。
…………(以上、“博物誌”より抜粋)………
この本は、
ひょいと、鞄の中に投げ入れておけばそれでいい。
で、
忙しい時ほど役に立つ。
自分にとっては、
ある種の、“精神安定剤”のようなもの。
何度でも使えるし、
“効き目”も抜群!
是非一度、お試しあれ…。
人気ブログランキングへ! …さてさて…!
(飯村和彦)
newyork01double at 18:23|Permalink│Comments(4)│
2006年10月08日
ブログ一年…今日までそして明日から!
ブログ開始から「1年」という節目を、
危うく、
忘れるところだった。
そうはいっても、
そんな「節目」は、
自分にとってしか意味を持たないのだが、
まあ、
ひとまず、一年だから…。
そういえば、
このブログのタイトルに、
なぜ、
「二ユーヨークが笑ってる」
という表現が入っているのか、
不思議に思っている方も多いはず。
その理由は↓の本。
数年前に廃版なったこの本の内容に、
加筆・訂正を加え、
ブログで紹介しはじめたのがことの発端。
詳細については、
第一回目の記事(2005年10月9日)
をご覧あれ。
ところが、
いざブログをはじめてみると、
ニューヨークのことだけではなく、
当然、
その他、あれこれ書きたくなる。
なかでも、
一番、気になっていたのが子供のこと。
だから、
「子供たちの日常」と「自分の日常」を通して、
今の世の中(…の一部)をきちんと見ていく…
という役割もこのブログに追加し、
自分なりに綴り始めた。
ちょうど、
↓の写詩集、「ダブル」が出版されて間もない頃だったので、
この本の中に、言葉として書き切れなかった、
「子供という存在」に対する思いを、
少しずつでも、
興味のある方々に、伝えていければという思いもあったし…。
そんなこんなで、一年。
この間、
ブログを通して、
多くの人に知り合えた。
これは、
みんなの言う通り、
やはり、もの凄いこと。
けれども、
だからといって、
「ブログ」を過大に評価することは禁物。
なんでも“等身大”…それが一番!
個人発のメディアゆえ、
幻想、自己陶酔、ステレオタイプ…等々に陥りやすい。
…以上でも以下でもなく、そのままに…。
そんな姿勢で、
明日からも、また、
このブログを続けていけたら…と思う。
みなさん、
今後とも、
よろしくお願いします!
(飯村和彦)
newyork01double at 09:09|Permalink│Comments(18)│
2006年07月27日
米原万里さんの凄さ
今年5月末、
ガンで亡くなった米原さんのエッセイ集。
数ある作品の中から、
20世紀から21世紀に変わるときに書かれたもの。
改めて、
彼女の時代を見つめる目の確かさに感服した。
米原さんの一番いいところは、
思ったことをはっきりと明解に述べる点。
ウジウジしたところがまったくない。
さらに、
その意見・発言の根拠も、
論理的に、きっちりと提示する。
テレビ番組にもコメンテーターとして出演していたが、
彼女と「それ以外の多くの方々」では、
コメントの質がまったく違っていた。
「自分の発言には、最後まで責任を持つ」
それが米原さんの強さであり、魅力の秘訣だったように思う。
彼女が鎌倉に引っ越す前、
都内にあったご自宅に、
一度、お邪魔したことがあった。
ある番組で、
「ネットオークションの表裏」について扱うことになり、
テレビ取材に応じてくれる人を、
ネットを通して「公募」したときのことだった。
公募開始から4、5日目、
確か…「mari」のハンドルネームで、
「取材を受けてもかまいません」というメールが入ってきた。
で、「mariさん」に電話を入れてみると、
「mariさん」は、「米原万里です」と応えたのだ。
彼女らしいといえばそれまでだが、
そんなことを、ごく自然にやってのける米原さんには驚いた。
企画の性格上、
いくら高名な方でも、番組での扱いは、
当然、他の方々(…一般の方々で取材に応じてくれた人たち)と同じ。
米原さんは、“ネットオークション利用者の一人”として、
テレビカメラの前で、ご自身の意見を述べたのだった。
そのとき彼女は、
あるオークションサイトで、
ご自宅を「賃貸」に出していた。
「ネットでも顧客との信頼関係は築ける。
そうなると手数料を取るだけの不動産斡旋業者はいらない。
不動産業界でも“中抜き”ができる!」
それが米原さんの意見だった。
取材終了後は、
彼女と駅前商店街をぶらついた。
豆腐屋の大将や、焼き鳥屋のオヤジさん、
八百屋のお女将さん…等々とにこやかに言葉を交わしながら、
街を闊歩していた米原さん。
それが米原さんとの最後の思い出になった。
自分がガンであることを公表し、
その闘病生活についても自分の言葉で書き綴った彼女。
本当に素敵な女性だった。
改めて、米原さんの冥福を祈りたい。
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(飯村和彦)
newyork01double at 21:46|Permalink│Comments(0)│
2006年07月19日
被爆のマリア…素晴らしい!
