テロとの戦い

2016年06月30日

増え続ける無差別テロの脅威!沢木耕太郎さんが「深夜特急」で描いたような旅はもうできない。


この暗澹たる気分、言い知れぬ不安感をどう言葉で表現したらいいのか。

トルコ最大都市イスタンブールのアタチュルク国際空港で発生したテロでは、29日までに41人が死亡、239人が負傷した。つい2週間ほど前には、米国フロリダ州オーランドでIS(イスラム国)に忠誠を誓ったとされる男がナイトクラブを襲撃。銃を乱射し49人の命を奪ったし、3月にベルギーの首都ブリュッセルで発生した同時テロでは、32人が死亡。また昨年11月のパリ同時多発テロでは、レストラン、劇場、サッカー場などが襲撃され130人もの人が殺され、350人以上が負傷している。
さらに中東やアフリカに目を移せは、毎週のように何十人もの一般市民が無慈悲なテロの犠牲になっている。

世界は今いったいどうなっていて、これから先どうなっていくのか…。
幾つもの国境を越えて見知らぬ土地を訪れ、初めて出会う多種雑多な人や文化に触れる…もうそんな旅をすることはできないような気がする。実際、中東では現実的に不可能だろう。

イランやイラク、アフガニスタンに行ってみたい…と思ったのは学生の頃だ。沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読んだ後のことだった。路線バスでごつごつした砂漠地帯を夜通し走り、明け方の市場でその土地特有の朝メシを食べる。世界史で学んだメソポタミア文明の地(現在のイラクの一部)であるユーフラテス・チグリス川流域を通り、そのままヨーロッパまで足をのばす。本を読みながら勝手にそんなことを想像していた。
約30年前、メディアの仕事についたのも少なからずそんな願望があったからだ。自分の目と耳で世界の国々に生きる人たちの生活を感じ、意見を聞く。そして、ものごとに対する多様な考え方に接してその意味を多くの人に伝えていく(…というかその努力をしていく)。そんな仕事だ。




北朝鮮国境
(北朝鮮と韓国の国境付近 photo: kazuhiko iimura)




北朝鮮と韓国の国境を目の当たりにしたときは、同一民族でありながらもどうしても折り合いをつけられない問題がそこに在ることを肌で感じたけれど、そんな状況にあっても韓国には、命がけで脱北者に暖かい支援の手を差し伸べている人たちがいた。

ハイチには、上等じゃないけれど綺麗に洗濯された白いシャツを着た少女たちが夜、街灯の下で頑張って勉強をしていた。貧しさに負けない強さだ。
モンゴルでは生活に使う水を買いに行くのは子どもの仕事。一日に一度、大きなタンクをのせた台車を押して給水所にやってくる。道はデコボコだった。




モンゴル2
(モンゴルの給水所 photo: kazuhiko iimura)




これまでに訪れたのは約20カ国。そのたびに痛感したことは「違い」のあることの当たり前さであり、その「違い」を認めることの大切さだ。人種や宗教、政治体制や気候、風土、国としての発展度や成熟度などによってそれぞれ異なるし、同じ一つの国の中でさえ、地域ごとに明らかな「違い」がある。当然ながら、その「違い」があることによっていいこともあれば悪いこともある。意見がぶつかり合って激しい論争になる。紛争もあれば悲劇も起こる。
でも「違い」がなければ「想像力」は喚起されないはず。個人的な考えでしかないけれど、人間が他の人々と共に生きていくうえで一番大切なものは「想像力」だと思う。だからその「想像力」を喚起させる「違い」がとっても重要になり、重要だからこそその「違い」をそれぞれが認め合う必要がある訳だ。積極的にだろうが消極的にだろうが、最終的にはあれこれある「違い」をそれぞれが尊重する。じゃないと世の中が壊れてしまうから。

で今まさに、「違い」を認めない「不寛容さ」ゆえに世界が壊れ始めている。

国民がEU離脱という選択をしたイギリスでは、若者たちが、「クソ移民!」「アフリカに帰れ!」と公衆の面前でアフリカ系男性に罵声を浴びせるという事件が発生、似たような人種差別主義者による犯罪も増えているという。悲しくて空しい現象だ。
また、ベルリンの壁が打ち壊されてから27年たった今、ヨーロッパの国々は難民・移民対策として国境警備を強化している。モロッコとスペインの飛び地セウタの国境、トルコとギリシャの国境、トルコとブルガリアの国境などには、高いフェンスと有刺鉄線が設置された。
まさに不寛容の象徴でしかない。
米国では共和党の大統領候補トランプが、「不法移民の強制送還」や、移民流入阻止のためにメキシコとの国境に「万里の長城」を築くと公約。失われた「大国のプライドと主権」を取り戻すべきだと訴え、少なくない支持を集めているのは周知の通り。

そして中東やヨーロッパ、米国で多発している無慈悲で残虐なテロ。
トルコの空港で発生したテロについては、いまのところどの組織からも犯行声明はだされていないが、当局はIS(イスラム国)による犯行の疑いが強いとみて、自爆した実行犯3人の特定とその背後関係の解明に全力を挙げているという。
けれども一番の問題はそこじゃない。
いま何が恐ろしいかといえば、世界中どこにでもIS(イスラム国)的なテロに及ぶ輩が存在し、増えていること。米軍の支援を受けたイラク軍の攻撃によりIS(イスラム国)支配地域はかつてよりはだいぶ縮小したというが、その分、彼らの主張に同調する他国にある組織や個人がより過激になっているように思えてならない。特に「個人」の場合は、どこの誰が「テロリスト」であるのか、テロが発生した後でないと分からないという現実が横たわる。

いつどこで自動小銃が乱射され、自爆テロが起きるか分からない。だから誰もがもう、傍観者じゃいられない。そんな現実を肝に銘じながら、まずは自分にいま何ができるのかを考えたい。

悲劇の現場を記憶に焼付け、テロの犠牲になった人たちを心から悼むこと。
空から降ってくるミサイルに怯える武器を持たない人たちの心境を想像すること。
子ども達には、「テロや武力では人の心を変えられない」という事実を伝えること。
そして「違い」を認め他者に寛容になること、またはその努力をすること…か。

(飯村和彦)




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2016年03月24日

ISとの対峙方法は?見えない敵との闘い方は?



ベルギー・ブリュッセルで発生したISによるテロを受けて、
アメリカ国内も厳重な警戒態勢が敷かれている。
ニューヨークやロサンゼルス等の空港や駅、繁華街では、
重火器で武装した大勢の警官が眼光鋭く、警戒に当たっている。
確かに、いたるところに武装した警官が存在することは、
「当局が安全確保に力を尽くしている」
という安心感を一般市民に与えるのかもしれない。
もちろん、「大変なことになっている」
という不安感を掻き立てられる人もいるだろうが、
どちらかといえば少しは安心するのだろう。

けれども、
テロ行為そのものを抑止する効果がどれだけあるのか…
との疑問もよぎる。
テロリストにしてみれば、
避けるべき対象(武装した警官等)がはっきりする分、
対抗手段を編み出しやすくなるのでは…と思ってしまう。
そもそも重火器そのもので、
テロリストによる自爆テロ(あるいは爆弾テロ)を抑えることができるのか?





厳戒態勢
(写真:CBSニュースサイトより)




以前取材したテロ対策の元責任者は、
「テロは防ぎようがない。
なぜならテロ行為の主導権を握っているのは、
いつだってテロリストの方だから」
と話していた。
意味するところは、
テロは起きてみないとその「時と場所」は分からないということだ。
稀に「事前にテロを防いだ」という発表がなされることはあるが、
しかしその反動は何倍にもなって帰ってくることが多い。
つまり“見えない敵”の先手を打って相手を見つけ、闘い、
圧するのはそれだけ難しいということだ。

であるならどうだろう、
相手が見えないのなら、こちらも見えない形で対峙してみては? 
マシンガンを携えた警官を大量に街に配備するのと同程度の規模で、
一般市民にしか見えない大勢の警官、
つまり私服警官を大勢配置してテロ警戒に当たらせる。

少なくとも「私服警官」の方が、
重武装した警官より、今まさにテロを実行しようとしているテロリストに対し、
より近くに「存在できる」可能性は高くなるだろう。
上手くいけば、
それとは知らずにそばに居合わせたテロリストを確保できるかもしれない。

しかしそうはいっても、
「私服警官」が辺りにたくさんいるという状況は、
普通に日常生活を送る一般市民にしてみれば居心地が悪いのも確か。
テロ対策とはいえ、
自分の気づかないところで監視されるのを快くは受け入れがたい。
昨今、街中に監視カメラが設置されていて、
四六時中見張られている現実もあるけれど。

もちろん、
「私服警官」の増員等の対策は既に取り入れているのかもしれない。
(ただ、その事実がテロ組織側に周知されていないと抑止効果は低くなる…)
さらには「素人の浅知恵。そんなに甘くない」ともいわれるだろうが、
少なくとも、、
街に重火器をもった警官が溢れる現状が最適だとは思えない。
狡猾な連中に正攻法は通じないだろうから。

拳が震えるほど悔しいが、
今ごろISの連中は、ほくそ笑んでいるに違いない。
パリに続き、ブリュッセルでも大規模テロを成功させたばかりか、
そのテロを受け、
世界中がまたも厳戒態勢に入って騒然としている訳だから。
マシンガンを抱えた多数の警官が、
ニューヨーク地下鉄の入り口に立つ光景をニュースで見ながら、
連中は「(今回も)目的達成…」と実感していることだろう。

ISの最終目的は、
自分たち(といってもほんの僅かな限られた人数らしい)以外の人間を
この世から排除することだという。
その手段が、
自分たち以外の人間同士、
国家間や勢力同士で殺し合いをさせることであり、
自分たちへの憎悪を増幅させ、
自分たちのもとにできるだけ多くの人間をおびき寄せ、
そこで殺戮を繰り返すこと。

例えば、
有志連合による空爆で一般市民の犠牲がでてもなんとも思わない。
誰であれ、最終的に「他の人間」は必要ないのだから。

したがって、
ISの思考の中には「話し合いでの解決」という項目はないのだという。
自分たち以外の存在を認めないわけだから、
ネゴシエーションの余地もない。

そんな連中に対峙していくのは容易なことじゃない。
心を開いて話したくても受け付けないだろうし、
力でねじ伏せるには、
こちら側の犠牲が多くなり過ぎる(既にかなりの犠牲がでている)。

「テロには屈しない」と声高に叫んでも、
連中にはまったく響かないだろうし。

じゃあどうすればいい?
わからない。
でも、わらないことをまず認めないと先へも進めない気がする。
酷く自分が無力に思えるけれど、諦めるわけにもいかない。
ただ、
童話にある「北風」のようにはならないように心がけたいと思う。
例え、「太陽」がまったく力を発揮できない相手だとしても…。

(飯村和彦)




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2014年10月26日

テロとの戦い。10年前といま、日本の姿勢は?



間違いなく、いま世界は深刻な事態に陥っている。
イラク、シリアで勢力を急拡大している「イスラム国」の存在。
そして、彼らの主張に同調する世界中の組織・個人。
特に後者にあっては、どこの誰が「テロリスト」であるのか、事が発生した後でないと分からないという現実が横たわる。
あるものは自らの信念から自爆テロを起こし、あるものは自らが今置かれている社会状況に憤怒しライフルや斧を手に暴挙に走る。

一方アメリカのオバマ大統領は、イスラム国への対応を巡り、22カ国の軍のトップをメリーランド州の空軍基地に集めて結束を呼び掛けた。会議に参加したのはイスラム国への空爆に参加しているフランスやイギリス、サウジアラビアなど。
この席でオバマ大統領は、「目標は、イスラム国が国際社会の脅威にならぬよう弱体化させ、最終的には破壊させることだ」と力説。イスラム国を壊滅するには、アメリカ単独ではなく「有志連合」の協力が不可欠という認識を示し、参加国も一致したという。

ここで登場した「有志連合」という言葉。
「有志」、つまり志の有るものたちの「連合」を意味するのだろうが、ではその「志(こころざし)」とはどんなものなのだろう。
さらに、このアメリカの呼びかけに日本は今後どのような姿勢で臨んでいくのだろうか。
安倍首相とその仲間たちが「選択」する「立ち位置」によって、これから先日本が向かいあっていくことになる「対イスラム国」「対テロ戦争」の様相が大きく変わってくる。

安倍首相の「選択」によって生じる「結果」。
その結果は私たち日本国民が受け入れられるものになるのか。もし受け入れがたい結果になった場合、安倍首相はどうのような「責任」の取り方をするのだろう。

と、ここまで考えて、ふとあることに気付いた。
約10年前にも似たようなことがあったなあ…と。
そこで当時の原稿を引っ張り出してみた。2004年2月に書いたものである。
内容は、小泉首相(当時)が、自衛隊のイラク派遣を決めたことに関する疑問だ。

考えを整理する意味もあり、改めて原文のまま掲載することにしました。
この10年間で、なにが変わりましたか?



星条旗たなびく?



…【以下、2004年2月3日、記】

『イラクへの陸上自衛隊の本隊派遣がいよいよ開始された。政治に翻弄された挙げ句の事実上の派兵。日の丸を背に迷彩服に身を包んだ隊員たちの胸中は複雑だろう。イラク国内が戦闘地域であるのは明白であり、そこに派遣されるということは、自らの命を失う危険性があると同時に他国人の命を奪う可能性もあるということを意味するからだ。
 しかし、先週の衆議院特別員会に於いて小泉首相は、自衛隊員に万が一のことが起きた場合、その『責任』をどうとるのかという民主党の前原誠司議員の質問に対し、「派遣された自衛隊員がその任務を果たせることを祈る」という内容の答弁を繰り返すだけで、不測の事態が発生した際の具体的な責任の取り方については一切口にしようとはしなかた。ときに薄笑いさえ浮かべながらのその答弁からは、日本の最高司令官としての決意は微塵も感じられなかった。

自衛隊のイラク派遣は小泉首相の判断であり、『選択』である。自分が行った選択の結果を引き受け、それに責任を持つのは当然のことである。この世に結果のでない選択など存在しない。にもかかわらず、小泉首相は頑なまでに責任の取り方を明確にしない。つまり、選択はしたがその結果については責任をとらないといっているのと同じである。
対テロ戦争は、どこに国境や前線があるのか、誰が敵なのかも曖昧な新しいタイプの戦いである。2年前、『9.11テロ』を検証する報道番組の取材で話を聞いた元FBI副長官のオリバー・レベル氏は、テロリストとの戦いの難しさについて「テロ決行の時間や場所などすべての状況をコントロールしているのはテロリストの方であり、特に自爆テロの場合は、実行犯が十分に訓練を積み、地域社会に潜り込み、時間をかけて計画を練り上げるので、その裏をかいてテロを未然に防ぐことは事実上不可能である」と語った。つまり、テロを防ぐための包括的な対策などは存在し得ないということだ。

自衛隊員が派遣されたイラクもまさにそのような状況であるということを、日本政府が正確に把握しきれていないであろうことは、国会での小泉首相や石破防衛庁長官による「サマワ答弁の混乱」を見ても明らかである。
さらには、イラクの大量破壊兵器問題を調査してきたデビット・ケイ前調査団長が、開戦時にイラクが同兵器を保有していた証拠はないと断言したことで、イラク戦争の大義にまで疑問符がついた現状を考えれば、自衛隊派遣の是非以前に、米英軍によるイラク戦争開戦を支持した小泉首相以下、政府の判断(選択)そのものが改めて問題になっているのである。「自衛隊が立派に任務を果たせるようにするのが私の責任だ」などと答弁している状況ではない。大義なき戦争を支持したかもしれないということの意味は、多くの罪のないイスラム教徒を大量に殺害した戦争、言い換えれば「テロに対する戦争」という名のもとに行われた“国際テロ”を支持したのと同じで、そこが問われているのだ。

ブッシュ大統領は「フセイン政権を打倒して世界はより安全になり、イラクの人々は自由になった」と述べているが、その彼の言葉がいかに空虚なものであるかは未だに戦闘状態が続くイラクやパレスチナの現状を見ればわかる。
小泉首相は日米同盟、国際協調はこれからの日本の平和と繁栄にもっとも大事だと力説するが、では彼のいうところの国際協調とはどんな国々との協調を意味するのだろうか?まさか米国とその同盟国だけを意味しているのではあるまい。これと似た疑問はブッシュ大統領や小泉首相が「テロに対する戦争」という言葉を口にする時にも沸いてくる。テロに屈してはならないというのは至極当然なことであるが、彼らのいうテロとは誰によるどんな相手に向けられたテロを指してのことなのか? 米国とその友好国に向けられるテロだけがテロだともいうのだろうか? 日本政府は米国が過去行ってきた多くの“テロ攻撃”に対してはどんな立場をとっているのか? 

我々はテロという犯罪そのものについて異なった視点から見つめる必要がある。国際司法裁判所が国際テロで有罪を宣告した唯一の国が米国であり(1986年)、米国だけが国際法の遵守を求める国連安全保障理事会の決議に拒否権を発動したという事実。これは1980年代にニカラグアが受けた米国による暴力的な攻撃(「力の非合法な行使」)に対する国際司法裁判所と国連の判断だった。ニカラグアではアメリカによるこの“テロ攻撃”で何万もの人が命を落とした。1998年にはスーダンの首都ハルツウムに米国は巡航ミサイルを撃ち込んだ。この爆撃でスーダンの主要な薬品の90%を製産していた製薬工場が破壊されたため、以降、今日に至るまで数万人もの命が失われていると報告されている。その多くが子供たちだという。彼らの家族にしてみれば米国こそがテロ国家なのである。サダム・フセインと米国が1980年代盟友関係にあったのは周知の事実だし、その当時サダム・フセインが毒ガスでクルド人を大量殺戮するという残忍なテロ行為を行ったのもまた事実である。
これら米国による数々の“テロ攻撃”の歴史については、マサチューセッツ工科大教授のノーム・チョムスキー氏の著書「9.11アメリカに報復する資格はない!」に詳しく述べてられているので是非参考にして頂きたいが、問題はこのような“テロ国家”としての米国の歴史を日本政府がどのように解釈した上で、その米国が掲げる「テロに対する戦争」に現在向き合っているのかが判然としないことである。

二日、宮崎県の高校三年生の女子生徒が内閣府に提出した、平和的な手段によるイラクの復興支援と自衛隊の撤退などを求めた小泉首相宛ての5358人分の署名つきの嘆願書に関連し、小泉首相は「この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない」とした上で、学校の教師も生徒に「イラクの事情を説明して、自衛隊は平和的に貢献するのだ」ということを教えるべきだと語った。自衛隊派遣という重い選択をしたにも係わらず、その結果起こりうる出来事についてどんな責任をとるのか一切説明しない小泉首相に、学校の教師に対して自らの判断の正当性を生徒に説明させる資格があるだろうか。
「暴力の連鎖を断ち切るためには平和的な解決が必要だ」と考え、たった一人で5358人分もの署名を集めた女子生徒の方が、何が善で何が悪なのかをきちんと見極めている気がするし、彼女の考えに共鳴した多くの若者たちの方が小泉首相より自分の正義、うちなる倫理に忠実に生きるように思えてならない。

善か悪か…。その概念は、状況によって変化する例が一つでも見つかった瞬間に焦点を失うものだ。特に「戦争」や「テロ」においては視点をどこに置くかで善悪の見え方も違ってくる。今ほど注意深く物事を見つめる姿勢が重要な時はない』

(飯村和彦)


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2014年02月01日

ボストン爆弾テロ事件で「死刑」求刑へ!



