取材ノートより

2019年03月11日

福島第一原発事故、放射能「汚染水」問題の核心


東日本大震災から8年。
未だに多くの被災者が厳しい生活を強いられている現実に心を痛めるばかり。



福島1
(福島県南相馬市/ photo:kazuhiko iimura)



この間ずっと気になっていることの一つが、
福島第一原発にたまり続ける放射能汚染水の問題。
現状のまま増え続けると、
早ければ今年末には貯蔵タンクを据える場所もなくなり、
約2年後には貯蔵タンクが満杯になってしまうという。

にもかかわらず、
その「放射能汚染水」そのものの浄化レベルも、
これまでずっと発表されてきたレベルと現状とでは、
かなり違っていることが去年、突然明らかになった。

どんなことだったのかをおさらいするため、朝日新聞から。

「東京電力は28日、福島第一原発のタンクにたまる汚染水について、浄化したはずの約89万トンのうち、8割超にあたる約75万トンが放射性物質の放出基準値を上回っていたことを明らかにした。
一部からは基準値の最大約2万倍の濃度が検出されていたという。
今後、追加の処理が避けられなくなり…」
(去年9月29日付)

「保管する大型タンクに入れる前の放射性物質の検査で、トリチウム以外に、ストロンチウム90、ヨウ素129が国の基準値を超えていたことを明らかにした。東電はこれまで『トリチウム以外の放射性物質は除去されている』として、十分な説明をしていなかった。
構内で発生した汚染水は、セシウムを吸着する装置と、62核種を除去する装置『アルプス』を通り、取り除けないトリチウムを含む汚染水がタンクに保管されていると説明されていた」
(去年8月21日付)

つまり、

それまで何年にもわたって行われてきた汚染水処理が、
その浄化レベルにおいて全く別物だったということだ。

こんな話、ないでしょう。

どうして発表が去年の秋になった?
当然、汚染水の放射能レベルは、
当初から数値としては分かっていたはずでしょう?
ならば今はどうなの?

そんなあれこれを見るにつけ、
いかに東電や政府が事実を隠してきたかがわかるというもの。
まあ、安倍政権や東電の隠蔽体質については誰もが知るところだから驚きはしないけれど、
だからといって当然許されない。

さらに福島第一の放射能汚染水の処理に関して思いだされるのは、
処理技術に関してアメリカのピュロライトという会社が、
日本の日立GEニュークリア・エナジーを東京地裁に訴えた(2015年)こと。
訴状におけるピュロライト社の主張は以下の通り。

「日立GEニュークリア・エナジーが、
2011年に両社間で締結した独占的パートナーシップ契約に違反しており、
かつ、福島第一原子力発電所における水処理装置において、
ピュロライトの営業秘密を無断使用している」

誤解を恐れずにいってしまえば、
東電側は当初、
ピュロライト社の技術を中核に放射能汚染水の処理をする約束をしたにもかかわらず、
蓋を開けてみればピュロライト社の技術だけをちゃっかり使いながら、
彼らを契約から外したということ。
(ピュロライト社の技術を得るために日立は、
経済ドラマさながらの手法を使っていたようだが、ここでは省略)

結論からいうと、
最終的に東京地裁はピュロライト社の訴えを退けた(2017年)訳だけど、
法的な解釈はともかく実際には、
東電側が都合よくピュロライト社の「技術だけ」をとった
…という印象は拭えない。

参考までに、
ピュロライト社が実証したという汚染水処理能力は以下のよう。


1)福島第一原発の汚染水に含まれる62種の放射性物質を、検出不能レベルまで除去できる。
これは実際の原子炉敷地内から採取した汚染水を使用した試験によって検証されている。
2)現在の汚染水処理で発生する放射性廃棄物の量を85%超も減らすことができる。
3)高濃度放射能汚染水を貯蔵するタンクの必要性がなくなりる。
4)地下水が原子炉に侵入するのを防ぐ防護壁の必要性が低くなる。


もし、ピュロライト社の技術を中核に据えて、
彼らと一緒に放射能汚染水の処理をしていたらどうなっていたのか。
正直、こればかりは分からない。


けれどもピュロライト社の言い分は間違っていないようにも思える。
曰く、技術だけを抜きだして使ってもうまくいかない。
実証試験通りの結果を出すには、技術そのものだけではなく、
必要な装置・設備の適切な使い方、つまり「運用の仕方」が重要。
その最適解は技術とシステムを開発した当事者が持っている。

果たして東電はどうだったのだろう。
結果を見ればきちんと処理できていなかった訳だから。




福島3
(福島県南相馬市村上海岸/ photo:kazuhiko iimura)




けれど、もう四の五のいっている余裕はない。
長く見積もっても、
数年以内に確実に汚染水をどうにかしないといけない訳なのだから。
「想定外の事故」で貯蔵タンクが壊れ大量の汚染水が海へ…
まさかそんなことを想定している訳じゃないだろうから。



福島2
(福島県南相馬市/ photo:kazuiko iimura)



飯村和彦


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2019年02月27日

地球温暖化がメープルシロップに与える影響とは?



メープルシロップ作り、シーズン到来!
日中は幾分暖かく、朝晩は必ず氷点下になる天候。
具体的には夜間はマイナス4℃以下。
昼間は4〜9℃、これ以上暖かくてもいけない。
そんな寒暖差のある気候条件が続く3月から4月の約2ヶ月間しか、
木から樹液を吸い出せない。
だからメープルシロップ作りはこの時期にしかできない。

訪れたのはマサチューセッツ州、ウェストハンプトン。
アメリカ北東部、「ニューイングランド地方」と呼ばれる地域にある。




古い小屋ロング
(メープルの樹液を濃縮させる小屋 /photo:kazuhiko iimura)



メープルシロップ入りバケツaaa
(メープルの樹液 /photo:kazuhiko iimura)




樹液は透明で、糖分は約2%。
それを糖分が約66%になるまで特性ボイラーで熱する(水を飛ばして濃縮させる)とメープルシロップができあがる。
(パンケーキには必須。ブルーベリー+ヨーグルト+メープルシロップの組み合わせなんかも良いですね)

では、どのようにしてメープルの樹液を集めるのか。
そこには自然を相手にした知恵と工夫がある。

使用されるのは真空ポンプ。
樹液がとれる大きさ(太さ)のメープルの木同士を細いチューブでつなぎ、真空ポンプに繋げて樹液を集めるのだという。これは「木の内部」と「外の大気」の圧力差を利用した方法で、「木の内部」の圧力が「外の大気」より大きいと樹皮に空けた小さな採取用の穴から自然に樹液が流れでる訳だ。
だから樹液をとる時期の気候(前述した気温の他、気圧や風向も…)も大切になる。

採取した樹液からシロップをつくる方法はどの生産者もだいたい同じだが、施設はまちまち。
年代モノの重厚なボイラーを使っているところ、最新式の設備を導入しているところ。
事業規模(商売の上手い下手)によって違ってくるのでしょう。




パンケーキaaa
(photo:kazuhiko iimura)



古い機械aaa
(樹液を熱で濃縮させる旧型ボイラー /photo:kazuhiko iimura)



新しい機械ロングaaa
(最新式設備を導入している生産者 /photo:kazuhiko iimura)



燃える薪 新しい機械aaa
(photo:kazzuhiko iimura)




ただ一口で「事業」といっても、
メープルシロップ用にメープルの木(主にシュガーメープルという種類)だけを植林した森をつくる…なんてことはしないという。上手くいかないらしい。

だから自分の土地だけじゃなく、他人の土地の木からも樹液を得る契約を結ぶのだそう。
この時期になると、あちこちのメープルの木とシロップ製造施設(小屋)を結ぶ細長いチューブが登場するのはそんな訳からだ。
まったくもって手間のかかる仕事だ。




メープルの木aaa
(シュガーメープル/photo:kazuhiko iimura)



木へ差込アップaaa
(photo:kazuhiko iimura)




けれども自然を相手にするということはそういうことなのでしょう。
樹齢何十年のメープルに、冬の終わりの約2ヶ月間だけお世話になる。そんな感じだ。

よって生産者のみなさんにとっては、
「地球温暖化」による気候変動の影響が心配の種。
何十年もの長きに渡り、気候と向き合ってきた彼らには、
環境の変化が良くわかるのだ。


「気候変動」と「日々の天気」の違いが理解できず、
寒波がくるたびに、
「地球温暖化なんて存在してない!」
と叫ぶトランプ大統領とは大違い。



気候変動は、メープルシロップ生産者にとっては死活問題になる。
先に書いたように、
一定の気候条件じゃないとメープルの木から樹液がとれない訳だから。
十分な寒暖差がないと樹液の糖度が低くなる…等々の理由からだ。
すると当然、シロップはつくれない。

事実、2年前は暖冬だったから生産量がガクンと落ちたとのこと。




スティーブさん2aaa
(スティーブさん /photo:kazuhiko iimura)



メープル年輪aaa
(メープル断面。中ほどには樹液採取用に一時期空けていた穴 /photo:kzuhiko iimura)



昔のスティーブさんたち
(昔のスティーブさんたち)



こどもの頃からシロップ作りをしてきたスティーブさんは、
「このまま温暖化が進むと、ニューイングランド地方(アメリカ北東部辺り)ではメープルシロップをつくれくなる…」と、先々を心配。
でも、「この仕事が大好きだから」といっては、メープルシロップ作りについて、それはそれは丁寧に教えてくれたのでした。


(飯村和彦)


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2018年04月10日

恐竜について考える〜いま人間が生きている奇跡



あらがえるものと、あらがえないもの。
あらがうべきことと、そうでないこと。



今回は恐竜の話。

数日前までは安倍政権についてあれこれを…と考えていたけれど、
これについては作家の中村文則さん(面識はありません)が、
のっぴきならない状況に陥っている今の日本の在りようについて、
「まさに!」のご指摘(書斎のつぶやき)をなさっているので、
そちらをシェアさせていただくことに。

このところネット上には、
「まだ森友問題で騒いでるの?」的な記事が、
以前にも増して多くなっているようだけれど冗談じゃない。

「安倍さん、まだ総理をやってるの?」
「麻生さん、まだ財務大臣をやってるの?」

基本線はそこでしょう。
それが権力をもっている側のまともな責任の取り方でしょ?
官邸前には“アベ政治を許さない”人が大勢だ。
そう、納得のいかないものごとに対しては、あらがえるだけあらがう。
人に責任をなすりつけ、なにごともなかったかのように生きのびる…。
そんな政治家はいらない。

「あんな大人にだけはならないでね」

ふてぶてしい。
あつかましい。
おこがましい。


さて、気分を変えて恐竜の話だ。



偉大なる恐竜に乾杯!

アメリカで“恐竜の故郷”といえばロッキー山脈沿いにある各州。
モンタナ、ユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナあたりになる。

恐竜研究の第一人者、ジャック・ホーナー博士が、
「恐竜たちの巣」を発見したのがアメリカ・モンタナ州ボーズマン。
(ホーナー博士は、映画「ジュラシック・パーク」のテクニカルアドバイザーを務め、
主人公のグラント博士のモデルになった人物)。

そして全長40〜50メートルと推定される、
世界最大の恐竜化石が見つかったのがニューメキシコ州。

これら“恐竜の故郷”は、
その大地の色から“赤いコロラド高原”と呼んでもいいぐらい、
赤褐色の巨大な岩の層が大地から力強くせり上がっている地域だ。
下の写真はそのうちの一つ。
コロラド州デンバー近くの「レッドロック」と呼ばれているところ。



赤い岩山
( レッドロック、photo:kazuhiko iimura )



岩山ロング
(コロラド州デンバー、photo:kazuhiko iimura)



約1億6000万年という長期にわたって地球を支配していた恐竜たち。
ホーナー博士はかつて次のように語っていた。

「みんなは、“どうして恐竜がこの世から姿を消したのか?”
その理由を知りたがる。
私は“どうして恐竜が約 1億6000万年もの間、地球上に存在し得たのか。
そこに興味があるのだ」

人類の祖先である新人類(ホモサピエンス)が、
東アフリカで誕生したのが約20万年前。
つまり人類の歴史は、恐竜たちが生きた歴史に比べれば、
ほんの瞬き程度の時間でしかない訳だ。
そんな事実に改めて考えをめぐらすと俄然、恐竜に興味が沸いてくる。

恐竜たちは、
どんな地球に、
どんな社会を築いて、
どんな風に生きていたのか? 

「恐竜? 子供じゃあるまいし、そんなことに興味ないね」

多くの大人たちは目先の現実しか見ない。
もっといえばその現実さえきちんと見えているのかどうか疑わしい。
きっと、子供たちはこう叫ぶだろう。

「大人たちは“本当の事”を知らないからさ」



足跡
(恐竜の足跡、photo:kazuhiko iimura)



上の写真で黒っぽく見えるのが恐竜の足跡。
大きいのが2つと、小さいのが一つ。
鳥の足跡のよう。
小型の肉食獣のものだという。

そして
下の写真は恐竜の骨の化石だ。
焦げ茶色の部分。
触ってみると表面がすべすべしていて、
ひんやり、しっとりしているように感じる。



骨化石1
(恐竜の骨の化石、photo:kazuhiko iimura)



随分前の話になるけど作家マイケル・クライトンは、
著書「ジュラシック・パーク」で、
琥珀の中に化石として残っている恐竜時代の昆虫
(恐竜の血を吸っていたと思われる昆虫)から
DNAを抽出して現代に恐竜を再生させると書いたけれど、
現在の科学技術をもってしても現実的には非常に難しいらしい。



骨化石2
(恐竜の骨の化石、photo:kazuhiko iimura)



でも、多くの研究者によってほぼ証明されている事実、
「今日でも恐竜と同じ系統にある生き物が一つ栄えている。それが鳥だ」
これには、胸躍らされる。
個人的なことだけれど、その話を聞いて以来(…もう20年近くになるかな…)、
鳥がちょこちょこ歩いているところを見かけると、
条件反射のように恐竜の姿を思い浮かべるようになった。

ところで恐竜は、どんな子育てをしていたのか?

1978年、ホーナー博士がモンタナ州で、
新種の恐竜(マイアサウラと命名)の集団営巣地を発見した。
巣の中からは、卵や孵化直前の胎児のほか、
体長1m程の子どもの恐竜も何頭か見つかった。

また、発見された14個の巣は、
約7mの間隔に並んでいたという。
この約7mというのは、大人のマイアサウラの体長と同じ。
この巣作りの形態は鳥類、
例えばペンギンの集団のものとよく似ているらしい。
ペンギンは巣をつくるとき、
親が行き来できる最低限のスペースは確保するが、
卵を保護するため、
それぞれの巣をできるだけ近付けるのだそうだ。

つまり恐竜は子育ての面でも、
爬虫類よりむしろ鳥類に近く、
集団である社会を形成して生活していたのではないか…
と考えられている。

では、恐竜の知能はどれぐらいだった?

一般的に恐竜の知能はワニやトカゲと同じぐらいで、
それよりも良くもなければ悪くもなかったといわれている。
けれども肉食恐竜のティラノサウルスやアロサウルスは、
同じ恐竜でも体重の割に脳が大きく、
知能は鳥類と同程度であったと考えられている。



トカゲ
(コロラドの知人が飼っているトカゲ、photo:kazuhiko iimura)



肉食性の恐竜は、機敏な動きで相手を倒す。
だから運動神経と共に知能も発達したらしい。

人間にも、どこか似たようなところがあるかも…。

ところが、そんな恐竜は約6500万年前に姿を消した。
約1億6000万年もの間繁栄していた恐竜が、
一瞬にではないにしても、
忽然と地球上から消えたんだから大変なことでしょう。


と、ここまで書いてきて話は少し横道にそれる。
数日前に、
“約5000万年のうちにアフリカ大陸が分裂される”
というニュースをみたから。



大地の鳴動

アフリカのケニアに現れた巨大な地割れ
その長さは数キロに及ぶといい、
地殻変動によってアフリカ大陸が二つに分裂しつつある…
との学説を裏付けるものだとも。
研究者たちは、
今後5000万年の間にアフリカ大陸が分裂すると予測しているらしい。

先にも書いたように、
人類の祖先が誕生したのが約20万年前だというから、
地殻変動なんていうものは、
そもそも人間の考える尺度で扱えるような事象ではないのだろう。

東日本大震災の後、原発関連の取材で、
使用済み核燃料を地中深くに「処分」するやしないの話になったとき、
日本のある電力会社関係者は、
「地中に埋めた核廃棄物が、
地殻変動によって地上に隆起してくる可能性も考えないといけない。
だから処分場の選定は慎重に行う必要がある」
と説明した。

実に奇妙な話だと思わない?

そんな厄介なものなら即刻使うのを止めればいい。
元来、人間の手に負える代物じゃないのだから。
にも係わらず、福島原発事故の教訓をいかせない日本(…というより現政権)は、
主要電力源として今後も原発を使用し続ける政策を掲げている。

ものごとを判断するする際に必要な「想像力」というものが希薄らしい。
多くの人が「無責任だ」と考えるもの当然だ。
もっとも、
今の政権に「責任は?」なんて問い正しても糠に釘、
豆腐に鎹(かすがい)…状態なのだからどうしようもないか。


さて、恐竜が約6500万年前に地球上から姿を消した話にもどろう。

600種類以上いたとされる恐竜が絶滅した理由は、
ご存知の通り、隕石の衝突だ。
落下地点は、メキシコのユカタン半島付近だと確認されている。

2010年3月、科学誌「サイエンス」は、
“地球環境を一変させた破壊的衝突の全容”を以下のように伝えている。

衝突した天体は直径10〜15キロの小惑星。
衝突速度は秒速約20キロ。
衝突時のエネルギーは広島型原爆の約10億倍。
衝突地点付近の地震の規模はマグニチュード11以上。
津波は高さ約300メートル(推定)

隕石の衝突によりものすごい量のチリが大気圏に舞い上がり、
長期間に渡って太陽光がさえぎられて地球上が寒冷化。
核の冬のような状態となり、
海のプランクトンや植物が死滅。
結果、恐竜なども絶滅したと考えられるという。


あらがえるものと、あらがえないもの。
あらがうべきことと、そうでないこと。




やりきれない

シリアでは政府軍が、
塩素ガス・神経ガスとみられる化学兵器を使用。
地下壕に避難していた民間人110人以上が殺害され、
犠牲者の大半は子どもだったという。 

いったい何がしたいんだ?
微塵の大義もないでしょ?
そもそも子ども達は、
国の大義のためなんかに生きていないし。



高速と空
(コロラド州、photo:kazuhiko iimura)



約1億6000万年にわたって、
地球上を恐竜たちが闊歩していた時代。
もちろん、人間なんていない。
もし、巨大隕石の激突がなければ、
もし、地球環境に大異変が起きていなければ、
今でも恐竜たちが、陸を支配していたかもしれない。
だとすれば、
もちろん、人類など存在していないだろう。

逆にこうも考えられる。
いま人類があるのは奇跡なのだと。
人間が生きていられる一瞬一瞬が、奇跡なのだと。

(飯村和彦)


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2017年12月22日

手当り次第に“考える”「2050年は人生110年社会に」



うさぎと亀の話じゃないけど、亀のように一歩一歩着実に、
ゆっくりでもいいから毎日を大切に過ごしていけたらいいな…としみじみ思う。
「のそのそ」
でも、
「てくてく」
でも、
自分の足できちんと自然体で…だ。
「はやく大人になりたいなあ」と考えていた頃は、とかく急ぎ足になりがちだったけど、
いま大人になって(いい大人かどうかは別にして…)、つくづくそう感じる。




亀
(photo:kazuhiko iimura)




2017年も残りわずか。

ここにきてアメリカでは、急ごしらえの税制改革法案が議会を通過、
トランプ大統領は、

「歴史的な減税だ!」

と意気軒昂だけれど、
実際は当の本人が選挙公約に掲げたほど低中所得層に恩恵はなく、
優遇されるのは大企業と富裕層だ。
まさにお金持ち好きのトランプの真骨頂(?)。
また、減税をすれば当然財政に穴があき、その額は約1.5兆ドル。
その穴をなんで埋めるかのかといえば、きちんとした制度設計ができていないよう。
予算を切り詰めるための一つの候補になっているのが、
低所得者層の子どもや母親らへのヘルスケア・プログラムへの支出のカット。
なんとも悲しいアイディアだ。
そうなると約900万人もの低所得者家庭の子どもが、
医療サービスを受けられなくなるらしい。




トランプ人形
(photo:kazuhiko iimura)




大統領就任直後から、
トランプの支持率は「歴史的な低さ」でほぼずっと30%台(Gallup Daily: Trump Job Approval)。
10月末にワシントン・ポストが行った世論調査では、
トランプ政権下で、

「政治の停滞が危険水準に達した」と考える国民が71%

その原因はトランプ大統領自身にあると答えた人が85%にも達している。
じゃ、どうしてトランプが大統領になっちゃったの…という話だ。

ともかく、そんなこんなで2017年が終わっていく。
はやいものだ。


個人的なことでいえば、
今年は医療系の取材をたくさんしたなあ…というのが率直な感想。
つまり、それだけ加速度的に医療の各分野が進んでいるということだ。
がん治療に関しては免疫療法が完全に研究開発の主流になり、
新しい薬や様々なタイプの治療方法が登場してきた。

光免疫療法
 なんかは、近赤外線でがん細胞を瞬時に破壊するというから凄い。
はやく一般の医療現場でその威力を発揮して欲しいと思う。




近赤外線
(photo:kazuhiko iimura)




それから一番驚かされたのが死んだ 脳細胞を再生させる薬

以前ここでも紹介(想像力を駆使して手当たり次第に“考える”「例えば新垣さん」 )した、
脳梗塞や脳損傷でダメージを受けた脳を再生させる細胞薬のことだけれど、
まさにこれまでの医学の常識をくつがえす画期的なものだった。
リハビリをしても効果のなかった腕や足が動かせるようになったのだから。
この薬なども一日も早く治験を終えて認可されて欲しい。

そしていま取材しているのがアンチ・エイジングの分野。
現在進められている研究開発が成功すれば、

2050年までに人間の寿命は100歳〜110歳まで延び

尚且つ人生最後まで健康的な生活を送れるようになるのだという。
ある程度長生きをしても晩年は病気との闘い…ということじゃなくてだ。
これにはびっくり。

けれども、そんな長寿医療の発展も受け止め方はひとさまざま。
今月83歳になったあるアメリカ人のおじいちゃんにその話したら開口一番、
「そりゃ大変だ。もっともっと働かないといけなくなる」ときた。
「でも、健康なまま長生きできるのは良いことなのでは?」
と尋ねてみると、
「そんなに長生きしたら年金がなくなるよ」
とっても現実的な答えが返ってきた。
一日一日を大切に丁寧に過ごしているおじいちゃんならでは考え方だ。
なるほど、ものごとはいつだって複眼で見ないといけないということ。
2050年までにはまだ少し時間があるから、
そんな(超)高齢化社会に見合った制度をつくる必要がある訳だ。



人生に続編はある?
そうだね、ないよね…きっと。
だってひと繋がり、
一回きりだから“生き切ろう”って思えるのだろうから。



「続編」っていえば、その要望の多かったドラマ 「逃げるは恥だか役に立つ」 (TBS系)が、
年末年始の昼間に一挙再放送されるという。
畑違いではあるけれど同じテレビ業界に身を置く人間にしてみればこれも驚きだ。

それだけ、新垣結衣 さん演じる 「森山みくり」 をもう一度…という視聴者が多いのだろう。

もちろん年末には番組の再放送が多くなるけど、
大抵は、その夜に放送するスペシャル番組の番宣的に前年のものを流す…というケースが多い。
番組宣伝ではなく、純粋な再放送(それも二日間にわたって約12時間)というのは聞いたことがない。
TBS、ずいぶん思い切った編成をしたもんだ。
でもまあこれで普通に考えれば「逃げ恥」の続編…という話はなくなったのでしょう。
きちんと完結した良質の物語(原作もそうだし…)、
言い換えればシリーズ化に馴染まない性格の作品だから「続き」といってもね。
もしかすると制作スタッフや出演者の方々もそう考えているのではないかな…とも。
次なる傑作のために。
でもテレビ局には大人の事情、
例えば視聴率がとれるなら少し無理をしてでも…とかがあるからなあ。


ナニワトモアレ、みんなが楽しめればね。
楽しくないと、疲れるし。

なにごとによらず、人に楽しんでもらえるように、
みんないつだって全力、ベストを尽くす。


けれどもそのことと肉体的、精神的な疲れは別で、頑張った分ちゃんと疲れる。
からだは正直だから。




大空
(photo:kazuhiko iimura)




人生って長い?
それとも短い?
年齢によって感じ方が違うのはそれとして、
「短い」って感じるときの方が充実しているのかも…。
そんなとき、
いつもずっと、ただ静かに隣にいてくれる人がいるといいよね。
例えば気心の知れた幼馴染とか。
べたべたする関係じゃない。

大事なとき、一緒にいて欲しいとき、傍にいてくれる。
そんな穏やかな人だ。


けれども、いまある、
自分の在り方にとらわれると自分を見失う気がする。
生き方、生活のスタイルを変えないで、日常を送っていく。
まわりからの視線は、ことあるごとに良くも悪くも変わる。
これは自然なことだ。
だから子どものころから家族や仲間と積み上げてきた時間や環境を、
自分の感性のまま、精一杯生きるしかない。

「自然体」 って多分そんなことだ。

勢い込まず、でもその人なりに一生懸命考えて。

いまの立ち位置を確認しながら前を向いて、自分なりスピードで進んでいくしかない。
きっとそれが自分らしさのはずだ。
2018年は、そんな一年になればいいな…と思う。

考えて、前を見て、踏ん張って、もうひと頑張り…

(飯村和彦)

newyork01double at 09:30|PermalinkComments(0)

2017年09月25日

想像力を駆使して手当たり次第に“考える” 「例えば、新垣さん」



自由にあれこれ「考える」こと。順不同。
そんなときにはタイトルやら小見出しやらが必要ないから愉快になれる。深刻にもなれる。
だからいい。


インタビューは受け手と聞き手による共同作業。

大切なのは想像力だ

ちょっと考えればすぐに気づく。
ご存知の通り、自分の思いや考えを言葉でいい表すのってもの凄く難しい。というか大抵の場合、考えていること、思っていることのほんの一部しか言葉にならない。だから思いの全てを相手に伝えるなんて絶対できっこないと感じてしまう。誤解されてしまうことだってある。
でもあきらめたらそれまで。
水が湯になり湯が沸騰する直前に現れるあの泡のように、ポツリポツリと沸いてくる言葉に耳を傾けてみたい。焦らず気負わず勢い込まずに。想像力を最大限に働かせてね。
でもテレビだとそんな余裕はない。そもそも放送時間の制約もあるし。
やっぱり本にする?
本にだってそりゃ文字数やページ数の制約はあるけれど、活字だから、ゆったりとした時間の中で交わされた言葉を何度も眺められる。言葉を口にしたときの表情も思い描ける。行間から言葉にならなった相手の思いなんかも感じられる。


「どんなことがあっても生き抜いて。そして生き切るのよ!」

生きることと「行き切る」ことは決定的に違う。
がんとの闘いを何度も克服し、97歳まで生きた祖母。手元には最後の7年間を記録したVTRがある。映像は祖母が90歳のときの正月から始まる。
撮影舞台はといえば、ほとんどが実家だから、シーンも私どもが実家を訪れる盆と正月が大半だ。だから当然、同じ行事の繰り返しになる。
ところが、完成したものを通して見ると、そんな毎年の繰り返しだからこそ、「そうなのか…」と合点するところが多々あった。




Hana2
(photo:kazuhiko iimura)



当然ながら祖母は年々、老いていく。
“老いが深まる”といった方が適切かもしれない。
けれども、「生きよう!」 「生き切ろう!」とする意思は健在で、末期がんで死の淵に瀕したときも、70年間連れ添った夫(祖父)と死別したときも、彼女は強い意志でその都度、奇跡的な回復を遂げた。
もちろん歳が歳だから、顔に刻む皺は年々深くなるし、幾度となく繰り返される外出時に玄関をでる様子は、“一人でスタスタ歩いている” 姿から“家族の誰かに抱えられて…” の姿へと変わっていく。

だが、それは単なる身体的な老いでしかないようで、祖母の老いと反比例するように、年々成長するひ孫たちと接するたび、祖母は自分自身の中にあった「生きる力」を再確認していたように思える。

家族の中に高齢者がいること。
自宅とケアハウスを行き来する祖母の生活。
そんな祖母の生活を支える家族の日常。
もちろん、介護する側の負担は大きい。
でも、だからといって何か特別なことをする訳じゃない。
明るく楽しく。
毎年、どんなときでも…いつも通り、普段通り。
そんな「いつも通り」がどれほど大切で、どれだけかけがえのない時間だったことか。
亡くなる1年前、祖母が語ったこと。