田口ランディさんらしい作品。
戦争をまったく知らない次の世代(子供たち)に、
原爆の悲劇を、
どう語り継いでいくのか。
重いテーマを、
見事に小説にしてしまった。
本分から、一部を抜粋させて頂く。
中学生が、
広島平和記念公園を訪れた際の心理描写(“時の川”より)。
……………
「…わかってしまったら、どうするのか。
そのあとのことがわからなかった。
いっしょに泣くのか、嘆くのか、怒るのか。
感情を沿わせてしまった後のことを教師は教えてくれない。
広島に落ちた原爆は、
子供が共感するにはあまりにも規模の大きな暴力なので、
子供たちは仕方なく事なかれ主義を取った。
タカオもそうだった。
感情は中学生には厄介な怪物だった。
そう簡単に野放しにはできないのだ…」
……………
子供たちが、
原爆の悲劇を知り、理解していくのは難しい。
分かったようで(=分からせたようで)、
本当のところは“分かれない”。
その心理を、
上記抜粋の箇所は見事に表現している。
去年の夏、
ある報道番組(「ザ・スクープスペシャル」2005.8.7放送) で、
アメリカの核開発について取材をし放送した。
事実をひとつひとつ積み上げ、
丁寧な番組にしたつもりだったが、
その内容が、
次の世代を担う子供たちにどう伝わるのかについては、
正直、見当がつかなっかった。
その意味では、
間違いなく、
「被爆のマリア」は成功していると思う。
多くの人に読んで頂きたい小説である。
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(飯村和彦)
newyork01double at 21:59|Permalink│Comments(6)│
2006年07月12日
カモメに飛ぶことを教えた猫
サッカーW杯決勝、イタリア対フランス。
仏・ジダンの頭突き退場が、話題になっている。
ジダンに対して、侮蔑発言をしたとされる伊・マテラッツィが、
もし、この本を読んでいたら、
あんな暴言を吐くこともなかったかも…。
(…イタリアでも大人気になったというから、
"読んでない”とは言い切れないが…)
「カモメに飛ぶことを教えた猫」
…素敵な猫たちとカモメの話だ。
とってもいいので、
申し訳ないが、一部を抜粋したくなった。
猫のゾルバが、
カモメのフォルトゥナータに語りかける場面から。
……………
「…きみがぼくたちのようになりたいと思ってくれることが、
うれしかったからだ。
でもほんとうは、きみは猫じゃない。
きみは僕たちとは違っていて、
だからこそぼくたちはきみを愛している。……
…きみのおかげでぼくたちは、
自分たちとは違っているものを認め、
尊重し、愛することを知ったんだ。
自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、
違っている者の場合は、とてもむずかしい。
でもきみといっしょに過ごすうちに、
ぼくたちにはそれが、できるようになった。…」
……………
この本は、1996年に書かれたものだという。
著者は南米チリ生まれの方。
最近では、
多くの人たちが芝居やミュージカルに仕立て、演じているという。
それも頷ける。
心地良い読後感。
生きていく上で“ほんとうに大切なこと”…。
猫たちとカモメの言葉に、
心打たれる。
既に読んでいる人も多いと思う。
まだの方は、是非!