1月30日。ホルダー米司法長官は、
去年4月に起きたボストン・マラソン爆弾テロ事件で、
4人を殺害し多数を負傷させたとして起訴された
ジョハル・ツァルナエフ被告(20)に対し、
「死刑」を求刑する方針を明らかにした。

下の写真にある銃弾の痕は、
ツァルナエフ兄弟と警察による銃撃戦の際にできたもの。
当時現場をまわり、自分の目で確認できただけでも、
似たような弾痕が、少なくとも数十はあった。




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(↑↓photo:Kazuhiko Iimura)

ボストン爆破テロ関連写真




この場所で、
ツァルナエフ兄弟の兄タルメラン容疑者は警察に射殺され、
弟のジョハル被告は、
その兄の射殺体に逃走車両で乗り上げ、
さらに数メートル引きずった後、住宅街へ逃げ込み、
あのボートに潜伏したのだった。

参考までに、
銃撃戦の現場に残されたおびただしい数の弾痕のほとんどは、
警察が発砲した銃弾によってできたものだった。

二つの爆弾が炸裂したあの日、
そして、ジョハル容疑者が確保されたあの日、
いったい何があったのか?
裁判での判決にあたってはその詳細がより明らかにされるのだろうか。

実行犯ツァルナエフ兄弟は、
テロ組織の後ろ盾のないロンリー・ウルフだった。
彼らが“いとも簡単に…”テロ行為を実行しえた背景とはなんだろう。
さらに、
卑劣なテロの犠牲になった人たちとその家族。
彼らは今なにを思い、
どんな時間を過ごしているのだろうか。


(飯村和彦)


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2011年09月06日

再考9.11テロ・予見されていた悲劇の裏側(後編)



9.11テロの6年前の1995年、
CIA、さらにFBIは、既に、
アルカイダ一派が、
航空機を使った自爆テロ計画を持っているという事実を掴んでいたのだ。


暗号名・ボジンカ…。
いったい、どんな計画だったのか?



航空機
[photo:kazuhiko iimura]



1995年2月、
一人の男がフィリピンからニューヨークへ空路、移送されてきた。
男の名はラムジ・ヨセフ (注:ラムジ・ユセフとも表記される)
ヨセフは、
マンハッタン上空から世界貿易センタービルを眺めながら、
FBI捜査官の問い掛けにこう答えた。

FBI捜査官:「見ろ、世界貿易センターはちゃんと立ってる」
ヨセフ:「もっと金と爆薬があったら倒すのは簡単だった」

実はこのラムジ・ヨセフこそが、
1995年のボジンカ計画の首謀者であり、
また、
その2年前の1993年に発生した、
最初の 世界貿易センタービル爆破事件 の犯人でもあった。


では、
問題のボジンカ計画とは、
どんなテロ計画だったのだろうか。
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ラムジ・ヨセフは、
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで極東に運行しているアメリカの民間機を含む、
数機の民間旅客機を同時爆破する計画でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります」

アジア、アメリカ間を飛ぶ
11機の旅客機を狙った同時爆破テロ。

しかもそのほとんどが、
9.11テロと同じように、
アメリカン航空やユナイテッド航空など、
アメリカの旅客機を狙ったものだった。

さらに…!

「ヨセフの仲間の一人を尋問したフィリピン警察から、
ヨセフはバージニア州ラングレーにあるCIA本部に
航空機で突入する自爆テロを計画していた、
…という報告を受けました」(元CIAテロ対策本部長カニストラロ氏)

CIA本部を狙った航空機での自爆テロ計画…。

口を割ったのはアブドラ・ムラド。
ヨセフの共犯者だった。

驚くことに、この時すでに、
ムラドは、自爆テロ決行に必要な、
民間機のパイロットライセンスまで取得していたのだ。

計画は、
セスナのような小型機に爆薬を積んで
CIA本部に激突するものだったというが、
ムラドの供述によると、
連邦議会、ペンタゴン、ホワイトハウス、
そして「高層ビル」なども攻撃対象になっていた。

「膨大な組織力と緻密な計画、
そして複数からなる実行部隊を必要とする、想像を越えた計画だった。
そのため、
この計画を知った捜査当局は、
“こんな馬鹿げた計画の実行は不可能だ”と考えた。
捜査当局はヨセフ一味の能力をみくびっていたのです」
(CIAテロ対策本部長カニストラロ氏)

それでは、
アルカイダの能力をみくびっていた捜査当局の中心、
FBIはこの「ボジンカ計画」をいつ知ったのだろうか?

元FBI副長官であるレベル氏に聞いた。

「テロの全容を掴めずにいたフィリピン捜査当局から、
事件発覚直後に呼ばれた…と、
現地のFBI捜査官から聞きました。

押収された証拠の中に、
クリントン大統領暗殺計画や、
建造物の破壊計画を示すものがあったからです。
ただ、
当時はまだ、ビンラディンが黒幕だとは分からなかった」

この件について、
元CIAテロ対センター上席分析官、ベドリントン氏は…

「1995年のボジンカ計画は、
たまたまフィリピン警察がヨセフのアパートから、
その計画が書かれたコンパクトディスクなどを押収した為、
未遂に終わりました。

つまり、
ボジンカ計画に関わっていたテロリストは、
途中でその準備を止めることを余儀なくされたのです」

だがその1年後の1996年には、
オサマ・ビンラディン らアルカイダ一派は、
9月11日テロ決行に向けて、すでに準備を開始していた。

1996年3月には、ハニ・ハンジュールが渡米。
アリゾナ州にある航空学校に入学して飛行訓練を開始した。
ハンジュールは、
アメリカン航空77便でペンタゴンに突入したテロ実行犯の一人で、
リーダー格の男だった。

さらに4月には、 モハメド・アタ が、
なんと18項目に及ぶ遺書を作成していた。


「皆、死を嫌い恐れる。
だが死後の世界と死による報いを信じる者だけが、
自ら命を絶つことが出来る」(アタの遺書より一部抜粋)


そして、1996年8月23日
ビンラディンは、
イスラムの聖地であるアラビア半島に、
湾岸戦争以降ずっと居座るアメリカ軍に対し、
最初のジハードを宣言した。

「抑圧と屈辱の壁は弾丸の雨なくしては崩れない」



夜のマンハッタン(カラー)
[photo:kazuhiko iimura]



一方、そのころニューヨークでは…

ボジンカ発覚から約1年半後の1996年5月29日、
ラムジ・ヨセフの初公判が、
ニューヨークにある連邦地裁で開かれていた。

ヨセフは、
1993年の世界貿易センタービル爆破事件の主犯、
及び、
1995年のフィリピンボジンカ計画の首謀者として起訴されていた。

その後、約1年半続いたこの裁判で主に注目されたのは、
6人の死者と1000人以上の負傷者を出した、
1993年の世界貿易センタービル爆破事件に関してだった。

「ボジンカ計画」については、
旅客機の同時爆破計画の実行可能性については審理されたが、
航空機を使った米国主要施設への自爆テロについては、
重点が置かれなかった。

いったい、どうしてなのか?
その理由を元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏に尋ねると…

「当時、検察もFBIも、
“これは現実性のない絵空事だ”と考えていたため、
色々言ったところで、
“所詮、実行不可能な計画だ”と決めつけていたのです」

元CIAテロ対策センター上席分析官のボドリントン氏は…

「特に国防総省などは、
カミカゼ特攻隊的なテロの予想など、戦略の中に入れていませんでした」

ひとつ加えるなら、
フランスでは旅客機をハイジャックして、
エッフェル塔に激突しようとした自爆テロ未遂事件まであった。
それは、
ボジンカ発覚の前の年、1994年の出来事だった。

幸いこの時は、
フランス特殊部隊が計画を阻止したが、
イスラム教過激派のテロリストが、
”旅客機を使った自爆テロで国の象徴的な建物を狙う“というのは、
すでにこの時から警告され、諜報機関の間では十分認知されていたのだ。

1998年1月8日
ラムジ・ヨセフ は、
1993年の世界貿易センター爆破容疑で禁固240年、
ボジンカ関連では終身刑の判決を受けている。

しかし、
1998年に判決が下りた段階で、
「ボジンカ計画は解決済み」としてファイルされてしまったのだ。

【備考:ヨセフが、ボジンカ関連で終身刑になったのは、
テロ決行に向けたテストとして、
フィリピン航空434便に液体爆弾を仕掛け爆破。
その際、乗客一人(日本人)を殺害した罪による】


その頃、
9.11テロ実行犯のモハメド・アタやその仲間たちは、
アメリカ国内で飛行訓練を行う準備を着々と進めていた。
だが、当然ながら、
アメリカの捜査当局は、そのことを知らない。

元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は、悔恨をこめて回想する。

「ヨセフ自身が裁判の中で、
“世界貿易センタービルの一つを爆破し、
崩壊の中でもう一つのビルも爆破して、
何千人もの犠牲者を出すのが目的だった”
と語っています。
一度は失敗したものの、
再び世界貿易センタービル爆破を試み、そして成功した。
一連の事件を、
“時間を経て進化してきたアルカイダのテロ活動”と考えるなら、
ボジンカ計画、つまりヨセフらがマニラで企んだテロ事件の延長線上に、
9月11日の同時多発テロがあることが分かる」

ヨセフに対するニューヨーク連邦地裁の判決の一ヵ月後、

1998年2月

オサマ・ビンラディンは、
「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための世界イスラム戦線」
の名の下に、

「ありとあらゆるアメリカ人を殺せ!」

との宗教命令を出した。
以下に、
ビンラディン本人が、
その命令について公に話した内容の一部を抜粋する。

「神のご加護により、
我々は他のイスラムグループや組織と団結し、
国際イスラム戦線を結成した。
そして十字軍とユダヤ人に対するジハードを誓った。

イスラムの同胞は、
この呼びかけを受けて立ち上がり、
現在ジハードが進行している。
このジハードは、
神の意志に基づくものであるから、
結果として侵略者であるアメリカ人を殺戮し、
必ずや彼らをこの世から消し去るという、
輝かしい成果をあげる事になるだろう」


このビンラディンの宗教命令に関して、
元FBI副長官、レベル氏は…

「1998年の宗教命令は、
アルカイダは、これからも反米テロを激化させていくという、
ビンラディンによる声明でした。
大量殺人を犯すことが、
全能の神の意志に報いることだと信じている組織と闘うのは、
実に困難です。
しかし、ビンラディンはそう説いているのです」

1998の宗教命令以降、
アルカイダによる対米テロが各地で発生、
日増しに深刻さが増していく。

1998年8月7日
ケニアとタンザニアにあるアメリカ大使館に対する同時爆破テロ
両方のテロで、約300人を殺害、5000人を超える負傷者をだした。

2000年10月12日
イエメンの港に停泊中のミサイル駆逐艦コール攻撃事件

この時期のFBIの対応について、
元FBI特別捜査官のスミス氏は…

「様々なテロがアメリカ国外で起こっていた。
そのために、
海外で起きた対米テロの解決に当たることが、
FBIの仕事になっていたと思う。
だから、
FBIは海外での捜査で頭が一杯になり、
捜査の対象になっているテロ組織が、
アメリカ国内で似たようなテロを起こすとは考えていなかったと思う」



マンハッタン空撮1
[photo:kazuhiko iimura]



事実、
9月11日までのテロ実行犯たちの行動を見ると、
アメリカ国内で、
いかにノーマークだったかがよく分かる。

例えば…

テロ実行犯のリーダー、モハメド・アタは、
マルワン・アルシェヒと行動を共にすることが多かった。

2000年7月、
二人はフロリダにあるホフマン航空学校に入学。
一人約10000ドルの授業料は、
二週間ごとに小切手で支払った。

アタはこの時すでに、
12時間の飛行を経験し、
自家用単発の免許を持っていたという。

航空学校の担当者、ルディ氏は…

「ともかく、アタは態度が悪かった。
いつでも女性や他の人に、
“自分の方が上だ”と示そうとしました」

それでも、ふたりは5ヶ月後には無事卒業。
夜間飛行の他、
マルチエンジンの飛行機を操縦できる免許を取得した。

けれども、
当然、大型旅客機は飛ばせない。
だからアタら二人は、
別の航空学校で、フライトシュミレーションの訓練を受けた。
そこでは、
ターンの練習が大半で、
離発着の練習は、ほとんどしなかった。

シュミレーターを使用した訓練の費用は、
8時間で1500ドル(2名分)、
キャッシュで払ったという。

さらにアタは、
仲間と一緒によく農薬散布用の小型飛行機を見にいっていた。
その際にアタと会話を交わしたジェームスさんは…

「アタは、
どれぐらい燃料が積めるのかを知りたがっていました。
どれくらいの重さまで搭載できるのかを…。
そして、
“操縦席に入ってエンジンのかけ方を見せてくれ”
としつこくいってきました」

このジェームスさんの話は、
“セスナに爆薬を積んでCIA本部に突入する”という
1995年に発覚した、
「ボジンカ計画」の内容の一部と重なるのは偶然なのか…。


アタたちがフロリダで、
テロのための準備を進めている頃。

2001年6月22日

テネットCIA長官(当時)は、
「アルカイダによるテロ攻撃の可能性が拡大している」
としてグローバル・アラートを発令している。

国務省では、
そのグローバル・アラートを受けて、
全世界にいるアメリカ市民に対して、
9月のテロ発生直前まで何度も警告を出し続けた。

9.11テロ発生の4日前に出された警告では、
“アルカイダが、
アメリカ市民をテロ攻撃の対象にする恐れがあるとして、
日本、韓国にあるアメリカ軍施設が狙われるかも知れない“
と警告していた。

ところが…

「反米テロが、
アメリカ国内で計画されているとは、
誰も思っていなかった。
アメリカ国内で、アルカイダが、
反米テロを計画しているという情報を流した米国諜報機関はなかった」
(元CIAテロ対策本部長、カニストラロ氏)

一方、フロリダでは、
同時テロ決行に向けた実行犯たちの準備が、最終段階に入っていた。



フロリダ
[photo:kazuhiko iimura]



ジアド・ジャラヒ。
ペンシルベニア州、ピッツバーグ郊外シャンクスヴィルに墜落した
「ユナイテッド93便」を乗っ取ったグループのリーダー格だった男。
ジャラヒはこの頃フロリダで、
格闘技系のジムに通い詰めていた。

指導者のロドリゲス氏は…

「彼はとても熱心だったので、
修得が早く、
4ヶ月半で個人指導ができるレベルになっていた」

では、ジャラヒは、
具体的には、どのような技を身につけたのだろうか?

「相手が自分より大きい場合、
あるいは相手が複数の場合は、
腱や靱帯や血管を斬りつけるのが、
一番効果的だと教えていました。

彼はその技を修得して、
グループの他のメンバーに教えたのです」

実は、このジャラヒも、
9.11テロ以前に、
CIAによって一度はマークされていたのだ。

ジャラヒがフロリダで格闘技系の訓練を始める4ヶ月前、
2001年1月31日、
CIAは、アラブ首長国連邦のドバイで一度、
ジャラヒを捕捉していた。
                    
ジャラヒがその直前に、
パキスタン、アフガニスタンに行っていた事実を掴んだCIAが、
ドバイの空港担当者に要請、
取り調べを行っていたのだ。

ところが、
なぜかCIAはジャラヒを開放。
その後、アメリカ入りしたジャラヒは、
飛行訓練を行いながら、
テロ決行のひと月前まで、
仲間と共に、格闘技の技を磨いていたのだ。

元FBI副長官、レベル氏は、
テロ対策の限界を次のように語った。

「ジレンマでした。
アルカイダに繋がりのある者は、
絶対に捜査と興味の対象になった筈です。
しかし、
アラブ系だとかイスラム教徒だからという理由で、
中東出身者やパキスタン人などを差別して扱っていいのか、
という問題があったのです」

そして、
9月11日、テロ決行の時。
ジャラヒは、
ハイジャックしたユナイテッド93便のコックピットから、
乗客に向かって次のようにアナウンスした。

「爆弾を持っている。
これから空港へ向かう。
お前たちへの要求はただ一つだ。
静かにしていろ!」

しかし、
それまで完璧に準備を進めてきたジャラヒたちの計画に、
一つの大きな誤算が生じた。

その誤算とは何か?