「人の人生にはそれぞれの持分(もちぶん)というものがあってね。
私は自分の持分を使い切ったから、あとはもうどうなってもいいんだよ」

素敵な言葉だった。


雪の多い地方では、冬の間、開墾した土地に降り積もった雪の上にケイ酸や水溶性カルシウムを散布すると聞いたことがある。上空から降ってくる雪には大量の窒素が含まれている。窒素は土壌にとって貴重な肥料。だから雪の上から蓋をして窒素を閉じ込めてしまうのだそうだ。
 

氷の中に封じ込められる時間。
タイムマシーン。





neko
(photo:kazuhiko iimura)





猫は自分のことを猫だとは思っていないだろう。自分を「そういう分類を超越した特別な存在」だと思っている? 
そもそも分類なんて窮屈な発想自体がないに違いない。在るがまま。羨ましい。
一度ゆっくり猫と話をしてみたいものだけれど、現実にはねぇ。

だいぶ前のことになるけれど、小渕恵三さん(…あえて“さん付け”にしています。その方が親近感があって好きなので)は首相になる朝に話していた。
自分は「冷めたピザ」でも構わないと。 
他人からの批判を甘んじて受け入れる政治家には、視線の先に思い描いているはずの、その政治家なりの国家観を聞いてみたいと思う。好き嫌いに関係なく。
じゃぁ、いまの首相は? 
彼には「美しい国へ」という著書があった。
「美しい国」=「うつくしいくに」。
逆から読むと、「にくいしくつう」=「憎いし苦痛」
近々、総選挙があるらしい。いま政界では摩訶不思議な力というか「思惑」がうごめいているよう。いい方向にその力が働いてくれるといいのだけれど。


自然の大きな力は、ものごとをあるべき状態に戻していく


熊本地震では、落ちない巨石、「免の石」が落下した。
筑波山(茨城県)には「落ちそうな巨石」がある。「弁慶七戻り」と呼ばれている大きな石のことで、言い伝えには、そこを通りかかった弁慶が、いまにも「落ちそうな巨石」が頭上に落ちてくるのではないか…と不安になり、その巨石の下をくぐるのを7度もためらったとある。
あの弁慶でも…ということなのだろう。


「つわもの」だって怖いものは怖い





つくば
(photo:kazuhiko iimura)





平成の怪物投手なんて呼ばれていた松坂大輔 さん。
「自信が確信に変わりました」
ブロ入り直前、当時18歳だった彼は、そんな決意を口にした。
けれどもそこに至るまでの努力や苦悩、不安な日々は並大抵ではなかったはず。事実、人目をはばからず悔し涙を流した日もあった。
横浜高校2年のとき。エースとして臨んだ夏の甲子園・神奈川県大会準決勝でのサヨナラ暴投、134球目だった。彼は試合後ベンチで泣き崩れた。
でも、あの日の屈辱があったからこそ高い目標を求めて野球に取り組むことができるようになったのだという。

あれから19年。
いま松坂さんは度重なる肩の故障に苦しんでいる。今シーズンは二軍のマウンドにさえ登らなかった。

18歳のとき彼はこうも語っていた。
「(いつも考えていることは?)自分が一番うまいと思って、練習はやっています」。そして「プロとは人に夢を与える仕事。その最高の舞台がプロ野球。多くの人に注目されればされるほど、力が沸いてきます」
37歳で迎える来期。もう一度輝いて欲しい。


不可能は可能のはじまり

あるベンチャー企業の社長は、インタビューの最後をそんな言葉で締めくくった。
脳梗塞や外傷性脳損傷によって死滅した脳細胞を再生させる薬の開発。
健康なヒトの骨髄液からとった幹細胞に特別な処置を加えてつくる「 細胞薬 」、つまり、生きた薬だ。
開発を始めてから今年で16年。
臨床試験も順調に進んでいて製品化(治療薬としての承認)まで「もう少し」の段階にまできている。

「出来っこない、不可能だ」といわれ続けた日々。

けれども彼自身は不可能だなんてまったく思っていなかったらしい。
人のために自分ができること。
誰かの役に立ちたいという一貫した信念だ。





623
(photo:kazuhiko iimura)





新しいものを世の中にだすこと。
これまでの常識をくつがえすこと

魔法なんてないから、本気で自分の信じる道を進み、努力するしかない。
でもきっと心が折れそうになる瞬間もあるのでは?
そんなときはどうするの?
小声でもいいから教えて欲しい。とくに自分が弱っているときは…ね。





こけ
(photo:kazuhiko iimura)





ある人は、
「スナゴケやスギゴケに水をあげているときが唯一ほっとする時間ですね」
と応えるかもしれない。
そんなときはスナゴケやスギゴケについて詳しく教えてもらう。同じものを同じ気持ちになって眺める。 
石に張り付いているビロードのようなコケ。よく見ると微小な真珠のような芽がたくさん並び輝いていてとっても綺麗だ。

夢を実現すること。
または夢に近づくために努力をすること


孤独かもしれない。
でも、努力を惜しまず目標に向かってまい進する姿は人を魅了する。
夢を共有してくれる人が現れ、仲間ができる。
凄いことだ。


「いまは誰かのために医者でありたいと思う。
俺はそれをお前らから教わった。
俺は出会いに恵まれた。お前との出会いを含めて」

これはフジテレビで放送されたドラマ「コード・ブルー 〜ドクターヘリ緊急救命〜 THE THIRD SEASON 」の最終話で山下智久 さん演じるフライトドクターの藍沢が、新垣結衣 さん演じる白石に語った台詞だ。
おそらく season1 にあった指導医・黒田の「お前らに出会わなければよかったなあ」という台詞が伏線になっているのでしょう。

心が揺さぶられ、泣いた。

ちょうど脳を再生させる薬の取材を進めている期間とこのドラマの放送期間が重なっていたため、初回から毎週興味深く見ていた。
良質なドラマが描くものごとや人物像には時として圧倒される。そして文句なしに感動させられる。知らず涙を流している自分がいること、それ自体が四の五の言えぬ動かない証拠だ。
なかには「あれはドラマだから」という人もいる。けれどもドラマだからこそ伝えられる大切なものが確実にある。


ドラマのなかで生きること。
でも、当然ながら一人の人間としての日常もある。
俳優、女優というのは大変な職業だと思う。


仕事から帰ってベッドに倒れ込んだときの脱力感や充実感。
自分の光で歩くということ。
公園に寝ころんで秋空を見上げたときの心の在りようは、どんな言葉に還元されるのだろう。


演じることと生きること。
俳優、女優として多くの人の期待に応える。
並大抵のプレッシャーじゃないはず。巨大だろう。
けれども彼らは全員、そんな重圧のなかを軽快に駆け抜けているように見える。


例えば、新垣さん

巨大なものを相手にしている怖さのようなものを感じさせない立ち振る舞い、まとっている空気は特有だ。
でもその特有さは「なんて普通なんだろう」と感じさせる空気なのだからこれは言葉では説明できない。
だからこそきっちり役を演じきれるのだろう。
にもかかわらず、そんな空気を多分、というか間違いなく計算や意図なく自然にかもしだしているのだから、その在りようには驚くほかない。 

そういえば新垣さん、ヒョウモントカゲモドキを飼っていると何かの記事で読んだ(…確か犬も)。
ヒョウモントカゲモドキのクリっとした目を覗き込んだときに湧いてくる親密さ。
指先でからだに触れたときに感じる安心感。
もっといえばそんなときにふと思いだす日常の風景や出来事ってどんなものなのだろう。



周りにいる人たちに目を移せば、ある人は猫を飼っている。
もちろん犬を家族の一員にしている人もいる。
モモンガを飼っている人もいるに違いない。

我が家にはいま猫がいる。今年で9歳(だったか?)になる黒い猫だ。
彼の爪を切ったりブラシをかけているとき、自分はなにを考えている?
だいたいにおいてそんな時に思い浮かべるのは特別なことじゃない。
ささやかで、ごく日常的なことが多い。でも実は、そんな特別じゃないあれこれこそが自分の成り立ちみたいなものに一番大切なことだったりする訳だ。






noa
(photo:kazuhiko iimura)





悪戦苦闘しながら子育てと仕事を両立させているお母さん。
彼女は、わが子が眠りについたとき、彼ないし彼女の寝顔をどんな気持ちで眺めるのだろう。初めて高熱をだしたとき、初めて血を流すようなケガを負ったときはどうだったのか。

うちの息子がまだ1歳半ぐらいのころ。
朝から切れの悪い「ゴホゴホ」を繰り返し、夕方には、耳にして不安になるほどの「湿った音」になっていた。
熱は38度弱。とはいっても本人は、ときどき咳き込みながらも普段と同じように積み木を積んではそこにミニカーをぶつけて遊んでいた。
妻が電話で医師の判断を仰いだところ、「一晩様子をみて、咳がもっとひどくなる様だったら朝一番に病院に来るように」とのことだった。
翌朝の明け方近く。息子の湿った咳は、「ゴホゴホ」ではなく「ゼーゼー、ゴーゴー」という嫌な音に変質した。小さな胸に耳を当ててみると風が舞っているような鈍い音が聞こえてきた。それが、息を吸うたびに繰り返えされる。
「病院へ行こう」
そう決めて、息子を抱きあげようとしたときだった。

「ここにライオンがいるみたい」
と彼がいった。

息子には、胸の中で渦巻く音がライオンのうなり声に聞こえていたらしい。
そういうなり息子は、ニコッと笑った。その笑顔が私たち夫婦をどれだけ安心させてくれたことだろう。
結局、病院での診察結果は気管支炎の初期症状。薬を飲むとその日の午後には症状も治まった。
しかし、こうも考えた。
息子の胸の中からライオンを退治したのは薬ではなく、彼自身じゃなかったのかと。
それぐらい息子は落ち着いていたのだ。


普通でいることの難しさ
普通に見えることの特別さ
普通であろうとする努力
普通に振る舞える尊さ
多くの人がいうように「普通」ほど厄介な概念はない



じゃぁ、特別な状況に置かれたときは?

御巣鷹山の記憶。

「部分遺体発見、部分遺体発見!」
トランシーバーに向かって大声で話す自衛隊員の声は今でも耳の底に張りついている。
ヘリコプターの轟音と巻き上がる砂埃。
あのとき御巣鷹の尾根で見た光景は決して忘れることのない惨状そのものだった。
墜落現場の焼け焦げた臭い。信じられない数の棺が並べられた遺体安置所(地元体育館)。
家族や友人の身元確認を待つ、沈痛な表情をした人たち。
その全てが「悲嘆の固まり」だった。

「自分の目で見たものを自分の言葉でリポートしろ。それから、遺族に失礼なことだけは絶対にするな!」
取材にあたって上司から言われたのはそれだけだった。現場に入れば、若手もベテランも関係ない。自分の目と良心に従って取材にあたるしかないのだから。

あの時、どのような取材をしたのか。今、その全てを細部まで思い出すことは難しいけれど、一つだけ確かなものが残った。
一枚の葉書。




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(photo:kazuhiko iimura)




息子さん夫婦とお孫さん一人が事故の犠牲になったご遺族からのもの。
事故直後、遺品が並んだ部屋で、なんとかインタビューをさせていただいたのがきっかけで、翌年の慰霊登山の際には同行取材を許してもらった方だった。

「頂いたテープ、時折再生しております。本当にお世話になりました。…また、お目にかかれるのを期待しております」

届いた葉書には、そのような言葉が丁寧な文字で記されていた。
悲しみに沈む遺族に無理をいって取材をさせてもらう。
失礼のないように気を配っていても、知らず心の傷に触れるような質問もしていたに違いない。

けれども、葉書一枚で救われた。
以来、今日に至るまで折に触れてその葉書を思い出す。
取材者として人にどうあるべきか。さらには人としてどうあるべきか。
御巣鷹山での経験は、自分の仕事の原点になっている(少なくとも自分ではそう考えている)けれど、もしあの葉書が届いていなかったら果たしてどうなっていたのか。
はなはだ…疑わしい。 

はなはだ…。甚だ。
誰かの本に「確率」は、「たぶん」と同じ意味合いだとあった。
多分…。


(飯村和彦)


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2017年08月07日

結論は「日本必敗」…開戦前に存在した「奇跡の組織」総力戦研究所とは?



彼らが導きだした結論は「日本必敗!」
それはまさに「奇跡の組織」だった。

太平洋戦争の開戦直前、1940年9月、
勅命により内閣総理大臣直属の機関として設立された「総力戦研究所」のことだ。
たぶん、ほとんどの日本人はこの総力戦研究所がどんな目的でつくられ、
何を行ったのかを知らないだろう。
それよりなにより、
そんな組織が当時あったことすら関係者以外は知らないに違いない。



総力戦研究所
(photo:kazuhiko iimura)




総力戦研究所

これまで多くの時間を費やして総力戦研究所に関する史料や文献にあたり、
関係者にも話を聞いた。その結果到達した結論が、
冒頭に書いた通り、それは「奇跡の組織」だったのではないだろうか、
ということだった。

「総力戦研究所」設立の目的は、文字通り総力戦に関する基本研究。
各官庁・陸海軍・民間から選抜された若手エリートたちが、
出身機関・組織から持ち寄った重要データをもとに率直な議論を行い、
国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることだった。


では、なぜ「奇跡の組織」だったのか

その最大の理由は、この組織が、内閣総理大臣直属の機関でありながら、
官民軍の垣根を越えた純粋な研究教育機関だったこと。
教育において重要視されたものは“縄張り意識の払拭”だった。
前述した通り、研究員には各省庁や陸海軍はもとより、
日銀やメディア、民間企業から選りすぐりの人材が登用された。
平均年齢は33歳。
つまり、次世代の日本を担う現役中堅幹部たちが、出身母体の利害を越え、
開戦へと突き進む世相に惑わされることなく、
冷静に当時の日本の国力を総合的に分析した訳だ。

翻って現在の総理大臣直属の各機関の在りようを考えて欲しい。
構成メンバーの多くには、総理や時の政府の思惑に沿った人物が任命され、
だされる提言はといえば、政権が実行したい政策を後押しするものがほとんどだ。
ある政策に対して多くの国民が「NO!」を訴えている場合ですら、
政府方針に真っ向から異をとなえる提言をだすとは考えにくい。

ところが開戦直前の時期、総力戦研究所のメンバーたちは、
勅命による総理直属の機関でありながら、堂々と自分たちの研究結果を発表、
政府に異をとなえることも厭わなかったのだ。

総力戦研究所が行った研究の中から、特筆すべきものを二つあげよう。

まずは、開戦のおよそ10ヶ月前にだされた、
日本の戦争指導機構の致命的な欠陥を指摘した研究、
「皇国戦争指導機構ニ関スル研究」




文書グループ
(photo:kazuhiko iimura)




この研究報告書は、昭和16年2月3日付で作成され、
40部が関係方面に配布された「極秘」扱いの文書だった。
内容は、
「総力戦段階に適した戦争指導機構は、“政府を戦争指導の実行責任者”とする機構。陸海軍は「強力ナル支援」の立場にあるべき。
ところが実際には統帥権が国務から独立し、それ自体が自己運動している現状がある。
これでは到底総力戦段階に適合した戦争指導は望むべくもない」
として統帥権独立制を正面から批判。
さらに、
「可能な限り統帥権を狭義に解釈することで政軍関係の調整を行うべきだ」
として、独自の戦争指導機構改革案を提示した。


統帥権の独立

ここでいう「統帥権」とは、
大日本帝国憲法(明治憲法)第11条が定めていた天皇大権のひとつで、
軍隊の作戦用兵を決定する最高指揮権のこと。
明治憲法下の日本では,統帥権を天皇の大権事項として内閣,行政の圏外においたので、
陸海軍の統帥権の行使に関する助言は国務大臣の輔弼によらず、
もっぱら陸軍では参謀総長,海軍では軍令部総長によるものとされ、
「統帥権の独立」が認められていた。
つまりここに「国務と統帥の二元制」という帝国憲法の欠陥があった。

太平洋戦争においては軍部が、「統帥権」をたてに天皇を利用。
結果、日本は負けると分かっていた戦争に突き進んでいった訳だから、
開戦直前の時期に、政府肝いりの機関だった総力戦研究所が、
軍部暴走の主因であった「統帥権の独立性」に関して、
ここまではっきりと否定していた事実は歴史的に重い。


日米開戦のシミュレーション

総力戦研究所が行った特筆すべきことの二つ目は、「日米開戦のシミュレーション」
いま開戦に踏み切った場合、
戦況はどのように推移し、結果どうなるのかを見極めることだった。

ここで用いられた手法は、
模擬内閣を組閣し、国策遂行と総力戦の机上演習を行うというものだった。
模擬内閣は総力戦研究所の研究生34名で構成され、
彼らは出身機関・組織から持ち寄った第一級のデータをもとに、
想定される戦況の推移を仔細に検討した。
この研究結果は、開戦直前の昭和16年8月27,28日、
首相官邸で行われた「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告された。

総力戦研究所の模擬内閣の導き出した結論は、
「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、
その負担に日本の国力は耐えられない。
戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗戦は避けられない。ゆえに戦争は不可能」
という「日本必敗」のシナリオだった。
これは真珠湾攻撃と原爆投下以外、現実の戦局推移とほぼ合致していた。

この机上演習に関する報告は、当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、
政府・統帥部関係者の前で行われたが、
結論を聞いた東條陸相は、

「…これはあくまで机上の演習でありまして、…戦というものは、 計画通りにはいかない。…(この演習の結果は)意外裡の要素というものを考慮したものではないのであります」と発言し、「この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬ」として、演習について口外しないよう求めたという。

結局、総力戦研究所の研究結果は現実に生かされることはなく、
日本は「必敗」の戦争に突入していく。

歴史に「if」は禁物だか、あえて考えれば、
もしも総力戦研究所のような組織・機関が、開戦間際の時期ではなく、
もっと早い段階、昭和初期にできていたら、
あの不毛な戦争を回避できていたかもしれないし、
そうすれば約320万人もの尊い国民の命が失われずに済んだかもしれない。

では、戦前の総力戦研究所のような、官民の責任ある立場の人たちが、
それぞれの抱える利害を越えて、
一緒になって日本という国の在り方を真剣に考えるような組織なり機関、
あの「奇跡の組織」はもう二度と登場しないのだろうか。

少なくとも今の政治家や官僚にはまったく期待できない。
その意味では「奇跡」がもう一度起こることはまずないように思える。

けれども少し先を見れば、
「もう一度奇跡が起こるかもしれない」との微かな希望がないわけじゃない。
そのほう芽のようなものは、2年前の安保法案反対の運動の中にあったような気がする。
立場を越えた人たちによる縦横の連携だ。




安倍政治を許さない
(photo:kazuhiko iimura)




安倍政治を許さない

将来の日本を支える多くの大学生や高校生が、
自分自身でこの国のあるべき姿を考え始めた事実は大きかった。
彼等の中から、
間違いなく有能な政治家や官僚、各分野の次世代のリーダーが登場してくるだろうし、
そんな彼等であれば、
省益やら政治的な利害、企業エゴなどを越えた横の繋がりをつくれるに違いない。
そしてそのことが、
次なる「奇跡の組織」の登場を現実のものにしてくれるのだろうと想像する。

ではその実現のために、
彼等の親の世代である自分たちは何をすべきなのだろう?

考えるまでもない、
ダメはダメ、
許してはいけないものに対しては躊躇することなく声を上げて行動するしかない。
もうためらっている時間はないのだから。
でないと、懸命に頑張っている次の世代に申し訳ない。

(飯村和彦)


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2017年06月09日

もはやテレビじゃない!「いま」を映しだす【Vlog(ヴログ)】の逞しさ



時代を映すものってなんだろう。
ふとそんなことを考えて身のまわりを眺めてみると、
実に様々なものがあると改めて気づかされる。極端な話「全て」なのだ。
でもそうなってしまうと身も蓋もないので、ひとまず自分の係わっているメディア、
特に映像媒体を例に考えてみることにした。

一昔前まではテレビは時代を映すメディアの代表だった。

「それテレビで見たよ」とか、「テレビでやってたやつだろ?」

そんな会話が頻繁に交わされて、
そこには意識するしないに係わらず「テレビ=正しい情報源」的な認識が少なからずあったように思う。
テレビを「社会の窓」なんて呼んでいた時代もかつてあった訳だから。
もちろん、いまでもそんな会話が世界中で交わされているんだろうけど、
その評価はだいぶ変わってきているのも周知の通り。
「テレビ=正しい情報源」的な部分に多くの人が疑問を持っているだろうし、
テレビが「在るがままの社会」を伝えていると考えている人は少ないはず。

どうしてテレビの評価は下がってしまったのか。

個人的には、
ニュース(民放)でやたらと見かけるようになった“映像のボカシ”なんかがその一つ、
象徴的なものだと思っている。
街角の自販機や看板、店内のビールや会議中の卓上に並んだペットボトル…、
それら商品の銘柄が、伝えているニュースの内容とは無関係に消されているあれだ。
ご存知の通り、すべて番組スポンサーとの兼ね合いでそうなっているのだけれど、
視聴者にとっては邪魔なだけの映像処理だ。
本来のニュース内容に集中したくても、
あの“映像のボカシ”のために注意が散漫になってしまうばかりか、逆に、
ニュースそのものよりも、内容とは関係のない“映像のボカシ”が気になってしまう、
なんてことも少なくないだろう。

番組スポンサーから実際に、
「競合する企業の商品が映像に映っていたら、伝えている内容に係わらず消してください」
というような要請が番組側に入っている場合もあるだろう。
だが、過去にそんな要請を受けた経験のある番組担当者が、
「スポンサーの関係があるから消しておいた方がいいんじゃないか…」
と先回りしてボカシを入れてしまうケースもあるように思う。

このところよく耳にする、いわゆる「忖度(そんたく)」ってやつだ。
「私が申し上げたことを忖度していただきたい」
最近では、安倍首相本人がそんないただけないジョークを飛ばすほど世に広まった言葉だが、
政治家や官僚だけではなく、
ニュースに携わっている人間まで、あれこれ「忖度」していたんじゃ話にならない。


そんなニュース番組、おかしくありません? 
いったい誰のためのニュース番組なんだ?
伝えるべきことをそのまま、まっすぐに伝えていないんじゃない?


視聴者がそんなふうに感じてしまうのも当然な気がする。
だからなのだろう。
ここ数年、自分の思いや考え、さらには日常を「動画」の形で一般に公開する人が増えている。

ブログやYoutubeに、自作動画をアップする【Vlog(ヴログ)】だ。
この【Vlog】をつくる人は【Vlogger』(ヴロッガー)】と呼ばれ、
アメリカなどでは情報を発信するプラットフォームとして今や欠かせない存在になっている。
人気のあるVloggerになると、数千、数万、なかには数百万人ものチャンネル登録者を抱えている。




CaseyNeistat





PlayTheGameFilms





iphoneはもとよりドローンや高性能カメラなど、
動画制作に用いられている機材は「いま」を象徴するもの。
手に入れようと思えば誰でも一般に購入できるものだから、
そうした機材面から見ても、Vlog動画が「いま」という時代を切り取っていないはずがない。

この【Vlog(ヴログ)】のポイントは、“プロ”と呼ばれる人たちではなく、
一般の人の手による動画だということ。
つまり前述した「忖度」なんてこととは無縁な訳だ。
見せたもの伝えたいことをまっすぐに、ダイレクトに動画という形で表現する。
また、
動画をつくってネットに公開するまでには、
そんぞれがその人なりに自分自身を客観視しなくてはいけない過程が必ずあるので、
少なくとも書きっぱなしの日記なんかよりは自省的にもなれる。

なにより匿名じゃなく、きちんと顔をだし、自分の在りようを公開しているところがいい。

動画の内容はVlogger(ヴロッガー)によって様々だ。
自分の打ち込んでいる仕事や趣味、流行やトレンドの紹介、
身近で起こっている“ニュース”、自分の住む国の姿、
旅先での体験をまとめた旅行記…なんでもある。
もちろんネットの世界だから玉石混合。
いいものもあれば、「ちょっとどうかなあ…」と首を捻るものまで多種雑多だから、
見る側が自分で判断、取捨選択して、
「これ、いいぞ!」
と思えるVlogger(ヴロッガー)を見極め、探しだす必要がある。




Dan Crivelli




Collective Iris





実はわが家にも一人、Vlogger(ヴロッガー)がいる。
大学生活の合間に動画をつくり、
Vlog(ヴログ)をはじめて約1年ぐらいだけれど、
既に5000人を超えるチャンネル登録者がいるというからちよっと驚く。
さらに、その数は日々少しずつ伸びているから、
相当な数の人が毎回動画を視聴していることになる。
内容はアメリカの学生生活や、
ロンドン留学中、週末ごと足を運んだヨーロッパの国々(まさに弾丸ツアー)を、
大学生の目線で撮影・紹介したもの。
日々の行動をドローンや一眼レフで撮影してまとめられた動画だ。



[ noa iimura x japan ]




「これって分りやすいかなあ…」
が大好きなテレビ番組のような押し付けがましいところがなく、
テンポ良くすきっと仕上がっていることろが人気の秘密らしい。

生きていれば色々なことが起こる。そのことに年齢は関係ない。
ささいなことから人生に影響を与えるようなことまで、
想像もつかない出来事が日々発生する。
そんな一つ一つをきちんと記録していければいいのだけれど、これがかなり難しい。
日記という手段があることはみんな知ってる。
でも、三日坊主どころかたった一行さえ書き始められない場合がほとんじゃないか?

なのにVlog(ヴログ)の場合、
自分の日々の在りようや思いを映像にして残していくのだ。
さらにその映像記録を誰でも見られるように一般公開するのだから大変なこと。
もちろん、公開する日常は自分で選択するにしても、
それには相当な覚悟が必要なはずだから。
そんなあれこれをいとも簡単にぴょんと軽快に飛び越えていくんだから、
世界中のVlogger(ヴロッガー)、大したものだ。

(飯村和彦)



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2017年02月06日

トランプ的な行為・行動を、「トランプる(Trumple)」と呼ぶことに!



明らかなウソを平気でまくし立て正当化する
意見や考え、主義主張の異なる人と建設的な議論ができない
相手の気持ちを踏みにじる
気に入らない相手には激しく個人攻撃をする

そんなトランプ的な行為全般について使える言葉を思いついた。
日本では、ある人物名の最後に「る」をつけて、
その人物的な行為を表す俗語として使ったりするけど、
この「トランプる」がいいと思ったのは、
「トランプる」を英語で「trumple」とした際の語感と、
その語感から思い浮かべる意味だ。

「trumple(トランプる)」そのものは僕の造語だけれど、
実は英語に「trample」という単語がある。
うちのアメリカ人の奥さんによると、
「trample」は「〈〜を〉どしどし踏みつぶす。〈〜を〉踏みつける。
〈人の感情などを〉踏みにじる」
という意味だから、
造語の「trumple(トランプる)」の意味に似ていて語感もいいとのこと。
「tr」のあとの「u」と「a」が違うだけだから、発音も近いわけだ。
このところ機会があれば積極的に使用している。

そんなトランプがアメリカ大統領に就任して2週間が過ぎた。
イスラム圏7か国出身者を入国禁止にした大統領令はじめ、
この間にあったことは日本でも盛んに報じられているようなので、
ここで細かく紹介するまでもないはず。

「就任式に集まった観衆が過去最高だった」(明らかなウソ)と強弁したり、
大統領選挙では「300万人の不法移民が不正投票した」
と何の根拠もなくいい張って調査を命じたり。
得票数でヒラリーに300万票近くの差をつけられて負けた事実が相当悔しいらしい。
支持率も40%ちょっとで、政権発足直後でありながら驚くほど低い。
いまさらながらこれでよく大統領になれたなと思ってしまう。
また、オーストラリアの首相との電話会談の際、
切れて電話を叩ききった事実などは、彼の本性がそのままでた感じだ。

大統領選挙のときから現在にいたるまで、
やはり一番気になるのがトランプの「ウソ」だ。
枚挙に暇がないとはまさに彼のウソのことで、
明らかなウソでも権力をかさに事実だと大声でがなりたてる。
当然ながら彼はウソを認めたりはせず、
逆にウソを指摘した方を「ウソつき」だと一方的に罵倒、
恫喝まがいの発言さえいとわない。
絶対子どもにはまねさせたくない態度だけど、
それを絶対的な権力を持つ大統領やその側近がしているんだから、
常識的に考えれば、いまのアメリカ政治(トランプ政治)は、
既に破綻しているといってもいいのかもしれない。

分かりやすい例が、ご存知トランプのメディア対応だ。
お仲間メディア(FOXニュースなど)には愛想よく、
自分に批判的だったり、都合の悪い事実を伝えるメディアにたいしては、
「インチキだ」「フェイクニュース(偽ニュース)だ」
とまくし立てて聞く耳を持たない。
CNNやニューヨークタイムス、
ワシントンポストなんかに対する敵愾心は尋常じゃない。





NYT本社
(photo:kazuhiko iimura)



そんなトランプに嫌われているニューヨークタイムスが先月、
「偽ニュース」をでっちあげたある人物に関する記事を載せた。

大統領選挙が終盤に差しかかった頃、
【オハイオ州で投票箱に入った大量の不正ヒラリー票が発見された】
というウソの記事を書いた男性についてだ。
この捏造記事は、当時またたくまに広がり、
トランプ本人も鬼の首でもとったように、
無思慮にその「偽ニュース」をツイートしてばんばん拡散させた。
“その後の顛末”まで仔細にフォローしていない人の中には、
今でもこの「偽ニュース」を本当にあったことだと信じている人が多いかもしれない。
「偽ニュース」をでっち上げて広げた動機についてその男性は、
ニューヨークタイムスの取材に「金のためにやった」と答えている。
そんな行為がいい金になるのがネット社会の負の側面なのだ。

さらにある時点でそれが偽ニュース、ウソ情報だと分かったとしても、
そこに書かれている内容が自分に都合よかったり、
自身の考えに近いものであったりすると、
「いいね」を押したり「シェア」したりする人も少なくないだろうし、
もしかすると、「そんなこともあるかもしれない」、「きっと本当なんだ」
と勝手に思い込むようになるのかもしれない。
特に自分の支持する権力者のものいいに迎合するような人たちは、
その傾向が強いんじゃないか?