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(飯村和彦)
newyork01double at 20:12|Permalink│Comments(12)│
2006年07月01日
図書館で「ダブル」を発見!
「ダブル」は、日頃自分が行っている取材活動とは違い、
極めて私的な事柄から,
「家族」というものの在り方にアプローチした本だったので、
とても愛着がある。
そんな本が図書館の書棚に並んでいるのを見ると、
やはり、…嬉しい。
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(飯村和彦)
newyork01double at 11:54|Permalink│Comments(8)│
2006年06月29日
小泉さんに是非、読んで欲しい
9.11テロについて書かれた、
秀作中の秀作。
アメリカがどうしてテロの標的になったのか。
その理由の一端が明快に書かれている。
アメリアにとって国際社会とは、
「アメリカのいうことを聞く国々」
…という構図が良く分かる。
そもそも、
国際司法裁判所で、
世界で初めて「テロ国家」との裁定を受けた国が、
「アメリカ」なのである。
小泉さん、
プレスリーの生家を、
呑気に訪問している場合ですか?
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(飯村和彦)
newyork01double at 17:04|Permalink│Comments(6)│
2006年06月16日
今だからこそ…「罪と罰」
「今さらなに?」
と思う方々も多いに違いない。
しかし、
「今だからこそ!」
この本を“しっかり、じっくり、丁寧に…”読むといい。
既に読んだという人も多いはず。
でも、そんな方々も、
改めて「今」読むことをお勧めする。
私も先週末、
たっぷり時間をかけて、
数年ぶりに、
ラスコーリニコフ(主人公)の、
思考・思想の渦の中を彷徨ったばかり。
“良心の呵責…”
そもそも、“良心”とは?
重いが重いだけのことはある。
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(飯村和彦)
newyork01double at 09:01|Permalink│Comments(1)│
2006年06月08日
犯罪心理を軽妙にエンターテイメント
伊坂幸太郎さんの小説は、
極めて現代的である。
↓の「チルドレン」をはじめ、
「グラスホッパー」
「ラッシュライフ」
「魔王」
などなど…、
軽快なタッチで「今」を見事にエンターテイメントしている。
彼の書く小説に登場してくる人物キャラクターは、
「振り込め詐欺グループのメンバー」であったり、
「一家殺人事件の犯人(殺しを“職業”としている人物)」や
「政治家やその秘書を自殺に追い込む人物」…等々。
そんな人物たちの「社会性」や「主義主張」、「思考」などを、
今の社会状況とうまくフックさせながら、
物語は展開される。
確か、「魔王」という小説では、
主人公(兄弟)が、「憲法9条」と向き合っていた。
彼の小説は、
日々、丹念に新聞を読んでいる人たちにとっては、
堪えられない「非日常」である。
人気ブログランキングへ! どうした…!
(飯村和彦)
newyork01double at 12:11|Permalink│Comments(0)│
2006年05月28日
未来の記憶…いいタイトルだ!
だいぶ前だが、
そのタイトルに惹かれて購入した。
雨が続く。
こんな日は、
地球の「過去」=「未来」に、
思いを馳せるには絶好。
地球の歴史と人類の歴史。
どちらも分からないことばかりだが、
せめて、
「知ろう!」
という姿勢だけは持ち続けたい。
「歴史=未来=歴史…」
こうしていても、
毎秒毎分、起きていること。
歴史は繰り返す?
人間は学習しないのか?
それとも…?
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(飯村和彦)
newyork01double at 10:27|Permalink│Comments(4)│
2006年04月27日
優しく切ない「愚鈍さ」
主人公は、渡り労働者のジョージとレニー。
特に、
愚鈍ながら純粋で温かいレニーが、たまらなくいい。
そんなレニーを男の優しさで見守るジョージ。
男の友情。
そして、
労働者の2人が夢見た「楽園」と、
現実で味わう過酷、挫折。
「人間の価値」は、
知恵のあるなしや、財力などでは決まらない。
そんな当たり前のことを、
この本は、明快に再認識させてくれる。
ひと押し、ご協力を!