手向けられた花1
[photo: noa iimura]



それは、CIAやFBIの捜査でも、
政府の諜報活動でもなく、
乗客たちの「勇気」だった。

機内(ユナイテッド93便)からの夫の電話を受けたトーマス・ディーナさん
「主人は、“乗客グループで何かをする準備をしている”
と話してました。また、
“奴らは飛行機を墜落させるといっている、何とかしなければ”とも…」

乗客だったジェリー・グリックさん
「テロリストを攻撃する。電話は繋いだままに…、すぐ戻る」

結局、テロの規模を小さく抑えるのに成功したのは、
アメリカ政府でもCIAでもFBI でもなく、
自らの命をかけた、
乗客の勇気ある行動だけだった。

ユナイテッド93便は、ワシントンDCまで約20分の地に墜落した。
テロ実行犯ジャラヒたちの狙いは、
ホワイトハウスだったといわれている。


元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は、
自戒を込めて、
9.11テロにいたるまでのアメリカ諜報活動の不備を
以下のように締めくくった。

「1993年の最初の世界貿易センター爆破事件、
そして1995年のボジンカ計画、
さらにはヨセフのテロ活動を支えていた
アルカイダからの資金の流れと
ビンラディンの義理の兄弟との繋がり。
これらをCIAは入手していたにも関わらず、
その関連性を見つけ、
出来事の裏にあった大規模テロ計画を
察知することが出来なかったのです」

また、
FBI元副長官のレベル氏は…

「“機会があれば、いつ、どこであれアメリカ人を殺せ。
それが正しいイスラム教徒だ”とビンラディンは説いていました。
アメリカ国内には既に、
イスラム過激派組織のネットワークが広がっていたのに、
9月11日の事件が起こるまで、
全く手つかずの状態で放置されていたのです。

自爆テロ実行犯は、
十分に訓練を受け、
強い自制心と、堅い信念を持ち、
アメリカ社会の仕組みとその脆弱性を知り尽くしていました。

アメリカ政府はテロが起こることを予見していました。
アメリカに対するテロは、常に起こっていたからです。
しかし、実際のテロが、
9月11日のような形をとることだけは予期することができませんでした。

民主国家、警察国家、どのような形態の国家であれ、
テロを実施する日にちと時間、発生場所、破壊の手段等を自由に選べる点で、
テロリストは捜査機関より有利な立場にあります。
つまり、
状況をコントロールしているのはテロリストなのです」


3000人もの犠牲者を出した
2001年9月11日の同時多発テロ事件。
あの悪夢は起こるべきして起こった悲劇だったのか?
アメリカ政府のテロ対策とは、
それほどまでに不完全なものだったのか?

これらの疑問に対して、
ライス大統領補佐官(当時)は、
「想定外のテロだった」
と繰り返し主張するのみだった。

Q: (1995年に)フィリピンで明らかになったボジンカ計画や
エッフェル塔にハイジャック機を激突させるというテロの可能性について、
その調査が行われていたという事実報告は無かったのか?

A:ライス補佐官:
「その件は一度も出ませんでした」

Q: 本当に誰も報告しなかったか?

A:ライス補佐官
「もちろん我々は、
ハイジャックが議論されていることは知っていました。
また、
ハイジャックが色々な場所で計画されていた事も知っていましたが…。
繰り返しますが、
問題になっている大統領への報告の中には、
そのような活動に関する情報は含まれていませんでした」

【以上、9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ・予見されていた悲劇の裏側



2001年9月11日
米国同時多発テロで犠牲になった人の数は2973人。

ある人は迫り来る死の恐怖と闘いながら、
そしてある人は、
悲鳴をあげる間もなく、
その命を落としていった。



メモリアルタワー
[photo:kazuhiko iimura]



あれから10年。
ニューヨークの現場では今、
「9.11メモリアル」
(=The National September 11 Memorial & Museum)の建設が進んでいる。
けれども、
この場所を訪れる多くの人は、
いまだに、
かつてそこに聳えていた“アメリカ経済の象徴”、
世界貿易センタービルの幻影を見ているに違いない。



機影
[photo:kazuhiko iimura]



2001年9月11日、晴天。
あの日…
悲劇は、以下のようにして幕を開けた

アメリカン航空11便が、
世界貿易センタービル北棟に急接近

午前8時45分
アメリカン航空11便、世界貿易センター「北棟に激突」

午前9時3分
ユナイテッド航空175便、「南棟に激突」

午前9時43分
アメリカン航空77便、「ペンタゴン(国防総省)激突」

午前10時00分
世界貿易センター「南棟が崩壊」

午前10時6分
ユナイテッド航空93便、「ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落」

午前10時29分
世界貿易センター「北棟が崩壊」



マンハッタン、縦位置、空撮
[photo:kazuhiko iimura]



あの同時多発テロの実像を求めるために、
時計の針を、
9.11テロ発生の約8ヵ月後、2002年5月頃に戻してみる。

悲劇を冷静に見つめ直す機運が高まりはじめたこの頃、
多くのアメリカ国民やメディア、議会の目が、
ある方向に向けられはじめた。


テロは本当に防げなかったのか?


多くの人の胸の中に沸いたこの疑念は、
次第に大きなうねりとなって、
ブッシュ政権(当時)に向けらるようになった。

ダイアン・ファインスタイン上院議員(当時)
「大きな疑問の一つは、アメリカ国内での諜報活動の問題です」

ヒラリー・クリントン上院議員(当時) 
「ブッシュ大統領は全ての疑問に答える必要はありませんが、
幾つかには必ず答えるべきです。
特に“テロの事前情報があった”ということを、
どうして私たちが、きょう、5月16まで知らされなかったのか」

そのどれもが、
ブッシュ政権は、テロ事前情報を持っていたにも係わらず、
9.11テロを阻止できなった。
その理由を明らかにせよ!
…というものだった。


真相はどこに?


ブッシュ政権に向けられたこの大きな疑問にたいして、
長年、テロ対策の現場で捜査活動、諜報活動にあたっていた、
FBI、CIAの元幹部たちはどう応えるのだろうか。


FBI元特別捜査官、スミス氏は…

「国内でテロが起きる可能性を示す警告は、全部すぐそこにあった」

では、
もしそうであるとすれば、
なぜ、悲劇を避けられなかったのか?

「事件を未然に防ぐために諜報活動をしますが、
それを嫌がるFBIの性格が、
致命的なミスを引き起こしたのです」
(FBI元特別捜査官、スミス氏)

長年にわたり、
アメリカにおけるテロ対策の指揮にたっていた
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「一連のテロの最終的な狙いを見抜けなかった点では、
CIAも同罪です」


2002年に入り、
米国議会では、
テロ事前情報についての大規模な調査が開始されていた。

そのきっかけとなったのが、
「フェニックス・メモ」と呼ばれる捜査報告書。
2002年5月、
連邦議会の調査で、その存在が明らかになったものである。
(参考:ニューヨークタイムズ記事)

報告書を作成したのは、
FBIフェニックス支部のケネス・ウィリアム捜査官。
その内容は、9.11テロ発生の2ヶ月前、
つまり2001年7月の段階で、
ワシントンのFBI本部や
アルカイダの動きを追っていたニューヨークのテロ対策部門にも送られていた。

「報告書(フェニックス・メモ)」の内容について、
CIA元テロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ウィリアムFBI捜査官は報告書の中で、
フェニックス近郊のアリゾナ航空学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだと提言しています」

その理由として、
イスラム教過激派と思われる複数の中東系男性が
アリゾナにある飛行学校に入学している事実を指摘。
彼らの追跡調査により、

ビンラディンの信奉者が、
パイロットなどの人員として
民間航空システムに侵入しようとしている」

と断定していた。

ところが…

そのアリゾナからの報告書「フェニックス・メモ」を、
ワシントンのFBI本部も、
ニューヨークのテロ対策部門もまったく無視し、信用しなかったのだ。
当然、
その情報がCIAやホワイトハウスに送られる事もなかった。

ダッシェル下院内総務(当時)  
「FBI本部がどうしてその情報を不要としたのか、まったく理解できない」

「フェニックス・メモ」が見過ごされていたという事実は、
テロの遺族たちに、
新たな苦しみを与えることとなった。


しかも、FBI本部の失態は、これ一つだけではなかった。


実は2001年8月、
ミネアポリスでも、
現場のFBI捜査官たちが、一部のテロ実行犯たちを追いつめていたのだ。

この事実は2002年5月、
FBIミネアポリス支部の女性捜査官、
ロウリー氏の告発によって明らかになった。

13ページに及ぶ告発書簡の中で、
ロウリー氏は、

「9月11日のテロ実行犯の一部を、
事前に摘発できた可能性をFBI本部が握り潰した」

と訴えている。

告発の内容は、
テロ計画に関与したとして、
9.11テロ直前に逮捕、起訴されたムサウイ被告をめぐるものだった。

ムサウイに関する通報に対応したミネアポリスの捜査官は、
“彼がテロリストである可能性がある”と、初動捜査の段階から確信していました」
(告発書簡より一部抜粋)

2001年8月15日(=同時多発テロ発生の約一月前)
FBIミネアポリス支部は、地元の飛行学校から、
「小型機の操縦も出来ないのに、
ボーイング747の水平飛行のみの訓練を要求する不審な男がいる」
との通報を受けた。

8月16日
移民局が入国管理法違反でムサウイを逮捕

その直後、FBIミネアポリス支部は、
テロ防止関連で、
ムサウイの所持品などについて捜索令状を取ろうしたが、
この申請をワシントンのFBI本部は却下したのだ。

この件に関して、
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「これはムサウイのコンピューター通信と
電話の盗聴をするために必要な裁判所の許可の事ですが、
証拠不十分ということでFBI本部は、
この申請を却下したのです」

この時、ワシントンのFBI本部に提出された
ミネアポリスの捜査官のメモには、

「ムサウイは、
大型航空機を乗っ取って、世界貿易センタービルに突っ込むつもりだ!」

とまで書かれていたのだ。

以下に、
ロウリー氏の告発書簡の一部を紹介する、

「運が良ければ、
9月11日以前に、
飛行学校にいた一人以上のテロリストを発見できた可能性がありました。
テロを防げたかどうかは分かりませんが、
少なくとも…
9月11日の人命の損失を小さく抑えるチャンスはあった筈です」

だが、
これらのテロ事前情報が、
同時テロを防ぐために生かされる事はなかったのだ。

元FBI特別捜査官のスミス氏は…       

「ミネアポリスからFBI本部に届いた情報は驚くべき内容で、
通常のものとは全く違っていました。
しかし、
“分析に余計な時間をかけるな”…というのが
事件が発生してから行動を起こす事に慣れていた
FBIテロ対策本部の考え方だったのです。
つまり、
テロを未然に防ぐ努力が足らなかったのです。

さらに、
もう一つの要因があります。
これは捜査当局に共通する問題点で、
多分、日本の警察庁も同じ問題を抱えていると思います。

それは、
全国規模の捜査組織は、
どうしても大きな支部からの情報を優先してしまうのです。

つまりFBI本部では、
"ミネアポリスの現場の捜査官に何が分かるんだ!"
と感じていた部分があると思います。
テロ対策タスクフォースが設置されているニューヨーク支局や、
海外テロ関係の捜査経験が豊富な
ワシントンDCの捜査官から上がった情報ではなかったので、
"ミネアポリスやフェニックスで燻っているような素人に何が分かるんだ!"
という気持ちがFBI本部にはあったと思います」


それでは
ホワイトハウスやCIAの方はどうだったのか?



ホワイトハウス
[photo: noa iimura]



ブッシュ大統領は、
“同時テロに関する事前情報は一切なかった”
という立場を一貫して取っていた。
しかし、
これがウソだった事が連邦議会の調査で明らかになったのだ。
                    
2001年8月6日、ブッシュ大統領は、
「ビンラディンが、アメリカ国内でハイジャックを計画している」
との報告をCIAから受けていたのだ。

この件に関して、
ライス大統領補佐官(当時)は以下のように弁明した。


「アルカイダが飛行機を何機も乗っ取って、
それをミサイル代わりにして、
世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むなんて、
だれも予想できなかったと思います。
大統領への報告は、従来型ハイジャックについてでした」


しかし、
もしそれが本当だとしたら、
“それこそ由々しき問題だ”と
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は憤る。

「彼女(ライス大補佐官)は間違っている。
9月11日のテロの前兆となる、
ハイジャックした民間航空機で建造物に突入するというテロ計画は、
以前、実際に計画されていたのだから」

CIAテロ対策センターの元上級分析官のベドリントン氏も…

「ボジンカ計画と呼ばれるテロ計画があった。
1995年に、この計画が発覚したのは、全くの偶然だったが…」


9.11テロの6年前の1995年
CIAやFBIは既に、
アルカイダ一派が、
航空機を使った自爆テロ計画を持っているという事実を掴んでいたのだ。


暗号名・ボジンカ
いったい、どんな計画だったのか?



航空機
[photo:kazuhiko iimura]



1995年2月、
一人の男がフィリピンからニューヨークへ空路、移送されてきた。
男の名はラムジ・ヨセフ (注:ラムジ・ユセフとも表記される)

ヨセフは、
マンハッタン上空から世界貿易センタービルを眺めながら、
FBI捜査官の問い掛けにこう答えた。

FBI捜査官:「見ろ、世界貿易センターはちゃんと立ってる」
ヨセフ:「もっと金と爆薬があったら倒すのは簡単だった」

実はこのラムジ・ヨセフこそが、
1995年のボジンカ計画の首謀者であり、
また、
その2年前の1993年に発生した、
最初の 世界貿易センタービル爆破事件 の犯人でもあった。


では、
問題のボジンカ計画とは、
どんなテロ計画だったのだろうか。
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ラムジ・ヨセフは、
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで極東に運行しているアメリカの民間機を含む、
数機の民間旅客機を同時爆破する計画でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります」

アジア、アメリカ間を飛ぶ
11機の旅客機を狙った同時爆破テロ。

しかもそのほとんどが、
9.11テロと同じように、
アメリカン航空やユナイテッド航空など、
アメリカの旅客機を狙ったものだった。

【9.11テロ取材ノートより】


手向けられた花1
[photo: noa iimura]


(飯村和彦)


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2011年09月04日

再考9.11テロ・実行犯たちの足跡(フロリダ)



雨雲1
(photo:kazuhiko iimura)



【テロ実行犯、モハメド・アタという人物について】

農薬散布セスナ機会社
ジェームス・レスター氏インタビュー


Q: あなたのところにテロリストが来たのはいつですか?

2001年の2月です。


Q: それは誰だったか覚えていますか?顔を覚えていますか?

私が覚えていたのは、モハメド・アタです。
彼は、私に、飛行機についての質問をしていました。
そして、操縦席に座りたがっていましたが、
私はそれを断りました。
その時私は飛行機の作業をしていましたから。

アタと一緒に二人の男が居ました。
しかし私は彼らを覚えていません。
彼らには注意を払っていませんでした。

私がアタを覚えているのは、
彼が私に付きまとい、
何とかして飛行機の中に入ろうとしていたからです。


Q: あなたのところに彼らが来たとき、
飛行機を見に来る他の人と比べて、何か違ったところはありましたか?


彼らに怪しいところはありませんでした。
彼の質問も、大して気にしませんでした。


Q: 彼が特にこだわっていたことはありましたか?

アタは飛行機の最高搭載量を知りたがっていました。
どれぐらい搭載できるのかを。
どれくらいの「燃料」をつめるのかを知りたがっていました。

そして、どうやって飛行機のエンジンをかけるのかを知りたがっていました。
どのようにしてエンジンをかけるのかを。
ただし、私は、彼にそのようなことを教えることは断りました。

私がアタにいったのは、
彼の見ていた飛行機には500ガロンの馬力があるということだけです。
飛行機の横には、それと分かる数字が記してありますから。

(搭載できる燃料は)飛行機によって違います。
450ガロン、600ガロン、800ガロンのものもあります。

彼はどれぐらいの燃料がつめるのかを知りたがっていました。
どれぐらいの重さまで、搭載できるのかを。


Q: モハメド・アタが、どのような人だったか覚えていますか?

そうですね…
アタは、とっても活動的なタイプに思えました。
英語も上手でした。
でも、彼は嫌なタイプの男です。
態度は…、彼の態度に問題がありました。
本当に彼の態度には問題がありました。

他の二人の男たちとはは話しをしていません。
だからなにも覚えていません。


Q: 9月11日テロの後、いつ、あなたが話をした男が実行犯だと気づきましたか?

FBIが来たときです。


Q: いつFBIが来ましたか?

事件のあった次の火曜日(=1週間後の9月18日)です。
私に写真を見せて、彼らを覚えているかどうか聞きました。
アルバムの2ページをめくると、
多くの男の中、一人の男の写真が私の目を引きました。
私は彼を知っていましたから。
それがアタでした。


Q: FBIは多くの写真を持っていたのですか?

はい。
多くの男たちの写真がアルバムにはありました。
そして、2ページ目には10人…10枚の写真がありました。
彼はその中の2番目でした。
そして私は言いました。「この男はここに来たことがある」
モハメド・アタです。


Q: そのアルバムに全部で何枚の写真があったか覚えていますか?

はっきりとは覚えていません。
それぞれのページに10枚の写真があったように思います。
それが10-12ページあったかもしれません。
それ以上かもしれません。


Q: モハメド・アタが9月11日に関係しているとわかったとき、
どのように感じましたか?


とっても嫌な感じ(感覚)ですね。
ジェットコースターに乗っていて、
落ちていくとき、全てが落ちるような気がしますよね。
わかりますか?
そして…何もできる事はありません。


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【フロリダのモーテルに住んでいた実行犯たち】

モーテル経営者
リチャード・サルマ氏インタビュー


Q: このモーテルには何人のテロ実行犯が住んでいましたか?

全部で5人が住んでいた。二人が尋ねてきていたので、7人です。
そして、アタは彼らを毎日訪ねてきました。
また、(名前は分からないが)もう一人の男も、
毎日彼らのところにきていました。


Q: いつの事だか覚えていますか?

2001年の8月から9月です。
最初のグループは少し早く来ていて、
次のグループが後からきて、9月9日までいました。

彼らはここを出るとき、
部屋に多くのマニュアル(教科書・指導書)などを置き捨てていきました。
飛行機の操縦法やカンフーなどの格闘技の本。
多くの地図、手書きの書類。
コンパス、燃料テスター、ナイフなどです。

私はそれら全てを部屋から引き上げてきたのですが、
必要ないから捨てろと妻がいったので、多くのものは捨ててしまいました。
でもいくつかは手元に残して置いたので、
事件の後、FBIに渡しました。


Q: 彼らは代金を支払いましたか?

はい。
キャッシュで払いました。何の問題も無く。
彼らは感じが良かったし、部屋をきれいに使ったし、
行動(態度)も感じが良かった。
何の問題もありませんでした。


Q: もう少し具体的に、どのような人たちでした?

彼らを見ていると若い留学生のようでした。
または、若いビジネスマンですね。
とても身奇麗で、言葉(英語)も良くわかっていた。
大変勉強していたように思えました。

マナーも良かった。
とても頭がよさそうだった。
彼らは理想的だった。
ここに泊まってもらう客の“理想的なタイプ”でした。
静かだったし。

だから、
FBIが写真を持ってきたとき、私は信じられませんでした。
全員そこに居ました。
そのほとんどがこのモーテルに居ました。


Q: あなたは全員を覚えていたのですね。

はい。


Q: テロ実行犯たちは、ここでどことんなをしていたのでしょう?