その上にネットの世界では偽ニュースやウソ情報が、
削除や訂正されずにのそのまま残ってしまうことが多々ある。
試しに関心のあるテーマでそれなりに事実関係をつかんでいる事柄について、
幾つかキーワードを打ち込んで検索してみよう。
結構な数の事実誤認、ウソ情報、根拠のない噂話がでてくるはずだ。
でもそれがウソやインチキだと分かるのは、あなたがそのテーマに関して詳しいから。
そうでない人や物事の真偽についてあまり検討を加えたりしない人は、
そこに書かれている内容がウソか本当なのか、なかなか判断できないに違いない。

「偽ニュース」や「ウソ情報」は昔からあったものだけれど、
いま僕たちが直面しているそれはかなり厄介な代物なのだ。

トランプ政権を例にとれば、そんな偽ニュースやウソ情報を
トランプ本人はじめ、報道官ほか政府高官までがずる賢く悪用している訳だから驚く。

例えばトランプの顧問で、就任式に来た観衆の数について、
「もう一つの事実」という訳のわからない発言をして、
物議をかもしたケリーアン・コンウェー氏。
今度は米ケーブルテレビ局(MSNBC)の番組で、
実在しない「イラク人過激派による虐殺事件」について語り、また問題になった。
ご丁寧にも今回は、
「これまで報道されていないから多くの人は今まで知らなかったはず」
とまで言ってのけた。
問題を指摘されるた彼女は後にツイッターで釈明したが、
そんな彼女のツイッターをいったいどれだけの人が見るというのか。

影響の大きいメディアで自分たちに都合のいいウソの情報を流して、
間違いを指摘されたら個人のツイッターでしらっと訂正する。
けれども流された情報の絶対量は断然ウソ情報の方が勝り、
結果少なくない人がウソ情報を事実として受け止め続ける可能性が高くなる。

そもそもが「もう一つの事実」ってなんだ?
ふざけた話だけど、こうして一つの表現としてあちこちで見かけるようになると、
そんな訳の分からないものいいまでいったん立ち止まって考える必要がでてくる。
まったくもって嫌な現状だ。





反対集会アマースト大学
(トランプ大統領令反対集会 アマースト大学/ photo:kazuhiko iimura)





極めつけはトランプお得意の個人攻撃だ。
イスラム圏7か国出身者の入国を禁止した大統領令について、
その一時差し止めを命じたジェームズ・ロバート連邦地裁判事を攻撃。
「この、いわゆる判事の意見は本質的にわが国から法執行というものを奪うもので、
ばかげており、覆されるだろう!」
とツイッターに投稿したのだ。
法の精神(司法の独立)を疎んじているとしか思えないトランプに、
法執行云々を語る資格があるのか?

さらに6日には、「なにか起きたら判事のせいだ」とまでいい放った。
とても大統領の言葉とは思えない。
判事に対する個人攻撃は前代未聞で現職大統領としてはほとんど前例のないことらしい。
トランプは、大統領選挙期間中にも「トランプ大学」詐欺疑惑をめぐり、
訴訟を担当していた判事を「メキシコ人」と呼んで人種差別だと批判されたけど、
大統領に就任してもそのままな訳だ。

そんなアメリカ大統領トランプと日本の安倍首相の首脳会談が開かれる。
いったいどんな展開になるのだろう。
ニコニコ笑っていても、意に反することが持ち上がれば、
あっという間に豹変して激高するトランプ。
そんなトランプ個人やトランプ政権を見るいまの世界の眼は極めて厳しい。
にもかかわらず、きちんと言うべきことを言わないまま、
巷間伝わっているようにエアフォースワンに同乗してフロリダまで赴き、
一緒にゴルフまでしてしまうのか?

そんなお気楽な映像が世界中に発信されると思うと恥ずかしいし、
アメリカ人の多くはきっと“いったいどんな神経をしているんだろう”
と白い目で見るに違いない。
それよりなにより、
「トランプ大統領と安倍首相は同類だ」
とテロを企む連中は確信するだろう。

これからアメリカという国はどうなってしまうのか。
分断社会、モラル低下、もろもろの差別…。
ウソを言っても大声でまくし立てれば、
何でも通ってしまうような社会になってしまうのか?
(それが「強いアメリカ」なのか?)
うちの奥さんは、大統領選挙の結果を知ったあと体調を崩した。
ショックというよりも、
これからアメリカで生活していくことが「とっても怖い」からだと。
不安ではなく「恐怖」なのですね。
たぶん、トランプ的なものの考え方に対して嫌悪感を抱いている人の多くは、
うちの奥さんと似たような精神状態だと思う。

50年以上アメリカ人をやってきて、
この地にずっと住んでいる人間がひりひりと肌で感じる怖さ。
これから先何年か(そんなに?)その怖さを感じながらこの地で生活していくこと。
それは日本人の僕なんかには到底感じられない皮膚感覚で、
長いことアメリカに住んでいても、
決して分からない類のものなんだろうなあ…と思う。

こうしてトランプについてつらつら書いているとかなり重たい気分になる。
だからという訳じゃないけれど、
最後にかなり笑える「フェイク新聞」を紹介しよう。
約30年前、初めてニューヨークに住み始めた頃、
その並外れた馬鹿馬鹿しさがおかしくて購入していた、
「National Enquirer」なる新聞(?)だ。




タブロイド
(photo:kazuhiko iimura)



記事の内容はといえば、「その子は、お父さんにそっくりだった!」
として紹介されている「人面馬(?)」の記事だったり、
墜落したUFOから「宇宙人の赤ちゃんが“生きたまま”発見された」というもの。
さらには、407ポンド、つまり約185キログラムもある、
「世界一大きな赤ん坊」の話まで。
ともかく、
いったいどこからそんなアイディアが沸いてくるんだろうという代物ばかりだ。

この新聞(?)が、いま世界中で問題になっている「偽ニュース」とは、
まったく質の異なるものであることは明らかだけれど、
これがスーパーマーケットのレジ横なんかで堂々と販売されているんだから
少なからず驚いたもの。

でも、いまある「虚構」をウリにした「虚構ニュース」などと違って、
この「National Enquirer」は、
“内容は虚構です”とも“ジョークです”とも表明していないから、
なかには「偽ニュース」とは思わないで記事内容を信じる人もいるのか?
30年前は“ほぼ”そんなことはないだろうと考えていたけれど、
今だと、もしかするとこんな新聞(?)でさえ、
情報ソースとして利用している人がいるかも知れないと思えてしまうから怖い。
それだけ世の中がウソと偽ニュースに汚染されてしまっているということなのか?

(飯村和彦)




newyork01double at 14:03|PermalinkComments(0)

2016年12月11日

報道における「匿名性」の問題



薬物疑惑が報じられていた俳優の成宮寛貴さんが9日、
芸能界引退を電撃発表した。

「心から信頼していた友人に裏切られ
複数の人達が仕掛けた罠(わな)に落ちてしまいました」
としたうえで、
「自分にはもう耐えられそうにありません」
成宮さんはそう自ら文書に綴っていた。

ことの発端は、今月2日の「FRIDAY」の記事。
成宮さんのコカイン使用現場とする写真を掲載し、
その写真を提供したのは成宮さんの友人男性だと伝えた。
記事内容の根幹すべてをこの「友人男性」の話や提出素材に頼ったものだ。
“薬物疑惑”の事実関係について、
実名で報じられているのは、成宮さんだけであり、
成宮さんへ直撃取材のときの彼のコメントのみが、
匿名ではない人物の肉声だった。

事実がどうなのか、当然ながら不明。
それもそのはずで、
「友人男性」の証言などにもとづいた、
「FRIDAY」のいうところの“疑惑”でしかないのだから。
けれども現実をみると、
その“疑惑”と題した記事により、一人の役者の人生が一転してしまったのだ。

「事実無根」と成宮さんは訴えていた。
その彼の言葉を信じるのか、
「FRIDAY」のいうところの“疑惑”を信じるのか…




スタジオ
(photo:kazuhiko iimura)




今回の成宮さんの件とは直接関係ないけれど、
ここ数年、ずっと気になっているのが、
報道における「匿名性」の問題。
少し前に書いたものだけれど、加筆して改めてアップしました。

象徴的な例は、数年前長野県で発生した、
小学5年生の少年が諏訪湖で遺体となって発見された事件。
この事件では、
行方不明になった少年の足取りが、
若い女性の「ウソ」の目撃証言によって大きく歪められた。

「ずぶ濡れの少年を自宅に招きいれ、
カップヌードルを食べさせた」

「自宅まで送って行こうとしたら、
白いワゴン車にのった若いカップルが、
“僕たちが送るから”といったので、そうしてもらった」

この目撃証言は極めて重要な意味をもった。
少年の足取りのヒントであり、
なにより彼の「生存」の証明であったから。
ところがその目撃証言がウソ、
若い女性による狂言であることが後に分かる。

動機は面白半分。
報道各社のインタビューに彼女は「顔なし・匿名」で答えていた。
ウソの目撃情報にもとづいた捜索が行われれば行われるほど、
事実から遠のいてしまったという現実は重い。

もちろん、
各報道機関にも問題がある。
ここ数年、
事件が発生するたびに目にするのは「匿名報道」の洪水。

「顔も名前も出しませんから取材に応じてもらえませんか?」

溢れかえる匿名報道を見るにつけ、
現場で取材に当っている記者や番組担当者たちのそんな姿が目に浮かぶ。
「匿名報道」は、
プライバシー保護など取材対象者のやむにやまれぬ理由により、
どうしても実名報道ができない場合に限って許されるもの。

しかしそれとて、
事実関係をきちんと掴んだ上で、
当事者(取材対象者)への実名報道の必要性を説いた後に、
「それでも実名では困る…」
となった場合にだけ許される手法のはずだった。

そのプロセスをきっちり踏むことによって、
取材対象者も証言の重要性を認識し、
さらには、証言につきものの「責任」についても考えられる。
同時に、このプロセスを通して取材者側は、
取材対象者が本当のことを証言しているのかどうかを
少なからず見極めることができるのだ。

「顔も名前も出しませんから…」

この言葉を取材する側が、
安易に発しているように思えてならない。
報道現場における取材する側、取材される側の「責任」。
その所在がいま、
大いに揺らいでいる気がしてならない。

(飯村和彦)





newyork01double at 15:57|PermalinkComments(0)

2016年11月09日

トランプの勝ち!アメリカはどうなってしまうのだろう



トランプ勝利にはもの凄く驚かされた。
さらには選挙の4日前、各種データの分析をもとに「神風でも吹かないかぎり、第45代アメリカ大統領はヒラリーだ!」という文章を、ある種の確信をもって一歩踏み込んだ形で書いていた自分としてはショックですらあった。
「どうしてこんなことが起こるのだ?」と…。
けれども結果がでてしまったからにはその事実をきちんと受け止めるしかない。
潔く、自分の分析やらものの見方の甘さを認めます。



2S
(写真:BBCより)



じゃ、どうしてトランプ勝利なんてことになってしまったのか?
アメリカの新聞・テレビ等の各メディア(たぶん日本のメディアも…)は、今回の結果を受けて「選挙の最終盤にFBIが発表したヒラリーのメール問題」を一因にあげている。
きっとそれも影響したのだろう。でもそれにしたところで数あるファクターのうちの一つでしかなく、それがヒラリー敗因の決定打になったとも思えない。
先の文章にも書いたように、アメリカのメディア(特にテレビメディア)がトランプ勝利に果たした役割(トランプは見事にテレビ報道を利用した)は少なくないと思うけれど、それ自体は選挙戦が始まったときからずっと続いていた訳だから、これ自体が最後の逆転に大きな影響を与えたともいえないだろう。

トランプが勝った、というかトランプを勝たしたのは、
やはりトランプが作り上げた世界(現実的な言葉でいえば彼のいうところの「政策」やら「政治姿勢」やら「理念」なんかになるのだろうけど)、そのトランプ・ワールドに入った人たちの団結力が想像以上に強かったということなのだと思う(これについては前回の文章でも触れたけれど)。
彼らは間違いなく8日の投票日にきちんと投票にいっているだろう。

その意味では、ヒラリー支持派(多くはトランプ嫌悪派)は、最後にきて隙ができたのかもしれない。
数えられないほどのトランプの醜聞により、ヒラリーはそれなりのリードを保っているように見えたし、
実際それを肌で感じていたはずだから。
だた、映画監督のマイケル・ムーアは、そのことをだいぶ前から懸念して以下のように熱心に語っていた。
「トランプを大統領にしたくなければ、あなた自身が自分の住む地域の選挙対策本部長になったつもりで、自分はもとより知り合いを引き連れて確実に投票にいきなない。でないと本番で必ず負ける」
はからずもマイケル・ムーアのいっていた通りになってしまった訳だ。

これからアメリカっていう国はどうなってしまうのだろう。
随分前にも書いたけれど、選挙戦の間にトランプが叫んでいた、彼のいうところの「選挙公約(らしきもの)」がすぐにそのまま現実のものになるとは考えにくいけれど、今回の大統領選を通してアメリカ社会に広がった「分断」は相当厄介だ。
さらにはモラルの低下、人種や民族や性別の違いによる差別、溢れる銃…考えただけでぞっとする。
平気でウソを言っても、大声でまくし立てれば何でも通ってしまうような社会(それが「強いアメリカ」?)になってしまうのでは…と心配になる。

いま、アメリカ国内からカナダに移住を希望する人が急増しているらしい。

(飯村和彦)




newyork01double at 22:55|PermalinkComments(0)

2016年11月04日

神風でも吹かない限り、第45代アメリカ大統領はヒラリーだ!



さてアメリカ大統領選挙のことだ。
投票日を8日に控え、各メディアの報道もラストスパートといったところのようだが、そんな報道のあれこれに接するたびにげんなりする。これまでの選挙戦をずっと眺め、きちんと取材して地域や人種等の違いによる投票傾向などを見てきた人間であれば、もう結果は分かっているだろう。
ここにきて“ヒラリーとトランプの差が数ポイントに縮まった”というような世論調査の結果がでているけれど、文字通りそれだけのこと。あくまで“縮まった”にしか過ぎない。



ヒラリーキャンペーン1
(ヒラリー、選挙キャンペーンメールより)



ヒラリー勝利予測の理由はいたってシンプルだ。

勝敗を決める幾つかの重要な州でトランプの勝ちが見込めないから。
ご存知のようにアメリカ大統領選は、州ごとの勝敗によって得られる選挙人の数で勝ち負けが決まる(総得票数ではない)。もともと民主党の強い州、共和党の強い州というのがあり、極端な話これらの州では誰が大統領候補だったとしても結果は動かないので、重要なのは“結果が流動的な州”。それが今回の大統領選挙では15州程あり、激戦州と呼ばれているわけだ。
トランプが大統領になるためにはこの激戦州といわれている15程の州で少なくとも7つか8 つ以上は勝つ必要がある。ところが実際は、各メディアによって予測に若干の違いはあるももの、よくて4つか5つでしかない。

ニューヨーク・タイムスのデータ予測を例にあげれば、トランプが優勢なのはアリゾナ、オハイオ、アイオワ、ジョージア、ミズーリの5つの州だけだ。残りの10州は全てヒラリーが優勢となっている。なかでも勝った場合の獲得選挙人の数が多い、フロリダやペンシルバニア、ミシガン等でヒラリーが優位を保っているから、それこそ神風でも吹かない限りトランプが勝つ見込みはないだろう。

つまり、このところの世論調査の数字が例え数ポイント差であったとしても、間違いなく第45代・アメリカ大統領はヒラリーである。
米国史上初の女性大統領が誕生する可能性が断然高いのだ。

にもかかわらず、各種データやその傾向を仔細に検討していない方々や薄々わかってはいても“大統領選ネタで引っ張ろう”という思惑のある一部メディアは、「ヒラリーの支持率が下がってトランプと3ポイント差になったゾ!」とか、「これは最後までわかりません」であるとか、ここぞとばかりに煽るような伝え方をする。
挙句にはこの期に及んでも、「もしトランプが大統領になったら…」というような「もし○○だったら□□」形式の特集なんかを流したり。極端な話し、内容のほとんどを可能性の大きくない「もし○○だったら□□」の「□□」の部分に費やしたりする。
今回の大統領選挙でいえば、実情がどうあれメディア的(とくにテレビメディア的)にはトランプ話をした方が視聴率もいいのだろう。
本来であればより現実性の高い事象について時間をかけて検討すべきなのに“視聴者受けしそうな事象”を厚く扱う。これってとっても無責任な報道姿勢であり、これほど視聴者を馬鹿にした話はない。
派手な音楽をつけて赤や青のテロップが画面に踊る…見ていて情けなくなるでしょう?

さらには驚くことに、「トランプリスク」とかいうらしいのだが、トランプが「もし」大統領になったら世界経済が混乱するからということで株価や為替レートまで変調をきたしている。「おいおいちょっと落ちつこうよ」とは誰もいわないようだ。
「混乱=儲けどき」…と考えている方々も少なからずいるのだろう。



ヒラリーキャンペーン2
(ヒラリー、選挙キャンペーンメールより)



当初は泡沫候補だとしか思われていなかったトランプが共和党の大統領候補になり、(九分九厘負けるにしても)最後まで選挙戦を続けてこられた背景ってなんだったのか。
たぶんその答え、もしくは答えに近いものを求めてトランプのTシャツを着て集会に集うような「トランプ支持者」に話を聞いてもあまり意味はないだろう。耳を傾けるべきなのは、ずっと民主党を支持してきたが今回は仕方なく(トランプは嫌いだけれど)共和党の大統領候補に票を入れる人たちの考えだ。

例えばペンシルバニア州あたりにある鉄鋼関連の小規模企業の経営者や従業員。
産業構造の変化に取り残された彼らの中には、長いあいだ民主党を支持してきたがその間まったく自分たちの生活はよくならなかった、「もう我慢の限界だ」として“熟慮の末”、今回の大統領選挙では民主党に見切りをつけた人も少なくない。
本体なら鉄ではなく、時代が求める新規素材の扱いに取り組むべきところを、それを実行に移すだけの技術やその下地になるはずの教育を受ける機会も少なかった。当然ながら新規事業に転換する体力、つまり資金もないから、これまで通り細々と鉄鋼で生きていくしかない。いわば八方ふさがりの状態に陥ってしまった人たちである。

多くの人が指摘するように、今回の大統領選挙では、いわゆる「トランプ支持者」(信奉者ともいえる人たち)と“普通の”共和党支持者をきちんと分けて考えるべきなのだろう。
誤解を恐れずにいえば、トランプTシャツを着て声高にあれこれ叫んでいるような方々は、もしかすると“普通じゃない環境‘”の中にいるのかもしれない。
彼らはトランプがつくりだしたある種の閉じた世界に誘い込まれ、そのまま出口を閉ざされた人たちじゃないのか。その世界の中では日頃のうっぷんを晴らすことができる。それなりに理屈も通っているし、悩むこともない。強いアメリカ、最高! 迷いもない。
異物は排除(“つまみ出せ!”はトランプの口癖だ)されてしまうから、その閉じた世界にいる人たちの団結力は強い。

けれどもそんな彼らを閉じた世界の外側から見ると、どこか普通じゃないのだ。
ヒラリーのように「嘆かわしい人たち(deplorables)」とはいわない。
でも、“普通の”共和党支持者や、苦渋の選択の末に民主党を見切った人たちとは明らかにタイプが違う気がする。

そもそも、自分はこうだ!という明快な結論を持っているのが凄い。
普通(といって“普通”の定義はそれぞれ違うのだろうけれど)、結論なんてなかなかでないのだ。あーでもないこーでもないと逡巡を繰り返して、悩んで困って、いったんは「これかな」と決めてもまた元に戻る。最終的に「仕方ないけどトランプに入れよう」と意を決して実際に投票したとしてしても、「でも、これでよかったのかな」と思ってしまう。
きっと最近の世論調査にでている数ポイントの揺れは、そんな人たちの判断の揺れを表しているのだろう。

最後になるけれど、今回の大統領選挙で一番残念だったのは民主党の予備選でサンダースが敗れたことだった。政治に新しい風が吹き込む絶好のチャンスだったし、76歳(予備選のときは75歳)のサンダースが若い世代から圧倒的な支持を受けたことの意味も大きかった。
サンダースが訴えた政治改革。
それはアメリカだけじゃなく日本の政治にも間違いなく大きなインパクトを与えたはずだから。

(飯村和彦)



newyork01double at 23:07|PermalinkComments(0)

2016年09月02日

トランプが勝つ確率は13%!国民を侮った男の窮地



トランプが米大統領選で勝利する確率はわずか13%!

これはニューヨークタイムスの大統領選挙サイトの9月2日段階の予測だが、他の選挙予測サイトをみても勝利予測の数字ではヒラリーがトランプを圧倒している。アメリカ大統領選挙にあっては、9月初旬における戦況が11月の選挙結果を占う一つの目安になっているので、その意味では“いまの”トランプにはまったく勝ち目はないという予測だ。




87%ヒラリー勝利
(ニューヨークタイムス大統領選挙サイトより)




共和党大会で大統領候補として指名を受けた直後までは、ヒラリーと互角、もしくはトランプ若干リードの戦況だったにも係わらず、このひと月ほどでトランプの勢いは急速に衰えた。

流れが大きく変わったのは共和党大会の翌週に行われた7月下旬の民主党大会。
問題となったのは、イラク戦争で戦死したイスラム系の陸軍大尉の両親が、イスラム教徒の入国禁止を主張するトランプの政策を激しく非難したことに対する、トランプの反応だった。
「あなたは憲法を読んだことがあるのか」「何も犠牲を払っていないくせに…」という両親の非難に対してトランプは、「事業を起こし、雇用を生みだすなどして多大な犠牲を払ってきた」とテレビインタビューで反論。さらには壇上で発言しなかった母親に対し、「発言を禁じられていたのだろう」などと彼女を侮辱するかのような発言までした。

「英雄」として敬われるべき戦地で犠牲になった兵士やその遺族に対する批判は、党派を問わずタブー中のタブーだ。にも係わらずトランプはいつもの調子で減らず口を叩いたのだ。その結果、本来はトランプ支持に回るはずの退役軍人関係者はじめ、共和党の幹部やその支持者の多くが彼のもとから離れてしまった。
数々の暴言で注目を集め、それをエネルギーに変えて支持を集めるというトランプの手法がはっきりと裏目にでたのだ。アメリカ国民を侮った、軽率で致命的な失敗であり、トランプという人間の資質そのもの、在りようがそのままさらけだされた形だ。

そんなトランプの窮地にさらに追い討ちをかけたのが、本人は「起死回生の一手」として計画したに違いない今週8月31日のメキシコ訪問だろう。
「メキシコとの国境に巨大な壁を作る。費用は全部メキシコが負担!」と叫び続けているトランプのメキシコ訪問。普通なら何らかの妙案を秘めての行動だろうと誰もが考える。ましてやトランプ陣営は、メキシコ訪問の直後に「移民政策に関する主要な政策の発表」を行うと事前通告までいたのだからなおさらだ。
ところが結果はどうだった? トランプのその場しのぎのいい加減さがよりはっきりしただけだった。

メキシコのペニャニエト大統領との会談後の記者会見でトランプは、「壁の建設費用の負担については話し合わなかった」と述べた。ところがその直後に大統領が「会談のはじめに、メキシコは壁の建設費を払わないと明確に伝えた」とツイッターに書き込んだため、トランプの「うそ」があっさり露呈してしまったのだ。
「メキシコ国境に築く壁」は、不法移民の強制送還、イスラム教徒の入国禁止と並ぶトランプの(愚かな)移民政策の象徴だ。にもかかわらずその当事者間の話し合いの内容について、公式の記者会見で平気で嘘をつく。そんな男をアメリカ大統領にしたいといったいとれだけの人が考えるだろうか。国の安全保障政策の舵取りや「核のボタン」を押す資格を与えたいと思うだろうか。常識的に考えればありえない話だろう。

では、冒頭に紹介したニューヨークタイムスの勝者予測確率の通り、ヒラリーが圧倒的な大差をもってトランプを打ち負かしてしまうのか…といえばことはそう簡単じゃない。




43% 対 40%
(ニューヨークタイムス大統領選挙サイトより)




同じニューヨークタイムスの選挙予測サイトがだしている9月2日段階の支持率(全国)を見ると、「ヒラリー43%、トランプ40%」でわずか3ポイントの差でしかない。ほかの世論調査でもその差は概ね1%〜6%だから、現状では「ヒラリー優勢」とはいえ、とても磐石な状態にあるとはいえない。
このあたりがアメリカという国の難しいところなのだろう。
トランプ支持者(というか信奉者)が集会で「UAS! USA! USA!」と叫んでいるニュース映像を見るたびにげんなりしてしまうのだが、そうは思わない方々がまだ大勢いるということだ。

身近なところに目を転じてみると、我が家のあるマサチューセッツ州アマーストは住民のほとんどがリベラル層で、公立高校の卒業式で校長が堂々とトランプ批判をするような地域なのだが、当然ながらトランプ支持者もいる。一年を通してずっと星条旗が掲げられているような家は、その多くが共和党支持者のものとの予想がつくのだが、大統領選の今年は「make America great again TRUMP」のパネルがこれみよがしに貼ってあるから一目瞭然だ。
リベラルな風土の地域にあっても堂々と自分の主張を公にしているところは尊敬に値するし、それができるところが“アメリカらしい”といえなくもない。(この点、自分の主義主張をあまり表にださず、なにかあれば「匿名」でネットに…という人が多い日本とはだいぶ違う)。

しかし、いくら自由に自分の主義主張を表明できるとはいえ程度というものがある。
つい最近のことだがこんなことがあった。市内に向うバスに乗ると白人の中年女性が友人とおぼしき人物と政治談議をしていた。会話の内容からその中年女性がトランプ支持者であることはすぐに分かったのだか、ともかくその声が常識はずれに大きかった。たまらず一人の男性が注意すると彼女はこう言い放った。
「ここは中国のような共産主義の国じゃない。だからあなたに(私の)行動をコントロールされるいわれはない」
これにはあ然とした。そしてこんなタイプの人が「USA! USA! USA!」と叫んでいるんだなと妙に納得もした。果たしてその中年女性は中国の共産主義についてどれほど知っているのか…。





トランプ支持の家
(photo:kazuhiko iimura)




少し話が横道にそれたので、改めて大統領選の現況について。
ご存知のようにアメリカ大統領選は州ごとの勝ち負けで決まるから、民主・共和の支持率が拮抗している「激戦州」とされる州の勝敗が明暗を分ける。
今回の場合はアイオワやペンシルバニア、フロリダなどの12ほどの州が「激戦州」と位置づけられているので、それらの州の現状をまたニューヨークタイムスの分析(9月2日現在)をもとに見てみると以下のようになる。

ヒラリーが「5ポイント以上の差」をつけているのが、
バージニア(+10.6)、
ペンシルバニア(+8.4)、
ニューハンプシャー(+7.4)、
ミシガン(+6.8)、
ウィスコンシン(+5.3) の5つの州。

「1〜5ポイントの差」しかないのが、
フロリダ(+4.8)、
オハイオ(+4.3)、
ノースカロライナ(+3.1)、
アイオワ(+1.3)の4つの州。

逆にいまだにトランプがリードしているのが、
アリゾナ(+0.9)、
ジョージア(+1.1)、
ミズーリ(+7.2) の3つの州。

ただ、アイオワ州とアリゾナ州、ジョージア州はその差が1%ほどしかないので、ほぼ互角といっていいだろう。また、ノースカロライナ州の場合は、今回「激戦州」になっているけれど過去10回の大統領選挙で共和党が8勝している州だから、ここでトランプが負けるとその痛手は大きいはず。