(飯村和彦)
newyork01double at 17:28|Permalink│Comments(4)│
2006年04月14日
川端康成のストーカー小説
50年以上も前に書かれた小説である。
川端康成の「みずうみ」が、
雑誌「新潮」で連載開始されたのは1954年。
そして、1955年に単行本となった。
この本は、
今でいう「ストーカー」の心理を描いた小説である。
もちろん、
51年前の日本に、「ストーカー」という言葉はなかったろう。
さらには、
ストーキング行為に対する考え方も、
現在とは違うかもしれない。
しかしながら、この「みずうみ」は、
犯罪者としてのストーカーの心理を読み解く上で、
極めて「現代的」である。
美しい少女、女性を付回す主人公(=ストーカー)は、
「学校の教師」。
この人物設定からして、
「今」…に通じる。
つまり、
いつの時代にも、
「卑劣な犯罪者」、ストーカーは存在しているということ。
「文学」としては勿論だが、
ストーカーの犯罪心理の一端を知る、
「実用本」としても機能する。
興味のある方は、一読を…。
ひと押し、ご協力を!
(飯村和彦)
newyork01double at 10:17|Permalink│Comments(14)│
2006年04月04日
キツイときには笑える本を…
仕事が立て込み、
疲れを感じているときには、
奥田さんの本。
勝手にそう決めている。
「いらっしゃーい!」
この本の主人公、伊良部医学博士の患者への挨拶だ。
いい響きである。
物語の全てが、
その一言に凝縮されているようで、
心地よい。
優しい言葉だ。
ひと押し、ご協力を!
(飯村和彦)
newyork01double at 13:04|Permalink│Comments(12)│
2006年03月16日
小説の中のグッピー
きのう、熱帯魚の話を書いたので…
↓の、大崎さんの小説には、
「グッピー飼育」の話がでてくる。
タイトルになっている「ドイツイエロー」がそれ。
大崎さんの小説デビュー作も、
「パイロットフィッシュ」
多分、熱帯魚が好きなのだ。
これらの小説以外にも、
彼の作品には、しばしば、
モチーフとして、
「熱帯魚とその飼育」が登場する。
丁寧な文体の作家である。
ひと押し、ご協力を!
(飯村和彦)
newyork01double at 09:29|Permalink│Comments(4)│
2006年03月06日
水族館の通になる!
目から鱗…(?)
ともかく、この本は凄くいい。
水族館について、
誰もが一度は、
「どうして?」と思ったことのある疑問に対して、
明快に答えてくれる。
おまけに、
水族館になくてはならない、
巨大なアクリルガラス(…正確にはガラスではなくプラスティック)
の秘密まで、書いてある。
驚くことに、
世界中の水族館で使われている「アクリルガラス」の約70%が、
四国にある日本メーカーによって作られている
…とか。
ここ数年、
日本には、
完成度の高い水族館が、いくつもできた。
那覇にある「沖縄美ら海水族館」には、
ジンベイザメやマンタが悠々と泳ぐ、巨大水槽があるし、
神奈川にある「新江ノ島水族館」では、
夜、魚たちに囲まれて「宿泊」までできる。
そういえば、皆さん、
「イルカとクジラの違い」はどこにあるか知ってる?
答えは、かなり大雑把なもので、
実は、「大きさ」だけ。
およそ5メートルより大きければクジラで、
5メートルより小さければイルカ。
知っていそうで知らないこと、
たくさんある。
そんなあれこれを、
「水族館の通になる」は、
分かりやすく教えてくれる。
この本を一読してから、
子供たちと一緒に水族館にいくと、
楽しさ100倍…間違いなし!
ひと押し、ご協力を!