よく出たり入ったりしていました。
リビングの真中にテーブルを置いて、
その上には会議のように、いろいろなものが載せて、話をしていました。
そして、1時間ぐらい立つと、皆でどこかに出かける。
毎日その繰り返しのようでした。

いつも会議。
私にはわかりません。
彼らはビジネスでもしているのだろうと思いました。
それか学生?
私は彼らの邪魔をしなかったし、彼らも他の人の邪魔をしなかった。
怪しいところはなかったです。


Q: 壁に何かを掛けたりしていましたか?

部屋には絵画を掛けてあったのですが、
海辺の砂で遊んでいる小さな女の子の絵と、
肩をのぞかせたドレス姿の女性の絵ですが、
彼らはその絵にタオルをかけて、完全に隠していました。
女性の体を見る事を好まなかったようです。
私が部屋の中を見たときに変だなと思ったのは、そのことだけです。


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【態度が悪かった航空学校でのモハメド・アタ】

ホフマン航空学校
デュリル・デッカー氏インタビュー


Q: テロ・グループの誰がここにくていたのですか?

世界貿易センターに激突した2人のテロリスト、
モハメド・アタとマルワン・アルシェヒがここに来ました。
2000年の7月1日です。
航空学校について、
費用やコース完了までの時間など、色々な情報を聞きたがりました。
だから、
われわれは情報を与え、彼らは「考える」といってかえりました。

すると、
(二日後の)7月3日に戻ってきて、
飛行訓練に参加したいといいました。


Q: どのようなコースですか? それとも一回限りもの?

アタはここに来るまでに既に飛行訓練の経験があり、
ここでさらに訓練を重ねましたが、
アルシェヒのほうは数時間しか飛んでいませんでいた。

当然のことですが、(規定どおりの)訓練の後には、
民間機用ライセンス、
夜間飛行や曇りの時飛行できるインスタメントのライセンス、
マルチエンジン用ライセンスを与えました。

世界中のリポーターから、
それで大型のボーイング機をビルの激突させるにに十分なのかと訊かれますが…

彼らは小型機のライセンスは持っています。
だから(小型機の)操縦はできるし、離着陸はできるでしょう。
コースは終了していたし、彼らはあらゆる操縦を習ったからです。

でもその免許では大型機の飛行はできません。しかし、「操縦」はできます。
車の普通免許で大型トラックの運転ができるかと訊かれたら、
おそらくできるでしょう。
しかし、大型トラックをバックさせたり、
駐車させたりできるかといえば、できないでしょう。

連中は、フライトシュミレータで大型機の操縦を習得しましたが、
離着陸はできない。
操縦しかできないでしょう。

あなたや私が飛行機を操縦するとき、
小型機のライセンスで大型機が操縦できるかと訊かれたら、答えはノーです。
なぜなら私たちは、生きて家族の所へ帰りたいからです。
しかし、連中のゴールは違っていた。
連中は大虐殺を意図し、自殺行為だと分かっていた。
自分たちが戻ると思っていなかったし、
(操縦以外)は、どうでもよかったのです。


Q: 操縦を習得するのにどれくらいの期間が必要ですか?

2000年の7月に、彼らが学生として来た時には、
操縦方法を教えただけではなく、
FAAのパイロットライセンスを習得しなければならなかった。
そのため、3回の飛行は必要だったし、
天候について学ばなければならないし、
機体について全て学ばなければなりませんでした。

何故プロペラが回るのかとか、
あらゆることを学ばなければなりませんでした。

離着陸の方法も学ばなければならないし、
ハンドル操作など全てを学ばなければなりませんでした。


Q: FAAからライセンスをもらうには、一般的にどれ位の期間が必要ですか?

まっさらな状態から民間機のパイロットになると考えてみましょう。
連中は民間機のパイロットになろうとしたのですから。
5カ月から6カ月かかるでしょう。
彼らもそれだけの期間がかかっています。
彼らがここを離れたのは、2001年の1月でしたから。
ですから、5ヶ月から6ヶ月間です。
普通ですね。


Q: 費用は?

通常は18000〜19000ドルかかります。
アタは、
2週間ごとに、現金ではなく、某信託銀行の小切手で支払っていました。


Q: 彼らがここにいた時、講師と口論があったとか聞いていますが?

アタと、アルシェヒが2000年7月に来た時、2人とも…。
特にアタは傲慢な性格でした。
一緒に話しても楽しい性格ではなく、
講師が1カ月で、「指導に従わない」と不満をもらしました。
アタは特に態度が悪かった。

アタは自分が他人よりずっと優れていると思っているふしがあり、
傲慢で、自分が親分だと思っていたのでしょう。


Q: 何のために免許を取得するのか、目的についてはどう話していた?

「キャプテンになりたい。
祖国のサウジアラビアでパイロットの仕事のオファーがあるから。」と。

私がアタに、
「アルシェヒは23歳だから航空業界に職を得たいのは分かるが、
君は34歳か36歳になっているだろう?
仕事を始めるには少し年齢がいっているのでは?」というと、彼は、
「わかっているけれど、ずっと勉強してきたし、
飛ぶのは好きだし、自由に感じるし、いい仕事を手に入れたい。」
と話していた。

けれども、
とにかく、アタは態度が悪かった。
いつでも女性やその他の人に、自分が上だと示そうとしていました。
嫌だね。
分かるだろう? 彼は独特な人間で、皆が嫌っていました。
特に女性の従業員は大いに嫌っていた。


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【瞬時に相手をたおす格闘技を学んでいた実行犯】

格闘技ジム指導者
バート・ロドリゲス氏インタビュー


Q: テロ実行犯だったジャラヒが、
ジムで格闘技の授業を取っていたそうですが、どのようなもの?


警察やDEAや軍のものと同じ、
ハンド&ハンド・コンバットの授業でした。
ジャラヒはすぐれた生徒で熱心だったのですぐに修得し、
4カ月半で個人授業ができる(=人に教えられる)レベルになりました。


Q: いつか覚えていますか?

2001年の5月から8月の半ばでした。


Q: (ジャラヒの顔写真を見せながら)この人物が誰か分かりますが?

ええ、ジアド・ジャラヒです。
激しい性格でしたが、礼儀正しい人物でした。
いつも微笑んでいて、
練習中はいつも熱心で、身体の状態もよかった。
遅刻はなく、必要があれば常に練習をしていました。
人前に出るのもいとわなかった。
しかし、
自分の目的について何も言いませんでした。

彼はビジネスマンだと称していたし、ドイツなまりがありました。
私より肌の色は明るかったので、
中近東の人間には見えませんでした。


Q: いつも一人でしたか? それとも複数ですか?

4〜5人で、
このあたり(フロリダ・フォートローダーデール近く)に住んでいましたが、
目立ちたくなかったのか、
ジャラヒ1人が訓練を受けにきました。

私たちは、互いを傷つけないようにしながら、
友人と練習することを薦めていましたが、
ジャラヒは、なんどか友人と上手く練習ができなかったといっていました。

“友人を連れてくれば、グループ・レート(団体割引)で教えてあげるよ“
といったら、
「彼らは遊びに来ているだけだ。」といって断りました。


Q: 具体的にはどのような事を教えるのですか?

基本的には抑制手段のためで、
監獄の警備員や警官や軍隊で、
誰かをすぐに押さえたい時に使うものです。

特に、相手の身体をコントロールする方法で、
競争やスポーツやボクシングのためではなく、
相手を即押さえつけるための手段です。

足について言えば、足のどこが弱いのか、
その弱いところを、棒で殴ったり、足で蹴ったりできる。
ナイフで切りつけることもできるし、
どのようなダメージを与えたいかによって変わります。

相手をコントロールするには、誰かを制止するため殴り倒すか、
首の骨を折るか、などで、
その場で何が必要なのかによって違ってきます。

軍隊の人間などに、実戦で使えるのを目的に教えているので、
実戦に即して教えています。
古典的あるいは伝統的な形式にのっとったものではありません。
実戦技術を練習するのです。
直ぐに覚えられ、実戦で何度も使えるので、
短期間で自分のものになります。

また、いまにして思えば不注意だったかもしれませんが、
小さなナイフの使い方も教えていました。
小さなナイフは非常に効果的なのです。

誰かが手を出してきたら、ひじの先を殴って痛い目にあわせるか、
杖で殴って、腕を麻痺させるか、
腱を切って、腕を完全に使えなくさせるか、です。

自分が相手より小さい場合、あるいは、相手が複数の場合、
腱や靭帯や血管を切りつけるのが一番効果的だと教えていました。
そうすれば敵の数を少なくできる。

それを、ジャラヒは練習して習得したのです。
そしてその技を、グループのメンバーに教えたのです。

彼はとても訓練されているように見えたので、
なにかやった経験があるのか訊きました。
彼は、
「サッカーをやっていたから、身体ができている。」といっていました。
練習熱心だったし、ケガをしても不満はもらしませんでした。


Q: ジャラヒやグループのほかのメンバーはどんなタイプ?

彼らは、グループで、パイロットになりたいと学校に行っていました。
ジャラヒは、ビジネスマンだと思っていた。
勉強するつもりだといっていたし、
ドイツの学校で航空エンジニアの学位をとったといっていた。
知的だったし、彼には敬意を払っていた。
英語もうまかった。

パイロットになるための訓練と同じように、
自分たちのミッションを効果的に実行するため、
その準備に、このジムにきたのでしょう。

われわれ全員がその助けをしてしまった訳ですが、
民主主義の社会では、
自由がたっぷりありますから…。

【以上、9.11取材ノートより】

(飯村和彦)


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2011年09月03日

再考9.11テロ・元FBI副長官の視点


元FBI副長官、
オリバー・レベル氏インタビュー


Q:9.11テロの前、
イスラム過激派ネットワークの、アメリカ国内での状況はどうだったのか?

イスラム過激派のネットワークがアメリカ全土に拡大中で、
アメリカに対する破壊活動の準備を国内で続け、新しいメンバーを募り、資金を集め、
アメリカ国内で軍事演習さえおこなっているのに、
アメリカ社会はそれを殆ど無視している状態でした。
明らかに将来大きな脅威となる存在でした。

ハマス、ヒズボラ、パレスチナのイスラム教過激派組織『ジハード』、
そしてアルカイダは、
全て、アメリカ国内に支援組織を持っています。




911
(photo:kazuhiko iimura)



ビンラディンの元秘書だった男も、
アルカイダを脱退後はアメリカに来て、
テキサス州アーリントンに住んでいました。
少なくとも表面的には「脱退した」といっていましたが…。

テロ組織の多くがアメリカで活動資金を集めています。
ドキュメンタリーやビデオを制作し、書籍を出版し、
新しいメンバーの募集と訓練など、
さまざまな活動をアメリカで行っています。
アメリカで行っていないのは、
実際にテロ事件を起こすことだけだといえるでしょう。

つまり、
アメリカ国内にはすでに、
イスラム過激派組織のネットワークが広がっていたのに、
9月11日の事件が起こるまでは、
全く手付かずの状態で放置されていたのです。


Q:1995年に発覚、阻止された「ボジンカ計画」とは?

テロの手口は、
アメリカに向かうアメリカの航空会社の大型旅客機に
爆薬を持ち込むというものでした。
そのために、アメリカに向かう旅客機への、
あらゆる種類の「液体」の持ち込みが禁止されました。
そして非常に念入りな捜査が続けられました。

(フィリピンのアジトで)押収された証拠品のなかには、
クリントン大統領暗殺計画や、
アメリカにある建造物破壊計画を示すものがあったからです。

そのためにFBIとCIAに直ちに連絡が行き、
FBIとCIAはフィリピン捜査当局と協力して、
『ボジンカ計画』の首謀者の割り出し、
テロの対象、
そしてテロ組織とフィリピンの関係を見つけるため、捜査をしたのです。

フィリピンにはイスラム過激派組織があるので、
現地の治安当局はアブサヤフや、
その類の過激派組織のテロ計画への関与をとても恐れていました。
当時、アルカイダは知られていませんでしたから。

しかし、「ボジンカ計画」の首謀者を割り出していく過程で、
一人の男が、
1993年のWTCビル爆破事件にも関わっていたことが明らかになりました。
ラムジ・ヨセフです。
ヨセフが、この2件のテロ計画に関わっていたことが判明したのです。

そしてアメリカの諜報機関とFBIは、
一連のテロ計画は「ヨセフ・ネットワーク」によるものと判断し、
この組織の全貌の解明に全力を注ぐことになりました。
ただ当時はまだ、
ビンラディンがこのネットワークの黒幕だということは分かりませんでした。

ただし、
1993年のWTCビル爆破事件、
あるいは11〜12機の大型航空機をハイジャックして、
アメリカ本土の建物に衝突させることが計画されていた「ボジンカ計画」の、
計画・実行グループの背後には、
もっと大きな組織の存在があることは、わかっていました。

ネットワークに参加しているテロリストの数の割り出しや、
フィリピンのイスラム過激派との関連の有無、
特に、アブサヤフとの関係の有無の調査が続いていました。

無論、
この「ヨセフ・ネットワーク」の捜査は、
フィリピンだけでは終わりませんでした。
シンガポール、ソウル、東京、香港などのアジアの都市も、
このテロ計画に含まれていたので、
まだわかっていない「ヨセフ・ネットワーク」の構成員を見つけるために、
東アジア一帯で綿密な捜査が行われたのです。

そして「ヨセフ・ネットワーク」が、
過去において複数の反米テロを成功させた、
より大きなテロ組織とつながっていることが判明しました。


Q: ハリド・シェイク・モハメドについての認識はどうだったのか?

当初我々は、
ハリド・シェイク・モハメドは、
ラムジ・ヨセフの支援者だと考えていました。
ラムジ・ヨセフは最初のWTCビル爆破事件の首謀者であり、
フィリピンで発覚したボジンカ計画でも首謀者だと考えられていました。
そしてハリド・シェイク・モハメドは、
その支援者に過ぎないと思われていたのです

ところが、情報が集まるにつれ、
ハリド・シェイク・モハメドがボジンカ計画のリーダーで、
ビンラディンの副官・アルカイダ幹部であることが明らかになりました。
さらに、
1993年のWTCビル爆破事件にも直接関与していたことも判明しました。

WTC(ワールドトレードセンター)ビル爆破事件が、
計画通りの結果をおさめることが出来なかったために、
テログループは、
爆破したビルで隣のビルも崩壊させ、
何千人もの死者を出すことを計画していたのですが、
実際は千人を超えるけが人は出たものの、死者は6名でした。

ハリド・シェイク・モハメドは、
9月11日の同時多発テロのターゲットの一つに再度WTCビルを選び、
失敗に終わった1993年のテロ計画を完成させようとしたのです。


Q:ビンラディンと9.11テロの関係は?

1998年の『ファトワ』(宗教布告)が、
ビンラディンが発表した最初の公式メッセージです。

ただし、
アルカイダとアメリカの戦いは、1993年以来ずっと続いていました。
厳密にいえば、
1979年にホメイニ師がイランに帰国し、
イラン・イスラム共和国を作り、
「アメリカは悪魔だ」と公表した時に始まっていたといえるでしょう。

その後、人質事件が起こり、
ベイルートと南レバノンの攻撃に続き、
ヒズボラは反米テロをその他の地域でも繰り広げていきました。

アルカイダは、
イランの反米テロ組織とは直接関係ありませんが、
革命軍を率いたホメイニ師が唱えたイスラム過激派の教義を、
その活動のよりどころにしています。
つまり、
アルカイダはその存在がみんなに知られるずっと以前から、
活動を続けていました。

1998年の『ファトワ』は、
「アルカイダはこれからも反米テロを激化させていく」
というビンラディンによる声明の発表でした。
アルカイダの最終目的は、アメリカを滅ぼすことにあり、
自分達の行為の正当化や、
パレスチナ国家の成立等を狙ったものではありません。

アルカイダは、
アメリカ文化、哲学、そして、
アメリカという国の存在自体を否定しているのです。
自分達が「イスラムの土地(Islamic homeland)」と見なす土地に、
米国とその同盟国のプレゼンスがあるだけでもアルカイダは許せないのです。
歩み寄りの余地は全くありません。

アルカイダ以前のテロ組織もテロ事件を起こしていましたが、
世論を完全に敵にまわすことを恐れ、
ある程度、手加減をしていました。
ところが、
世論を全く気にしないアルカイダは、
アメリカを滅ぼしたい一心で行動しています。

アルカイダにとっては、
アメリカを滅ぼすことが神(アッラー)の意志を実行することなので、
可能な限り多くのアメリカ人を殺すことが、
神(アッラー)に与えられた使命であり、
それにより神の祝福を受けることができるのです。

大量殺人を犯すことが、
全能の神の意志に報いることだと信じている組織と戦うのは、
実に困難です。
しかし、
ビンラディンはそう説いています。
「機会があれば、いつ、どこであれ、アメリカ人を殺すこと。
それが正しいイスラム教徒の使命だ」
と、彼は説いているのです。

このような宣戦布告がなされているのに、
アメリカは何の対応策もとらずにいたのです。

ほとんどの人が、
「単なる過激派のアジ宣伝に過ぎない」と考えていましたが、
一部の専門家は危機感を高めていました。
しかし、そんな専門家の意見は、
人騒がせなデマだと、一蹴されました。

当時の世論の関心は、
ニューヨークの法廷で繰り広げられていた
「O.J.シンプソンの裁判」の行方に集まり、
テロリストが何を考えているかなど構っていられない状態でした。
そのために、多くの人命が失われることになったのです。
政治家、特に下院議員はこの問題に無関心でした。


Q: FBIのテロリスト捜査に関しては?