となれば、いまの「ヒラリー優勢」の状況をトランプがひっくり返す可能性はどれぐらいあるのだろう。あまり考えたくはないが、たぶんそれはトランプの選挙戦の仕方云々よりも、ヒラリー側の今後の在り方により左右されるように思える。
つまり、ヒラリーがどれだけいまの自分の支持者を繋ぎとめておけるか…によるのだろう。もともと人気のないもの同士の闘いなのだから、その「人気のなさ具合」がそのまま今の「差」に表れているともいえる。

ワシントン・ポストが今週8月31日に発表した調査結果によると、ヒラリーを「好ましくない」思っている人は「56%」。一方のトランプは「63%」。つまり、トランプの方がより人気がない分、ヒラリーが優勢にたっているわけだ。
そのヒラリーにしても、7月下旬の民主党大会直後(「好ましくない:50%」)より、6ポイントも不人気度が増している。これには「クリントン財団」による大口献金者への便宜供与疑惑や、いまだにはっきりしていない国務長官時代の「メール不正使用問題」が影響しているといわれているので、ヒラリーにしても、とてもじゃないが安心していられないはず。

しかしここまで書いてきて思うのは、「それにしても醜悪な大統領選挙だなあ」ということ。
当初から予想されていたとはいえ、ここまで実のない選挙戦になるとは思ってもみなかった。間違いなく多くの人も同様の感想を持っているはずだ。
先に述べたように、稀に見る不人気者同士の闘いとはいえ、だからこそそれを補う建設的な議論やそれぞれの掲げる政策の「深化」があってもいいだろうと思うのだけれど、それがまったくない。TPP問題はどうなった? 東アジアの「核」の話はどうなった? 経済政策は? 実効性のある対テロ対策は?
なにもはっきりしないままアメリカは11月の大統領選挙当日を迎えるのだろうか。

(飯村和彦)


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2016年08月11日

原爆投下から終戦までの信じがたい経緯を!21年前の夏、子どもが誕生した日に考えたこと



「今後2000万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用いれば決して負けはしない」
原爆が投下された後でさえ、陸軍はそんな強硬論を展開していた。





誕生直後
(photo:kazuhiko iimura)


1995年夏。

いよいよ、君がこの世に生まれてくる日だ。
「きたきた、痛〜い!」
四畳半の和室に母さんの引きつった声が響いたのは夜中の一時ごろ。二夜連続の熱帯夜のことだった。
陣痛のはじまりである。
照明を落としたその部屋にタンクトップ姿で寝転がっていた母さんは、せり出したお腹を手足で抱え込むようにしてもがきはじめた。
助産師からは、予定日は8月7日ですね、と聞かされていたので、君は予定より二週間も早く最終行動を起こしたことになる。

(中略)

「いよいよかも」
「そのようだね」

そう応えながらも父さんはあることに頭を悩ませていた。
当然ながら父さんは、うんうん唸っている母さんの傍にずっと付き添っていたかった。それが前々からの母さんとの約束でもあった。
ところが予想以上に早く君が行動を起こしたことで問題が発生したのだ。
折悪しくというのか運悪くというのか、父さんにはこの日の午前中、代役のきかない大切な取材が入っていたのだ。
父さんの職業を考えれば十分想定されることだったので、取材スケジュールを組むにあたっては父さんなりに注意を払っていたのだが、この日については「予定日の二週間前なら大丈夫だろう」とロケ取材を入れてしまったのだ。
高をくくった。要するに出産という自然の営みを甘く見ていたのだ。


朝7時の段階で陣痛の間隔は5分から7分。
――もう、いつ破水してもおかしくないのでは…
父さんも母さんも、そんな判断をしていた。
築18年の狭い2DKのマンションにひとり。不死鳥の刺繍の入ったシルクのバスローブに身を包んだ母さんは、その光沢のある生地越しに突きでたお腹を撫でていた。
――がんばれ、グー!
前の晩の天気予報通り、この日は三日続けての真夏日となった。

(中略)


それにしても不思議な巡りあわせだなあ、と父さんは考えた。
というのはそのころ父さんが取材していた事柄についてだった。
戦後50年特別企画、原爆が投下された日。
君が生まれようとしているときに、一瞬のうちに30万を越える人の命を奪った原爆や、その投下直後のこの国の在りようを取材するというのは、正直いって気が重かった。
失われた(否、殺された)命のなかには、きょうの母さんと同じように新しい生命を今まさに産み落とそうとしていた妊婦の命もあったはずだ。
ところがそんな妊婦の夢や希望は、胎児の未来もろともあのキノコ雲のなかに霧散してしまったのだ。
悲劇なんて言葉じゃ到底表現できない。
蛮人による冒涜そのものだ。

人類すべてを殲滅しつくせる兵器の出現。
あの日から、『人間の生』という観念そのものが変わってしまったのだ。

では、蛮人が手にした悪魔の兵器、原子爆弾について、当時の日本陸軍の幹部はどんな見方をしていたのか。
父さんは、デスクに積み上げたファイルの中から、外交資料館で接写した「終戦記」(下村海南著)の一部文言を資料用に改めて書き起こした書類を取りだした。
そこには、広島への原爆投下から3日後に開かれた臨時閣議の様子が書かれていた。


一九四五年八月九日、第一回臨時閣議。
十四時半に開会。
阿南陸相、原子爆弾について報告する。
――第七航空隊マーカス・エル・マクヒーター中尉の語る所、
――その爆力は、五百ポンドの爆弾三十六を搭載せるB29二千機に該当する。
――地下壕は丸太の程度で覆ふてあれば充分である。
――裸体は禁物で白色の抵抗力は強い。
――熱風により焼失する事はない。
――電車、汽車なども脱線する程度である。
――地上に伏しても毛布類を被っているとよい。
――本日十一時半長崎に第二の投弾があった…。
――原子弾はなほ百発あり一か月に三発できるが、永持ちは出来ない……


この文言を見て、君はどう考える?
アメリカ軍による広島への原爆投下から三日目ということを考慮しても、父さんには到底信じられない。
物事を正面から見据えることのできない、否、見据えることを意図的に拒んだ人間がいかに罪深いか、その見本のようなものだ。
陸軍側は原爆の威力を意識的に過小評価しようとしていた、と後に東郷外相が述べているがそれにしても程度というものがある。

そもそも、文中に登場してくる第七航空隊マクヒーター中尉なる人物が本当にそんなことを語ったのかさえ怪しいものだ。
おそらく、彼らの目は特別なのだ。
事実がグニャグニャに歪んで見えたとしても、吐き気を覚えるなんてことすらないのだろう。

――もし僕たちが、50年前の日本に生きていたとしたら。

そんなことを無防備に考えそうになって、父さんは慌てて資料を読むのを止めた。
「きょうは大安だっかか、それとも友引だったか」
ファイルを閉じながら、不意にそんな些細なことが気になった。


午前9時半。
父さんと取材クルー(カメラマンと音声エンジニア)は予定通りに西麻布に向かった。
終戦当時、外務大臣を務めていた東郷茂徳氏の奥さんにインタビューをするためである。さらに、東郷外相が書き残した「時代の一面」という手記の原本も見せてもらえることになっていた。

東郷邸の中庭には、こじんまりしたプールがあった。
日本(というより東京)らしい大きさで、もし(アメリカ人の)母さんが見たら、うちにもあんなジャグジーがあったらいいのに、というような感想をもらしたことだろう。
取材は予定通り午前10時から始まり、およそ3時間で終了した。
一番印象的だったのは、東郷夫人に見せてもらった外相の手記、「時代の一面」の最後の方に記されていたある文言だった。

『自分の仕事はあれでよかった。これから先、自分はどうなっても差し支えない』

信念を貫き通した人間だけがもちうる潔さというのか、常軌を逸した世界に身を置きながらも、自分の内なる倫理に忠実に生きた人間だけが達する境地というのか。ともかく、その言葉に父さんは強く心をうたれた。

日本がポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えるまでの政府内部の状況はといえば、以下の通り。

東郷外相を中心とした和平派は、
『日本としては皇室の安泰など絶対に必要なもののみを条件として提出し、速やかにポツダム宣言を受諾、和平の成立を計るべきである』と主張。

これに対して陸軍側は、
『皇室安泰、国体護持に留保するのは当然のことで、保障占領については日本の本土は占領しない、武装解除は日本の手によってする、戦争犯罪の問題も日本側で処分する、という四つの条件を連合国側が受け容れないかぎり、戦いを遂行すべきである』との立場を崩していなかった。

それだけではない。
陸軍側は、信じられないような強行論を展開していたのだ。

『今後二千万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用いれば決して負けはしない』

繰り返すが、これらの議論は広島、長崎にアメリカ軍が原爆を投下した直後のものだ。
自分のでっちあげた嘘を事実だと信じ込んでしまうと、人間というのは知性さえも失ってしまうらしい。
戦争は人を狂気に走らせるだけじゃない。
狂気が正当化され、幻想が事実を呑み込んでしまう危険性を常に孕んでいるということだ。

最終的には、『外相案をとる』とした天皇の決断で日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えたのだけれど、

――もしあのとき天皇が『忍び難きを忍び、世界人類の幸福の為に…』決断していなかったら…
――もし二千万人もの日本人が特攻という形で[殺されて]いたら…

今の父さんたち(つまり、父さん自身や母さんの胎内にいる君)もこの世に存在していなかった可能性があるのだ。
父さんの父や母が犠牲になっていたら、当然のことながら今の父さんも存在していないのだから。
そう考えると背筋が凍る。

『自分の仕事はあれでよかった。これから先、自分はどうなっても差し支えない』

父さんは、そんな科白を口にしなくてはいけないような世界に生きたいとは思わない。
けれどもその一方で、そんな心境になれるぐらい、なにかに懸命になれたら…とは考えた。
生きていくことの意味というか、生き切る価値である。




War is worse
(photo:kazuhiko iimura)



さて、君と母さんの話に戻ろう。
西麻布での取材を終えた父さんは、そのまま母さんの待つ碑文谷のマンションに向かった。ここでいう「そのまま」というのは、取材スタッフと一緒に取材車輌であるハイヤーで、という意味である。
本来なら一度テレビ局に戻り、スタッフと取材車輌であるハイヤーをばらす(解放する)必要があるのだが、女房が大きなお腹を抱えて自宅でうんうん唸っている、という父さんの話にスタッフがピクリと反応してしまったのだ。

「それって非常事態じゃないですか。このまま現場に直行しましょうよ。私たちなら、碑文谷経由でまったく問題ないですから」

そういって目を丸くしたのは女性カメラマンの竹内さんだった。
二十七歳で独身。そんな竹内さんには、自宅で子供を生むという行為がイメージしにくく、とても危ういことのように思えたらしい。瞬く間に取材用機材をハイヤーのトランクに積み込むと、ぐずぐずしないで早く乗ってください、とばかりに父さんを後部座席に押し込んだのだ。
さらに、最近買ったばかりだといっていた携帯電話をジーンズのヒップポケットから引きだすと、「これを使って下さい」といって父さんの方へひょいと投げてくれた。
もちろん、母さんへの電話のためだった。
                                               (以上、「ヘイ ボーイ!」より抜粋)



星条旗
(photo:kazuhiko iimura)




あの日に生まれた「君」は成人して今年の夏、21歳になった。
日本と違ってアメリカでは、この「21歳の誕生日」が「成人」と定義される日。
だから正式に酒を飲めるのも21歳からだ。
そんなタイミングだったからなのか、ふと随分前に書いたままPCの中に眠っていた雑文のことを思いだした。
(実はかなり長いものなので、「抜粋」の形にしました。改めてまとめ直すのも違う気がしたので…)

もうすぐ71回目の終戦記念日。
誰もがスマホを使いこなす便利な世の中になったけれど、いままた世界には嫌が空気が漂いはじめた。
右傾化する風潮、差別、分断、テロの脅威…等々。
この先、「君」や君の世代のみんなが生きていく世界には厄介なことがテンコ盛りだ。
でも、ひるんじゃいけない。
生きていくことの意味というか、生き切る価値のある世界のはずだから。


(飯村和彦)


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2016年08月04日

目を見張る人間力!平均年齢83歳、米国人気コーラスグループ「ヤング@ハート」の歌声が受刑者の心に響く理由とは?(動画あり)



「きょうも元気にロックしてるなあ〜」
彼らのステージや練習風景を見るたびにいつもそう感じる。アメリカの人気コーラスグループ「ヤング@ハート」のことだ。総勢およそ30名。平均年齢は83歳。であるにもかかわらず、このおじいちゃん、おばあちゃんたちが披露するのはパワフルでエネルギッシュなロックンロールでありリズム&ブルース(R&B)なのだ。
先ごろそんな彼らの野外ライブコンサートが開かれた。“日頃のご愛顧に感謝を込めて!”ということで、毎年地元で行っているもの。





y@h OPEN 3
(photo:kazuhiko iimura)




夏の日の夕方、開演の1時間前には緑の芝生が人で埋まった。その数700〜1000人。会場になった広場だけでは収まりきらず、多くの人たちが駐車場や歩道にまで椅子を並べるほどだった。場所は米国マサチューセッツ州にあるフローレンスという小さな街。お年寄りや中年夫婦、子ども連れの家族やヒップホップ世代の若者まで、文字通り老若男女がヤング@ハートの歌声を楽しみ、ロックなサウンドにからだを揺らした。





動画 「Y@H 野外ライブハイライト」

(Video by Kazuhiko Iimura)




ローリングストーンズにボブ・ディラン、ジェームス・ブラウンにビリー・ジョエル、ビートルズ、デビット・ボーイ…彼らの幅広いレパートリーには驚かされる。
音楽ファンの中には、「どうせ有名な曲を歌ってるだけだろう?オリジナルにかなう訳ないし、そんなのねぇ…」という方々もいるでしょう。けれどもそんな狭い了見の人たちの想像を超えるものが彼らのステージにはある。こればかりは実際にライブ会場でその空気を体感するしかないのだろうけど、ヤング@ハートの人気は、音楽そのもののほかに彼らの「在りよう」が大きな要因になっているのだ。

では、そのヤング@ハートの「在りよう」とはいかなるものなのか
ヤング@ハートが結成されたのは1982年のこと。現在も音楽監督と指揮を務めるボブ・シルマンさんが公営住宅に住む高齢者に呼びかけて、「ロックとR&Bを歌う」コーラスグループとして結成された。
だからもうすぐ誕生から35年。残念ながら結成当時のオリジナルメンバーはもう残っていないというが、90歳を過ぎた今でも元気にステージに立つメンバーはいる。
94歳のドーラ・モロウさんは今年4月のライブコンサートでJames Brown(ジェームス・ブラウン)の「I feel good 」を熱唱、会場全体が揺れるほどの喝采を浴びていた。
彼らのファンは海外にも多く、ヨーロッパやオーストラリア、そして日本では2度コンサートツアーを行っている。日本でのライブで「リンダリンダ」や「雨あがりの夜空に」といった楽曲を披露したように、海外で公演するときはその国の曲を何曲か頑張って練習して歌えるようにしているらしい。





Y@H Bob
(Y@H 音楽監督 ボブ・シルマン/ photo:kazuhiko iimura)



Y@H 94歳熱唱
(94歳のドーラ、「I feel good」を熱唱/ photo: kazuhiko iimura)





当然ながら「ヤング@ハートのメンバーになりたい」という人も多いらしい。参加条件は「75歳以上」。ただし、いまのメンバーに欠員がでたとき、つまり誰かが病気等で活動できなくなった場合なので、実際に新メンバーになるのはとっても「狭き門」のよう。
ともかく、「ヤング@ハート」の面々はすこぶる元気だから。
練習は週に2回。ボブの指導のもと、生バンドに合わせて2時間きっちり歌い込むわけだが、これが実に賑やかで楽しそう。歌っていないときは、ほぼ笑っているという状態だ。





Y@H リハーサル
(週に2度の練習風景/ photo: kazuhiko iimura)





彼らの活動は地元の企業や多くの個人の寄付によって支えられている。国や行政に頼ることはない。自分たちにできることに全力を注ぎ、彼ら自身も楽しみながら地域の人たちをその輪の中に巻き込んでいく。つまり、単なるエンターテイメントとしてではなく、地域に根づいた音楽活動としても高い評価を得ているわけだ。

そんな「ヤング@ハート」がここ数年力を注いでいるのが社会貢献活動。
なかでも目覚しい成果をあげているのが2年前から行われている「プリズン・プロジェクト」と呼ばれる、地元の刑務所で行っている活動だ。

活動の基本は毎週1回の練習とおよそ半年ごとに開かれるコンサート。もちろんすべてボランティア活動だ。
練習では音楽監督のボブたちが刑務所(一般刑務所と女子刑務所の2箇所)を訪れ、希望者に2時間のレッスンを行う。ヤング@ハートのメンバーも数人単位で刑務所にやってくる。受刑者の歌う曲のコーラス部分の練習は必須事項だから。わきあいあいの雰囲気ながら、参加者はみんな真剣に練習に取り組む。
歌う曲は受刑者が自分たちで選ぶそうだが、彼らのオリジナル曲もある。多くがラップで、各自が歌詞を書き、好きなテンポの曲に合わせて声をだす。
「Old Souls」…それが受刑者たちのグループ名だ。この名前も彼ら自身が決めたものだ。





Y@H 刑務所の練習2
(刑務所での練習風景/ photo: kazuhiko iimura)





練習の成果は、プリズン・コンサートで明らかになる。
収監されている受刑者、一部の家族、刑務所スタッフや関係者向けのものだが、観客はそれなりの人数になる、だから「Old Souls」のメンバーにとっては緊張もの。ほかの受刑者仲間からの評価も気になるところだ。
ところが実際にコンサートが始まってしまうと空気は一変する。ヤング@ハートのおじいちゃん、おばあちゃんたちの歌声はすぐに会場の空気を温かなものに変える。それにつられるように受刑者のメンバーもベストを尽くす。
腕や肩、人によっては顔にまで刺青を入れた受刑者が、白髪のコーラスグループをバックにロックやヒップホップを熱唱する。それは大げさではなく感動的な光景だ。そして最後はいつも全員でボブ・ディランの「Forever Young」の合唱。出演者全員が拳を高く掲げると、観客の側の受刑者たちも右手を高く突き上げる。その直後、会場全体は大きな歓声に包まれることになる。





Y@H 右手を上げる!
(「Forever Young」合唱/ photo: kazuhiko iimura)





ヤング@ハートの歌声や気負いのない仕草は、受刑者たちの心の奥にあって通常ではなかなか動かないある種の感情をほんの少し揺さぶるのだろう。それが何度か続くうちにいつの間にか受刑者たちはヤング@ハートの虜になっていく。おそらくそのようなことじゃないかと思う。
彼らの持っている人間力には、ただただ目をみはるばかりだ。

ヤング@ハートがプリズン・プロジェクトを始めるきっかけはなんだったのか。
音楽監督のボブによると、それは2006年に開いた刑務所でのコンサートだったらしい。最初は何が起こるかまったく予想していなかったが、結果は想像をこえるものだったという。
「あれは一種のマジックだった」とボブは振り返る。
「本当に魔法のような瞬間だった。そして気づいた。この場所は再びやってくるところだと。そしてそのときは、受刑者向けにパフォーマンスをするだけではなく、彼らの歌声が聴けたらどんなに素晴らしいだろうと思った」
そこでボブは、受刑者がヤング@ハートのコーラスメンバーと一緒に歌えるようなプロジェクトをつくったのだという。

ヤング@ハートのメンバーの一人、80歳のクレアはあるときこう語っている。「帰るときに時々受刑者にハグしたくなるけどそれは(規則で)認められていない。でもときにはやっちゃうのよ。どうしても我慢できないから」
受刑者は窃盗や強盗、武器や禁止薬物の不法所持…等々、多種雑多な罪で収監されている。けれどもクレアは誰がなにをしたのかは知らない。「他のメンバーもその方がいいと思っているはず。それが正直な答え。彼らの過去の生活は気にしない。私たちが見ているのは彼らの今、そして将来の希望だから」
この点に関してはボブも同じ考えだ。
「受刑者たちがなにをやってここに来ているのかは知らないし、それに興味はない。それは私たちに関係ない話。一つはっきりしているのは、彼らがコミュニティに戻ってくること。そして私たちは彼らにできるだけ最高の状態で戻って欲しいと考えている。小さなことかもしれないが、私たちの活動はその手助けになっていると思う」

「平均年齢83歳の集団」にしかできない音楽を伴った活動、もう少し具体的にいえば彼らの音楽に対する「ポジティブな姿勢」や好きなものに打ち込む情熱。
そしてなにより彼らの発する「何かを始めるのに遅すぎることなんてない!」というメッセージは強烈である。また実際にそれを実証している姿はともかく圧倒的だ。
ところがこのヤング@ハートのメンバーには押し付けがましいところがまったくない。いつだって肩の力を抜きリラックスしているように見える。このあたりは長い人生経験の賜物に違いない。





Y@H 4
(ネルソンとY@Hメンバーのスティーブ/ photo:kazuhiko iimura)





プロジェクトに参加している受刑者の一人、ネルソン受刑囚の言葉は象徴的だった。
今年38歳の彼は少年時代から窃盗などの犯罪を繰りかえし、これまでの人生の半分以上を壁の内側で過ごしてきた。いまの刑期を終えるころには41歳。「もう後悔するのに疲れ果てた」というネルソンだが、ヤング@ハートのプロジェクトに参加することで「負のサイクル」から抜け出すきっかけをつかんだのだという。
「負のサイクルから抜け出すためには、何か違うことに挑戦しなくちゃダメだと思った。音痴だけど子供の頃から音楽は好きだったから今回はやってみようと…。みんな凄くいい人たちで偏見を持たずに接してくれるのが嬉しい。一度コンサートにもでた。 とても緊張したが、あれを経験してもっと素直になれた。人生でうまくいかないことはあるけど、やらないで後悔するよりは何でもやってみたほうがいいと思えるようになれた」

さらにネルソンは、この経験は出所後の自分の救いになると話す。
「これをきっかけに自分も人の輪の中に入ることができた。年齢なんて関係ないことも学んだし、彼らを目の当たりにして自分も変わらないとダメだ…と気づかされた。社会に異なる役割がたくさんあるように、自分もできることをやっていい人生にしていきたい」





動画 「ネルソン受刑囚インタビュー&プリズン・コンサート」

(Video by Kazuhiko Iimura/ 翻訳:飯村万弥)




「何かを始めるのに遅すぎることなんてない!」
人生の終盤になっても達成することのできる“なにか”に向っているヤング@ハートの「在りよう」が、受刑者の心に訴えかけ、彼らのものの見方、考え方をいい方向に変える一助になっているのだろう。
長い間抱え込んでいた劣等感や他者に対する不満、自分を取り巻く環境へのストレス、後悔、そして「人生をやり直すなんて大変だ」というネガティブな姿勢…そんな受刑者たちの思考が少しずつポジティブな方向に向っていくようだ。

ハンプシャー郡刑務所のロバート・ガアビー所長は、ヤング@ハートの活動について「受刑者が普段とは違った自分たちの役割を知るいい機会になっている。目的に向って努力するというある種のコミュニティができた」と絶賛。さらに「何かのメンバーになっているということは受刑者たちにとって非常に大切。同時に社会の人たちとの繋がりを築ける大切な場にもなっている」として、この活動が、新しい「変化」を受刑者や地域社会にもたらしている話す。

たぶん、日本にもヤング@ハートのメンバーようなお年寄りたちが沢山いるに違いない。愉快でエネルギッシュ、それでいて豊かな人生経験に裏打ちされた包容力をもった方々。そんなお年寄りが活躍できるようなコミュニティができあがれば、少なからず問題も解決されていくのでは?
国や行政がセーフィティネットを充実させることはもちろん必要できちんとやって欲しいけれど、その上でコミュニティの面々が互いにそれぞれが打ち込んでいることに目を配り、少しづつでもポジティブな係わり合いを持つようになれば地域の空気はぐ〜んと良くなる。ヤング@ハートの活動はその一例のような気がする。

(飯村和彦)


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2016年06月30日

増え続ける無差別テロの脅威!沢木耕太郎さんが「深夜特急」で描いたような旅はもうできない。


この暗澹たる気分、言い知れぬ不安感をどう言葉で表現したらいいのか。

トルコ最大都市イスタンブールのアタチュルク国際空港で発生したテロでは、29日までに41人が死亡、239人が負傷した。つい2週間ほど前には、米国フロリダ州オーランドでIS(イスラム国)に忠誠を誓ったとされる男がナイトクラブを襲撃。銃を乱射し49人の命を奪ったし、3月にベルギーの首都ブリュッセルで発生した同時テロでは、32人が死亡。また昨年11月のパリ同時多発テロでは、レストラン、劇場、サッカー場などが襲撃され130人もの人が殺され、350人以上が負傷している。
さらに中東やアフリカに目を移せは、毎週のように何十人もの一般市民が無慈悲なテロの犠牲になっている。

世界は今いったいどうなっていて、これから先どうなっていくのか…。
幾つもの国境を越えて見知らぬ土地を訪れ、初めて出会う多種雑多な人や文化に触れる…もうそんな旅をすることはできないような気がする。実際、中東では現実的に不可能だろう。

イランやイラク、アフガニスタンに行ってみたい…と思ったのは学生の頃だ。沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読んだ後のことだった。路線バスでごつごつした砂漠地帯を夜通し走り、明け方の市場でその土地特有の朝メシを食べる。世界史で学んだメソポタミア文明の地(現在のイラクの一部)であるユーフラテス・チグリス川流域を通り、そのままヨーロッパまで足をのばす。本を読みながら勝手にそんなことを想像していた。
約30年前、メディアの仕事についたのも少なからずそんな願望があったからだ。自分の目と耳で世界の国々に生きる人たちの生活を感じ、意見を聞く。そして、ものごとに対する多様な考え方に接してその意味を多くの人に伝えていく(…というかその努力をしていく)。そんな仕事だ。




北朝鮮国境
(北朝鮮と韓国の国境付近 photo: kazuhiko iimura)




北朝鮮と韓国の国境を目の当たりにしたときは、同一民族でありながらもどうしても折り合いをつけられない問題がそこに在ることを肌で感じたけれど、そんな状況にあっても韓国には、命がけで脱北者に暖かい支援の手を差し伸べている人たちがいた。

ハイチには、上等じゃないけれど綺麗に洗濯された白いシャツを着た少女たちが夜、街灯の下で頑張って勉強をしていた。貧しさに負けない強さだ。
モンゴルでは生活に使う水を買いに行くのは子どもの仕事。一日に一度、大きなタンクをのせた台車を押して給水所にやってくる。道はデコボコだった。




モンゴル2
(モンゴルの給水所 photo: kazuhiko iimura)




これまでに訪れたのは約20カ国。そのたびに痛感したことは「違い」のあることの当たり前さであり、その「違い」を認めることの大切さだ。人種や宗教、政治体制や気候、風土、国としての発展度や成熟度などによってそれぞれ異なるし、同じ一つの国の中でさえ、地域ごとに明らかな「違い」がある。当然ながら、その「違い」があることによっていいこともあれば悪いこともある。意見がぶつかり合って激しい論争になる。紛争もあれば悲劇も起こる。
でも「違い」がなければ「想像力」は喚起されないはず。個人的な考えでしかないけれど、人間が他の人々と共に生きていくうえで一番大切なものは「想像力」だと思う。だからその「想像力」を喚起させる「違い」がとっても重要になり、重要だからこそその「違い」をそれぞれが認め合う必要がある訳だ。積極的にだろうが消極的にだろうが、最終的にはあれこれある「違い」をそれぞれが尊重する。じゃないと世の中が壊れてしまうから。

で今まさに、「違い」を認めない「不寛容さ」ゆえに世界が壊れ始めている。

国民がEU離脱という選択をしたイギリスでは、若者たちが、「クソ移民!」「アフリカに帰れ!」と公衆の面前でアフリカ系男性に罵声を浴びせるという事件が発生、似たような人種差別主義者による犯罪も増えているという。悲しくて空しい現象だ。
また、ベルリンの壁が打ち壊されてから27年たった今、ヨーロッパの国々は難民・移民対策として国境警備を強化している。モロッコとスペインの飛び地セウタの国境、トルコとギリシャの国境、トルコとブルガリアの国境などには、高いフェンスと有刺鉄線が設置された。
まさに不寛容の象徴でしかない。
米国では共和党の大統領候補トランプが、「不法移民の強制送還」や、移民流入阻止のためにメキシコとの国境に「万里の長城」を築くと公約。失われた「大国のプライドと主権」を取り戻すべきだと訴え、少なくない支持を集めているのは周知の通り。

そして中東やヨーロッパ、米国で多発している無慈悲で残虐なテロ。
トルコの空港で発生したテロについては、いまのところどの組織からも犯行声明はだされていないが、当局はIS(イスラム国)による犯行の疑いが強いとみて、自爆した実行犯3人の特定とその背後関係の解明に全力を挙げているという。
けれども一番の問題はそこじゃない。
いま何が恐ろしいかといえば、世界中どこにでもIS(イスラム国)的なテロに及ぶ輩が存在し、増えていること。米軍の支援を受けたイラク軍の攻撃によりIS(イスラム国)支配地域はかつてよりはだいぶ縮小したというが、その分、彼らの主張に同調する他国にある組織や個人がより過激になっているように思えてならない。特に「個人」の場合は、どこの誰が「テロリスト」であるのか、テロが発生した後でないと分からないという現実が横たわる。