(飯村和彦)
newyork01double at 10:18|Permalink│Comments(10)│
2006年03月01日
「私を読んで!」と、本は叫ぶ
物語は、突然転がり込んできた遺産で、
赤い車を買った主人公が、
目的のない全米を回る旅にでるところからはじまる。
「偶然の音楽」
ポール・オースターの作品は全て読んでいるが、
その中でも、何故か、この作品に惹かれる。
かといって、
ここで書評を書いても仕方ない。
直感で、「読んでみよう!」と思った人は、ご一読を…
この種の本はそういうものだと思う。
本屋に足を運び、
ザザザーッと並んでいる本を眺めていると、
刹那、
「僕を、私を…読んで!」
と、ある本が訴えかけているような錯覚を覚える。
そんな経験、ない?
ところで、「偶然の音楽」。
この本の中で、無闇に気に入っているところがある。
「…十二ってのは十三とは全然違う。
十二は清潔で、生真面目で知的だが、
十三は一匹狼で、ちょっとうさん臭いところもあって、
欲しい物を手に入れるためなら法を破ることも辞さない。…」
そして、話は「素数」の解釈へと進んでいく。
「…素数。実に綺麗で、優美な思いつきだ。
協力を拒み、変わりもしない割れもしない数。
未来永劫、それ自身でありつづける数たち。…」
この部分は、「理不尽な衝撃と虚脱感に満ちた物語」(裏表紙より)
の、内容そのもののキーになっている訳ではないが、
気になる。
感覚的に、「そうだよなあ…」と、受け入れている自分がいるらしい。
詩人でもあるP・オースターの作品。
「幽霊たち」
「孤独の発明」
「ムーン・パレス」
「トゥルー・ストーリーズ」…などなど。
大好きな本である。
民主党の永田さんも、
この手の本を読んで、
「世の哲学」を楽しむ余裕があれば良かったのに…。
「偶然の音楽」には、こんな一文もある。
「いまとは違う人生を想像することで、心が元気になるんだ」
どうですか? 永田さん?
ひと押し、ご協力を!
(飯村和彦)
newyork01double at 10:59|Permalink│Comments(8)│
2006年02月11日
「奴隷狩り」と砂糖の関係
知っていそうで、
実は、まったく知らない。
今ある世界を、
別の角度で眺めると、
新しい地平さえ見えてくる。
この「砂糖の世界史」の興味深さは、
まさに「想定外」。
身近な「モノ」を通して歴史を見る。
すると、
それまで見えていなかった世界の繋がり方が、
「あぶり出し」のように立ちあがってくる。
最近、よく耳にする「格差社会」という言葉。
この「砂糖の世界史」を読むと、
その言葉の“本当の”意味が、鮮明になる。
……………………………………………………
「砂糖のあるところに、奴隷あり」
「…上流階級の上品で洗練された文化や習慣も、
もっとも野蛮で、下品とみなされた、
黒人奴隷の犠牲の上に成り立っているのだ…」(本文より)
……………………………………………………
この本に目を通すと、
今、日本で行なわれている「格差」論議が、
いかに上滑りなものであるかが、良く分かる。
是非、一読あれ!
ご協力を…、お願いします!
(飯村和彦)
newyork01double at 08:03|Permalink│Comments(8)│
2006年02月09日
数学も、これなら楽しい!
小川洋子さんの本、「博士の愛した数式」
その映画版。
本も売れたし、
寺尾聡さんが、
あちこちのテレビに出演してPRしているので、
ご存知の方も多いはず。
悪くない。
けれども、
映画を観たら、必ず本の方も読んで欲しい。
さて、「博士の愛した数式」には登場していないが、
私が大好きな数式がある。
それは、下記の「5=7の証明」である。
『5=7の証明』
5+2=7
(7ー5)(5+2)=(7ー5)・7
35+14ー25ー10=49ー35
35ー25ー10=49ー35ー14
5(7ー5ー2)=7(7ー5ー2)
5=7
さて、どうだろう?
「数学のルール」(ここでは0のルール)からいえば、
間違いである。
けれども、とっても面白い!
ご協力を…、お願いします!
(飯村和彦)
newyork01double at 12:08|Permalink│Comments(17)│
2006年01月23日
鏡の向こう側…心の青空を求めて!