1997年10月に、
私は初の国際テロリスト捜査作戦を指揮し、
レバノンでアメリカ人を人質に取ったハイジャック犯を、
キプロス沖で逮捕しました。

これは国際社会のテロ撲滅の強い意志と、能力を示すものでした。

1997年にアメリカの国内法に、
『犯罪捜査の延長』に関する条項が加えられたことにより(long-arm statue)、
海外におけるテロリスト捜査への参加が可能になりました。

そして我々は、
「アメリカ人を対象にしたテロの首謀者を、世界中を探して捕まえる」
という断固とした意志と捜査能力を示したのです。
従って、
1998年のビンラディンの『ファトワ』(宗教布告)で、
捜査方針・流れが変わることはありませんでした。
むしろ、『ファトワ』(宗教布告)のおかげで、
諜報機関が発する反米テロに対する警告を信じなかった人たちに、
「大掛かりな反米テロの危機は実際に存在し、
アメリカを滅ぼすことを最終目標にしているアルカイダとの歩み寄りは
絶対にあり得ない」
という事実を知らせることになったのです。


Q:CIAがテロ実行犯の一部に対して9.11以前から監視活動をしていた事実と、
それにもかかわらず、彼らがテロを防げなかった理由は?


CIAは実際に自爆テロ実行犯の何人かに関する情報は持っていました。
もちろん、逮捕状も、物的証拠もありませんでしたが、
CIAは明らかに何人かを追跡し、
そして少なくとも2名の自爆テロ実行犯に関しては、
移民帰化局(INS)に報告をまわし、
『容疑者リスト』に載せて、
行動を監視するように警告(2001年8月23日)しています。

ビンラディンとの繋がりが確認されている者、
そしてアルカイダメンバーであることが確認されている者は、
CIAの「容疑者リスト」に載っていて、
行動を監視され、
所属する会社・組織が洗い出され、
それぞれの行動に関する諜報活動が行われていたはずです。

当時FBIは、
バーレーンの米軍宿舎・コバールタワー爆破テロ、
ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破テロ、
USSコール爆破テロなど、
海外でのテロ事件の捜査を継続中でしたから、
アルカイダに繋がりのある者は、
絶対にFBIの興味と捜査の対象になったはずです。

つまり、
1993年のWTCビル爆破事件や1995年の(ボジンカ)計画にまでさかのぼる、
「一連の反米テロ事件に関する諜報データ、
そして諜報データに基づく物的証拠を可能な限り集めるように」
と、アメリカ政府は強調していました。

従ってCIAは、
当然、一連の反米テロ事件に関係があるテロリストには、
特別な関心を持っていたはずです。

しかし、国籍も様々で、沢山の偽名を使い、
テロ支援国家の諜報組織からの援助で、
新しい身分証明書まで入手することが可能で、
世界中を移動する容疑者を追跡するのは非常に大変でした。

潜伏中のラムジ・ヨセフの実名が確認できるまでには、
長い時間が必要でした
またラムジ・ヨセフは、
彼の本当の名前ではない可能性だってまだ残っているのです!

捜査陣と、諜報機関による、
各容疑者の実名、所属する組織、そして潜伏先を割り出す作業は、
難航を極めました。

アルカイダは世界のテロ組織の頂点に君臨する組織ではなく、
アルカイダの主導者とその目的と行動哲学を同じくするテロ組織を支援する、
テロ支援ネットワークなのです。


Q:CIAからFBIへの情報伝達が遅すぎたとの批判が多いが?

自爆テロ実行犯に関する情報を事前に入手していたCIAは、
彼等がアメリカへの入国を計画していることを確認すると、
その情報をINSに提供しました。
しかし、情報がINSに渡った時には、
すでに容疑者(自爆テロ実行犯)はアメリカに入国をした後だったので、
FBIに下駄を預ける形になったのです。

そのために、
FBIがこれらの容疑者達(自爆テロ実行犯)の居所を探している最中に、
9月11日のテロが起こったのです。

ただ逮捕状はありませんでしたから、
「アメリカで何をしているのか?」とか、
「誰と連絡をとっているのか?」等の、諜報活動が目的でした。

FBIの捜査官達は、
自分達の捜査対象がこれからおこるテロ計画に直接関与しているとは、
夢にも思っていませんでした。

アルカイダとの繋がりがあるという理由で、
FBIにはINSから、そしてINSはCIAから、
『追跡調査が必要!』
という、警告が届いていたのですが、
その時すでに、自爆テロ実行犯はアメリカへの入国を果たしていました。

もし、
自爆テロ実行犯がアメリカへの入国を果たす前に、
捜査当局から連邦航空局(FAA)および、全ての航空会社に、
自爆テロ実行犯の名簿が送られていたら、
自爆テロ実行犯は飛行機に乗ることが出来なかったと思います。

自爆テロ実行犯は実名を使って渡米を企んでいました。
ですから、各航空会社に、
自爆テロ実行犯の名簿が送られていたら、
搭乗の前にチェックを受けることになったはずです。

しかしながら、
自爆テロ実行犯達は、
実名で正規の航空券を買い、
持ち込みを禁じられているような武器は
一切もたずにアメリカにやって来ました。

ですから、
航空会社に自爆テロ実行犯の名簿が事前に送られていても、
「彼等の搭乗を禁止すること可能であったか?」
という疑問は残ります。

もちろん、
現在であれば、絶対に搭乗は出来ません。
しかし9月11日以前は、
逮捕状が出ているとか、
揺るぎない物証が上がっているとかの場合でなければ、
単に外国のテロ組織のメンバーであるかもしれないという理由だけでは、
搭乗を禁止することが難しかったかもしれません。

つまり、必要な情報が、それを必要としている人に、
すみやかに渡るような包括的システムがなかったのです。
また、
当時空港で入国審査にあたっていたのは、
政府の役人ではなく、
航空会社に雇われた民間人だったという問題もあります。

システム全体に問題が多すぎたため、
自爆テロ実行犯が、
アメリカ行きの飛行機に搭乗するのをとめるだけの情報が、
関係者の元に届いていなかったのです。

CIAがISNに連絡した2人の自爆テロ実行犯、
「ナワフ・アル・ハズミ」と「ハリド・アルミダ」に関しては、
INSが、
入管法違反容疑で2人を拘束することは可能であったと思います。
つまり、
入国管理当局に提出された情報に誤りの記載があったのではないか?
という疑いです。

この2人に関しては、
INSが拘束することが可能だったと考えます。

しかし、
FBIにはあの時点で2人を拘束する権限がありませんでした。
2人はFBIによる拘束の対象になりうるような犯罪を、
アメリカ国内で犯していなかったからです。
でもINSが2人を拘束し、国外退去処分をすることは可能でした。


けれども、
2人を逮捕することは出来ません。
2人は入国の際に実名を使っていましたし、
アメリカの友好国の出身ですから、逮捕される理由がなかったのです。
従ってどんなに頑張っても、
2人を拘留し、国外退去させる以上のことは出来なかったでしょう。

自爆テロ実行犯は全て、
アメリカの友好国の出身者で、
アメリカが『テロ支援国家』と見なした国の出身者ではありません。
このことが捜査当局のジレンマになりました。

アラブ系だとか、イスラム教徒だからという理由だけで、
中東出身者や、アフガン人、パキスタン人を、
アメリカを訪れる他の外国人とは差別して扱っていいのか?
という問題が生じたからです。
9月11日以前には、これは全く許されないこととされていました。

これは、アメリカの友好国出身である限り、
外国人が、
アメリカで飛行学校に通う事を禁止することが出来なかったのと同じ論理です。
有料の飛行訓練のほとんどがアメリカで行われているからです。

アメリカはこの問題の扱いに頭を悩ませていました。
法律的に何の問題もない外国人の入国を拒否して、
アメリカを『要塞化』することは絶対に避けなければなりませんでした。
また、観光は国にとってはとても大切です。
アメリカは、
より多くの外国人にアメリカを訪れて貰い、
アメリカ社会、文化、生活様式に対する理解を深めてほしいと思っています。

しかし、
自由でオープンな社会を作ろうと努力している
アメリカ市民の努力を利用して、
アメリカ社会に紛れ込み、
史上前例のない残忍で、大規模反米テロを計画し、
実行したテロ組織があったのです。
まさにジレンマです。

自爆テロ実行犯は、
十分に訓練を受け、
強い自制心と、堅い信念を持ち、
アメリカ社会の仕組みとその脆弱性を知り尽くしていました。

アメリカ政府はテロが起こることを予見していました。
アメリカに対するテロは、常に起こっていたからです。

また、
アメリカ本土でテロが起こることも予期していました。
国境超えて侵入しLA空港を狙う等のテロ計画があったからです。
しかし、実際のテロが、
9月11日のような形をとることだけは予期することができませんでした。

そして、
9月11日のようなテロに対する対処法も用意されていませんでした。
断片的なテロ関連情報を、
捜査当局がつなぎ合わせることが出来ていたとしても、
9月11日の同時多発テロを事前に防止できるような、
包括的なテロ対策を打ち出すことは不可能だったと思います。

テロ対策に40年関わってきた私が、
9月11日の同時多発テロを客観的に振り返る場合、
「こうするべきだったのに、それがされていなかった!」的な、
捜査当局のあら探しをすることはできません。

3人の元CIA長官に、
「現在一般に知られている情報だけで、
9月11日の同時多発テロを未然に防ぐことは可能でしたか?」
という質問をしたところ、
全員が「不可能だった」と答えました。

同じ質問を、
国防(総省)情報局(DIA)の元長官にぶつけてみましたが、
答は同じでした。

ちょうど1000枚のチップから出来ているジグソーパズルの完成図を、
4枚のチップから想像することが不可能なのと同じです。
4枚のチップを机にならべただけで、
ジグソーパズルの完成図を想像することができるでしょうか?

いいえ、少なくとも3分の1が完成して初めて、
完成図の輪郭がうっすらと分かるくらいで、
細部のデザインに関してはほとんどわかりません。


Q:アリゾナの「フェニックスメモ」や、
ムサウイ被告に関する「ロウリー捜査官のメモ」など、
確度の高いテロ情報が事前にあったのに、その情報を有効に生かせなかったのでは?


アリゾナの飛行訓練学校に通っている中東出身者の存在を報告した、
フェニックスのFBI捜査官のメモの存在が大きく扱われていますが、
中東出身者がアメリカで飛行訓練学校に通うというのは、
よく知られた事象でした。
アメリカの飛行訓練学校には、世界中から生徒がやって来ています。
飛行訓練学校に通っているのが中東出身者だったからといって、
「テロリストの疑いがある」
と決めつけるわけにはいかないのです。

当時、そのような情報だけで、
アメリカの航空訓練学校の生徒の国籍を調べていたら、
「人種によるプロファイリング」
として轟々たる避難を浴びたことでしょう。

また、
ミネソタでムサウイが逮捕された際の容疑は、
パスポートに不実の記載があったとする入管法違反でした。

FBIは直ちにムサウイも取り調べを始めましたが、
当時の外国諜報監視法、
Foreign Intelligence Surveillance Act(FISA)の下で令状がとれるのは、
“容疑者がテロ組織のメンバーである”、
もしくは、
“アメリカの敵国の利益の為に働いている“
という証拠があるときにだけに限られていました。

そして、当時はそのような証拠はありませんでした。
FBIのミネソタ支局がFBI本部に送った、
ムサウイを取り調べるためにFISAの下で令状を取りたいという要請は、
法律によって却下されたのです。

FBIの統括責任者(SUPERVISOR)の裁量によるものではなく、
合法的処置としての却下でした。

当時はまた、
ムサウイはモロッコ系フランス人なので、
彼をフランスに引き渡そうかという考えまであったようです。
フランスは、
アメリカのように基本的人権の問題にこだわりませんから。

そのためにFBI本部は、
ムサウイと彼から押収したコンピューターをフランス捜査当局に引き渡し、
アメリカ政府は法的権限がなくて行いえない調査を、
アメリカにかわってやってもらおうと、本気で考えていたのです。


Q:一方、
ブッシュ大統領が受けていたテロ情報の内容はどの程度のものだったのか?

大統領は毎日、テロの可能性についての報告を受けています。
但し、包括的な報告で、
箇々の例にふれたものではありません。
ビンラディンの『ファトワ』(宗教布告)や、様々なテロ活動により、
アメリカの民間航空機を狙ったテロが起こる可能性が予測されていました。

しかし、
民間航空機は常にテロリストの絶好のターゲットです。
だから空港では常に、
民間としては最大級のセキュリティチェック体勢が敷かれているのです。

結論としては、
「断片的な情報は入手されていたのだから、
それを上手につなぎ合わされていたら、
テロを防ぐ為の包括的な対策がとれていたはずだ」
とする主張は、
あさはかで、偽善的でさえあります。

「断片的な情報を上手につなぎ合わされていたら、
憲法の規制枠のなかで、
テロを防ぐ為の包括的な対策がとれていたらよかったと思いますか?」
という質問にたいしては、
私も「もちろんです」と答えます。

しかし、
「それは可能であったか?」
という問いには、
「可能であったかどうか分からない」
としか答えられません。

脆弱性を持たない民主主義社会は存在しません。
膨大な金と人材をテロ対策に当てているイスラエルにおいても、
国土はあんなに狭いのに、テロを防ぐことは不可能なのです。
国境が全て解放され、
3億人の人が住んでいるアメリカにおいて、
全てのテロ計画を未然に防ぐことは可能だと考えるのは、
余りにも常識がないと思います。

また、「結局政府機関はたよりにならない」的な思考につながり、
社会不安を引き起こす原因になります。

全てのテロ計画を未然に防ぐことは不可能です!

しかし、
全てのテロ計画を未然に防ぐために努めるべきで、
これが我々の目指すできことです。

私はFBI本部で捜査の指揮にあたった10年間をとても誇りに思っています。
私がFBI本部で捜査の指揮にあたった10年間に、
FBIが未然に防いだテロ計画の数は、
実際に起こったテロ事件の数を上回っています。
私がFBIトップだった10年間の最優先課題はテロ対策で、
テロを未然に防ぐための法的な措置は全てとって来たと自負しています。

しかし、
民主国家、警察国家、どのような形態の国家であれ、
テロを実施する日にちと時間、発生場所、破壊の手段等を自由に選べる点で、
テロリストは捜査機関より有利な立場にあります。

つまり、
状況をコントロールしているのはテロリストなのです!

いかなる予防策をも超えたテロ計画を練り上げることが出来るのも、
人間に与えられた才能なのです。
そのために、規模の大小を問わず、
テロリストがテロを起こす機会は、これからもきっとあるでしょう。

特に自爆テロの場合、
大統領暗殺計画をいつも未然に防ぐことが不可能なのと同じように、
自爆テロ実行犯が、
十分に訓練を積み、地域社会に潜り込み、
密かに時間をかけて計画を練り上げ、
地球上を自由に移動しながら計画の準備にあたったテロの場合には、
常にその裏をかいて、未然に防ぐことは不可能です。

日本の暴力団対策も、これによく似ています
日本の警察は、暴力団組織に対する研究を積んでいますが、
それでも暴力団の犯罪を全て未然に防ぐことは出来ないでいます。
アメリカの警察機関もまた、
アメリカのマフィアの犯罪を全て未然に防ぐ事はできません。

マフィアの主要人物と構成員に関する十分な知識があっても、
マフィアは監視網の目を潜り抜け、
捜査の裏をかき、犯罪をおこします。
マフィアよりも組織の締め付けが弱く、
構成員の多くが捜査員に知られておらず、
世界中をターゲットに出来るテロリスト相手の戦いに、
全勝をおさめるのはもっともっと困難です。

つまり結論は、
テロを未然に防ぐことは可能であり、
全てのテロ計画を未然に防ぐための最大の努力を続けることが必要だが、
しかし、
テロを未然に防ぐ包括的な対策など、
民主主義社会ではあり得ないということです。

【以上、9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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2011年09月02日

再考9.11テロ・元FBI特別捜査官の証言(2)


元FBI特別捜査官、
I.C. スミス氏インタビュー(2)


Q:ロウリー捜査官の告発に関してもう少し詳しく伺いたい。 

ロウリー捜査官について、
告発文書を書いたことで、
彼女を責めるつもりは全くありません。




米国旗
(photo:kazuhiko iimura)



【(注)FBIミネアポリス支部の女性捜査官、ロウリー氏は、
13ページに及ぶ告発書簡の中で、
"9月11日のテロ実行犯の一部を、
事前に摘発できた可能性をFBI本部が握り潰した"と訴えた。
具体的には、
テロ計画に関与したとして起訴されたムサウイ被告をめぐるもので、
彼女が、9.11テロ以前に上司に報告したメモには、
"ムサウイは大型航空機を乗っ取って世界貿易センターに突っ込むつもりだ"
とまで記されていた】



Q:ロウリー氏はどうして「告発」という手段にまで訴えたのか?

あのような最終手段に訴えるに至った経過が理解できません。
彼女は特別捜査官だということですが、
支局のアドミ担当だったのか、
その任務の具体的内容がわからないと、
元同僚と話したところでした。

通常FBIでは、○○担当の特別捜査官補とか、
テロ対策主任担当の特別捜査官のように、
任務までつけていうのが普通です。
さらに、
ミネアポリス支部の彼女の上官の役割については、
全く何も触れられていないことも不思議です。

このことだけから推測すると、
ロウリー氏は、
自分の問題を上官には全く知らせずに行動を起こしたか、
報告したが、
全ての上官が取り合わなかったか、
その2つに一つになります。

あれだけ重要な情報を持っていたのに、
ミネアポリス支部の責任者はどうして自分でFBI本部に電話をかけ、
入手した情報の重要さを説明しなかったのか、
私には理解できません。

もしそれが本当であれば、
FBI上層部は全く機能不全を起こしていたという事実の、
さらなる証明になります。

入手した情報の持つ重大性を
上層部が理解できていなかった事実が浮き彫りになるのと同時に、
入手した情報を有効に利用することが出来なかったという
FBIの抱える問題の二重構造が明らかになるのです。


Q:情報の重要性について、FBI本部の理解度が低すぎた?