いつどこで自動小銃が乱射され、自爆テロが起きるか分からない。だから誰もがもう、傍観者じゃいられない。そんな現実を肝に銘じながら、まずは自分にいま何ができるのかを考えたい。

悲劇の現場を記憶に焼付け、テロの犠牲になった人たちを心から悼むこと。
空から降ってくるミサイルに怯える武器を持たない人たちの心境を想像すること。
子ども達には、「テロや武力では人の心を変えられない」という事実を伝えること。
そして「違い」を認め他者に寛容になること、またはその努力をすること…か。

(飯村和彦)




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2016年06月08日

ヒラリー大統領候補へ「この国の歴史で初めて」。今だからこそサンダースの叫びに耳を傾けたい



民主党の大統領候補は、”ほぼ間違いなく”ヒラリーで決まり。
「この国の歴史で初めて…」
ヒラリーは勝利宣言のスピーチでそういって微笑んだ。
でもそんな今だからこそサンダースの叫びに耳を傾けたくなる。




ヒラリーとサンダース
(CBSニュースより)



ニュージャーシー州での予備選の圧勝を受けて「勝利宣言」をしたヒラリーだが、カリフォルニア州予備選でも勝利するだろう(この原稿を書いている段階では10ポイント以上差をつけてヒラリーがリードしている)。
当初、接戦が伝えられていたカリフォルニア州だけれど、蓋を開けてみればヒラリーの圧勝に…といっても差し支えないだろう。やはり、きのう(6月6日)の全米メディアによる「ヒラリー指名獲得に必要な代議員数2383人を確保」との報道が大きかったに違いない。


さすがのサンダースもこのカリフォルニア州での結果を受けて終戦かと思いきや、冗談じゃないとばかりに最後まで闘うと宣言した。まるで「ドンキホーテ」のよう…といっては失礼かもしれないが、いまだに血気盛ん、意気軒昂だ。既に選挙スタッフ数を半減したというけれど、なんとか上手い具合に踏ん張って、彼の主張や提案を少しでも今後に反映させて欲しい…と彼の支持者も願っているのだろう。

「民主社会主義者」を自任し、格差是正を前面に掲げてヒラリーの前に立ちはだかったサンダース。当初の「泡沫候補」との評を覆してここまで大健闘した彼の戦いぶりは間違いなく賞賛に値する。
1%の金持ちだけが得をするいまの社会構造を徹底的に否定し、既存の「金のかかる政治」からの脱却を訴え続けたサンダースのメッセージは、まったくぶれなかった。「革命を起こすんだ!」という彼の叫びに、多くの学生や働けど賃金の上がらない人たちが共感したのもうなづけるというもの。


69歳の自称ミュージシャン、トンプソン(Scontz Thompson)さんもサンダースの熱狂的な支持者だった。彼から自分の曲のビデオクリップをつくってくれないかというメールが入ったのは今年4月。建設現場での仕事をやめ、いまはランドリー(洗濯屋)でパートタイムの仕事をしながら音楽活動をしている。彼の曲は、「1% Trickle Down Caste System Blues」。1%の金持ちだけが潤う格差社会を痛烈に批判した内容で、サンダースの応援歌だといった。歌詞は、毎月送られてくる請求書にのたうちまわり、銀行預金もなければ将来もない…というような内容で、自分たちの生活をそのまま歌にしたものだった。







トンプソンさんは、いまこの段階にいたってもまだサンダースを応援しつづけている。
「74歳とは思えないあのエネルギー。誠実な人柄。知性。世直し(政治改革)に挑む姿…。凄いと思う」。だから自分も最後まであきらめないのだといった。彼は、サンダースのいってることが一つでも実現することを願っているのだ。

いまさらという気がしないでもないが、サンダースの提案をおさらいしてみると…。彼は就任後100日間に実施する政策として、医療の国民皆保険、最低賃金の15ドルへの引き上げ、インフラ整備への投資拡大を挙げた。
また大学については、「全ての公立大学で授業料を免除する」として、そのための財源(7500億ドル)は金融取引に課す新税から拠出するとした。

この中から、分かりやすい例としてアメリカの大学の学費を見てみよう。高いとはいわれているが実際にはどれぐらい高いのかといえば、これが信じられないほど高い。総合大学の学費は私立で年額35,000ドルから50,000ドル。1ドル110円で換算すると日本円で年間385万円から550万円。つまり4年間で約2,000万円にもなる。州立(=公立)大学でも年間約25,000ドル(約275万円)だから、4年間で軽く1,000万円以上だ。これってどう考えても常軌を逸している。
アメリカには、各種の奨学金制度(返済しないでいいもの)があるけれど、学費が学費だからほとんどの学生が重〜い学生ローンに苦しんでいる。サンダースが打ち出した「公立大学の授業料免除」という提案が、あれほど熱狂的に学生に支持されたのはそんな現状があるからだ。
だが当然のようにサンダースの提案する政策には疑問の声があがった。

「確かに夢のような提案だけれど、本当に実現できるの?」

たぶんこの問いに象徴されるような、政策課題への向き合い方の違いが、ヒラリー支持派とサンダース支持派の違いだったように思う。「実現可能な改革案をだして、ものごとを先に進めることが大切」という実務型がヒラリー派で、「国民が動けば大きな夢も現実になる」という革新型がサンダース派だったように思う。
もちろん、一般的にいわれているようなヒラリー=主流派(体制派)、サンダース=進歩派という表現でもいいけれど、ともかくこの二人の間には思想や政策に大きな隔たりがあるのは事実だろう。




サンダース プレート
(photo:kazuhiko iimura)



しかしそうはいっても、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかない。民主党の大統領候補になることが(十中八九)決まったヒラリーは、一刻も早くサンダースとの間にある深い溝を埋めなくてはいけない。そうしないと秋の本選でトランプに負けてしまうかもしれないから。そのためにヒラリーはなにをするのか、なにをすべきなのか。サンダースを副大統領候補するという選択は(多分)ないにしても、可能な限り彼の考えを尊重し、その提案なりを現実のものにする努力をするのでは?この期に及んでもサンダースが「闘う姿勢」を崩さない理由がそこにあるのは間違いないように思う。民主党の政策目標を提示する党の綱領に「サンダースの主張」を反映させる、そのために7月の党大会まで走る続けるのだろう。

(飯村和彦)




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2016年05月29日

オバマ大統領の4羽の「折り鶴」が、広島に舞い降りた理由とは?



2016年5月27日、広島に4羽の折り鶴が舞い降りた。

ピンクと青の2色。千代紙をつかい、丁寧に折られていたという。
この4羽の折り鶴はアメリカのオバマ大統領が自ら折ったもの。広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪門した際、そのうちの2羽を出迎えた小・中学生2人に手渡し、残りの2羽は、直筆のメッセージに添えてそっと置いたという。
「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」(メッセージの内容)



ではなぜ「折り鶴」だったのか

広島の平和記念公園に、いつでも何千、何万もの折り鶴が手向けられている、ある少女をモデルにした像がある。1958年の子供の日に建立された「原爆の子の像」だ。この像の真下にある石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれている。



サダコ像
(photo:kazuhiko Iimura)



この「原爆の子の像」のモデルになっているのが、佐々木禎子ちゃん。だららこの像のことを「サダコ像」と呼ぶ人も少なくない。
佐々木禎子ちゃんは、広島に原爆が投下された日、放射能を帯びた“黒い雨”に打たれ被ばく。10年後の1955年に白血病が発病し、わずか12年でその生涯を閉じた少女である。



禎子ちゃんが「折り鶴」に込めた思いとは?

医師から、「長くて1年の命」との宣告を受ける中、禎子ちゃんは死の間際まで懸命に折り鶴を折り続けていたという。禎子ちゃんが「折り鶴」に込めた思いとはいったいどんなものだったのだろうか。

広島に原爆が投下された日、禎子ちゃんは広島市内にあった自宅で、家族と共に被ばくした。爆心からは、およそ1.6キロ。爆風で、家の外まで吹き飛ばされたものの、禎子ちゃんは幸運にも傷ひとつ負わなかったらしい。その時の状況について、禎子ちゃんの兄、佐々木雅弘さんは、かつてこう話してくれた。
「今でもありありと覚えています。一瞬のうちに家が崩れました。2階から落ちたミカン箱がありましてね、その上に禎子は無傷でちょこんとのっかっていました」
ところが瞬く間に辺りは火の海に。禎子ちゃんは、母親に背負われて近所を流れる太田川へと避難したのだという。だがそこで、“黒い雨”に打たれてしまう。
「ドロッとしていて。頭から顔から体中、全身真っ黒です。沢山の方が倒れておられ、川には亡くなった方が流れているという状況でした」(雅弘さん)

“黒い雨”とは、原爆の爆発によって巻き上げられた粉塵や煤により黒くなったタール状の雨のこと。この“黒い雨”は放射能を帯びているので、直接打たれると後に放射能障害になる可能性が高くなる。

しかし、当時の禎子ちゃんたちがその恐ろしさを知る由もなかった。
リレーの選手で将来の夢は体育の先生。そんな禎子ちゃんが体の異変に気づいたのは、1954年の暮れのことだった。首や耳の後ろに幾つかのしこりが発生。年が明けた1955年1月末には、足に紫色の斑点が現れたという。
そして、1955年の2月18日。ABCC(原爆障害調査委員会)の検査結果をもとに、禎子ちゃんの父親に病名が告げられた。“亜急性リンパ腺白血病”だった。
「白血病であり、短くて3ヶ月。長くて1年でしょう…というように言われたんです」(雅弘さん)

それは、まさに死の宣告だった。
入院当初は、快活に過ごしていたという禎子ちゃんだったが徐々に症状が悪化。病院内で顔見知りになった少女が同じ白血病で亡くなると、「うちもああして死ぬんじゃろか」とポツリと呟いたという。

そんな禎子ちゃんの生きる支えとなったのが、「折り鶴」だったのだ。
きっかけは、原爆患者に届けられた愛知県の高校生たちが折った色とりどりの折り鶴。その美しさに心打たれた禎子ちんは以後、自らの病気の回復、「生きたい」というを願いを込めて一心に鶴を折りはじめた。禎子ちゃんの兄、雅弘さんによると、
「だんだん具合が悪くなるに従って、針を使って折るようになったんです。先までピーンと…。最後はもう、本当に気力体力をこれに注いだんです。それで良くなりたいと」




サダコちゃんのつる
(photo:kazuhiko Iimura)



禎子ちゃんの折り鶴は、直径1センチにも満たない小さなものだった。
この話を雅弘さんに伺ったとき、「どうか、手のひらに載せてやってください」といっていただいたので、そのうちの一羽を手のひらにのせた。
針を使って、気力だけで折られたという折り鶴は、ほとんど質量を感じない、驚くほど小さなものだったが、見つめていると吸い込まれるような不思議な力に満ちていた。儚そうでありながら、断固とした存在感…があった。

しかし、折り鶴にかけた禎子ちゃんの願いは届かなかった。

最後は、ピンを使い直径5mm程の鶴まで折っていた。
鶴を折れば元気になれる、
鶴ができれば家に帰れる、
「生きたい…」という気力だけ。まさに、“祈り”である。
けれども、その願いも空しく、禎子ちゃんは、12歳でこの世を去った。
悔しくて、切なくて、虚しくて、………
禎子ちゃん最期の言葉は、「お父さん、お母さん、…ありがとう」だったという。



禎子ちゃんの甥、佐々木祐滋さんの「祈り」とは?

佐々木祐滋さんは、禎子ちゃんの兄、雅弘さんの息子である。
ミュージシャンである裕滋さんは、自ら作った曲や数々の講演活動などを通じて、禎子ちゃんの味わった「悔しさ」や「生きたい」と願った気持ち、さらには「平和への思い」や「原爆の悲劇」を世界の人々に訴え続けている。

今回、オバマ大統領が広島に足を運び、被爆者の方々とも面会し、資料館へ自ら折った4羽の折り鶴を持参した、その背景には、間違いなく祐滋さんたちのこれまでの努力があったはず。
広島平和記念資料館の志賀賢治館長は、資料館を訪れた際のオバマ大統領の様子について、
「特に禎子さんの折り鶴に関心があったようで、ご覧いただいた。そのあと、被爆を伝える資料をご覧いただいた」とし、大統領が事前に勉強していた様子が伺われたと話している。




折り鶴映画イベント




祐滋さん(45)は現在、父の雅弘さん(74)らと一緒にアメリカ、ロサンゼルスを訪れている。
原爆投下命令を下したハリー・トルーマン元大統領の孫クリフトン・トルーマン・ダニエル氏と共にロサンゼルスにある「Museum of Tolerance(寛容博物館)」へサダコ鶴を寄贈。また、Miyuki Sohara監督による「折り鶴2015」のLAプレミア上映も行われている。

今回のオバマ大統領の広島訪問、さらには「4羽の折り鶴」について、祐滋さんに伺ったところ、以下のような感想を寄せてくれた。

『今回のオバマ大統領広島訪問には本当に感謝しております。
ましてや、折り鶴をご自身で四羽折られて持って来て頂き、資料館で出迎えてくれた、子供に二羽、メッセージを書いた記帳台に二羽置いて頂いたこともあり、大変感動もいたしました。
まだまだ日米の間で越えなくてはならない壁はいくつもあるとは思いますが、
これまで誰もなしえなかった、現職米国大統領の広島訪問が実現できたのですから、
ここからはじめられることを皆で考えていきましょう!
折り鶴は皆の心を必ずつないでくれると信じています!』

また、祐滋さんは、
「オバマ大統領さまへ」として次のような言葉をFacebookに綴っている。

「オバマ大統領さまへ  今回、広島平和公園を訪問し、慰霊碑に献花をされ、犠牲者に心を手向け、被爆者と笑顔での対話や抱擁をされたこと、本当に感謝しております。
さらに、たった10分程の資料館視察の中で禎子の鶴を見て頂き、ご自身で折られた4羽の折り鶴のうち出迎えた小中学生に2羽手渡され、芳名帳にメッセージを書かれたあと残りの2羽を置いていって頂いたこと、本当にありがとうございます。

僕には、この折り鶴を折って渡してくれた行動が「サダコ、君のことは知ってるよ!僕の故郷であるハワイ、そして、先の大戦で日米開戦のきっかけとなった真珠湾に来てくれてありがとう!」と言ってくれているんじゃないかと思えてなりません…きっとそうなんですよね?

僕は、禎子の鶴を絶対に真珠湾に贈りたいと思い、周りから心配や反対がありながらも勇気を持って、信じて、決断をし、原爆投下命令を下した元米国大統領ハリー・S・トルーマンの孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんと初めてお会いしたときに「禎子の鶴を真珠湾に贈りたいので力を貸してください!」とお願いをしました。そのクリフトンさんが動いてくれて念願であった真珠湾への寄贈が実現し、今度はその禎子鶴を常設展示する為に必要な約7万ドルの費用を集める為に、現地の日系人の方々とオバマ大統領の母校であるプナホウ高校の先生と生徒たちが中心となって動いてくださったおかげて常設展示も出来ました。
そしてその後もオバマ大統領の後輩達がサダコプロジェクトを立ち上げ、展示後から現在も毎月1回、禎子鶴展示ブースに行って、そこを訪れる人達に、鶴の折り方を教えてくれているのです。
いつかこの真珠湾と禎子の折り鶴の事をこの皆の、心の繋がりをオバマ大統領に伝えたいと僕は思っていました。今回、その願いがやっと叶ったと確信しております。

あらためて、オバマ大統領、広島に、平和公園に来て頂いてありがとうございました。
そして、折り鶴を折り、広島の子ども達へ渡してくださって本当にありがとうございました。
最後に、今年の12月7日は真珠湾攻撃から75年目になります。その日に今度は僕らが思いを込めた折り鶴を真珠湾へ届けに行きますね。  佐々木 祐滋」


佐々木祐滋さんの代表曲は「INORI(祈り)」
(作詞・作曲:佐々木祐滋、歌:クミコ)

禎子ちゃんの思いがそのままバラード調の曲になっている。聴くと、本当に涙がでる。ボロボロと泣けてくる。ひとりでも多くの人に「INORI」を聴いて欲しい。この曲は、戦争がもたらす悲惨、平和の尊さ…を訴えかける。以下は、「INORI」の歌詞(全文)である。


別れがくると知っていたけど 
本当の気持ち言えなかった
色とりどりの折鶴たちに 
こっそり話しかけていました

愛する人たちのやさしさ 
見るものすべて愛しかった
もう少しだけでいいから 
皆のそばにいさせて下さい

泣いて泣いて泣き疲れて 怖くて怖くて震えてた
祈り祈り祈り続けて 生きたいと思う毎日でした

折鶴を一羽折るたび 
辛さがこみ上げてきました
だけど千羽に届けば 
暖かい家にまた戻れる

願いは必ずかなうと 
信じて折り続けました
だけど涙が止まらない 
近づく別れを肌で感じていたから

泣いて泣いて泣き疲れて 怖くて怖くて震えてた
祈り祈り祈り続けて 生きたいと思う毎日でした
泣いて泣いて泣き疲れて 折鶴にいつも励まされ
祈り祈り祈り続けて 夢をつなげた毎日でした

別れがきたと感じます 
だから最後の気持ち伝えたい
本当に本当にありがとう 
私はずっと幸せでした

泣いて泣いて泣き疲れて 怖くて怖くて震えてた
祈り祈り祈り続けて 生きたいと思う毎日でした
泣いて泣いて泣き疲れて 折鶴にいつも励まされ
祈り祈り祈り続けて 夢をつなげた毎日でした

めぐりめぐり行く季節をこえて 
今でも今でも祈ってる
二度と二度とつらい思いは 
他の誰にもしてほしくはない



12歳の少女が、“生きたい”という願いを込めて折った鶴。
その鶴が、時空を超えて、平和を愛する世界の人たちの心を結ぶ。

最後にオバマ大統領の演説から、その一部を…

「世界はここで、永遠に変わってしまいました。しかし今日、この街の子どもたちは平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が“核戦争の夜明け”ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです」(朝日新聞より)

是非、そうあって欲しい。そんな未来を築く努力を、いまこの瞬間から始めたい。
まずは自分にできることから…


(飯村和彦)


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2016年05月18日

がん治療の新しい地平!アメリカ発「がん免疫療法」(1)



毒をもって毒を制す!
先週、FDA(アメリカ食品医薬品局)が、デューク大学の開発した「ポリオウィルス」を使って脳腫瘍(正確には膠芽腫)を攻撃する治療法を「Breakthrough Therapies」(仮訳:画期的治療法(治療薬)」に指定した。
「Breakthrough Therapies」指定制度は、「FDA安全性及び革新法」(2012年施行:FDA Safety and Innovation Act: FDASIA)に付随するもので、単独または他剤との併用により重篤または致命的な疾患や症状の治療を意図した新薬の開発と審査を加速することを目的としている。(参照:FDAホームページ)

この「ポリオウィルス」を用いた脳腫瘍の治療法は、2013年の米国臨床腫瘍学会(ASCO)で発表されて以来注目を集めてきたもの。その特徴はがん細胞をポリオウィルスが直接死滅させるだけではなく、その療法によって免疫機能も誘発され、がん細胞を攻撃するようになること。

当然ながら素朴な疑問が浮かぶ。なぜ「ポリオウィルス」なのか。
デューク大学の説明によると、がん細胞の表面には、ポリオウイルスを磁石のように引き寄せる受容体が多数あるため、“ポリオウイルスの感染によりがん細胞が死滅するから”だという。

使用されるポリオウィルスは、遺伝子組み換え技術によってつくられた「改良型ポリオウィルス」。ポリオウィルスの基本的な遺伝子配列の一部をインフルエンザウィルスのものと組み換えたもので、この「改良型ポリオウィルス」は正常細胞には無害だが、がん細胞に対しては致死作用があるらしい。
さらには前述した通り、「改良型ポリオウィルス」を患者の腫瘍に直接注入する治療法には、身体の免疫機能を誘発して、ポリオウイルスに感染した腫瘍への攻撃を開始させる効果もあるという。
研究者によると、実はこの免疫系の働きがとっても重要で、ポリオウィルスをがん細胞に感染させて死に追いやるのは、全体の流れでいえば最初のきっかけにしか過ぎず、実際に腫瘍全体を死滅させるのに大きな役割を果たしているのは、この免疫系なのだという。

ここ数年、アメリカで研究されている先端がん治療をあれこれ調べ、取材してきたけれど、やはりその多くが人間に生来備わっている免疫機能を活性化させたり、呼び覚ましたりするものが多い。

これまでは、がんになったら病巣を外科手術で摘出し、その後は抗がん剤や放射線を使用して転移や再発を抑える…という方法が一般的に行われきた。
ところがご存知の通り、この治療法は患者本人への負担が大きい。特に末期がん患者の場合、一定の治療効果があって余命を伸ばすことに成功したとしても、多くの患者が厳しい副作用に苦しむことになり、残された大切な時間を苦悶の中で過ごさざるを得なくなる。
理由は明らか。
外科手術はもとより、抗がん剤を使った治療はその特性から患者本人の身体や正常細胞を激しく損なうからにほかならない。そこでここ数年、先端がん治療の現場で注目され、研究が進んでいるのが人間の持つ免疫機能を活用してがんを叩く、「がん免疫療法」ということなのだろう。

例えば、ペンシルバニア大学を中心にした研究チームは、「エイズウィルス」を使ったがん免疫療法を開発した。ここでのコンセプトは、「患者の免疫細胞(T細胞)をがんを直接攻撃する細胞に作り変える」こと。対象とされたがんは、急性リンパ性白血病、及び慢性リンパ性白血病だった。

この免疫療法が一躍全米の注目を浴びたのは2012年12月。急性リンパ性白血病を患い、残された治療法はなく、あとは死を待つのみと宣告されていた少女(7歳)が、この治療法の臨床試験に参加して奇跡的な回復を遂げたことだった。(この成功例は当時、ニューヨークタイムスによって大きく報じられた)
その後も研究チームは、急性リンパ性白血病、及び慢性リンパ性白血病の患者を対象に臨床試験を継続。治験者は、従来の治療法である化学療法や幹細胞移殖などを繰り返したあと、ほかに残された治療方法がない人たちだったが、2013年12月に発表された結果は、75人の白血病患者のうち45人は、後に再発した患者もいるが、回復しているというものだった。

では「エイズウィルス」を使ったがん免疫療法とは、具体的にはどんなものなのか。
その流れは以下のようになる。
まず、患者本人から取り出した免疫細胞の遺伝子を、不活性化させたエイズウィルスを利用して組み替え、がん細胞を攻撃するように改変する。次に、こうして改変した免疫細胞を培養で増やした後、また患者の体内に戻す。すると、体内に戻された改変した免疫細胞が、がんを叩くという寸法である。
この改変された免疫細胞は、ほとんどのがん細胞の表面上に見られる「CD19」と呼ばれるプロテイン(タンパク質)に向かって進むようにしてあるので、結果、直接がん細胞を攻撃することになり、順調に機能すればがん細胞を破壊しはじめるのだという。

そう、ここでまたしても疑問。どうして「エイズウィルス」だったのか。
臨床試験の指揮をとるペンシルバニア大学のジュン教授によると、「(不活性化させた)エイズウィルスは、免疫細胞のDNAに入り込むのが得意だから」…だそうだ。「エイズウィルス」と聞くとみんな驚くかもしれないが、不活性化して病原性をなくしてあるから問題ないらしい。
確かに、エイズ=「免疫不全症候群」。だからエイズウィルスは免疫細胞に巧妙に進入するのだろう。

余談になるけれどこのジュン教授、取材の問い合わせをした際、ものの1時間もしないうちに返信メールをくれた。何かの役に立てばと自分の研究室にいた日本人研究者(医師)の連絡先も沿えて…。いつも思うことだけれど、リスポンスの速い人ほど素晴らしい仕事をしている。頭が下がる。

さて、このペンシルバニア大学の治療法のコンセプトそのものは50年ほど前からあり、ヒトを対象にした臨床試験も過去20年間ほど行われてきたという。しかし、患者に戻した免疫細胞をその体内で生存させるのがとても難しかったのだそうだ。試行錯誤の末、免疫細胞に組み込む遺伝子を運ぶために使う「乗り物」(ベクターと呼ぶ)に、「改変エイズウイルス」を用いたところ、いい結果が得られるようになったのだという。
このペンシルバニア大学を中心に行われている研究は大手製薬会社の協力のもと現在も着実に進んでいる。

とここまで書いてきて、25年以上前に読んだ一冊の本について触れたいと思う。
「明るいチベット医学〜病気をだまして生きていく〜」(センチュリープレス)
特別な理由もなくふと書店で手にしたものだったが、取材対象の一つの柱として自分が医療分野(…というか医療行為の神秘)に興味を持つきっかけを与えてくれた一冊だ。



明るいチベット医学



改めて著者の大工原弥太郎さんについて調べてみると、『…昭和19年生まれ。チベット医学を専攻。昭和46年インドのダージリンで診療開始。翌年ブッダガヤに移ってのち、印度山日本寺境内に私設の無料診療所を開所。以来、臨床畑を歩むかたわら、招聘に応じてたびたびイギリス、スペインでの講座講義と臨床。昭和50年に国連ユニセフ・フィールド・エキスパートとしての専属契約によりネパール、ブータン、タイ、カンボジア、ヴェトナム、チベット等で、教育・福祉・健康・医療面での諸プロジェクトに従事店』(一般社団法人・仏教情報センターHPより抜粋)とあった。

実はこの「明るいチベット医学」の中にも大変興味深い「がん治療法」が紹介されていたのだ。いま手元にその本自体がないのが残念だが、当時書いた取材メモが残っていたので以下に…。

『…病気を取り除くのではなく、いかに上手く病気と付きあっていくかが大切。例えば、チベット医学のがん治療法。これにはがんの種類、進行具合、患者の資質によって二つの方法があるという。
一つが患者の体力を落として体質改善を図る方法。この方法は主に上皮肉腫に用い、消化器、循環器以外のがんの場合に用いられる。がんはその発生から豊富な栄養をもとにしており、細胞分裂するごとに勢いを増していく病気。だから逆に、がんの進行に拮抗できるような体力の“落とし方”をすればがんの勢いも衰えるという考え方に基づいている。
例えばこんな具合だ。ある期間、ブドウ糖と塩水以外は一切患者に食べ物を与えない。そうして、ほとんど皮下脂肪が無くなった頃合をみて断食を解除、段階的に正常な消化活動を再開させる。ところが、いったん脂肪も体力もギリギリまで落ちた身体は、もう身体にとって望ましい量の食物しか受け付けなくなっている。こうなればもう“出来あがり”らしい。
通常、がんが消えてなくなることはないが、それ以上大きくなることも無く、みんなガンと同居しながら苦しみもせず10年、15年と生きていくのだという。

もう一つが、らい菌をがん患者(主に喉頭や食道、肺ガンなどの呼吸器系を中心とした、比較的症状が軽い患者) に感染させて、ガンを治す方法。この方法は患者をらい菌に感染させるまでに時間がかかるのが難だというが、らい病は、今では重症にしなければ完治させられるし、後遺症は起こらない。その治療効果は抜群だという。上手くらい菌に感染させられれば、がんは大方消えてしまうそうだ。

“医者は患者に関わりはするが結局は他人。頼りになるのは自分の身体だけだ”というのがインドの人たちの考え方だという。だから彼らは病気にならないように生きるべく、昔から語り継がれた知恵を沢山持っている。そしてそれらは、専門的な観点からみても理に適っている場合が多いのだという。…』
(以上、取材メモより抜粋)

いま改めて取材メモを読み返してみてやはりちょっと驚いた。

「らい菌」をがん患者に感染させる治療法は、いま最先端だといわれている「ポリオウィルス」や「エイズウィルス」を利用したがん治療法と通じるものがあるのでは? 当然だといわれればそれまでなのだが、つまり人が長い歴史の中で経験し、実践してきた治療法というものは21世紀の現在にいたっても、その発想に関しては脈々と息づいているということなのだろう。
遺伝子工学や分子生物学、有機・無機化学の急速な発展と共に医学そのものも様変わりしているけれど、人の身体の在りようは変わらない。たぶんそんなところなんだろうなと…。

(飯村和彦)




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2016年05月06日

アメリカ大統領選・トランプの勢いは侮れない!