ちょっと古いけれど、時には、こんな本を…。
『Nobody Nowhere』(Donna Williams 著)
…日本語版あり。
「自閉症だった私へ」(新潮社)…続編も出版されている!
自閉症少女、ドナ・ウィリアムスが鏡の中に見ていた世界とは?
気違い、聾(Deaf) 、知恵遅れ、乱暴者。
幼少期から彼女には幾つものレッテルが貼られていた。
しかし、彼女は気違いでも知恵遅れでもなかった。
他者との接し方が分からない、
必要以上の他者の接近がどうしても耐えられない。
結果、彼女は自分の中に自分自身の世界を作り、
自分の世界の中で生きていた。
『自閉症とは何か?』
人はよく“自閉症”という言葉を使うが、
実際はそれがいかなる病気で、
どんな症状を伴うものなのかを正しくは理解していない。
更には、専門であるはずの精神分析医でさえ、
その実態をきちんとは把握していないという。
よって、自閉症児に対して間違った対応をしている場合も数多い。
この本は、自閉症少女本人が見てきた世界、味わった苦悩、
感じてきた対人間関係の苦悩を、
彼女自身が必死の思いで書き記した自伝である。
───では、自閉症少女、ドナが見てきた世界とはどんな世界だったか?
家族をも含む、他者の接近から逃れるためにドナが作りだした彼女の世界。
その世界に逃げ込んでいる時だけ、彼女は安心できたという。
幼児期にはすでに出来上がっていたその世界とは一体どんな世界だったのか。
また、そんな彼女だけの世界に立ち入る事が出来た数少ない人物、
彼らは何故その世界に招かれる事が出来たのか。
───自閉症少女、ドナにとっての他者とは一体どんな存在だったのか?
土足で彼女の世界に勝手に入りこむ他者たち。
それは、母であり兄であり、
また、彼女とCommunication を持とうとする全ての現実世界の人間たちだった。
彼女には彼らが話す言葉さえ恐怖の対象であり、
それが彼女に向けられた途端、彼女は彼女の世界に逃げ込む。
また、そんな他者と付き合っていく為に彼女が作り出した、
キャロル、ウィリーなる人物像。
彼らは彼女との関係の中でどんな役割を果たしていたのか?
───自閉症少女、ドナが作り出した自分以外のもう二人の人物の意味とは?
明るい性格のキャロルが上手く他者と付き合い、
現状認識に長け時に暴力的なウィリーが、
必要以上にドナに接近してきた他者を払い退ける。
そして、ドナはまた彼女の世界に閉じ籠もる。
しかし、自閉症少女ドナは多重人格ではない。
なぜなら、そこには常にドナがいた訳だから。
増してや、精神分裂患者でもない。
───自閉症少女、ドナにとっての現実世界とは?
───自閉症少女、ドナが自己としてのドナをどう見つけだしていったのか?
他者との意志疎通が出来ないドナ。
母親を含む、まわりの人間は彼女を“気違い”と呼んだ。
現実の世界とドナの世界の間にある壁。
安息できる自分の場所を求めて少女は転々と彷徨う。
ある時は道端に住処を探し、
またある時は男に身を任せる。
笑顔で気立てのいいキャロルと用心坊的存在のウィリー。
ドナはいつもこの二人の影に隠れ、なかなか表に出たがらない。
“普通の人間”、“尊敬される人間”に対する憧れ、
自分が他の人と何か違っていると気づいた彼女は、
“普通(Normal) ”を渇望し始める。
苦しみ悩み、時には自分を傷つけながら、
それでも彼女は、自活して高校を卒業し、大学へと進んだ。
自分自身を見つける事、
自分の世界と現実の世界との架け橋を見つけること…
ドナは必死で自分を見つける旅にも出た。
そして、25歳の時、彼女は“Autism”という言葉を発見した。
Autism (自閉症) …
勿論それを理解する事が全てではなかったが、
彼女はその言葉の中から、
現実の世界に架かる橋を見つけるチャンスを得たのだった。
ドナさんと共に、自分探しの旅にでる。
良くも悪くも、
きっと、その人なりの発見があるはず…。
(飯村和彦)
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newyork01double at 10:01|Permalink│Comments(23)│
2006年01月15日
3歳で捨てられた…
このところ、みんな、
「泣きたい」
…らしい。
映画にしても、
書籍にしても、
ボロボロと涙を流せるものがヒットしている。
感動の涙?