情報を受け取るFBI本部の者の前知識が足りなかったため、
事の重大さに気付かなかったという問題があるでしょう。
少なくとも彼女のメモは、
FBI本部で『担当者』の元に一旦は送られていますから。

ただし、
9月11日以前のFBI本部のレベルがどの位であったかについては、
私にはわかりません。
しかし『担当者』とされる人たちは、
まわって来た情報の重要さを理解するだけの、
経験と知識に欠けていたように思います。

さらに、
もう一つの要因があります。
これは捜査当局に共通する問題点で、
多分、日本の警察庁も同じ問題を抱えていると思います。

それは、
全国規模の捜査組織は、
どうしても大きな支部からの情報を優先してしまうのです。

例えば、
九州の小さな村から上がって来た情報より、
東京からの情報を警察庁は優先すると思います。
大都市でのテロの方が、重大ですから。

つまりFBI本部では、
『ミネアポリスの現場の捜査官に何が分かるんだ!』
と感じていた部分があると思います。
テロ対策タスクフォースが設置されているニューヨーク支局や、
海外テロ関係の捜査経験が豊富な、
ワシントンDCの捜査官から上がった情報ではなかったので、
『ミネアポリスやフェニックスで燻っているような素人に何が分かるんだ!』
という気持ちがFBI本部にはあったと思います。

FBI捜査官の多くは、
ニューヨーク、ワシントンDC、ロサンゼルスを含む、
4つから5つの大都市の支局に集まっているのです。
そのことが影響していたと、私は確信しています。


Q:だが、そうなると組織として成り立たないのでは?

ワシントンDCにあるFBI本部の仕組みを説明する必要があるでしょう。
FBI本部では、
テロ組織ごとの捜査ユニットが組まれています。
捜査ユニットのトップはユニットチーフで、
その下に複数の統括責任者(SUPERVISOR)がいて、
それぞれ『担当する区間』が割り当てられています。

ミネアポリスからのメモを受け取った統括責任者は多分、
オハマや、セントルイス、カンザスシティ、リトルロック、オクラホマシティ等の、
中西部一体におけるFBI支部の活動を統括していたと思われます。
つまり、
統括責任者のもとには、
ミネアポリスのロウリー氏からのメモ以外にも、
膨大な報告書が日々届いていたのです。

また、
この問題の統括責任者が、
『ボジンカ計画』を聞いたことがなかった可能性もあります。

しかし、
だからといってこの統括責任者だけに責任を負わせるのは酷です。
統括責任者といっても、
FBIが受け取るすべての情報を見ているわけではありませんから。
ユニットチーフ以上のレベルでなければ、
FBIが持つ情報全てにアクセスすることは出来ません。

唯一の例外が『アナリスト/分析官』ですが、
この場合、アナリストはいなかったのです。
つまり問題の統括責任者も、
限られた情報にしかアクセスできなかったために、
フェニックスメモの存在を知らなかった可能性さえ考えられます。

また、
フェニックスメモを受け取った担当者も、
ミネアポリスからのメモの存在は知らなかったでしょう。

FBIにおける、
『縦割り行政』(COMPARTMENTALIZE:区画主義)による弊害です。


Q:さらに、FBIとCIAの間で、情報のやり取りにおいて問題があったというが…

非常に重要度の高い情報を入手したCIAが、
故意に、『これはCIAで保存して、FBIには見せないでおこう』
と決定することは絶対にないと、私は思います。

FBIに情報が回らなかった一番の原因は、
FBIに対して情報を隠匿する意志があったからではなく、
CIAが、
入手した情報も持つ重要性と影響力を
十分に理解していなかったためだと、私は考えます。

フェニックスメモ、ミネアポリスメモ、
そしてボジンカ計画関連情報、
さらにはフランスから提供されたエッフェル塔に旅客機で衝突するテロ計画の情報などが、
全部FBIに揃っていたらば、
FBIは9月11日のテロ以前に、テロ防止に乗り出していたはずです。

まず、
全米にある全ての飛行訓練学校に連絡し、
調査をすることは出来たといわれています。
FBIはこの種の捜査を定期的に行っていますから。

具体的な手順で説明すると、
もし全ての情報が揃っていたら、
FBI本部は、まず『担当地域のガソリンスタンドに連絡し、
最近何か変わったことがないか調べろ』と指令を出します。
指令に従い上官は、
インターネットまたは電話帳を使って担当地区内のガソリンスタンドを全て洗い出し、
FBI捜査官を派遣して調べさせるのです。

これは24時間から36時間あれば出来ることで、
大したことではないのです。
フェニックスメモに書かれていた、
『飛行訓練学校を調査するべきだ』という提言をFBI本部が聞いていたら、
9月11日の同時多発テロ計画を、
事前に瓦解させることが出来たと、私は確信しています。


FBIは、
フェニックスメモ、ミネアポリスメモ、そしてボジンカ計画関連情報、
さらにはフランスから提供された
エッフェル塔に旅客機で衝突するテロ計画に関する情報を持っていた事を
公に認めています。
しかし私は、この4件の他にも、
FBIは、幾つかの情報を持っていたと確信しています。

それらの情報が有効に利用されていたら、
9月11日の同時多発テロ計画を事前に阻止できたはずです。

勿論、
テロ組織が第2計画に打って出た可能性はあります。

自爆テロ実行犯を、
19名あるいは20名だけだったと考えるのは大きな間違いです。
ムサウイが20番目の実行犯だったとする説も、
私には承服できません。
実行犯グループはこの20名以外にもいたと、私は確信しています。

ミレニアム・ボマーの経験から、
テロ組織は西海岸の都市にある建造物を狙っていたことが分かっているからです。
ゴールデンゲートのような世界的に有名な建造物に、
旅客機を衝突させるテロの効果はものすごいものです!
複数の実行犯グループが組織され、
それぞれが、異なった準備レベルにあったのだと思います。

ただ、成功する自信がなかったか、
なんらかの理由で、『テロ実行』命令が下りなかったのでしょう。


Q:テロ情報に対する分析は?

テロ対策センターでは、分析機関が完全に独立しているので、
分析官の独立性が確立されています。
テロ対策プログラムが出来た時から、
FBIはこのやり方をしてきました。

しかし独立しているからといって、
分析官が、
上官や政策担当者が聞きたい結論を導きだすとは限りません。
分析官の役割は、
上層部が聞きたい結論を導き出すことではなく、
政策担当者が『知っておく必要があること』を報告することにあります。

ただ、
捜査官に従属する形の分析官が、
自分のパフォーマンスを評価する上官に分析メモを書くとなると、
分析の独立性を守ることが難しくなります。
また、
分析官は全ての情報を与えられていないという問題もあります。

とにかく、このような問題もあって、
『本来の分析』がFBIでは行われなかったことが、
根本にあった問題で、
その結果、9月11日の同時多発テロが起こってしまったのです。

『犯罪調査』主義のために、
テロ対策において先を見越して行動をすることが出来なかったFBI気質と、
海外におけるテロに気を取られ過ぎていたことなど、
様々な問題がありました。
しかし一番の問題は、
現場の捜査官が集めた情報が、
FBI全体の捜査活動に結びつかなったことです。

このような組織における問題は、
組織の官僚化を進めることでは解決されません。
以前「TIP」(Terrorism Information Program:テロ関係情報収集プログラム)
というものがありました。
アメリカ国民に、
『怪しい人物を見たら、ワシントンの本部に連絡しよう!』
と呼び掛けた計画です。

これは全く持って、馬鹿げた計画でした。
まず、『怪しい人物』なる定義が曖昧で、
寄せられた情報の処理方法もはっきりしませんでした。
『大山雷同してねずみ一匹』のように、
大騒ぎの後に膨大な情報が集まっても、
殆どが『カス』で使えるものはないのです。

また、
シークレットサービスや、複数の諜報機関を『国家安全保障省』のもとに統合しても、
問題はなくなりません。
テロ事件の発生には『周期がある』ことを覚えておいてください。

同時多発テロまでは、
アメリカ人が知っているテロ組織の定番はハマスで、
アルカイダなどだれも知りませんでした。
大都市でテロを計画する組織は、常に変わっていっているのです。

『国家安全保障省』なる巨大な官僚機構の誕生で、
FBI等の捜査機関の権限は強化されますが、
これが本当に、
テロ防止に有効に機能するのかどうか、気になります。

我々は問題の根本に立ち戻る必要があります。
つまり、
『FBIやCIAにより多くの権限が与えられていたら、
9月11日の同時多発テロが阻止出来ていたか?』
という問題です。

私は、『阻止出来ていなかった』と思います。

FBI上層部における機能不全のために、
実際に入手されていた情報が有効に使われなかったことこそが、
9月11日の同時多発テロが起こるのを許してしまった、
根本的な問題だったのです。

【9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ:元FBI特別捜査官の証言(1)


元FBI特別捜査官、
I.C. スミス氏インタビュー(1)


Q:あの日は?

あの日私はバージニアの自宅で、
コンピューターに向かって仕事をしていました。
隣の部屋でつけっぱなしになっていたテレビから
ニュース速報が聞こえたのでテレビを見に行き、
すぐに「これはテロだ!」と確信しました。

そのままテレビを見ていると、
2機目がワールドトレードセンター南棟に衝突するのを目撃し、
「テロだ!」という確信がますます強くなりました。
その後すぐに、
マスコミの知り合いからの電話が続き、コメントを求められました。




摩天楼
(photo:kazuhiko iimura)



Q:1995年のボジンカ計画と9.11テロの関連について調査取材を進めています。

『ボジンカ計画』に関することですね。
1995年の前半、私はまだFBI本部に勤務していました。
役職はセクションチーフ(部長)で、
情報分析、予算管理、捜査官の訓練を担当していました。
部長という役職と、分析担当という職務内容から、
FBIのみならず、
米国の様々な諜報機関が収集した豊富な情報に触れる機会に恵まれていました。

私が覚えているのは、
『ボジンカ計画』の捜査対象は、
1993年のWTCビル爆破テロで逮捕されたラムジ・ヨセフだということです。

フィリピンで幾つかの証拠が押収されましたが、
そのなかにはCIA本部ビルに旅客機で突入するというテロ計画がありました。
『ボジンカ計画』関連で私が受け取った情報のなかで、
一番強く記憶にのこっているのがこのことです。

私がアーカンソーに転勤を命じられた時点では、
現場の捜査官が集めた『ボジンカ計画』に関する『生のデータ』の分析は、
全く行われていませんでした。
これは途方もない失敗です。

私は、後にこの件をマスコミに話した元FBI捜査官から、
「分析はおこなわれなかった」
という話を聞いただけです。

それよりも、問題の根はもっと深いと思います。

FBIはテロ対策プログラムにおいて、
分析の役割を全く理解していませんでした。
『生のデータを集め分析する』
という分析本来の役割を全く理解していなかったのです。

捜査官達はそれぞれ『生のデータ』にアクセスし、
それに基づいて結論を導きだしましたが、
その『結論』に政府高官が同意するか否かは、また別問題でした。
しかし、捜査官が導き出す『結論』は、
常に将来における問題の発展性の有無にも触れることを義務付けられていました。
つまり、
捜査官が分析結果として導き出す『結論』は、
既に起こった問題の説明に加えて、
その問題により将来起こりうる事の予測をも加えることが、より重用視されていました。

これらは、
FBIという組織が、
テロ対策における分析の役割を全く理解していなかったことを示しています。
このことは、
私自らがテロ対策プログラムで働いた経験に基づき辿り着いた結論です。


Q:無視された「ボジンカ計画」、その理由は?

『ボジンカ計画』は重要な内容を含んでいたにも関わらず、
FBIは『実現の可能性が薄い・実行不可能』という理由で、
フォローアップ捜査を行わなかったのだと思います。
いろんな職責のFBI捜査官が『ボジンカ計画』の情報を見ましたが、
誰も計画の分析を行わなかったです。

テログループは、
大型旅客機のハイジャックは難しいとしても、
小型機を使って計画を実行する能力は備えていました。
実際ラムジ・ヨセフは準備段階として、
民間旅客機に液体爆弾を仕掛けることに成功していたことは、捜査陣も認識していました。
FBIが、
『ボジンカ計画』の持つ危険性に気付かなかった理由を説明するのは難しいのですが、
決して許されるミスでないことだけは確かです。

だたし、
FBIのローレベルの捜査官達は、
『ボジンカ計画』は非常に危険なテロ計画だと気がついていました。
過去にテロ事件を成功させているグループが関わっているテロ計画は危険なので、
十分に捜査しなければならないことを知っていたからです。

しかしFBIのハイレベルの高官や、政策担当者は、
これは大したテロ計画ではないと思っていました。
計画の持つ危険性が理解できなかったのでしょう。


Q:FBIのテロ対策プログラムの実情は?

実は1990年代の初めに、
FBIはアラブ系アメリカ人を対象に、
いわゆるアウトリーチプログラムを計画しました。
アラブ系アメリカ人とその文化的背景に対するFBIの理解を深めるだけではなく、
FBIの活動内容を理解して貰うことを通じて、
アラブ系アメリカ人に市民的自由に基づく、
基本的人権の概念等についての理解も深めてもらうことが、
このプログラムの目的でした。

ところがFBIは、
このプログラムをはじめたことで、
議会から避難されることになりました。
FBIは、誤解を解くための、
このプログラムについて説明する機会も与えられず、結局プログラムは頓挫しました。

しかし、
このプログラムによってFBI内部に興味深い状況が発生したのです。

FBIは『域外的管轄権』を持つ捜査機関です。
米国国外であっても、
特定の場合には、法権力を行使し、捜査活動に当たることが出来るのです。

もちろん相手国の許可は必要です。
当時は沢山のテロ事件がアメリカ国外で発生していました。
アフリカの米海兵隊宿舎ビルの爆破テロ、
ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破テロ、
USSコール爆破テロなど、
様々なテロがアメリカ国外で起こっていました。

そのために、
海外で起きた対米テロの解決に当たることが、
FBIの仕事になったのだと思います。

しかし、
そのうちにFBIは海外における捜査で頭が一杯になり、
捜査の対象となっているテロ組織が、
実際に海外においてテロを成功させているテロ組織が、
アメリカ国内で同じようなテロを起こすとは、
考える余裕がなくなっていきました。

1993年のWTC(ワールドトレードセンター)爆破テロは、
イスラム原理主義者グループによるものです。

アメリカ国内でテロが発生する可能性を示すサイン/情報は、
沢山集まっていました。
ただ、
それらが「テロの発生の可能性を示すサイン/情報だ」、
ということを捜査官が認識できなかったのです。

アメリカのメディアは、
CIAとFBI間の情報交換がないと書きたてていますが、
これは全くの誤りだと思います。
私はFBI時代からCIAと協力して犯罪捜査にあたって来ましたが、
つねにCIAと潤滑に情報の交換を行っていました。
つまり、
FBI本部にいるCIA捜査官や、
CIA本部にいるFBI捜査官は、
相手の情報を入手することは出来ていました。
従ってCIAとFBI間の情報交換がなかったというのは、
言い過ぎだと思います。

もちろん、
アメリカ国内や海外で起こったテロ事件の捜査段階において、
FBIやCIA、
そして国家安全保障局(NSA)などの米国諜報機関の間のコミュニケーションミスが、
捜査ミスに繋がった例があることは否定できません。
しかしミスを犯したという点では、
アメリカ以外の西欧諸国の諜報機関も同じです。

英国、フランス、ドイツ等の諜報機関も、
アフリカの米海兵隊宿舎ビルの爆破テロ、
ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破テロ、
USSコール爆破テロなど、
アメリカ国外で起こっていた様々なテロを予測し、
未然に防ぐことはできなかったのです!

これらは、
世界の諜報機関が一緒に責任を担うべき問題で、
アメリカの諜報機関だけのミスだとするのは短絡的です。

2点、コメントしたいと思います。
まずシンガポール治安当局についてです。
彼らは非常に高い捜査能力を持っているので、
自爆テロの実行犯、ハリド・アルミダーの密会シーンのビデオ撮影に成功したときいても、
私は全く驚きません。
しかし、ここからは私の推論ですが、
もし、CIAがそのビデオを入手しながら、FBIには知らせなかったとしても、
ビデオの重要性をきちんと理解していなかったからで、
故意に隠匿目的で情報をFBIに渡さなかったのではありません。

『これは単なる海外におけるテロの危険性を示すものだったから』
と、CIAは言い訳をするかもしれません。

もちろん、
海外におけるテロの危険性を示す情報であっても、
CIAはビデオを犯罪捜査機関であるFBIに見せるべきであったと私は思います
CIAは諜報機関であり、
犯罪捜査機関ではありません。
多くの人がこれをきちんと理解していないようですが。

しかし、
情報や諜報データは、
金庫の中にしまっておくだけでは何の役にもたちません。
特にに治安当局にとって使えない情報は無意味です。
私個人の意見としては、
CIAは、ビデオの情報としての価値を理解していなかったのだと思います。

ビデオが公開されなかったことは正しい判断だった思います。
シンガポール捜査当局が、
そのビデオの公開に際してどのような条件を付けたか分かりませんが、
友好国の捜査機関に渡す際に、
情報源を保護する必要も出て来ますから。

しかしその情報に基づき、
直ちに行動が起こされなかったばかりでなく、
容疑者が重要参考人リストにものせられなかったという事実は、
『恥知らず』としか言えません。
なぜこういう事が起こったかの説明できません。


Q:「フェニックスメモ」と「コリーン・ロウリーのメモ」については?

フェニックスメモと、
コリーン・ロウリーのメモを受け取りながら、
なにもしなかったことに対して、
FBIはこれからずっと責められることになるでしょう。

これはFBIの明らかな失態です。

9月11日に至るまでの一連のテロを見直してみると、
ボジンカ計画の段階から、
このテロ組織は旅客機に特別な興味を示していました。
そこに飛行機に関するミネアポリスからの情報と、
同じく飛行機に関するフェニックスからの情報が続いて入って来たのです。

その段階で、
捜査陣の誰かが、
『旅客機を使ったテロが計画されているようだ』
と気付くべきだったのです。

これに気付かなかったのは、
分析ミスがあったからに他なりません。
様々な方面から入ってくる断片的な情報をつなぎあわせ、
一つのテーマに基づいて結論を導くのが『分析』です。
情報分析がきちんとなされていたら、
しかるべき結論に辿り着いていたはずなのです。

しかし、
当時、FBIのテロ対策部には、
この情報分析能力が欠如していました。
分析担当はいたはずですが、機能していなかったのです。
このことが、
情報分析がされなかった根底にある問題だったのです。

フェニックスメモを書いた、
FBIのケネス・ウィリアムズ捜査官とは直接面識はありませんが、
大変優秀な捜査官だと聞いています。
また、
ミネアポリスからFBI本部に届いた情報は驚くべき内容で、
通常の地元のFBI捜査官からのメモとは全く異なっていました。

普通であれば、
直ちに受取手の注意をひく内容のものだったのです。
【注:"ビンラディンの信奉者が、パイロットなどの人員として、
民間航空システムに侵入しようとしている"という内容】

しかし、
FBIのテロ対策は、
長年の犯罪調査を元にしたものであったことを理解して下さい。
犯罪捜査が専門である捜査当局は、
常に、事件が起こってから行動を起こします。
このことが大きなネックになり、
本来ならば将来に起こるテロの予測に繋がった情報を見落としたのです。

「分析に余計な時間を使うな!」というのが、
事件が起こってから行動を起こすことに慣れていた
FBIのテロ対策本部の考え方だったのです。

つまり、事件の解決に力を入れるあまり、
事件を未然に防ぐ努力が手薄になっていたのです。

もちろん、
FBIは数々の事件を未然に防ぐことに成功しています。
実際、事件を未然に防ぐ専門の部があるほどですが、
成功率は芳しくありません。
とにかく、FBIは実際に起こった事件の捜査を本業と考える傾向にありました。

この意味で、テロも銀行強盗と同じ扱いだったのです。


Q:テロ対策にあっては、それは致命的なのでは?