さて、アメリカ大統領選予備選のこと。

結局、共和党の候補はトランプに。共和党の主流派の多くも、いまのトランプの勢いに屈せざるを得なかったということ。インディアナ州の予備選以降、結構多くの共和党実力者がトランプになびいた。共和党の重鎮の一人、ジョン・マケイン上院議員もトランプ支持を表明した。ともかくまずは勝ち馬に乗れ!ということらしく、そこに主義主張なり定見があるわけじゃない。政治家特有の駆け引きだ。もし定見らしきものがあったとすれば、それは「クルーズは死ぬほど嫌い」という当初からの思いかもしれない。超右派で危険な原理主義者のクルーズよりは、素っ頓狂な大口たたきの実業家、トランプの方が組みやすし…とでも思ったのか。まあ、第三者から見ればどっちもどっちなのだろうが、もしトランプが大統領選の本選でヒラリーに勝つ、などということが起きた場合は、その影響は世界に及ぶ訳だから、のんきに構えてはいられない。
トランプの同盟国は米軍の駐留経を100%負担すべきだという主張やら移民対策、貿易協定のあり方…等々、彼が本気であるなら大変な話だ。



2S
(写真:bbcより)



それでは本選の行方はどうなるのか…ということだが、実はかなり「まずい」状況になっている。なにが「まずい」のかといえば、もしかすると本当にトランプが大統領になってしまうかもしれないから。
現段階の世論調査では、ヒラリーがトランプを5〜6ポイントほどリードしているようだが、その程度の数字はあっという間にひっくり返る。特に多くの米国民から嫌われている二人による闘い(これも珍しい話だ…)だから、ちょっとしたことで形勢は逆転する。
例えば現実にはまったく即していない無理筋の主張であっても、一人でも多くの米国民が単純に「おお、そうだそうだ!」となるような主張を大声で訴えれば、間違いなく瞬時に状況は一転するに違いない。

一般的な米国民にはほとんど興味のない事柄だが、話を分かりやすくする意味で日米同盟の例で説明すると、トランプの「米国が攻撃を受けても、日本は何もしなくていい。それはフェアじゃない。だから駐留費を全額負担しないなら、駐留米軍の撤退もあり得る。アメリカはもう世界の警察にはなれないし、それだけの金もないから…」なんていうもの言いは、「おお、そうだそうだ!」となりやすい。ここでヒラリーが、「在日米軍は日本防衛のためだけに存在するのではない。朝鮮半島、中国、南シナ海など、アジア太平洋の安定は米国の国益そのものだ」なんて力説したとしても、多くの米国民はそんなことには耳を貸さないし、多分きちんと理解しようとしないだろう。

経済政策にしても、一ドルでも多くアメリカが得するための方法はなにか…に話を収斂させるに違いない。つまり、国際安全保障政策にしても対外経済政策にしても、すべてをバランスシート上の損得話にしてしまう訳だ。これって単純でわかりやすいから。
そうはいってもこれまでの国際関係上の取り決めや約束事があるから、そう簡単にはいかないだろう…と思う人も多いはずだ。もちろんその通りで、トランプが大声でいっていることが簡単に現実になる訳じゃない。しかし…だ。トランプやヒラリーはいま実際に安全保障問題や経済政策の舵取りをしている訳じゃない。やっているのはあくまでも「選挙戦」でしかない。だからそこでの目標は、いかにして選挙で一人でも多くの米国民に「おお、そうだそうだ!」と思わせるかが重要で、その意味ではトランプのものいいは、今のアメリカ社会では実に有効に機能しているのだ。
質はまったく違うけれど民主党のサンダースが、「1%の金持ちだけが得をしている格差社会」を大きな問題として、その改革を進めるための「夢」を分かりやすく語って圧倒的に若い世代の支持を集めているのと似ていなくもない。そこに実効性がなくても多くの人がサンダースに票を入れている訳だから。

こう考えてくると、俄然トランプが有利に思えてくる。大きな流れで見れば、暴言でアピールして支持を得てきたトランプは、本選で少しだけ軌道修正すればヒラリー嫌いの浮動票を結構簡単に獲得できるように思える。
実際トランプは、早くも政策を軌道修正。法定最低賃金について昨年11月には「上げない」といっていたのに、最新のインタビューでは最低賃金引き上げを示唆。「私は大部分の共和党員とは違うんだ」と嘘ぶいている。

一方ヒラリーはといえば、本選に勝つために必要な共和党穏健派の票を取り込むために、現状よりさらに保守に傾倒する必要がある。これ、かなり大変なことで、下手をすると民主党左派(つまりサンダースを支持しているような人たち)の票をぐん〜と減らすことにも繋がりかねない。それでなくてもサンダースは、この期に及んでも「最後まで頑張る!」と意気軒昂な訳だから、予備選が終わったあと、本選に向けてすんなりと民主党がまとまるとは考えにくい。だからといってヒラリーが、サンダースを副大統領候補にするとも思えないし。
ただ、人気、実力ともに高いマサチューセッツ州選出の上院議員、エリザベス・ウォーレンを副大統領候補にする…というのは悪くないアイディアに思える。彼女の実力は折り紙つきだし、多分、ヒラリーより大統領にふさわしいぐらいの人物だから。彼女はサンダースと考え方が近い(けれども彼の支持を表明している訳ではない)から、その支持層もサンダースと重なる。当然ながらこの場合、民主党の正副大統領候補が女性ということになる訳だが…。

とにもかくにも今回のアメリカ大統領選挙は、「前例のない」もの、もしかすると不毛な議論や誹謗中傷が乱れ飛ぶ、最低のものになるかもしれない。

(飯村和彦)




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2015年10月25日

Young@Heartに、ルワンダからの客人



Young@Heartコーラスの練習に、
アフリカは、ルワンダからの客人が参加!
激しい民族抗争による大量虐殺等で、
心身ともに傷つき疲弊したルワンダ国民。
その再生に必要な方策を求め、
政府職員のガタバジさんたちはやってきた。




ルワンダ2
(photo:Kazuhiko Iimura)




「Young@Heartの素晴らしいところは、
お年寄りたちみんなが、
明るく元気に音楽を楽しんでいるだけでなく、
社会に大きな貢献をしているところ。
コンサートに訪れる人を愉快にさせるだけでなく、
罪を犯して服役中の受刑者の心も温かくしている」

ガタバジさんは、
ハンプシャー郡刑務所での練習にも参加した。
ルワンダに戻ったら、
Young@Heartコーラスが行っているような、
音楽プログラムをつくりたいと話す。

で、当然のようにルワンダの民族音楽を披露。
みんなからやんやの喝采を受けた。




ルワンダ3
(photo:Kazuhiko Iimura)




来週に迫ったYoung@Heartコーラスと、
受刑者コーラスとのコラボコンサート。
もちろん、ルワンダからの彼らも「参加」する…


(飯村和彦)

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2015年08月02日

「家」をもっと大事にできたらいいのになあ


見たところ、まだ古いとはいえないような、
どちらかといえばまだ新しそうな家の解体工事。
家を壊して更地にしたうえで「宅地」として売りに出されるらしい。

多少ステレオタイプな言い方になるけれど、
多分これが「日本的」な不動産(土地や住宅)市場のありようなのだろう。
実にもったいな話だ。



解体工事



ちなみにアマーストの我が家は45年前に建てられた木造住宅。
これまでに5〜6人オーナーは代わっているが、
住宅そのものの価値はほとんど変わらない。
経済が上向き、住宅需要が高まれば、家の値段は上がる。
その際に、家の新しい古いはあまり関係ない。

より考慮されるのは、築年数よりも家の状態。
きちんと手入れされ、いい状態を保っている限り、
家そのものの価値が下がることはない。
逆にキッチンやバスルームなどを改装したりすると、
古い家でもぐぐっと値が上がったり。

「新築」でなくなった途端、
驚くほど価値が下がってしまう日本とはまったく違う。

日米にはそれぞれいいところと悪いところがあるけれど、
こと住宅に関しては、
日本よりアメリカの方がフェアなような気がする。

もちろん、国土が狭い日本にあっては、
家より「土地」…なのだうが、多分それだけが理由じゃない。
かつて建てられていた長持ちしない「お粗末な住宅」の影響もあるだろうし、
多くの日本人が「まっさら」なもの好きというようなこともあるだろう。

でも、
やっぱり何をどういっても、もったいないものはもったいない。
ますます建築資材やらなにやらが値上がりしていくだけだ。
それでなくても日本のいたるところで「空き家」問題が発生している昨今、
ちょっと考え方を変える必要がありそう。

(飯村和彦)


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2014年10月26日

テロとの戦い。10年前といま、日本の姿勢は?



間違いなく、いま世界は深刻な事態に陥っている。
イラク、シリアで勢力を急拡大している「イスラム国」の存在。
そして、彼らの主張に同調する世界中の組織・個人。
特に後者にあっては、どこの誰が「テロリスト」であるのか、事が発生した後でないと分からないという現実が横たわる。
あるものは自らの信念から自爆テロを起こし、あるものは自らが今置かれている社会状況に憤怒しライフルや斧を手に暴挙に走る。

一方アメリカのオバマ大統領は、イスラム国への対応を巡り、22カ国の軍のトップをメリーランド州の空軍基地に集めて結束を呼び掛けた。会議に参加したのはイスラム国への空爆に参加しているフランスやイギリス、サウジアラビアなど。
この席でオバマ大統領は、「目標は、イスラム国が国際社会の脅威にならぬよう弱体化させ、最終的には破壊させることだ」と力説。イスラム国を壊滅するには、アメリカ単独ではなく「有志連合」の協力が不可欠という認識を示し、参加国も一致したという。

ここで登場した「有志連合」という言葉。
「有志」、つまり志の有るものたちの「連合」を意味するのだろうが、ではその「志(こころざし)」とはどんなものなのだろう。
さらに、このアメリカの呼びかけに日本は今後どのような姿勢で臨んでいくのだろうか。
安倍首相とその仲間たちが「選択」する「立ち位置」によって、これから先日本が向かいあっていくことになる「対イスラム国」「対テロ戦争」の様相が大きく変わってくる。

安倍首相の「選択」によって生じる「結果」。
その結果は私たち日本国民が受け入れられるものになるのか。もし受け入れがたい結果になった場合、安倍首相はどうのような「責任」の取り方をするのだろう。

と、ここまで考えて、ふとあることに気付いた。
約10年前にも似たようなことがあったなあ…と。
そこで当時の原稿を引っ張り出してみた。2004年2月に書いたものである。
内容は、小泉首相(当時)が、自衛隊のイラク派遣を決めたことに関する疑問だ。

考えを整理する意味もあり、改めて原文のまま掲載することにしました。
この10年間で、なにが変わりましたか?



星条旗たなびく?



…【以下、2004年2月3日、記】

『イラクへの陸上自衛隊の本隊派遣がいよいよ開始された。政治に翻弄された挙げ句の事実上の派兵。日の丸を背に迷彩服に身を包んだ隊員たちの胸中は複雑だろう。イラク国内が戦闘地域であるのは明白であり、そこに派遣されるということは、自らの命を失う危険性があると同時に他国人の命を奪う可能性もあるということを意味するからだ。
 しかし、先週の衆議院特別員会に於いて小泉首相は、自衛隊員に万が一のことが起きた場合、その『責任』をどうとるのかという民主党の前原誠司議員の質問に対し、「派遣された自衛隊員がその任務を果たせることを祈る」という内容の答弁を繰り返すだけで、不測の事態が発生した際の具体的な責任の取り方については一切口にしようとはしなかた。ときに薄笑いさえ浮かべながらのその答弁からは、日本の最高司令官としての決意は微塵も感じられなかった。

自衛隊のイラク派遣は小泉首相の判断であり、『選択』である。自分が行った選択の結果を引き受け、それに責任を持つのは当然のことである。この世に結果のでない選択など存在しない。にもかかわらず、小泉首相は頑なまでに責任の取り方を明確にしない。つまり、選択はしたがその結果については責任をとらないといっているのと同じである。
対テロ戦争は、どこに国境や前線があるのか、誰が敵なのかも曖昧な新しいタイプの戦いである。2年前、『9.11テロ』を検証する報道番組の取材で話を聞いた元FBI副長官のオリバー・レベル氏は、テロリストとの戦いの難しさについて「テロ決行の時間や場所などすべての状況をコントロールしているのはテロリストの方であり、特に自爆テロの場合は、実行犯が十分に訓練を積み、地域社会に潜り込み、時間をかけて計画を練り上げるので、その裏をかいてテロを未然に防ぐことは事実上不可能である」と語った。つまり、テロを防ぐための包括的な対策などは存在し得ないということだ。

自衛隊員が派遣されたイラクもまさにそのような状況であるということを、日本政府が正確に把握しきれていないであろうことは、国会での小泉首相や石破防衛庁長官による「サマワ答弁の混乱」を見ても明らかである。
さらには、イラクの大量破壊兵器問題を調査してきたデビット・ケイ前調査団長が、開戦時にイラクが同兵器を保有していた証拠はないと断言したことで、イラク戦争の大義にまで疑問符がついた現状を考えれば、自衛隊派遣の是非以前に、米英軍によるイラク戦争開戦を支持した小泉首相以下、政府の判断(選択)そのものが改めて問題になっているのである。「自衛隊が立派に任務を果たせるようにするのが私の責任だ」などと答弁している状況ではない。大義なき戦争を支持したかもしれないということの意味は、多くの罪のないイスラム教徒を大量に殺害した戦争、言い換えれば「テロに対する戦争」という名のもとに行われた“国際テロ”を支持したのと同じで、そこが問われているのだ。

ブッシュ大統領は「フセイン政権を打倒して世界はより安全になり、イラクの人々は自由になった」と述べているが、その彼の言葉がいかに空虚なものであるかは未だに戦闘状態が続くイラクやパレスチナの現状を見ればわかる。
小泉首相は日米同盟、国際協調はこれからの日本の平和と繁栄にもっとも大事だと力説するが、では彼のいうところの国際協調とはどんな国々との協調を意味するのだろうか?まさか米国とその同盟国だけを意味しているのではあるまい。これと似た疑問はブッシュ大統領や小泉首相が「テロに対する戦争」という言葉を口にする時にも沸いてくる。テロに屈してはならないというのは至極当然なことであるが、彼らのいうテロとは誰によるどんな相手に向けられたテロを指してのことなのか? 米国とその友好国に向けられるテロだけがテロだともいうのだろうか? 日本政府は米国が過去行ってきた多くの“テロ攻撃”に対してはどんな立場をとっているのか? 

我々はテロという犯罪そのものについて異なった視点から見つめる必要がある。国際司法裁判所が国際テロで有罪を宣告した唯一の国が米国であり(1986年)、米国だけが国際法の遵守を求める国連安全保障理事会の決議に拒否権を発動したという事実。これは1980年代にニカラグアが受けた米国による暴力的な攻撃(「力の非合法な行使」)に対する国際司法裁判所と国連の判断だった。ニカラグアではアメリカによるこの“テロ攻撃”で何万もの人が命を落とした。1998年にはスーダンの首都ハルツウムに米国は巡航ミサイルを撃ち込んだ。この爆撃でスーダンの主要な薬品の90%を製産していた製薬工場が破壊されたため、以降、今日に至るまで数万人もの命が失われていると報告されている。その多くが子供たちだという。彼らの家族にしてみれば米国こそがテロ国家なのである。サダム・フセインと米国が1980年代盟友関係にあったのは周知の事実だし、その当時サダム・フセインが毒ガスでクルド人を大量殺戮するという残忍なテロ行為を行ったのもまた事実である。
これら米国による数々の“テロ攻撃”の歴史については、マサチューセッツ工科大教授のノーム・チョムスキー氏の著書「9.11アメリカに報復する資格はない!」に詳しく述べてられているので是非参考にして頂きたいが、問題はこのような“テロ国家”としての米国の歴史を日本政府がどのように解釈した上で、その米国が掲げる「テロに対する戦争」に現在向き合っているのかが判然としないことである。

二日、宮崎県の高校三年生の女子生徒が内閣府に提出した、平和的な手段によるイラクの復興支援と自衛隊の撤退などを求めた小泉首相宛ての5358人分の署名つきの嘆願書に関連し、小泉首相は「この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない」とした上で、学校の教師も生徒に「イラクの事情を説明して、自衛隊は平和的に貢献するのだ」ということを教えるべきだと語った。自衛隊派遣という重い選択をしたにも係わらず、その結果起こりうる出来事についてどんな責任をとるのか一切説明しない小泉首相に、学校の教師に対して自らの判断の正当性を生徒に説明させる資格があるだろうか。
「暴力の連鎖を断ち切るためには平和的な解決が必要だ」と考え、たった一人で5358人分もの署名を集めた女子生徒の方が、何が善で何が悪なのかをきちんと見極めている気がするし、彼女の考えに共鳴した多くの若者たちの方が小泉首相より自分の正義、うちなる倫理に忠実に生きるように思えてならない。

善か悪か…。その概念は、状況によって変化する例が一つでも見つかった瞬間に焦点を失うものだ。特に「戦争」や「テロ」においては視点をどこに置くかで善悪の見え方も違ってくる。今ほど注意深く物事を見つめる姿勢が重要な時はない』

(飯村和彦)


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2014年10月04日

報道されない「行方不明」の少女


例年通り、近所の大きなカエデが色づきだした。
本格的な秋の到来…。
が、本日の主題はもう一枚の写真の方。
行方不明女性に関する情報を求めるビラ。




紅葉アップ




10日ほど前、バスで家の近くの交差点に差し掛かったとき、
中年女性が何かを電信柱に貼っているのを見かけた。
それがこのビラだった。
その中年女性はビラを貼り終えるとすぐに車に乗り、
もうひとつ先の交差点に移動、同じように電信柱にむかっていた。
ちょうどアメリカの大手メディアが、
「バージニア工科大学の女子学生が行方不明になった」
と大きく報道している頃だったので、余計気になった。




行方不明




アマーストのような治安のいい地域でも…と。

バージニア工科大学の女子学生行方不明に関しては、
その後の捜査で容疑者が逮捕され、悲しい「事件」になった。
その間、ほぼ毎日、
この件に関するニュースはメディアに流れ続けた。
しかし、アマーストの女性の行方不明に関しては、
一切、メディアは扱っていない。
行方不明という事実は同じでも、
ニュースになるものとならないものが…ある。
まったく報道されない行方不明者。
間違いなく全米に数多く存在するだろう。

アマーストのケースはいまだに進展がないためか、
まだ「事件」にはなっていない。
メディアが大きく扱えば関連情報が多くあつまるのだろうが、
いまのところ、その気配はまったくない。
複雑な心境である。
ビラを貼っていた中年女性の姿や表情を思い浮かべると、
このまま「事件」にならず、
無事、行方不明者が見つかることを祈るばかりだ。

(飯村和彦)


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2013年04月04日

SUBARU(スバル)、よく頑張ってるなあ!



アメリカ自動車業界が好調だ。
たぶん、そういっていいんだろうな、と思う。
車の運転をあまり得意としない自分には、
ある意味どうでもいいことだけど、
経済の在りようを知るうえでは、
大切な要素の一つだ。

きのう発表された、
今年3月の全米での自動車販売台数(対前年3月比)を見ると、
アメリカ自動車メーカーの数字がいい。

GMの6.4%増を筆頭に、
フォード5.7%増、クライスラー5.0%増。
一方、日本メーカーはというと、
トヨタ1.0%増、日産1.0%増。
ホンダが7.1%増で、なんとか気をはいた…。

とまあ…そんな内容のニュースが、
きのうきょう日本でもアメリカでも流れた。
ネットでチェックしたが、
NHKにしても民放しても、大方そんな報道内容だった。

けれども、
本当にそれだけでいいのかなあ…と思うのだ。
下(↓)は、本日(4/3)付けのニューヨークタイムズの記事。



NYT



「今年3月の伸びは2007年以降最高」
としたニューヨークタイムズの記事も、
内容的には先に記したニュース内容とほぼ同じなのだが、
その紙面に掲載されていた、
メーカーごとの車の販売台数を示す「表」に、
実に、興味深いデータがのっていた。

表の一番下にある「SUBARU(スバル)」の数字だ。
販売台数は36,701台で、GMの245,950台には遠く及ばないが、
前年3月期との比較では、なんと「13.3%増」と驚異的な伸び。
ホンダやGMの2倍以上の伸び率なのだ。
(追記…実はこれで16ヶ月連続で前年実績ごえ。今年1月は21.3%増だった)

確かに全体のシェアは2.5%で決して大きくはないが、
だからといって、
ニュースでまったく触れない理由にはならないはず。
電気自動車のステラや、
オバマ大統領肝いりのフィスカー(電気自動車。破産申告を検討中)など弱小ではなく、
スバルは、全米でネットワーク販売しているメーカーなのだから。

百歩譲って、
アメリカのメディアが触れないのはまあ仕方ない。
しかしだからといって、
日本の一般メディアがまったく触れないというのはおかしい。
スバルの何が、そんな売り上げアップをもたらしたのか、
少しでもいいからその点を伝えるメディアがないのが情けない。

寄らば大樹…で、
大きなところだけを見ているのなら、そんな記者はいらない。
米国でスバルの奮闘を見ていればなおさらだ。

もしかすると、
「いやあ、紙面の都合(字数)で…」とか、
「前に少し触れたから」とか、
「放送時間の問題で…」とか、
あれこれ言い分はあるのかな?
でも、所詮そんなのは言い訳、抗弁でしかない。

小さくても、スバルがきちんと勝負できている理由。

アメリカ自動車業界の全体像の中に、
そのポイントを入れられない訳がないじゃないか。
たとえひと言しか触れられなくても、
見る人はその先を読めるのだから。
そして、
たぶん多くの人たちは、そんなニュースを見たいのだ。
そこが知りたいのだ。

断っておくけれど、
なにも自分は、スバルのまわしものでもなんでもない。
去年の秋にもこのブログで、スバルについて書いたけれど、
だからといってスバリストでもない。

(飯村和彦)


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2012年10月12日

「スバル」、アメリカで快走中!



マサチューセッツ州アマースト。
この街に越してきてすぐ、あることに気づいた。

「やたらとスバルが走ってなあ」

信号待ちの車の群れ、
レストランの駐車場、
街中の道路沿いのパーキング、
そこには「必ず!」スバルがある。
東京では考えられない頻度でお目にかかるのだ。

で、自分なりに納得していた。
「この一帯には山や丘が多い。
おまけに冬は冷え込み、雪も少なくない。
スバルにはもってこいの市場なのだろう」…と。

もちろん、その見方は間違いじゃなかった。
ここ米国・ニューイングランド地方は、
スバルの持つ「技能」(高い安全性や走行性)が、
より発揮しやすい地域であることは確かだから。

けれども、
あれこれ調べてみると、
スバル車がやたらと多いのはそれだけの理由じゃないようだ。



スバル1
(アマースト大学駐車場、photo:Kazuhiko Iimura)



まずは、今どれぐらい「スバル」が好調なのか。
数字で見てみると…

世界販売は今期、前期比13%増の72万台。
2年ぶりに最多記録を塗り替える。
そして史上最高益!
日本国内工場は24時間フル稼働状態。
その半分がアメリカ向けである。


「スバル」人気、いまや全米規模に拡大中!

アメリカ北東部のニューイングランド地方や山の多い地域には、
「スバリスト」と呼ばれる人たちいて、
彼らは、スバル車で大いなる自然を疾走している。
まあ、これは理解できる。
スバルならでは「走り」が堪能できるわけだから。
それがこのところ、
これまでの地盤だった山岳地帯だけではなく、
西海岸のロサンゼルスやアトランタ、
ダラス、オーランドなど南部でも販売が急増している。

アメリカの有力な消費者情報誌「コンシューマー・レポート」が発表した、
2012年の自動車メーカーランキングでは、
「スバル」が堂々の1位を獲得!
部門別でも、
「インプレッサ」が小型セダン部門で首位になっている。



スバル6



成功の鍵は?

各種報道を総合すると、スバルの成功の秘密は、
ドライバーの好みをしっかり理解していることにつきる。
スバル好きの客層は、知性的で、新しいものへの関心が強い。
年齢では、業界平均よりも3歳若く、
その四分の一以上が大学卒だといわれている。
さらに、
自由を好み、経済力はしっかりしている。

「平均所得は88,000ドル。これはホンダとほぼ同じ、
トヨタよりも1万ドル高い」
(市場調査会社Strategic Visionデータ)

その一方で、彼らは倹約家。
自分の経済力で余裕をもって買える車を選ぶ。
36%は、現金で車を買うという。

スバル・オブ・アメリカのマーケティング責任者は…
「スバルに乗る人々は高級車のオーナーとは違い、
品物を買うのではなく、経験を買っているのだ」と説明。
「堅実な購買層にセンスある商品を提供することで、
市場環境の悪化した2009年を乗り切り
その後、過去最高の販売と市場シェアを獲得した」



スバル3



ちなみに、
増産を続けるスバルのインディアナ州の工場。
この工場は、野生生物保護区域(環境保護地域)に立地しているため、
埋め立て地に送るような廃棄物をださないことが義務付けられているという。

ここに工場をつくったのは、
環境保護に取り組んでいるスバルの理念からだが、
結果として、
環境保護に関心をもってる人からの強い支持を得ている。
同時に、構築される「ブランド力」は当然強い。



スバル2



メインストリート
(アマースト・センター、photo:Kazuhiko Iimura)



スバル、いいじゃない。
改めてそう思うようになったのは、
マサチューセッツに住みはじめ、
街中を快走する多くの「スバル」を日々目にするようになったから。

もう10年以上前になるけれど、
東京で経済系の報道番組を担当していたころ、
富士重工の社長がゲストとして番組に登場した。
そのときの社長のコメントが印象的だった。

「わが社は“ふかぼり”ですから」

水平対向エンジンやら四輪駆動技術。
スバル車の安全性と走行性は、
車種を少数に絞り込み、技術面等々で深く掘り込んだ結果…。

で、考える。
こんど車を買い替えるときがきたらどうしようか…と。
いま我が家には、古〜い「サーブ」(おまけにコンバーティブル)がある。
それも親戚からの「おさがり」だ。
そう遠くない将来に走れなくなるだろう。
さてそのとき「スバル」を選ぶのか?
どうだろう…
まあ、そのときだ。

(飯村和彦)

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2012年10月04日

米国・シェールガス革命の「明暗」〜経済発展と環境破壊〜



IEA(International Energy Agency=国際エネルギー機関)は、
「近く、地球全体が、天然ガス黄金時代に入る」と予測している。
その根拠が、シェールガス。

「シェールガス」とは、
シェール層と呼ばれる地層に含まれる天然ガスのこと。
これまで採掘が難しかったが、
「水圧破砕法」と呼ばれる新技術により、
通常の天然ガスと同程度の費用で生産可能になった。

シェール層はカナダ、北米で多く見つかり、
急ピッチで掘削作業が進んでいる。

米国メディアの紙面には景気のいい見出しが溢れる。

「シェールガスブームは、
すでに60万件の新しい雇用を生み出し、
2025年までには160万件になる」
「アメリカ経済再生の切り札になるのでは」との期待から、
一部にはゴールドラッシュの再来…との声まで!

ところが!

シェールガス生産には大きな副作用が伴う。

環境への悪影響である。
採掘作業による地下水や河川の汚染。
さらには、
「地震」を誘発するとの報告もある。

北米大陸同様、
シェールガス埋蔵量の多いヨーロッパでは、
フランスとベルギーが、
水圧破砕法による掘削を禁止した。

いまアメリカで沸き起こる、新エネルギー・シェールガス革命。
そこにある「光と影」とは?



シェールガス



まずはシェールガス革命の「明部」から

1)シェールガスがもたらす明るい未来

「多くの新雇用の創出」
「シェールガスは、すでにに60万件の新雇用を生み出し、
2025年までには160万件になる」(HIS Global Insight)

「天然ガス価格は2008年より80%低下。去年一年間だけで45%も下がった」

「2025年までに石油輸入量が20%減る」

「今後10年では、3割から4割、原油輸入量を減らせる。
4割だと年間およそ$160billion
それがこの先ずっと続くことの経済効果は計り知れない」
「大幅減税と同じ効果をもたらす」
( Moody’s Analytics)

そして、
米政府やエネルギー関係者が夢見るのが、

「Energy independence(エネルギー自給)」

シティグループの分析によると、
米国は2020年までに「エネルギー自給」を達成。
同時に原油や精製石油製品、天然ガスの輸出国になりえるという。

すると…

(エネルギー自給が達成されると)
350万件の新しい雇用が創出され、
失業率は2%減る。

そのうえ、

エネルギー自給(エネルギー輸入に掛かっていたコスト軽減)により、
製造業ほかで構造改革が進み、輸出競争力も高まる。

最近では、
シェールガス埋蔵量の多い北米、カナダ、メキシコのことを
「”New Middle East”(新たな中東=北米、カナダ、メキシコ)の誕生!」
と表現し、その価値を強調する向きまである。



2)“シェールガス革命”に沸く現場
ペンシルバニア州ウィリアムズポートでは…

「6つの新しいホテルが誕生」
「約100の企業が街に入ってきた」

「2010年の経済成長率は7.8%、全米でもっとも早く経済成長している都市」

もちろん、
ペンシルバニア州のトム・コルベット知事の鼻息も荒い。
「長い間失業していた人が、職につけた。
まさにゴールドラッシュならぬ“シェールガスラッシュ”。
家や店、レストランへの需要も高くなった」

「ピッツバーグ郊外に天然ガスから薬品をつくる新しい化学会社ができる。
これだけで10000件の建設関係の仕事が生まれる!」



3)新エネルギー革命の発端は?