悲嘆の涙ではなさそうだ。
そこで、下の本。
「3歳で、僕は路上に捨てられた」
フランスでベストセラーになった本だという。
涙を流したい訳ではなかったが、
読んでみた。
結果、酷く「重たい」気分に陥った。
著者の、
家族に捨てられたという境遇もさることながら、
心が折れ曲がったとき、
理不尽な暴力や扱いを受けたとき、
他者がまったく自分を理解してくれないとき、
彼は、どうやって生きたのか。
つまり、
「生きながらえること」ができたのか…。
週末、
「やるせない気分」に浸りたい方にはお勧めの本。
で、読後、
自分や自分の子供たちの「今」を再点検。
すると、いかに自分たちが恵まれているか…。
そのことだけは、再認識できるはず。
(飯村和彦)
←ひと押し、宜しく願います
newyork01double at 10:23|Permalink│Comments(14)│
2005年11月14日
東京story:図書館からの葉書
茨城県立図書館から、「ダブル」を蔵書に加える、
との葉書きが舞い込んだ!
これ、私にとっては最高に嬉しいこと。
著者としては、勿論一人でも多くの方に購入して欲しいのですが、
そうはいっても、“お金を出してまで…”という買う側の気持ちも分かります。
私自身、本を一冊買うには、それなりの「決断」を要していますので。
そこで図書館が活躍してくれるのです。
誰もが、気軽に、気になった本を手にできる図書館は、
読者の強い味方であり、私のような著者の「保護者」でもあるのです。
おまけに、最近の図書館は結構充実しています。
みなさん、
本を買う前に、一度と図書館を有効利用することをお勧めします!
以上、報告でした。あしからず。
(飯村和彦)
newyork01double at 21:08|Permalink│Comments(11)│
2005年10月19日
「ダブル」秘話:ハーフではなく、「ダブル」の理由
プロフィールのところに貼り付けてある、
「ダブル」というのは、どんな本なのか。
そんな声がメールで寄せられていますので、一応記しておきます。
「ダブル」は、
過去から現在に繋がっている私や妻、子供たちの「記憶」そのものです。
この本を読んだ私の知人は「私小説的フォトエッセイ」という、
長い形容詞をつけてくれました。
さらに、その「記憶」は、私たち家族だけのものではなく、
同じように家族の一員として生きている人、みんなの記憶とも、
必ずどこかで通底しているものです。
「ダブル」の中で「僕」が見せる表情は、
きっと皆さんの子供たちと同じであり、
自分が幼かった頃のものと相違ない筈です。
“今”を基点に考えれば、
過去の記憶の総量が増えることは、決してありません。
私自身は特異な出来事の記憶ではなく、
ごくごく日常的な 日々の記憶の方がより貴重であると考えています。
失われがちな記憶を、
なんとか自分の中に刻んでおきたい、
そんな想いでファインダーをのぞき、
「僕」の言葉を紡ぎだしたつもりです。
また、
タイトルの「ダブル」は、
「ハーフ」という言葉の代わりに、私たち夫婦が積極的に使っている言葉です。
「お子さんは日本人とアメリカ人の ハーフですか?」
と聞かれればいつも、
「そう、ダブルです」
と返答しています。
半分ずつではなく、それぞれが「全て」なのですから。
実際に写真を見て、文章を読んでいただければ分かるのですが、
「ダブル」は、
ページをめくり、短い文言を追っているうちに、
いつの間にか、
自分自身の子供時代、
もしくは、
わが子の幼少時代の自分に、
タイムスリップしているような感覚になる本です。
著者である自分がいうのも照れ臭いのですが、
「いい感じ」の本です。
(飯村和彦)
newyork01double at 14:03|Permalink│Comments(16)│