テロ対策本部自体が、
諜報活動との兼ね合いをきちんと理解出来ずにいました。
これは、
FBI内部の諜報活動のみならず、
FBI以外の諜報機関との関係にも言えることです。

したがって、
これらの要因を全て組み合わせて行くと、
FBIの『性格』が浮かび上がって来ます。

事件を未然に防ぐ為の諜報活動を行うことを嫌うという(FBIの)性格です。
そして、その性格が致命的なミスを引き起こしました。

海外からもたらされた情報の中には、
航空機を使ったテロの可能性を示すものがありました。
フランスには、
未遂に終わったものの、
ハイジャックした民間機でエッフェル塔に衝突するというテロ計画がありました。
つまり、
飛行機を使ったテロの可能性については、
国際的に議論がなされていた訳です。

さらに、
メディアではあまりとりあげられていない、もう一つの問題がありました。


Q:メディアが取り上げなかったFBIのもう一つの問題とは?

FBI全ての捜査活動は、
カテゴリー別に優先順位がつけられています。
なぜかは分かりません。
しかし、
9月11日の事件が起こるまで、
アメリカ国内テロの方が、国際テロより優先順位が高かったと、
私は推察しています。

国内テロとは、
ティモシー・マクベイのように、
アーリアンネーションズのような極右グループによるテロのことです。

実際この種のテロに対する捜査は、
優先順位が高いとされていた時期があります。

つまり、FBIのテロ対策部門では、
国際テロ捜査は優先順位が低く、
また、
諜報活動で集めた情報の分析ではなく、
事件が起きてから現場の情報に基づき解決をはかるという
『犯罪捜査』至上主義が色濃く残っていました。

さらに、
当時、対米テロは全て海外で起こっていた為に、
「国内でテロはおこらない」
という油断が生まれていました。
これが9.11以前のFBIだったと思います。
(続く)

【9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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2011年09月01日

再考9.11テロ:元CIAテロ対策センター上席分析官の視点


元CIAテロ対策センター上席分析官
スタンレー・ベドリントン氏インタビュー


Q:あの日は?

あの日私は在宅していて、
8時半のニュースを見ようとテレビをつけました。
そしてテロの全容をテレビの生中継で見る事になったのです。
見た瞬間は全く頭が混乱しました。
とにかく驚愕しました。
ほとんどのアメリカ人同様、
「あのような大規模なテロは絶対にアメリカ国内では起こらない」
と私も考えていたからです。

ただ長年テロの研究にあたった専門家としては、
「見事な計画に基づくテロが完璧に実行された」
と言わなければなりません。

完璧な奇襲テロでした。




Twin
(photo:kazuhiko iimura)



Q:1995年の「ボジンカ計画」とは?


『ボジンカ計画』と呼ばれる、傑出したテロ計画がありました。
『ボジンカ』とはボスニアのイスラム教徒の間で使われていた言葉で、
それをなぜ中東のテロリストが使ったのか、分かりませんが、
1995年にこの計画が発覚したのは、全くの偶然でした。

(フィリピンの)バチカン大使館から
200メートル程しか離れていないアパートで火事が発生し、
消火後、調査のためにアパートに入った警察が、
アパートの一室から、犯罪の証拠となる膨大な証拠品を発見・押収したのです。
押収品のなかには、十字架、聖書、
一週間後にマニラを訪問する予定だったローマ法皇の訪問先と
その道筋を印した市街地図、
そして聖職者の服がありました。

従って
ローマ法皇の暗殺を計画していたことは明らかでした。

ただし、
アパートの部屋からの押収品でもっと重要だったのは、
数枚のコンパクトディスクでした。

押収したCDから、
1993年のWTC(ワールドトレードセンター)ビル爆破計画や、
南東アジアから大平洋を横断しアメリカへ運行している民間航空機12機をハイジャックし、
大平洋横断空路を飛ぶために燃料を満タンに積んでいる旅客機を、
“米国のニューヨーク、シカゴ、ワシントンDCの建造物に突入させる”
という計画が明らかになりました。

もちろん、
このCDが発見されたおかげで、この計画は未遂に終わりました。

この事件で逮捕されたのが、
1993年のWTC爆破事件の主犯、アブドル・ムラドで、
彼はアメリカで裁判にかけられ、
今はアメリカで服役中です。

また、
1995年に未遂に終わった『ボジンカ計画』と
9月11日の同時多発テロ計画の両方に、
アルカイダの上級メンバーで、
ウサマ・ビンラディンの幹部でもある、
ハリド・シェイク・モハメドという男が関わっていました。


Q:ハリド・シェイク・モハメドとはどんな人物?

ハリド・シェイク・モハメドはクウェート人で、
ラムジ・ヨセフの親戚筋に当たると考えられています。

極端に人目につくことを嫌う男なので、
1995年に『ボジンカ計画』が発覚するまでは、
彼に関する情報は殆どありませんでした。
ハリド・シェイク・モハメドこそが1995年の『ボジンカ計画』の立案者で、
アルカイダのテロ活動支援のための資金調達が彼の『専門』でした。

FBIによると、ハリド・シェイク・モハメドは、
9月11日のテロ事件の計画にも関わっていたということですから、
明らかにこの2つの事件は繋がっています。

ウサマ.ビンラディンと同様、
ハリド・シェイク・モハメドも『悪事の天才』で、
優れた知性と、堅い信念を持っています。

1995年に『ボジンカ計画』が明るみになった後、FBIは、
ハリド・シェイク・モハメドを『凶悪な犯罪者』として世界中に指名手配し、
翌1996年には彼の首に2500万ドルの懸賞金をかけています。
2500万ドルという法外な懸賞金をかけたことからも、
アメリカ政府が、
いかにハリド・シェイク・モハメドを危険人物と見なしていたかが分かります。

ハリド・シェイク・モハメドは、
テロ計画と実行援助担当のウサマ・ビンラディンの側近中でも、
トップ6に入ります。
彼の役割は『金の手配』、つまりテロ活動のための資金調達係りです。
9月11日のテロの資金調達は、
ハリド・シェイク・モハメドが行ったと、FBIは信じています。

さらには、
資金調達のみならず、
新しいテロ実行犯の補充とその訓練も彼が担当していました。

元同僚の話や、報告書を読む限りでは、
自爆テロ犯グループの20名のスカウトが、
ハリド・シェイク・モハメドの第一の役割で、
その何人かの訓練にも、自ら当たりました。

自爆テロ実行犯の一人であるモハマド・アタと、
ハンブルグのアパートで1999年に会っていることも、
事件との繋がりになります。


Q:「ボジンカ計画」から9.11テロまでの道筋は?

1995年の『ボジンカ計画』は、
たまたまフィリピン警察がラムジ・ヨセフのアパートから
CDや、その他の書類を押収したために、未遂に終わりました。
つまり最初の『ボジンカ計画』に関わっていたテロリストは、
途中でその準備を止めることを余儀無くされたのです。

しかし、
米国内でテロ事件を起こすという計画そのものがなくなったのではなく、
テログループはしばらく時間を置いて、
組織を作り直し、
実行犯グループを訓練し、そして再度実行にうつりました。
その意味で2つの事件(ボジンカ計画と9.11テロ)は、
明らかに繋がっています。


Q:米国では複数の国会議員も含めて、沢山のアメリカ人が、
『9月11日の事件は諜報活動の失敗が原因だ』と発言していますが?

単なる諜報活動の失敗だけでなく、
入国管理当局のミスや、空港の安全管理におけるミス等が重なった、
いわば『システム全体におけるミス』であり、
一つの組織だけに責任を押し付けるべきではないと考えます。

もちろん今となって見れば、
事件の予兆となる事件が幾つも起こっており、
FBIや米国政府機関は、それを見のがすべきではありませんでした。

例えば、9月11日のテロが起こるわずか数カ月前に、
アメリカン航空のパイロットがローマのホテルで、
制服と身分証明書(ID)を盗まれるという事件が起こっています。

このような一見些細に見える事件の情報でも、
きちんとした分析がされていたら、
テロを予告する手がかりになっていたと思います

分析過程においてミスが発生したため、
断片的な情報をつなぎ合わせて結論を導くことが出来なかったのです。

1995年から2001年の9月11日の間には、
『ボジンカ』計画が、アメリカに場所を移して実行されることを示す
沢山の『サイン』(兆候)がありました。

しかしCIAやFBIには、毎日、
多くの『テロリストの襲撃』に関する情報が入ってきます。
正しい情報を嘘の情報からすくいあげるは、非常に大変な作業です
FBIをかばうつもりはありませんが、
FBIは膨大な『テロ関連情報』の下で、
身動きできない状態になっていたのです

高度の分析能力を持ちながらも、
どの情報を集中的にフォローアップするかという選別の段階の問題です。

捜査の失敗の原因は、
FBI捜査官の能力不足というよりも、
FBIは官僚化が進み、組織的に機能低下が起きていたためです。
このために、
現場の捜査官とFBI本部間の自由な情報の交流がありませんでした。

この問題はその後改善されましたが、
私の知る限り意図的な情報の隠匿はなく、
単純にFBI本部の度を過ぎた官僚化がネックになっていたのです。

当然、官僚化の問題はCIAにもありました。


Q:ブッシュ大統領は、
9.11テロを予見できる情報(=ライス長官の報告など)を持っていたのでは?

信ぴょう性が高く、
具体性に富んだ『テロに対する警告』は大統領に回されますが、
ライス長官の大統領に対するテロ関連の報告内容が、
どのくらい詳しいものであったかは、分かりません。

1998年2月にウサマ・ビンラディンは、
アフガニスタンの作戦基地から『ファトワ』(宗教布告)を発表し、
「アメリカ本土に対して戦争を仕掛ける」と宣言しています。
いつ、どこでという、詳細は述べられませんでしたが、
アメリカに対して、テロ攻撃を仕掛けると宣言しています。
なぜこのファトワの徹底追求がされなかったのか私には分かりませんが、
これは大きな間違いでした。

ビンラディンは、
ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件の首謀者ですから、
アメリカ政府が『過小評価』していたわけではありません。


Q:ビンラディンとはどんな男なのか?

実際、湾岸戦争の時に、
ビンラディンが世界の表舞台に登場して以来ずっと、
アメリカ政府はビンラディンとアルカイダを追い続けていました。
ビンラディンは突如砂漠の真ん中に、
ひげ面でアラブの民族服に身を包み登場したのではありません。
アフガニスタンにおける基地の建設、
またアルカイダを組織したことは、有名でした。

ビンラディンはアルカイダの創立者であり、資金の提供者でもあります。
サウジアラビアにいる彼の一族は、
自由に使える莫大な資産を持っていました。
アフガニスタンに行く前に、
ビンラディンはスーダンで道路や空港の建設にあたっていますし、
とにかく自由に使える多額の資産を持っていたのです。

「1億ドル以上」というのが、私が聞いたなかでは最高額ですが、
とにかく途方もない大金持ちです。

1979年から1989年の間に、
アフガン侵攻してきたソ連軍と戦ったムジャヒディーンに、
多額の資金援助をして、
最終的にはソ連軍を撤退させることに成功しました
ムジャヒディーンのために自分の資産を使って、
ブルドーザー、武器、そして様々な物資を調達しました。

そのために、
『イスラムの戦士・イスラムの教えを守る戦士』
としてイスラム圏中に知られるようになったのです。
しかし、ビンラディン自身は『戦士』ではありません。
彼は一度も戦闘に参加したことはないのです。
様々な過激派テロの資金援助が彼の役回りです。

テレビで、ライフルを構えている映像が流れていましたが、
「ビンラディンは一度も戦闘に参加したことはなかった」
と、アフガニスタンの彼の側近は供述しています。
彼はテロの『黒幕facilitator』(フィクサー)であり、
テロを計画し、資金を提供したのです。

彼は自分の事をアラブ語では『コントラクター』と呼んでいました。
つまり自分は『戦士』ではなく、
テロの黒幕であり、
コントラクターであると見なしているのです。

ビンラディンは自分も『戦士』であるように宣伝していますが、
これは全くの虚偽です。
宗教面においてビンラディンは大きな野望を持っていました。
ビンラディンは政治的、宗教的野望を持った男で、
彼の最終目的は、
イスラム世界の最高権威者に与えられるハリーファ、
もしくはカリフの称号を継承し、
イスラム世界を彼が信じるイスラム教の解釈に基づき、
極端なまでに戒律の厳しい社会に作り替えたいということでした。

同時多発テロの発生後、
ビンラディンは犯行声明を出し、
アルカイダによる犯行であることを認めました。
1998年の『ファトワ』(宗教布告)の件もあるし、
またケニアとタンザニアの
アメリカ大使館爆破事件の首謀者であることも分かっていました。
さらに、アフガニスタンで、
テロの実行犯養成キャンプを運営してことも分かっています。

自爆テロの実行犯の一人は、
アフガニスタンのアルカイダのキャンプで訓練を受けています。
モハマド・アタであったかもしれないが、ちょっと名前を忘れました。
彼の他にも訓練を受けた者が数人いるはずです。

諜報機関はオープンな調査と、内偵活動を通じて、
ビンラディンおよびアルカイダに関しては沢山の情報を持っていました
内偵をアルカイダの金融ネットワークに送り込み、
情報収集に当たらせたのだと思います。

同時テロ計画を事前に察知するまでには至りませんでしたが、
アルカイダのホールディング会社の存在、
そしてロンドン、ルクセンブルク、アムステルダム、
そしてカリブ諸国にあるダミー企業の存在が明らかになり、
アルカイダの金融ネットワークの仕組みの解明は進みました。

アルカイダの金融ネットワークの仕組みは、
9月11日以前にかなり分かっていましたが、
違法行為の確証がとれない限り、取り締まりが出来なかったのです。

国家安全保障局(NSA)による諜報活動は行われていたと思います。
1995年の『ボジンカ計画』発覚後、
ハリド・シェイク・モハメドが危険人物であることを
最初にアメリカ政府に知らせたのは国家安全保障局(NSA)です。


Q:CIAとFBIの関係は?

情報の交換がおこなわれていましたが、問題がありました。
FBI捜査官個人の問題ではなく、
FBI内部の官僚組織のために、FBI内でも、
ある情報が、
一つの部署から別の部署へスムーズに伝わらないという問題がありました。
情報が伝わらないというのは、重大な問題でした。

9月11日のテロについて最後に付け加えるならば、
同時多発テロはニューヨークとワシントンDCで起きましたが、
CIAは1946年に成立した国家安全保障法により、
アメリカ国内で諜報活動を行うことを禁じられているので、
同時多発テロに対する責任はありません。

しかし、

CIAはドイツの諜報機関と協力して、
事前の諜報活動を強化しておくことはできたはずです。
自爆テロ実行犯の数人は、ハンブルグに住んでいましたから。
CIAは、
ドイツの諜報機関とは密接な関係にあったにも関わらず、
事件を未然に防ぐための情報を提供することは出来ませんでした。

複数のミスが重なりました。
根本的ミスは、断片的な情報をつなぎ合わせることが出来なかったことです。
予兆、テロを警告する情報は、
すべて諜報機関に集められていましたが、
それを論理的につなぎ合わせていくことに失敗したので、
テロの予告・警告がだせなかったのです。

Q:それが最大のミスですか?

私はそう思います。

【以上、9.11テロ・取材ノートより】

(飯村和彦)

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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(4)


元CIAテロ対策本部長、
カニストラロ氏の証言。


「攻撃の目標となったWTC(ワールドトレードセンター)は、
米国経済のシンボルであり、
それを攻撃し、完全に崩壊させたことで、
アルカイダは1993年にやり遂げることがの出来なかった目的を、
やっと果たすことが出来た
のです。



KABE
(photo:kazuhiko iimura)



今では断片的な情報をつなぎ合わせ、
当時の状況を分析することが可能です。
ところが、当時、これらの情報を、
繋ぎ合わせて分析していなかったという、
明らかな証拠があります。

例えば、自爆テロ犯の一人、
ハリド・アルミダル(国防総省に衝突した旅客機に搭乗)が、
クアラルンプールで、
USSコールの爆破事件の首謀者と思われる男と密会している模様が、
マレーシアの諜報部によりビデオに撮られています。
それにも関わらず、
アルミダルはその直後にビザを取り、
アメリカにやって来ています。

つまり、
米国では殆どノーマークのテロリストだったのです。
CIAが、ハリド・アルミダルに関する情報を、
移民帰化局(INS)に報告しなかったために、
アルミダルのアメリカでの住所のチェックがなされませんでした


このような捜査当局の不手際のために、
アルカイダが残した、様々な『手がかり』が、
見逃されてしまいました」


Q:ニューヨークで行なわれたユセフに対する裁判に関する、
膨大な量の公判記録を調べたが、
その記録を見る限り、
ボジンカ計画については、ほとんど触れられていない

なぜなのか?



「ラムジ・ユセフの裁判のことですか?
裁判の時には、航空機を使った自爆テロの重要性は、
理解されていなかったと思います。
当時、検察もFBI捜査官も、
これは、
“現実味を欠くblue-sky計画”だと考えていたため、
『いろいろ言っても、実行不可能だ』
と、決めつけていました


ただ、
新型液体爆弾と手製の時限装置の仕組みには注目し、
空港のセキュリティチェックに引っかかることのない、
新型爆弾であることは認めていました。
しかし、
民間旅客機11機を同時爆破するという計画に関しては、
本気だったとは認めながらも、
実行不可能な計画だと思っていました

そのために、
航空機を使った自爆テロの意味の分析は行われなかった
のです」


Q:ホワイトハウスのライス氏は、
「ハイジャックした民間機で建造物の破壊を狙う自爆テロなど、
誰も知らなかった」

だから、
9.11同時多発テロは、まったく防ぎようが無かったと弁明している。
この発言については?