約12年前、
テキサスの試掘者、Geoge Mitchell(ジョージ・ミッチェル)が、
「水圧破砕法(hydraulic fracking)」という天然ガス掘削技術を商業化。
これがニューエネルギーブームに火をつけた。

水圧破砕法とは、
大量の水、化学薬品、砂を使い、
岩盤の中にあるガスを出す技術。
この方法では、ガスの含まれた岩盤を水平に掘っていくため、
これまでの垂直掘削より簡単に多くのガスや原油を産出できる。

水圧破砕法によって、
これまで割高だった
シェール層(=頁岩(けつがん)層)に含まれるオイルの採掘が、
安くできるようになった。

その結果、アメリカ国内の石油生産量は…

シティグループ予測:2015年までに「現在より3割」増える
アメリカ政府の予測:2020年までに「22%増加」。一日あたり670万バレル

ちなみに、
いま世界では、一日あたり8600万バレルの原油を生産している。
そのうちの1900万バレルをアメリカ消費。
米国政府によると、
一日に消費する1900万バレルのうち、890万バレルが輸入で、
そのうちの420万バレルが中東(OPEC)からの原油。

つまり、シェールガスの開発により、
アメリカ国内でエネルギー革命が進展して、
海外(特に中東諸国)に頼っている原油の一定量を国内で賄えるようになれば、
米国経済は劇的に変わる…と考えられているのだ。


しかし、シェールガス革命には大きな「副作用」が!



シェールガス革命の「暗部」とは?

1)水圧破砕法にシェールガス掘削は、環境に深刻な悪影響を与える!

イギリスの環境保護団体は、
水圧破砕法によってアメリカの地下水が汚染されていると警告。
フランスとベルギーでは、
すでに水圧破砕法による掘削を禁止した。

さらには、
「地震」を誘発する危険性もあるといわれている。

イギリスの会社、カドリラ・リソースが、
イギリス北西部で掘削を始めたところ、
現場近くで二度地震が発生。
そのため昨年春から掘削作業を中断している。
カリドラが後に発表した調査報告では、
水圧破砕法が「地震」を誘発したとしている。



2)汚染現場を検証:アメリカ河川の危機=「サスケハナ川」

サスケハナ川とは、アメリカ東海岸最長の川。
ニューヨーク州に始まり、ペンシルバニア州とメリーランド州を抜けて、
ワシントンD.C.のチェサピーク湾に流れ込む。
ペンシルバニア州の東部3分の2を占めるなど、
流域面積は7万1224平方キロに及び、
天然ガスの採掘地域「マーセラス・シェール」も通過する。

また、600万以上の周辺住民の水源としても利用されている。

実はこのサスケハナ川がいま、
深刻な危険に晒されつつあるという。

環境保護団体「アメリカンリバーズ」が毎年発表する
「アメリカで最も危機に瀕している川」というリスト。
このリストは、「最も汚染された川」ではなく、
「今後数年で運命が決する岐路に立っている川」を対象にしている。

その2011年度のトップが、サスケハナ川だった。
理由としては、この川の流域に含まれる
「マーセラス・シェールの採掘地域」を主な汚染源として挙げている。
この場所は近年、豊富な埋蔵量の天然ガスを目当てに、
急速に開発が進んでいる地域である。

汚染の理由は、「水圧破砕法」だとしている。

地下のシェール層から天然ガスを取り出す
「水圧破砕法(フラッキング)」は、大量の水を消費する。
砂や化学物質を含む大量の水をポンプで圧送し、
極めて高い圧力で気孔のない岩石層を砕く。

環境保護団体は、
「フラッキングの廃水は人体に有害で、発がん性の可能性もある。
しかし、現在ほとんどの施設で適切な廃水処理ができていない」
と懸念を表明し、
「地下や地表の源泉の汚染を防ぐ法律が不十分だ」
とも指摘している。



では、米国のシェール革命と日本の関係は?

シェールガスの米国内での生産量が、
ガス全体の2割に達した今、米国政府は次なる目標に向かっている。

「ガス輸出国にもなりえる状況になった」
(エネルギー省ポネマン副長官:2011年12月東京講演)

その実現に向け現在、
シェールガスを液体のLNG(液化天然ガス)にして、
輸出する基地作りが進行している。

これを受けて日本は、
そのアメリカ産LNGを輸入すべく動いている。

原則としてアメリカは、
FTA(自由貿易協定)を結んだ国にしか輸出を行わない。
そこでアメリカとFTAを結んでいない日本は、
「特別許可」を求めている。
今年中にもその結論がだされる予定だという。

現在日本は、LNGを中東や東南アジアからの輸入に頼っている。
おまけに価格はアメリカ国内価格の5倍と高い。
もし、米国から輸入できるようになれば、
輸入ルートを増やせるのはもちろんのこと、
「これまでより安く、LNGを買えるのではないか」と期待されている。

東日本大地震以後、
原子力エネルギーの代わりにLNGが多く使用されているため、
輸入量も急増中(去年38%増。今年は47%増の見込み)

日本でも今月(10月)3日、
石油開発大手の石油資源開発が、
秋田県にある鮎川油ガス田でシェールオイルの採取に成功した(国内初)。
国産資源の開発や、掘削技術の向上に繋がるとの期待されるが、
推定埋蔵量はわずか。
これで日本のエネルギー不足を解消する…とはいい難い。

「明と暗」が交錯するシェールガス革命。
新しいエネルギーはわれわれの未来を豊かにするのか、
それとも、大きな「負荷」を世界に与えるのか、
今後も注視が必要だ。

(飯村和彦)


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2011年09月06日

再考9.11テロ・予見されていた悲劇の裏側(後編)



9.11テロの6年前の1995年、
CIA、さらにFBIは、既に、
アルカイダ一派が、
航空機を使った自爆テロ計画を持っているという事実を掴んでいたのだ。


暗号名・ボジンカ…。
いったい、どんな計画だったのか?



航空機
[photo:kazuhiko iimura]



1995年2月、
一人の男がフィリピンからニューヨークへ空路、移送されてきた。
男の名はラムジ・ヨセフ (注:ラムジ・ユセフとも表記される)
ヨセフは、
マンハッタン上空から世界貿易センタービルを眺めながら、
FBI捜査官の問い掛けにこう答えた。

FBI捜査官:「見ろ、世界貿易センターはちゃんと立ってる」
ヨセフ:「もっと金と爆薬があったら倒すのは簡単だった」

実はこのラムジ・ヨセフこそが、
1995年のボジンカ計画の首謀者であり、
また、
その2年前の1993年に発生した、
最初の 世界貿易センタービル爆破事件 の犯人でもあった。


では、
問題のボジンカ計画とは、
どんなテロ計画だったのだろうか。
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ラムジ・ヨセフは、
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで極東に運行しているアメリカの民間機を含む、
数機の民間旅客機を同時爆破する計画でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります」

アジア、アメリカ間を飛ぶ
11機の旅客機を狙った同時爆破テロ。

しかもそのほとんどが、
9.11テロと同じように、
アメリカン航空やユナイテッド航空など、
アメリカの旅客機を狙ったものだった。

さらに…!

「ヨセフの仲間の一人を尋問したフィリピン警察から、
ヨセフはバージニア州ラングレーにあるCIA本部に
航空機で突入する自爆テロを計画していた、
…という報告を受けました」(元CIAテロ対策本部長カニストラロ氏)

CIA本部を狙った航空機での自爆テロ計画…。

口を割ったのはアブドラ・ムラド。
ヨセフの共犯者だった。

驚くことに、この時すでに、
ムラドは、自爆テロ決行に必要な、
民間機のパイロットライセンスまで取得していたのだ。

計画は、
セスナのような小型機に爆薬を積んで
CIA本部に激突するものだったというが、
ムラドの供述によると、
連邦議会、ペンタゴン、ホワイトハウス、
そして「高層ビル」なども攻撃対象になっていた。

「膨大な組織力と緻密な計画、
そして複数からなる実行部隊を必要とする、想像を越えた計画だった。
そのため、
この計画を知った捜査当局は、
“こんな馬鹿げた計画の実行は不可能だ”と考えた。
捜査当局はヨセフ一味の能力をみくびっていたのです」
(CIAテロ対策本部長カニストラロ氏)

それでは、
アルカイダの能力をみくびっていた捜査当局の中心、
FBIはこの「ボジンカ計画」をいつ知ったのだろうか?

元FBI副長官であるレベル氏に聞いた。

「テロの全容を掴めずにいたフィリピン捜査当局から、
事件発覚直後に呼ばれた…と、
現地のFBI捜査官から聞きました。

押収された証拠の中に、
クリントン大統領暗殺計画や、
建造物の破壊計画を示すものがあったからです。
ただ、
当時はまだ、ビンラディンが黒幕だとは分からなかった」

この件について、
元CIAテロ対センター上席分析官、ベドリントン氏は…

「1995年のボジンカ計画は、
たまたまフィリピン警察がヨセフのアパートから、
その計画が書かれたコンパクトディスクなどを押収した為、
未遂に終わりました。

つまり、
ボジンカ計画に関わっていたテロリストは、
途中でその準備を止めることを余儀なくされたのです」

だがその1年後の1996年には、
オサマ・ビンラディン らアルカイダ一派は、
9月11日テロ決行に向けて、すでに準備を開始していた。

1996年3月には、ハニ・ハンジュールが渡米。
アリゾナ州にある航空学校に入学して飛行訓練を開始した。
ハンジュールは、
アメリカン航空77便でペンタゴンに突入したテロ実行犯の一人で、
リーダー格の男だった。

さらに4月には、 モハメド・アタ が、
なんと18項目に及ぶ遺書を作成していた。


「皆、死を嫌い恐れる。
だが死後の世界と死による報いを信じる者だけが、
自ら命を絶つことが出来る」(アタの遺書より一部抜粋)


そして、1996年8月23日
ビンラディンは、
イスラムの聖地であるアラビア半島に、
湾岸戦争以降ずっと居座るアメリカ軍に対し、
最初のジハードを宣言した。

「抑圧と屈辱の壁は弾丸の雨なくしては崩れない」



夜のマンハッタン(カラー)
[photo:kazuhiko iimura]



一方、そのころニューヨークでは…

ボジンカ発覚から約1年半後の1996年5月29日、
ラムジ・ヨセフの初公判が、
ニューヨークにある連邦地裁で開かれていた。

ヨセフは、
1993年の世界貿易センタービル爆破事件の主犯、
及び、
1995年のフィリピンボジンカ計画の首謀者として起訴されていた。

その後、約1年半続いたこの裁判で主に注目されたのは、
6人の死者と1000人以上の負傷者を出した、
1993年の世界貿易センタービル爆破事件に関してだった。

「ボジンカ計画」については、
旅客機の同時爆破計画の実行可能性については審理されたが、
航空機を使った米国主要施設への自爆テロについては、
重点が置かれなかった。

いったい、どうしてなのか?
その理由を元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏に尋ねると…

「当時、検察もFBIも、
“これは現実性のない絵空事だ”と考えていたため、
色々言ったところで、
“所詮、実行不可能な計画だ”と決めつけていたのです」

元CIAテロ対策センター上席分析官のボドリントン氏は…

「特に国防総省などは、
カミカゼ特攻隊的なテロの予想など、戦略の中に入れていませんでした」

ひとつ加えるなら、
フランスでは旅客機をハイジャックして、
エッフェル塔に激突しようとした自爆テロ未遂事件まであった。
それは、
ボジンカ発覚の前の年、1994年の出来事だった。

幸いこの時は、
フランス特殊部隊が計画を阻止したが、
イスラム教過激派のテロリストが、
”旅客機を使った自爆テロで国の象徴的な建物を狙う“というのは、
すでにこの時から警告され、諜報機関の間では十分認知されていたのだ。

1998年1月8日
ラムジ・ヨセフ は、
1993年の世界貿易センター爆破容疑で禁固240年、
ボジンカ関連では終身刑の判決を受けている。

しかし、
1998年に判決が下りた段階で、
「ボジンカ計画は解決済み」としてファイルされてしまったのだ。

【備考:ヨセフが、ボジンカ関連で終身刑になったのは、
テロ決行に向けたテストとして、
フィリピン航空434便に液体爆弾を仕掛け爆破。
その際、乗客一人(日本人)を殺害した罪による】


その頃、
9.11テロ実行犯のモハメド・アタやその仲間たちは、
アメリカ国内で飛行訓練を行う準備を着々と進めていた。
だが、当然ながら、
アメリカの捜査当局は、そのことを知らない。

元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は、悔恨をこめて回想する。

「ヨセフ自身が裁判の中で、
“世界貿易センタービルの一つを爆破し、
崩壊の中でもう一つのビルも爆破して、
何千人もの犠牲者を出すのが目的だった”
と語っています。
一度は失敗したものの、
再び世界貿易センタービル爆破を試み、そして成功した。
一連の事件を、
“時間を経て進化してきたアルカイダのテロ活動”と考えるなら、
ボジンカ計画、つまりヨセフらがマニラで企んだテロ事件の延長線上に、
9月11日の同時多発テロがあることが分かる」

ヨセフに対するニューヨーク連邦地裁の判決の一ヵ月後、

1998年2月

オサマ・ビンラディンは、
「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための世界イスラム戦線」
の名の下に、

「ありとあらゆるアメリカ人を殺せ!」

との宗教命令を出した。
以下に、
ビンラディン本人が、
その命令について公に話した内容の一部を抜粋する。

「神のご加護により、
我々は他のイスラムグループや組織と団結し、
国際イスラム戦線を結成した。
そして十字軍とユダヤ人に対するジハードを誓った。

イスラムの同胞は、
この呼びかけを受けて立ち上がり、
現在ジハードが進行している。
このジハードは、
神の意志に基づくものであるから、
結果として侵略者であるアメリカ人を殺戮し、
必ずや彼らをこの世から消し去るという、
輝かしい成果をあげる事になるだろう」


このビンラディンの宗教命令に関して、
元FBI副長官、レベル氏は…

「1998年の宗教命令は、
アルカイダは、これからも反米テロを激化させていくという、
ビンラディンによる声明でした。
大量殺人を犯すことが、
全能の神の意志に報いることだと信じている組織と闘うのは、
実に困難です。
しかし、ビンラディンはそう説いているのです」

1998の宗教命令以降、
アルカイダによる対米テロが各地で発生、
日増しに深刻さが増していく。

1998年8月7日
ケニアとタンザニアにあるアメリカ大使館に対する同時爆破テロ
両方のテロで、約300人を殺害、5000人を超える負傷者をだした。

2000年10月12日
イエメンの港に停泊中のミサイル駆逐艦コール攻撃事件

この時期のFBIの対応について、
元FBI特別捜査官のスミス氏は…

「様々なテロがアメリカ国外で起こっていた。
そのために、
海外で起きた対米テロの解決に当たることが、
FBIの仕事になっていたと思う。
だから、
FBIは海外での捜査で頭が一杯になり、
捜査の対象になっているテロ組織が、
アメリカ国内で似たようなテロを起こすとは考えていなかったと思う」



マンハッタン空撮1
[photo:kazuhiko iimura]



事実、
9月11日までのテロ実行犯たちの行動を見ると、
アメリカ国内で、
いかにノーマークだったかがよく分かる。

例えば…

テロ実行犯のリーダー、モハメド・アタは、
マルワン・アルシェヒと行動を共にすることが多かった。

2000年7月、
二人はフロリダにあるホフマン航空学校に入学。
一人約10000ドルの授業料は、
二週間ごとに小切手で支払った。

アタはこの時すでに、
12時間の飛行を経験し、
自家用単発の免許を持っていたという。

航空学校の担当者、ルディ氏は…

「ともかく、アタは態度が悪かった。
いつでも女性や他の人に、
“自分の方が上だ”と示そうとしました」

それでも、ふたりは5ヶ月後には無事卒業。
夜間飛行の他、
マルチエンジンの飛行機を操縦できる免許を取得した。

けれども、
当然、大型旅客機は飛ばせない。
だからアタら二人は、
別の航空学校で、フライトシュミレーションの訓練を受けた。
そこでは、
ターンの練習が大半で、
離発着の練習は、ほとんどしなかった。

シュミレーターを使用した訓練の費用は、
8時間で1500ドル(2名分)、
キャッシュで払ったという。

さらにアタは、
仲間と一緒によく農薬散布用の小型飛行機を見にいっていた。
その際にアタと会話を交わしたジェームスさんは…

「アタは、
どれぐらい燃料が積めるのかを知りたがっていました。
どれくらいの重さまで搭載できるのかを…。
そして、
“操縦席に入ってエンジンのかけ方を見せてくれ”
としつこくいってきました」

このジェームスさんの話は、
“セスナに爆薬を積んでCIA本部に突入する”という
1995年に発覚した、
「ボジンカ計画」の内容の一部と重なるのは偶然なのか…。


アタたちがフロリダで、
テロのための準備を進めている頃。

2001年6月22日

テネットCIA長官(当時)は、
「アルカイダによるテロ攻撃の可能性が拡大している」
としてグローバル・アラートを発令している。

国務省では、
そのグローバル・アラートを受けて、
全世界にいるアメリカ市民に対して、
9月のテロ発生直前まで何度も警告を出し続けた。

9.11テロ発生の4日前に出された警告では、
“アルカイダが、
アメリカ市民をテロ攻撃の対象にする恐れがあるとして、
日本、韓国にあるアメリカ軍施設が狙われるかも知れない“
と警告していた。

ところが…

「反米テロが、
アメリカ国内で計画されているとは、
誰も思っていなかった。
アメリカ国内で、アルカイダが、
反米テロを計画しているという情報を流した米国諜報機関はなかった」
(元CIAテロ対策本部長、カニストラロ氏)

一方、フロリダでは、
同時テロ決行に向けた実行犯たちの準備が、最終段階に入っていた。



フロリダ
[photo:kazuhiko iimura]



ジアド・ジャラヒ。
ペンシルベニア州、ピッツバーグ郊外シャンクスヴィルに墜落した
「ユナイテッド93便」を乗っ取ったグループのリーダー格だった男。
ジャラヒはこの頃フロリダで、
格闘技系のジムに通い詰めていた。

指導者のロドリゲス氏は…

「彼はとても熱心だったので、
修得が早く、
4ヶ月半で個人指導ができるレベルになっていた」

では、ジャラヒは、
具体的には、どのような技を身につけたのだろうか?

「相手が自分より大きい場合、
あるいは相手が複数の場合は、
腱や靱帯や血管を斬りつけるのが、
一番効果的だと教えていました。

彼はその技を修得して、
グループの他のメンバーに教えたのです」

実は、このジャラヒも、
9.11テロ以前に、
CIAによって一度はマークされていたのだ。

ジャラヒがフロリダで格闘技系の訓練を始める4ヶ月前、
2001年1月31日、
CIAは、アラブ首長国連邦のドバイで一度、
ジャラヒを捕捉していた。
                    
ジャラヒがその直前に、
パキスタン、アフガニスタンに行っていた事実を掴んだCIAが、
ドバイの空港担当者に要請、
取り調べを行っていたのだ。

ところが、
なぜかCIAはジャラヒを開放。
その後、アメリカ入りしたジャラヒは、
飛行訓練を行いながら、
テロ決行のひと月前まで、
仲間と共に、格闘技の技を磨いていたのだ。

元FBI副長官、レベル氏は、
テロ対策の限界を次のように語った。

「ジレンマでした。
アルカイダに繋がりのある者は、
絶対に捜査と興味の対象になった筈です。
しかし、
アラブ系だとかイスラム教徒だからという理由で、
中東出身者やパキスタン人などを差別して扱っていいのか、
という問題があったのです」

そして、
9月11日、テロ決行の時。
ジャラヒは、
ハイジャックしたユナイテッド93便のコックピットから、
乗客に向かって次のようにアナウンスした。

「爆弾を持っている。
これから空港へ向かう。
お前たちへの要求はただ一つだ。
静かにしていろ!」

しかし、
それまで完璧に準備を進めてきたジャラヒたちの計画に、
一つの大きな誤算が生じた。

その誤算とは何か?



手向けられた花1
[photo: noa iimura]



それは、CIAやFBIの捜査でも、
政府の諜報活動でもなく、
乗客たちの「勇気」だった。

機内(ユナイテッド93便)からの夫の電話を受けたトーマス・ディーナさん
「主人は、“乗客グループで何かをする準備をしている”
と話してました。また、
“奴らは飛行機を墜落させるといっている、何とかしなければ”とも…」

乗客だったジェリー・グリックさん
「テロリストを攻撃する。電話は繋いだままに…、すぐ戻る」

結局、テロの規模を小さく抑えるのに成功したのは、
アメリカ政府でもCIAでもFBI でもなく、
自らの命をかけた、
乗客の勇気ある行動だけだった。

ユナイテッド93便は、ワシントンDCまで約20分の地に墜落した。
テロ実行犯ジャラヒたちの狙いは、
ホワイトハウスだったといわれている。


元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は、
自戒を込めて、
9.11テロにいたるまでのアメリカ諜報活動の不備を
以下のように締めくくった。

「1993年の最初の世界貿易センター爆破事件、
そして1995年のボジンカ計画、
さらにはヨセフのテロ活動を支えていた
アルカイダからの資金の流れと
ビンラディンの義理の兄弟との繋がり。
これらをCIAは入手していたにも関わらず、
その関連性を見つけ、
出来事の裏にあった大規模テロ計画を
察知することが出来なかったのです」

また、
FBI元副長官のレベル氏は…

「“機会があれば、いつ、どこであれアメリカ人を殺せ。
それが正しいイスラム教徒だ”とビンラディンは説いていました。
アメリカ国内には既に、
イスラム過激派組織のネットワークが広がっていたのに、
9月11日の事件が起こるまで、
全く手つかずの状態で放置されていたのです。

自爆テロ実行犯は、
十分に訓練を受け、
強い自制心と、堅い信念を持ち、
アメリカ社会の仕組みとその脆弱性を知り尽くしていました。

アメリカ政府はテロが起こることを予見していました。
アメリカに対するテロは、常に起こっていたからです。
しかし、実際のテロが、
9月11日のような形をとることだけは予期することができませんでした。

民主国家、警察国家、どのような形態の国家であれ、
テロを実施する日にちと時間、発生場所、破壊の手段等を自由に選べる点で、
テロリストは捜査機関より有利な立場にあります。
つまり、
状況をコントロールしているのはテロリストなのです」


3000人もの犠牲者を出した
2001年9月11日の同時多発テロ事件。
あの悪夢は起こるべきして起こった悲劇だったのか?
アメリカ政府のテロ対策とは、
それほどまでに不完全なものだったのか?

これらの疑問に対して、
ライス大統領補佐官(当時)は、
「想定外のテロだった」
と繰り返し主張するのみだった。

Q: (1995年に)フィリピンで明らかになったボジンカ計画や
エッフェル塔にハイジャック機を激突させるというテロの可能性について、
その調査が行われていたという事実報告は無かったのか?

A:ライス補佐官:
「その件は一度も出ませんでした」

Q: 本当に誰も報告しなかったか?

A:ライス補佐官
「もちろん我々は、
ハイジャックが議論されていることは知っていました。
また、
ハイジャックが色々な場所で計画されていた事も知っていましたが…。
繰り返しますが、
問題になっている大統領への報告の中には、
そのような活動に関する情報は含まれていませんでした」

【以上、9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ・予見されていた悲劇の裏側



2001年9月11日
米国同時多発テロで犠牲になった人の数は2973人。

ある人は迫り来る死の恐怖と闘いながら、
そしてある人は、
悲鳴をあげる間もなく、
その命を落としていった。



メモリアルタワー
[photo:kazuhiko iimura]



あれから10年。
ニューヨークの現場では今、
「9.11メモリアル」
(=The National September 11 Memorial & Museum)の建設が進んでいる。
けれども、
この場所を訪れる多くの人は、
いまだに、
かつてそこに聳えていた“アメリカ経済の象徴”、
世界貿易センタービルの幻影を見ているに違いない。



機影
[photo:kazuhiko iimura]



2001年9月11日、晴天。
あの日…
悲劇は、以下のようにして幕を開けた

アメリカン航空11便が、
世界貿易センタービル北棟に急接近

午前8時45分
アメリカン航空11便、世界貿易センター「北棟に激突」

午前9時3分
ユナイテッド航空175便、「南棟に激突」

午前9時43分
アメリカン航空77便、「ペンタゴン(国防総省)激突」

午前10時00分
世界貿易センター「南棟が崩壊」

午前10時6分
ユナイテッド航空93便、「ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落」

午前10時29分
世界貿易センター「北棟が崩壊」



マンハッタン、縦位置、空撮
[photo:kazuhiko iimura]



あの同時多発テロの実像を求めるために、
時計の針を、
9.11テロ発生の約8ヵ月後、2002年5月頃に戻してみる。

悲劇を冷静に見つめ直す機運が高まりはじめたこの頃、
多くのアメリカ国民やメディア、議会の目が、
ある方向に向けられはじめた。


テロは本当に防げなかったのか?


多くの人の胸の中に沸いたこの疑念は、
次第に大きなうねりとなって、
ブッシュ政権(当時)に向けらるようになった。

ダイアン・ファインスタイン上院議員(当時)
「大きな疑問の一つは、アメリカ国内での諜報活動の問題です」

ヒラリー・クリントン上院議員(当時) 
「ブッシュ大統領は全ての疑問に答える必要はありませんが、
幾つかには必ず答えるべきです。
特に“テロの事前情報があった”ということを、
どうして私たちが、きょう、5月16まで知らされなかったのか」

そのどれもが、
ブッシュ政権は、テロ事前情報を持っていたにも係わらず、
9.11テロを阻止できなった。
その理由を明らかにせよ!
…というものだった。


真相はどこに?


ブッシュ政権に向けられたこの大きな疑問にたいして、
長年、テロ対策の現場で捜査活動、諜報活動にあたっていた、
FBI、CIAの元幹部たちはどう応えるのだろうか。


FBI元特別捜査官、スミス氏は…

「国内でテロが起きる可能性を示す警告は、全部すぐそこにあった」

では、
もしそうであるとすれば、
なぜ、悲劇を避けられなかったのか?

「事件を未然に防ぐために諜報活動をしますが、
それを嫌がるFBIの性格が、
致命的なミスを引き起こしたのです」
(FBI元特別捜査官、スミス氏)

長年にわたり、
アメリカにおけるテロ対策の指揮にたっていた
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「一連のテロの最終的な狙いを見抜けなかった点では、
CIAも同罪です」


2002年に入り、
米国議会では、
テロ事前情報についての大規模な調査が開始されていた。

そのきっかけとなったのが、
「フェニックス・メモ」と呼ばれる捜査報告書。
2002年5月、
連邦議会の調査で、その存在が明らかになったものである。
(参考:ニューヨークタイムズ記事)

報告書を作成したのは、
FBIフェニックス支部のケネス・ウィリアム捜査官。
その内容は、9.11テロ発生の2ヶ月前、
つまり2001年7月の段階で、
ワシントンのFBI本部や
アルカイダの動きを追っていたニューヨークのテロ対策部門にも送られていた。

「報告書(フェニックス・メモ)」の内容について、
CIA元テロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ウィリアムFBI捜査官は報告書の中で、
フェニックス近郊のアリゾナ航空学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだと提言しています」

その理由として、
イスラム教過激派と思われる複数の中東系男性が
アリゾナにある飛行学校に入学している事実を指摘。
彼らの追跡調査により、

ビンラディンの信奉者が、
パイロットなどの人員として
民間航空システムに侵入しようとしている」

と断定していた。

ところが…

そのアリゾナからの報告書「フェニックス・メモ」を、
ワシントンのFBI本部も、
ニューヨークのテロ対策部門もまったく無視し、信用しなかったのだ。
当然、
その情報がCIAやホワイトハウスに送られる事もなかった。

ダッシェル下院内総務(当時)  
「FBI本部がどうしてその情報を不要としたのか、まったく理解できない」

「フェニックス・メモ」が見過ごされていたという事実は、
テロの遺族たちに、
新たな苦しみを与えることとなった。


しかも、FBI本部の失態は、これ一つだけではなかった。


実は2001年8月、
ミネアポリスでも、
現場のFBI捜査官たちが、一部のテロ実行犯たちを追いつめていたのだ。

この事実は2002年5月、
FBIミネアポリス支部の女性捜査官、
ロウリー氏の告発によって明らかになった。

13ページに及ぶ告発書簡の中で、
ロウリー氏は、

「9月11日のテロ実行犯の一部を、
事前に摘発できた可能性をFBI本部が握り潰した」

と訴えている。

告発の内容は、
テロ計画に関与したとして、
9.11テロ直前に逮捕、起訴されたムサウイ被告をめぐるものだった。

ムサウイに関する通報に対応したミネアポリスの捜査官は、
“彼がテロリストである可能性がある”と、初動捜査の段階から確信していました」
(告発書簡より一部抜粋)

2001年8月15日(=同時多発テロ発生の約一月前)
FBIミネアポリス支部は、地元の飛行学校から、
「小型機の操縦も出来ないのに、
ボーイング747の水平飛行のみの訓練を要求する不審な男がいる」
との通報を受けた。

8月16日
移民局が入国管理法違反でムサウイを逮捕

その直後、FBIミネアポリス支部は、
テロ防止関連で、
ムサウイの所持品などについて捜索令状を取ろうしたが、
この申請をワシントンのFBI本部は却下したのだ。

この件に関して、
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「これはムサウイのコンピューター通信と
電話の盗聴をするために必要な裁判所の許可の事ですが、
証拠不十分ということでFBI本部は、
この申請を却下したのです」

この時、ワシントンのFBI本部に提出された
ミネアポリスの捜査官のメモには、

「ムサウイは、
大型航空機を乗っ取って、世界貿易センタービルに突っ込むつもりだ!」

とまで書かれていたのだ。

以下に、
ロウリー氏の告発書簡の一部を紹介する、

「運が良ければ、
9月11日以前に、
飛行学校にいた一人以上のテロリストを発見できた可能性がありました。
テロを防げたかどうかは分かりませんが、
少なくとも…
9月11日の人命の損失を小さく抑えるチャンスはあった筈です」

だが、
これらのテロ事前情報が、
同時テロを防ぐために生かされる事はなかったのだ。

元FBI特別捜査官のスミス氏は…       

「ミネアポリスからFBI本部に届いた情報は驚くべき内容で、
通常のものとは全く違っていました。
しかし、
“分析に余計な時間をかけるな”…というのが
事件が発生してから行動を起こす事に慣れていた
FBIテロ対策本部の考え方だったのです。
つまり、
テロを未然に防ぐ努力が足らなかったのです。

さらに、
もう一つの要因があります。
これは捜査当局に共通する問題点で、
多分、日本の警察庁も同じ問題を抱えていると思います。

それは、
全国規模の捜査組織は、
どうしても大きな支部からの情報を優先してしまうのです。

つまりFBI本部では、
"ミネアポリスの現場の捜査官に何が分かるんだ!"
と感じていた部分があると思います。
テロ対策タスクフォースが設置されているニューヨーク支局や、
海外テロ関係の捜査経験が豊富な
ワシントンDCの捜査官から上がった情報ではなかったので、
"ミネアポリスやフェニックスで燻っているような素人に何が分かるんだ!"
という気持ちがFBI本部にはあったと思います」


それでは
ホワイトハウスやCIAの方はどうだったのか?