間違った発言だと思います。
状況分析が十分に出来なかった、
捜査ミスのために事件の察知ができなかった訳ですから。
9月11日の『前兆』となる、
ハイジャックした民間航空機で建造物に突入するというテロ事件は、
既に実際に計画されていた訳ですからね。

その一つが、
アルジェリア人ハイジャッカーによる、
エッフェル塔突入未遂事件です。
エッフェル塔という、
フランスの象徴的建造物を破壊する目的の、
自爆テロが未遂に終わったのは、
その数年前のことでした。

ライス長官は、
『ハイジャックした民間機で建造物の破壊を狙う自爆テロなど、
誰も知らなかった』
と言っていますが、
前例があったのですから、
捜査員は全て知っているべきだったのです。

これが政府の分析能力の欠如を示すものであるかと言えば、
もちろんその通りです。
そう言い切って構わないと思います。

ゾッとするような断片的情報は集まっています。
捕虜となったアルカイダのメンバーは、
計画されていたテロはもっとあった
と、供述しています
アルカイダの供述には、我々を撹乱することを狙った、
『嘘の供述』もありますが、真実も含まれています。
様々な供述を吟味した後、
『テロの計画はもっとあった』ことは確認されていますが、
それがいつ、どこで、
どのような形で行われるものであったかは分かっていません。

テロと戦う時に最も重要な『武器』は、
『情報』であり、『諜報』です
そのためにアメリカは、
諜報活動における情報収集能力と、
テロ組織内に潜入する能力を高める必要があります。
そして、
諜報活動で集められた情報の分析能力を向上させる必要があります

一方で米国は、安全保障対策を強化するあまり、
『愛国者法』なるものを成立させ、
警察や捜査当局の権限を拡大させてしまいました。
このことで、
『市民的自由に関する基本的人権』
が損なわれないように、十分注意をする必要があります。

民主主義国家である米国が、
テロとの戦争において、
『市民的自由に関する基本的人権』を損なうような行動すると、
民主主義の弱体化に繋がります。

国家の安全保障のためには、
個人の基本的人権を犠牲にしてもいいという考え方は危険
です。
個人の基本的人権を尊重しながら、
国家の安全保障を強化することは可能なはずです」
(9.11テロ取材ノートより)


元CIAテロ対策本部長、カニストラロ氏は、
自戒を込めて、
9.11米国同時多発テロを振り返った。
事前にあった数々の予兆、
そして具体的な事件。
それらの情報を“当たり前”に精査していれば、
もしかすると、
9.11テロは防げたかもしれない。
カニストラロ氏はそう語った。

一方、
「まったく想定外のテロだった」
というブッシュ政権の見解については、
“そんな筈はない”として、
辛らつな言葉を投げた。


(飯村和彦)


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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(3)


Q:ボジンカ計画発覚後の、
CIAやFBIの捜査における問題点は


FBIは判断ミスと、
データ分析ミスを犯しました

今になって見れば、
同時多発テロを予告する事件が、
幾つも起こっていたのです。

1993年のラムジ・ユセフによる、
WTC(ワールドトレードセンター)爆破事件が発展したものが、
2001年9月11日のテロ事件です。
1993年のWTC爆破事件は、
“2001年9月11日のテロ事件”の、一つの『予兆』でした。



ブルックリンB
(photo:kazuhiko iimura)



もっとも、『予兆』は他にもありました。

アルカイダと関係のあるアルジェリア人のテロリストが、
フランスの民間機をハイジャックし、
エッフェル塔に突入しようとした事件がありました。
幸いこれは未遂に終わりましたが、
この事件は、
『航空機で国の象徴的建造物に突入する』
という、新たなテロ計画の2例目になりました。

つまり、過去において、
アルカイダと関係のあるテロ組織の卓越した組織力を示す、
テロ未遂事件が2件も発生しており、
この2件は明らかに、
2001年9月11日のテロ事件に繋がっているのです

連邦捜査局(FBI)は、
証拠となるデータ分析でミスを犯していたので、
『何も知らなかった』と主張することは出来ます

しかし、この2つの例だけが、
“2001年9月11日のテロ事件を予告する”証拠ではありません。

押収したメモに含まれていた情報に基づき、
フェニックスのFBI捜査官は、
『フェニックス近郊の飛行学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだ』
と、提言しています。

また、FBIのミネソタ支部が、
ワシントンのFBI本部に送ったメモのなかには、
9月11日以前に逮捕された、
ザカリアス・ムサウイに関するメモがあり、
そのなかで、


多額の現金を所持し、
飛行学校の月謝も現金で払ったうえに、
飛行学校においても異常と思われる行動が多いために、
地元警察と地元のFBIから、
“不審人物”と見なされている



と、警告しています。
このメモに基づき、ミネアポリスのFBIが、
ムサウイのコンピューター通信と電話の盗聴するための、
裁判所の許可を取ろうしましたが、
『証拠不十分』という理由で、
FBI本部は、この申請を却下してしまいました。

つまり、
9.11テロを暗示する”情報は、
数多くと上がってきていたのに、
その追求がなされていなかった
のです。

FBI本部がデータ分析を過ったために、
テロ計画を事前に探知することが出来なったのです。
FBIは警察活動には優れていたものの、
当時は、
本当の意味の『情報分析能力』が欠如していました。


結果的にいえば、
『犯罪調査、諜報活動、また市民からの通報など、
様々なチャネルから入ってくる断片的情報を分析し、
関連性を見つけて、迫り来る危機を事前に探知する能力』
が、当時のFBIには欠如していたのです。


現在も分析能力は欠如していますが、
少なくともこの重要な分析能力が欠如の認識だけは、
現在のFBIには備わっており、
状況の改善に努めています」


Q:では、CIAについては?


「同じ事はCIAにも言えます。
一連のテロ活動の最終的狙いを見抜けなった点では、
CIAも同罪です


93年のWTC爆破事件、ボジンカ計画、
ラムジ・ユセフのテロ活動を支援するための資金の流れなど、
ビンラディンの義理の兄弟との繋がりに関する断片的な情報を、
CIAは入手していました。

しかし、
その関連性を見つけ、
箇々の事象の裏にある大きなテロ計画を、
探知することが出来なかったのです。

つまり、裏にある計画が、
それ以降も続いていたという事実を見逃したのです。

1998年の、
西アフリカ(ケニアとタンザニア)でのアメリカ大使館爆破事件。
そして、2000年のアメリカの駆逐艦コール号の爆破事件は、
アルカイダの手によるものであり、
回を重ねるごとに、
手口が洗練されているのが分かります。

つまりテロリスト的には、
『成功率』が増していると言えます。
そして、この一連の事件は全て、
9月11日に同時多発テロに繋がり、
そこで彼らは、大成功を収めるのです」

【つづく】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(2)



ボジンカ計画

1995年、アルカイダにより、
フィリピンのマニラで練られていたこのテロ計画は、
9.11テロと似たものだった。
その詳細とはいったいどんなものだったのか。
元CIAテロ対策本部長、カニストラロ氏は…


「狙われた民間機の多くがバンコク発でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります。
首謀者はラムジ・ユセフ
彼のコンピューターから押収した犯行計画から、
11機を爆破する予定だったことが分かっています。



飛行機エンジン
(photo:kazuhiko iimura)



このテロのために、
空港のセキュリティチェックにひっかからない新型爆弾の開発を、
ラムジ・ユセフはマニラのアジトで進めていました。
ニトログリセリンを基本にした『液体爆弾』で、
機内に持ち込んだ後、
テロリスト自身が調合して完成させる仕組みでした。

ラムジ・ユセフ自身がこの爆薬のテストを行い、
自ら機内に持ち込んだ成分をトイレで調合し、
さらに手製の自爆装置をつけて、座席の下に設置しました。
その後ラムジ・ユセフは、
旅客機がセブ島を経由した際に降機しました。

再度、旅客機がセブ島を離陸した後、
たまたまユセフの座っていたのと同じ座席に座った日本人が、
爆発により死亡しました。

これは、
新型爆弾が、
空港のセキュリティチェックに感知されることなく、
機内に持ち込めることを確認するために、
ユセフ自身が行ったテストだったのですが、
そのテストは見事に成功したのです。

彼が計画していたのは、
この新型爆弾を使った、
極東を運行する民間旅客機11機の同時爆破テロ
だったのです。

ラムジ・ユセフのアジトから押収した資料には、
その他のテロが計画させていたことを示す、
沢山のスケッチやメモが含まれていました。
後に、ラムジ・ユセフの仲間の一人を尋問したフィリピン警察から、

『ラムジ・ユセフは、
バージニア州ラングレーにある中央情報局(CIA)本部に、
航空機で突入する自爆テロを計画していた


との報告を受けました。
ただし、使用される予定だったのは、
一人乗りの小型(単発)機でした。
しかし、そうはいっても9.11に繋がる、
テロの根本的骨組』は、
既にその時、出来上がっていたのです

1995年までに、
CIA本部の攻撃や、
極東を運行する民間旅客機を狙った『自爆テロ』計画が、
出来上がっていたということになるのです。


これは、
9月11日の同時多発テロの『予兆(precursor)』だったのです!


押収したコンピューターと、
コンピューター・ディスクから取り出した大量なデータに基づき、
ラムジ・ユセフが計画していた、
テロ活動の概要が我々の知るところとなりました。
すべてのデータは暗号化されていましたが、
米国の捜査陣はその解読に成功し、
民間航空機11機を爆破する計画、
及び、
その他の計画の存在をそのとき(1995年)知ったのです。


ユセフの仲間だったアブドル・ムラドは、
ユセフの計画していたテロ活動について、
取り調べの中で多くを話しています。
その中には、
中央情報局(CIA)本部攻撃計画も含まれていました。

『なんと大胆不敵な!』、…と思いました。
少なくとも民間機11機を同時に、
もしくは同じ日に爆破するなど、
大それた計画だったからです。

膨大な組織力と、緻密な計画、
そして、
複数からなる実行部隊を必要とする、
想像を超えた計画でした。

そのために、
当時この計画を知った捜査当局は、
こんな馬鹿げた計画の実行は不可能だ
と考えたのでしょう。
捜査当局は、
ラムジ・ユセフ一味の能力を過小評価してしまったのです。

(アルカイダの?)能力を過小評価していたので、
ボジンカ計画が発覚しても、
『こいつ(ラムジ・ユセフ)はいかれている!
全く実行不可能な計画だ』
と判断して、真剣に取り合わなかったのです

けれども、ボジンカ計画は、
アメリカに対する長期テロ戦争の第一章
だったのです。

その意味で、
マニラ、ラムジ・ユセフ、ボジンカ計画、
そして、『9月11日の同時多発テロ』は繋がっています。
当時我々は、
このテロ組織の組織力を理解していませんでした。
またこのグループの強い決意と、
計画実行のための執念深さも理解していませんでした。


1993年のWTC(ワールドトレードセンター)爆破事件は、
明らかにこのテロ組織にとっては『失敗』でした。
ラムジ・ユセフ自身が裁判の中で、

WTCのビルの一つを爆破し、
崩壊の中でもう一つのビルも破壊して、
何千人もの犠牲者を出すことが目的だった


と語っています。
計画では、
爆発と同時にシアンガスが噴き出すはずでしたが、
爆発と同時に火災が発生し、失敗しました。

逮捕されたラムジ・ユセフを拘置所にヘリで護送する際、
FBIは、わざとTWCの上空を飛びました。
そして、FBI捜査官の一人が、

『見ろ、TWCはちゃんと立っているぞ』
と言った時に、ラムジ・ユセフは、
もっと資金があったら爆破に成功していた

と答えています。
つまり1993年から、
テログループはTWCの爆破を計画していたのです。
一度目は失敗したものの、
2001年に再度TWCの爆破を試み、そして成功したのです。


一連の事件を、
時間を経て進化してきたアルカイダのテロ活動
と考えるなら、
ボジンカ計画、ラムジ・ユセフ、
マニラにおけるテロ事件の延長上に、
9月11日の同時多発テロがあることが分かります」

【つづく】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(1)



9.11同時多発テロについてのブッシュ政権の反応。
それは…

「アルカイダが飛行機を幾つも乗っ取って、
それをミサイル代わりに、
世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むなんて、
誰も予想出来なかった

これはテロ発生直後の、
ライス大統領特別補佐官(当時)の公式会見でのコメント。
つまり、
ブッシュ政権の公式見解でもある。

しかし…。

その見解については、
テロ発生当時から疑問と非難の声が上がっていた。



WTC5
(photo:kazuhiko iimura)



アメリカ政府は、
アルカイダのテロ計画を、
本当に“何も”把握していなかったのか?
全てを、

「想定外」の一言で終わらせてしまっていいのか?

そんな疑問に重い口を開いてくれた人物がいた。
元CIA幹部、カニストラロ氏
彼は、90年代初頭には、
CIAテロ対策本部長としてテロ対策を指揮。
その後も米国・議会調査委員会のアドバイザーを務める、
テロ問題のエキスパートである。

カニストラロ氏への取材は、
9.11テロ発生の翌年、
彼の自宅で行なった。
ペンタゴン(国防総省)から約40分。
傾斜地を上手く利用したその家は、
森の木々と調和した、目立たない創りのものだった。

カニストラロ氏は、
淡々と穏やかに、
しかし、明確な口調で語り始めた。


「9月11日の朝は、
丁度の部屋にいた時に電話がかかってきて、
『世界貿易センタービルのタワーに旅客機が突入した』
…ことを知りました。

そして、
ABCニュースから、
『ワシントンDCにあるスタジオに来てくれ』との依頼を受け、
車でスタジオに向かっている途中、
セオドル・ルーズベルト橋に差しかかった時、
国防省のビルに旅客機が突入する瞬間を目撃しました

本当に、常軌を逸した一日でした。

交通は混乱し、渋滞で身動きがとれなくなったので、
車を捨てて、スタジオまで歩いていく羽目になりました。
それからはスタジオに缶詰めで、
やっと夜に帰宅しようとしたら、
道に乗り捨てた車がそのままになっていました。
レッカー移動されていると思っていたのですが、
違反切符なしの状態で、
道の真ん中にそのまま停まっていました」


Q:テロだと理解した、その瞬間は?


「愕然としました。
全く新しいテロでした。
オクラホマシティの連邦政府ビル爆破事件を除けば、
これまでアメリカで起きたテロ事件は、小規模なものでした。
このような大規模で破壊力の大きいテロは、
アメリカでは全く初めてでした。

世界的にも全く前例のない、
大規模な自爆テロ』だったと思います。

自爆テロは今までにもありましたが、
合計19名ものテロリストによる自爆テロが、
同時多発的に敢行されたのは初めてです」


Q:しかし、ここ数年、
テロ組織の活動が活発になっていたのでは?


「既に政治絡みの様々な凶悪事件が発生していましたから、
アメリカでもテロ事件が起こるという予感はありました。
事件の3日前に、
『これからテロ事件が増加する』という予測記事を、
ワシントンポスト紙に発表したばかりでした

しかし、
アメリカ国内で、旅客機4機を使うような、
大規模テロが起こるとは、想像していませんでした」


Q:アルカイダは、過去(1995年)に、
9.11テロと似た、航空機を使ったテロ計画を作成していました。
これについてはアメリカ政府も承知していたのでは?


ラムジ・ユセフが計画したボジンカ計画
のことですね。

1993年に世界貿易ビルで最初のテロ事件が起こった時、
その首謀者がラムジ・ユセフです。
世界貿易センタービルに爆弾を仕掛けたグループを組織し、
爆弾の設置場所も彼が決めました。
ただ計画実行の前日に、
ユセフはアメリカから出国しています。

彼を逮捕するために、
大規模な捜査が何年も続きました。
その後フィリピンに渡ったユセフは、
組織のセルを作り、
複数のテロを計画しています。
その一つが、1995年
ローマ法皇をマニラ訪問中に暗殺するという計画でした。

ラムジ・ユセフは,
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで、
極東を運行するアメリカの民間機を含む、
民間機数機の同時爆破テロを計画
していたのです。
それが、"ボジンカ計画"でした」

【つづく】

(飯村和彦)


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2007年09月11日

グラウンド・ゼロに舞い降りる鶴


9.11米国同時多発テロから6年。
アメリカの国家安全保障担当のタウンゼント大統領補佐官は、
テロの黒幕ウサマ・ビンラディンについて、
「ビデオでメッセージを出す意外に能力がない、
事実上無能な逃亡者」
と述べた。
ならば、そんな無能な人物に、
6年間も逃亡を許している現実はどうなるのか。


911


9月11日のきょう、
ニューヨークの「グラウンド・ゼロ」では、
テロの犠牲になった人たちを悼む式典が催される。
その会場に今年は、
佐々木雅弘さんが出席。
雅弘さんは、広島の平和記念公園にある、
“原爆の子の像”のモデル、
佐々木禎子ちゃんの実兄である。

広島で被爆し、白血病と闘いながら、
死の間際まで折鶴を折り続けた「禎子ちゃんの物語」 は、
このブログでも何度か紹介したのでここでは省略する。

禎子ちゃんの兄、佐々木雅弘さんは、
平和への願いを込めて、
禎子ちゃんが折った折鶴から、
手元にある5羽のうちの一羽を、
テロで犠牲になった人たちを悼んで寄贈するのだという。


サダコちゃんのつる


直径1センチにも満たない折鶴。
以前、禎子ちゃんの話を伺ったとき、
「どうか、手のひらに載せてやってください」
との佐々木さんの言葉で、
そのうちの一羽を手にしたことがある。

針を使って、
気力だけで折られたという折鶴は、
ほとんど質量を感じない、
驚くほど小さなものだったが、
見つめていると吸い込まれるような、
不思議な力に満ちていた。

儚そうでありながら、、
断固とした存在感…があった。

12歳の少女が、
“生きたい”という願いを込めて折った鶴。
その一羽が、
時空を超えて、
ニューヨークの「グラウンド・ゼロ」に舞い降りる。


(参考)「ザ・スクープ~予見されていた911テロ~」編集後記
 

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(飯村和彦)



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