ホワイトハウス
[photo: noa iimura]



ブッシュ大統領は、
“同時テロに関する事前情報は一切なかった”
という立場を一貫して取っていた。
しかし、
これがウソだった事が連邦議会の調査で明らかになったのだ。
                    
2001年8月6日、ブッシュ大統領は、
「ビンラディンが、アメリカ国内でハイジャックを計画している」
との報告をCIAから受けていたのだ。

この件に関して、
ライス大統領補佐官(当時)は以下のように弁明した。


「アルカイダが飛行機を何機も乗っ取って、
それをミサイル代わりにして、
世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むなんて、
だれも予想できなかったと思います。
大統領への報告は、従来型ハイジャックについてでした」


しかし、
もしそれが本当だとしたら、
“それこそ由々しき問題だ”と
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は憤る。

「彼女(ライス大補佐官)は間違っている。
9月11日のテロの前兆となる、
ハイジャックした民間航空機で建造物に突入するというテロ計画は、
以前、実際に計画されていたのだから」

CIAテロ対策センターの元上級分析官のベドリントン氏も…

「ボジンカ計画と呼ばれるテロ計画があった。
1995年に、この計画が発覚したのは、全くの偶然だったが…」


9.11テロの6年前の1995年
CIAやFBIは既に、
アルカイダ一派が、
航空機を使った自爆テロ計画を持っているという事実を掴んでいたのだ。


暗号名・ボジンカ
いったい、どんな計画だったのか?



航空機
[photo:kazuhiko iimura]



1995年2月、
一人の男がフィリピンからニューヨークへ空路、移送されてきた。
男の名はラムジ・ヨセフ (注:ラムジ・ユセフとも表記される)

ヨセフは、
マンハッタン上空から世界貿易センタービルを眺めながら、
FBI捜査官の問い掛けにこう答えた。

FBI捜査官:「見ろ、世界貿易センターはちゃんと立ってる」
ヨセフ:「もっと金と爆薬があったら倒すのは簡単だった」

実はこのラムジ・ヨセフこそが、
1995年のボジンカ計画の首謀者であり、
また、
その2年前の1993年に発生した、
最初の 世界貿易センタービル爆破事件 の犯人でもあった。


では、
問題のボジンカ計画とは、
どんなテロ計画だったのだろうか。
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…

「ラムジ・ヨセフは、
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで極東に運行しているアメリカの民間機を含む、
数機の民間旅客機を同時爆破する計画でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります」

アジア、アメリカ間を飛ぶ
11機の旅客機を狙った同時爆破テロ。

しかもそのほとんどが、
9.11テロと同じように、
アメリカン航空やユナイテッド航空など、
アメリカの旅客機を狙ったものだった。

【9.11テロ取材ノートより】


手向けられた花1
[photo: noa iimura]


(飯村和彦)


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2011年09月04日

再考9.11テロ・実行犯たちの足跡(フロリダ)



雨雲1
(photo:kazuhiko iimura)



【テロ実行犯、モハメド・アタという人物について】

農薬散布セスナ機会社
ジェームス・レスター氏インタビュー


Q: あなたのところにテロリストが来たのはいつですか?

2001年の2月です。


Q: それは誰だったか覚えていますか?顔を覚えていますか?

私が覚えていたのは、モハメド・アタです。
彼は、私に、飛行機についての質問をしていました。
そして、操縦席に座りたがっていましたが、
私はそれを断りました。
その時私は飛行機の作業をしていましたから。

アタと一緒に二人の男が居ました。
しかし私は彼らを覚えていません。
彼らには注意を払っていませんでした。

私がアタを覚えているのは、
彼が私に付きまとい、
何とかして飛行機の中に入ろうとしていたからです。


Q: あなたのところに彼らが来たとき、
飛行機を見に来る他の人と比べて、何か違ったところはありましたか?


彼らに怪しいところはありませんでした。
彼の質問も、大して気にしませんでした。


Q: 彼が特にこだわっていたことはありましたか?

アタは飛行機の最高搭載量を知りたがっていました。
どれぐらい搭載できるのかを。
どれくらいの「燃料」をつめるのかを知りたがっていました。

そして、どうやって飛行機のエンジンをかけるのかを知りたがっていました。
どのようにしてエンジンをかけるのかを。
ただし、私は、彼にそのようなことを教えることは断りました。

私がアタにいったのは、
彼の見ていた飛行機には500ガロンの馬力があるということだけです。
飛行機の横には、それと分かる数字が記してありますから。

(搭載できる燃料は)飛行機によって違います。
450ガロン、600ガロン、800ガロンのものもあります。

彼はどれぐらいの燃料がつめるのかを知りたがっていました。
どれぐらいの重さまで、搭載できるのかを。


Q: モハメド・アタが、どのような人だったか覚えていますか?

そうですね…
アタは、とっても活動的なタイプに思えました。
英語も上手でした。
でも、彼は嫌なタイプの男です。
態度は…、彼の態度に問題がありました。
本当に彼の態度には問題がありました。

他の二人の男たちとはは話しをしていません。
だからなにも覚えていません。


Q: 9月11日テロの後、いつ、あなたが話をした男が実行犯だと気づきましたか?

FBIが来たときです。


Q: いつFBIが来ましたか?

事件のあった次の火曜日(=1週間後の9月18日)です。
私に写真を見せて、彼らを覚えているかどうか聞きました。
アルバムの2ページをめくると、
多くの男の中、一人の男の写真が私の目を引きました。
私は彼を知っていましたから。
それがアタでした。


Q: FBIは多くの写真を持っていたのですか?

はい。
多くの男たちの写真がアルバムにはありました。
そして、2ページ目には10人…10枚の写真がありました。
彼はその中の2番目でした。
そして私は言いました。「この男はここに来たことがある」
モハメド・アタです。


Q: そのアルバムに全部で何枚の写真があったか覚えていますか?

はっきりとは覚えていません。
それぞれのページに10枚の写真があったように思います。
それが10-12ページあったかもしれません。
それ以上かもしれません。


Q: モハメド・アタが9月11日に関係しているとわかったとき、
どのように感じましたか?


とっても嫌な感じ(感覚)ですね。
ジェットコースターに乗っていて、
落ちていくとき、全てが落ちるような気がしますよね。
わかりますか?
そして…何もできる事はありません。


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【フロリダのモーテルに住んでいた実行犯たち】

モーテル経営者
リチャード・サルマ氏インタビュー


Q: このモーテルには何人のテロ実行犯が住んでいましたか?

全部で5人が住んでいた。二人が尋ねてきていたので、7人です。
そして、アタは彼らを毎日訪ねてきました。
また、(名前は分からないが)もう一人の男も、
毎日彼らのところにきていました。


Q: いつの事だか覚えていますか?

2001年の8月から9月です。
最初のグループは少し早く来ていて、
次のグループが後からきて、9月9日までいました。

彼らはここを出るとき、
部屋に多くのマニュアル(教科書・指導書)などを置き捨てていきました。
飛行機の操縦法やカンフーなどの格闘技の本。
多くの地図、手書きの書類。
コンパス、燃料テスター、ナイフなどです。

私はそれら全てを部屋から引き上げてきたのですが、
必要ないから捨てろと妻がいったので、多くのものは捨ててしまいました。
でもいくつかは手元に残して置いたので、
事件の後、FBIに渡しました。


Q: 彼らは代金を支払いましたか?

はい。
キャッシュで払いました。何の問題も無く。
彼らは感じが良かったし、部屋をきれいに使ったし、
行動(態度)も感じが良かった。
何の問題もありませんでした。


Q: もう少し具体的に、どのような人たちでした?

彼らを見ていると若い留学生のようでした。
または、若いビジネスマンですね。
とても身奇麗で、言葉(英語)も良くわかっていた。
大変勉強していたように思えました。

マナーも良かった。
とても頭がよさそうだった。
彼らは理想的だった。
ここに泊まってもらう客の“理想的なタイプ”でした。
静かだったし。

だから、
FBIが写真を持ってきたとき、私は信じられませんでした。
全員そこに居ました。
そのほとんどがこのモーテルに居ました。


Q: あなたは全員を覚えていたのですね。

はい。


Q: テロ実行犯たちは、ここでどことんなをしていたのでしょう?

よく出たり入ったりしていました。
リビングの真中にテーブルを置いて、
その上には会議のように、いろいろなものが載せて、話をしていました。
そして、1時間ぐらい立つと、皆でどこかに出かける。
毎日その繰り返しのようでした。

いつも会議。
私にはわかりません。
彼らはビジネスでもしているのだろうと思いました。
それか学生?
私は彼らの邪魔をしなかったし、彼らも他の人の邪魔をしなかった。
怪しいところはなかったです。


Q: 壁に何かを掛けたりしていましたか?

部屋には絵画を掛けてあったのですが、
海辺の砂で遊んでいる小さな女の子の絵と、
肩をのぞかせたドレス姿の女性の絵ですが、
彼らはその絵にタオルをかけて、完全に隠していました。
女性の体を見る事を好まなかったようです。
私が部屋の中を見たときに変だなと思ったのは、そのことだけです。


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【態度が悪かった航空学校でのモハメド・アタ】

ホフマン航空学校
デュリル・デッカー氏インタビュー


Q: テロ・グループの誰がここにくていたのですか?

世界貿易センターに激突した2人のテロリスト、
モハメド・アタとマルワン・アルシェヒがここに来ました。
2000年の7月1日です。
航空学校について、
費用やコース完了までの時間など、色々な情報を聞きたがりました。
だから、
われわれは情報を与え、彼らは「考える」といってかえりました。

すると、
(二日後の)7月3日に戻ってきて、
飛行訓練に参加したいといいました。


Q: どのようなコースですか? それとも一回限りもの?

アタはここに来るまでに既に飛行訓練の経験があり、
ここでさらに訓練を重ねましたが、
アルシェヒのほうは数時間しか飛んでいませんでいた。

当然のことですが、(規定どおりの)訓練の後には、
民間機用ライセンス、
夜間飛行や曇りの時飛行できるインスタメントのライセンス、
マルチエンジン用ライセンスを与えました。

世界中のリポーターから、
それで大型のボーイング機をビルの激突させるにに十分なのかと訊かれますが…

彼らは小型機のライセンスは持っています。
だから(小型機の)操縦はできるし、離着陸はできるでしょう。
コースは終了していたし、彼らはあらゆる操縦を習ったからです。

でもその免許では大型機の飛行はできません。しかし、「操縦」はできます。
車の普通免許で大型トラックの運転ができるかと訊かれたら、
おそらくできるでしょう。
しかし、大型トラックをバックさせたり、
駐車させたりできるかといえば、できないでしょう。

連中は、フライトシュミレータで大型機の操縦を習得しましたが、
離着陸はできない。
操縦しかできないでしょう。

あなたや私が飛行機を操縦するとき、
小型機のライセンスで大型機が操縦できるかと訊かれたら、答えはノーです。
なぜなら私たちは、生きて家族の所へ帰りたいからです。
しかし、連中のゴールは違っていた。
連中は大虐殺を意図し、自殺行為だと分かっていた。
自分たちが戻ると思っていなかったし、
(操縦以外)は、どうでもよかったのです。


Q: 操縦を習得するのにどれくらいの期間が必要ですか?

2000年の7月に、彼らが学生として来た時には、
操縦方法を教えただけではなく、
FAAのパイロットライセンスを習得しなければならなかった。
そのため、3回の飛行は必要だったし、
天候について学ばなければならないし、
機体について全て学ばなければなりませんでした。

何故プロペラが回るのかとか、
あらゆることを学ばなければなりませんでした。

離着陸の方法も学ばなければならないし、
ハンドル操作など全てを学ばなければなりませんでした。


Q: FAAからライセンスをもらうには、一般的にどれ位の期間が必要ですか?

まっさらな状態から民間機のパイロットになると考えてみましょう。
連中は民間機のパイロットになろうとしたのですから。
5カ月から6カ月かかるでしょう。
彼らもそれだけの期間がかかっています。
彼らがここを離れたのは、2001年の1月でしたから。
ですから、5ヶ月から6ヶ月間です。
普通ですね。


Q: 費用は?

通常は18000〜19000ドルかかります。
アタは、
2週間ごとに、現金ではなく、某信託銀行の小切手で支払っていました。


Q: 彼らがここにいた時、講師と口論があったとか聞いていますが?

アタと、アルシェヒが2000年7月に来た時、2人とも…。
特にアタは傲慢な性格でした。
一緒に話しても楽しい性格ではなく、
講師が1カ月で、「指導に従わない」と不満をもらしました。
アタは特に態度が悪かった。

アタは自分が他人よりずっと優れていると思っているふしがあり、
傲慢で、自分が親分だと思っていたのでしょう。


Q: 何のために免許を取得するのか、目的についてはどう話していた?

「キャプテンになりたい。
祖国のサウジアラビアでパイロットの仕事のオファーがあるから。」と。

私がアタに、
「アルシェヒは23歳だから航空業界に職を得たいのは分かるが、
君は34歳か36歳になっているだろう?
仕事を始めるには少し年齢がいっているのでは?」というと、彼は、
「わかっているけれど、ずっと勉強してきたし、
飛ぶのは好きだし、自由に感じるし、いい仕事を手に入れたい。」
と話していた。

けれども、
とにかく、アタは態度が悪かった。
いつでも女性やその他の人に、自分が上だと示そうとしていました。
嫌だね。
分かるだろう? 彼は独特な人間で、皆が嫌っていました。
特に女性の従業員は大いに嫌っていた。


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【瞬時に相手をたおす格闘技を学んでいた実行犯】

格闘技ジム指導者
バート・ロドリゲス氏インタビュー


Q: テロ実行犯だったジャラヒが、
ジムで格闘技の授業を取っていたそうですが、どのようなもの?


警察やDEAや軍のものと同じ、
ハンド&ハンド・コンバットの授業でした。
ジャラヒはすぐれた生徒で熱心だったのですぐに修得し、
4カ月半で個人授業ができる(=人に教えられる)レベルになりました。


Q: いつか覚えていますか?

2001年の5月から8月の半ばでした。


Q: (ジャラヒの顔写真を見せながら)この人物が誰か分かりますが?

ええ、ジアド・ジャラヒです。
激しい性格でしたが、礼儀正しい人物でした。
いつも微笑んでいて、
練習中はいつも熱心で、身体の状態もよかった。
遅刻はなく、必要があれば常に練習をしていました。
人前に出るのもいとわなかった。
しかし、
自分の目的について何も言いませんでした。

彼はビジネスマンだと称していたし、ドイツなまりがありました。
私より肌の色は明るかったので、
中近東の人間には見えませんでした。


Q: いつも一人でしたか? それとも複数ですか?

4〜5人で、
このあたり(フロリダ・フォートローダーデール近く)に住んでいましたが、
目立ちたくなかったのか、
ジャラヒ1人が訓練を受けにきました。

私たちは、互いを傷つけないようにしながら、
友人と練習することを薦めていましたが、
ジャラヒは、なんどか友人と上手く練習ができなかったといっていました。

“友人を連れてくれば、グループ・レート(団体割引)で教えてあげるよ“
といったら、
「彼らは遊びに来ているだけだ。」といって断りました。


Q: 具体的にはどのような事を教えるのですか?

基本的には抑制手段のためで、
監獄の警備員や警官や軍隊で、
誰かをすぐに押さえたい時に使うものです。

特に、相手の身体をコントロールする方法で、
競争やスポーツやボクシングのためではなく、
相手を即押さえつけるための手段です。

足について言えば、足のどこが弱いのか、
その弱いところを、棒で殴ったり、足で蹴ったりできる。
ナイフで切りつけることもできるし、
どのようなダメージを与えたいかによって変わります。

相手をコントロールするには、誰かを制止するため殴り倒すか、
首の骨を折るか、などで、
その場で何が必要なのかによって違ってきます。

軍隊の人間などに、実戦で使えるのを目的に教えているので、
実戦に即して教えています。
古典的あるいは伝統的な形式にのっとったものではありません。
実戦技術を練習するのです。
直ぐに覚えられ、実戦で何度も使えるので、
短期間で自分のものになります。

また、いまにして思えば不注意だったかもしれませんが、
小さなナイフの使い方も教えていました。
小さなナイフは非常に効果的なのです。

誰かが手を出してきたら、ひじの先を殴って痛い目にあわせるか、
杖で殴って、腕を麻痺させるか、
腱を切って、腕を完全に使えなくさせるか、です。

自分が相手より小さい場合、あるいは、相手が複数の場合、
腱や靭帯や血管を切りつけるのが一番効果的だと教えていました。
そうすれば敵の数を少なくできる。

それを、ジャラヒは練習して習得したのです。
そしてその技を、グループのメンバーに教えたのです。

彼はとても訓練されているように見えたので、
なにかやった経験があるのか訊きました。
彼は、
「サッカーをやっていたから、身体ができている。」といっていました。
練習熱心だったし、ケガをしても不満はもらしませんでした。


Q: ジャラヒやグループのほかのメンバーはどんなタイプ?

彼らは、グループで、パイロットになりたいと学校に行っていました。
ジャラヒは、ビジネスマンだと思っていた。
勉強するつもりだといっていたし、
ドイツの学校で航空エンジニアの学位をとったといっていた。
知的だったし、彼には敬意を払っていた。
英語もうまかった。

パイロットになるための訓練と同じように、
自分たちのミッションを効果的に実行するため、
その準備に、このジムにきたのでしょう。

われわれ全員がその助けをしてしまった訳ですが、
民主主義の社会では、
自由がたっぷりありますから…。

【以上、9.11取材ノートより】

(飯村和彦)


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2011年09月03日

再考9.11テロ・元FBI副長官の視点


元FBI副長官、
オリバー・レベル氏インタビュー


Q:9.11テロの前、
イスラム過激派ネットワークの、アメリカ国内での状況はどうだったのか?

イスラム過激派のネットワークがアメリカ全土に拡大中で、
アメリカに対する破壊活動の準備を国内で続け、新しいメンバーを募り、資金を集め、
アメリカ国内で軍事演習さえおこなっているのに、
アメリカ社会はそれを殆ど無視している状態でした。
明らかに将来大きな脅威となる存在でした。

ハマス、ヒズボラ、パレスチナのイスラム教過激派組織『ジハード』、
そしてアルカイダは、
全て、アメリカ国内に支援組織を持っています。




911
(photo:kazuhiko iimura)



ビンラディンの元秘書だった男も、
アルカイダを脱退後はアメリカに来て、
テキサス州アーリントンに住んでいました。
少なくとも表面的には「脱退した」といっていましたが…。

テロ組織の多くがアメリカで活動資金を集めています。
ドキュメンタリーやビデオを制作し、書籍を出版し、
新しいメンバーの募集と訓練など、
さまざまな活動をアメリカで行っています。
アメリカで行っていないのは、
実際にテロ事件を起こすことだけだといえるでしょう。

つまり、
アメリカ国内にはすでに、
イスラム過激派組織のネットワークが広がっていたのに、
9月11日の事件が起こるまでは、
全く手付かずの状態で放置されていたのです。


Q:1995年に発覚、阻止された「ボジンカ計画」とは?

テロの手口は、
アメリカに向かうアメリカの航空会社の大型旅客機に
爆薬を持ち込むというものでした。
そのために、アメリカに向かう旅客機への、
あらゆる種類の「液体」の持ち込みが禁止されました。
そして非常に念入りな捜査が続けられました。

(フィリピンのアジトで)押収された証拠品のなかには、
クリントン大統領暗殺計画や、
アメリカにある建造物破壊計画を示すものがあったからです。

そのためにFBIとCIAに直ちに連絡が行き、
FBIとCIAはフィリピン捜査当局と協力して、
『ボジンカ計画』の首謀者の割り出し、
テロの対象、
そしてテロ組織とフィリピンの関係を見つけるため、捜査をしたのです。

フィリピンにはイスラム過激派組織があるので、
現地の治安当局はアブサヤフや、
その類の過激派組織のテロ計画への関与をとても恐れていました。
当時、アルカイダは知られていませんでしたから。

しかし、「ボジンカ計画」の首謀者を割り出していく過程で、
一人の男が、
1993年のWTCビル爆破事件にも関わっていたことが明らかになりました。
ラムジ・ヨセフです。
ヨセフが、この2件のテロ計画に関わっていたことが判明したのです。

そしてアメリカの諜報機関とFBIは、
一連のテロ計画は「ヨセフ・ネットワーク」によるものと判断し、
この組織の全貌の解明に全力を注ぐことになりました。
ただ当時はまだ、
ビンラディンがこのネットワークの黒幕だということは分かりませんでした。

ただし、
1993年のWTCビル爆破事件、
あるいは11〜12機の大型航空機をハイジャックして、
アメリカ本土の建物に衝突させることが計画されていた「ボジンカ計画」の、
計画・実行グループの背後には、
もっと大きな組織の存在があることは、わかっていました。

ネットワークに参加しているテロリストの数の割り出しや、
フィリピンのイスラム過激派との関連の有無、
特に、アブサヤフとの関係の有無の調査が続いていました。

無論、
この「ヨセフ・ネットワーク」の捜査は、
フィリピンだけでは終わりませんでした。
シンガポール、ソウル、東京、香港などのアジアの都市も、
このテロ計画に含まれていたので、
まだわかっていない「ヨセフ・ネットワーク」の構成員を見つけるために、
東アジア一帯で綿密な捜査が行われたのです。

そして「ヨセフ・ネットワーク」が、
過去において複数の反米テロを成功させた、
より大きなテロ組織とつながっていることが判明しました。


Q: ハリド・シェイク・モハメドについての認識はどうだったのか?

当初我々は、
ハリド・シェイク・モハメドは、
ラムジ・ヨセフの支援者だと考えていました。
ラムジ・ヨセフは最初のWTCビル爆破事件の首謀者であり、
フィリピンで発覚したボジンカ計画でも首謀者だと考えられていました。
そしてハリド・シェイク・モハメドは、
その支援者に過ぎないと思われていたのです

ところが、情報が集まるにつれ、
ハリド・シェイク・モハメドがボジンカ計画のリーダーで、
ビンラディンの副官・アルカイダ幹部であることが明らかになりました。
さらに、
1993年のWTCビル爆破事件にも直接関与していたことも判明しました。

WTC(ワールドトレードセンター)ビル爆破事件が、
計画通りの結果をおさめることが出来なかったために、
テログループは、
爆破したビルで隣のビルも崩壊させ、
何千人もの死者を出すことを計画していたのですが、
実際は千人を超えるけが人は出たものの、死者は6名でした。

ハリド・シェイク・モハメドは、
9月11日の同時多発テロのターゲットの一つに再度WTCビルを選び、
失敗に終わった1993年のテロ計画を完成させようとしたのです。


Q:ビンラディンと9.11テロの関係は?

1998年の『ファトワ』(宗教布告)が、
ビンラディンが発表した最初の公式メッセージです。

ただし、
アルカイダとアメリカの戦いは、1993年以来ずっと続いていました。
厳密にいえば、
1979年にホメイニ師がイランに帰国し、
イラン・イスラム共和国を作り、
「アメリカは悪魔だ」と公表した時に始まっていたといえるでしょう。

その後、人質事件が起こり、
ベイルートと南レバノンの攻撃に続き、
ヒズボラは反米テロをその他の地域でも繰り広げていきました。

アルカイダは、
イランの反米テロ組織とは直接関係ありませんが、
革命軍を率いたホメイニ師が唱えたイスラム過激派の教義を、
その活動のよりどころにしています。
つまり、
アルカイダはその存在がみんなに知られるずっと以前から、
活動を続けていました。

1998年の『ファトワ』は、
「アルカイダはこれからも反米テロを激化させていく」
というビンラディンによる声明の発表でした。
アルカイダの最終目的は、アメリカを滅ぼすことにあり、
自分達の行為の正当化や、
パレスチナ国家の成立等を狙ったものではありません。

アルカイダは、
アメリカ文化、哲学、そして、
アメリカという国の存在自体を否定しているのです。
自分達が「イスラムの土地(Islamic homeland)」と見なす土地に、
米国とその同盟国のプレゼンスがあるだけでもアルカイダは許せないのです。
歩み寄りの余地は全くありません。

アルカイダ以前のテロ組織もテロ事件を起こしていましたが、
世論を完全に敵にまわすことを恐れ、
ある程度、手加減をしていました。
ところが、
世論を全く気にしないアルカイダは、
アメリカを滅ぼしたい一心で行動しています。

アルカイダにとっては、
アメリカを滅ぼすことが神(アッラー)の意志を実行することなので、
可能な限り多くのアメリカ人を殺すことが、
神(アッラー)に与えられた使命であり、
それにより神の祝福を受けることができるのです。

大量殺人を犯すことが、
全能の神の意志に報いることだと信じている組織と戦うのは、
実に困難です。
しかし、
ビンラディンはそう説いています。
「機会があれば、いつ、どこであれ、アメリカ人を殺すこと。
それが正しいイスラム教徒の使命だ」
と、彼は説いているのです。

このような宣戦布告がなされているのに、
アメリカは何の対応策もとらずにいたのです。

ほとんどの人が、
「単なる過激派のアジ宣伝に過ぎない」と考えていましたが、
一部の専門家は危機感を高めていました。
しかし、そんな専門家の意見は、
人騒がせなデマだと、一蹴されました。

当時の世論の関心は、
ニューヨークの法廷で繰り広げられていた
「O.J.シンプソンの裁判」の行方に集まり、
テロリストが何を考えているかなど構っていられない状態でした。
そのために、多くの人命が失われることになったのです。
政治家、特に下院議員はこの問題に無関心でした。


Q: FBIのテロリスト捜査に関しては?

1997年10月に、
私は初の国際テロリスト捜査作戦を指揮し、
レバノンでアメリカ人を人質に取ったハイジャック犯を、
キプロス沖で逮捕しました。

これは国際社会のテロ撲滅の強い意志と、能力を示すものでした。

1997年にアメリカの国内法に、
『犯罪捜査の延長』に関する条項が加えられたことにより(long-arm statue)、
海外におけるテロリスト捜査への参加が可能になりました。

そして我々は、
「アメリカ人を対象にしたテロの首謀者を、世界中を探して捕まえる」
という断固とした意志と捜査能力を示したのです。
従って、
1998年のビンラディンの『ファトワ』(宗教布告)で、
捜査方針・流れが変わることはありませんでした。
むしろ、『ファトワ』(宗教布告)のおかげで、
諜報機関が発する反米テロに対する警告を信じなかった人たちに、
「大掛かりな反米テロの危機は実際に存在し、
アメリカを滅ぼすことを最終目標にしているアルカイダとの歩み寄りは
絶対にあり得ない」
という事実を知らせることになったのです。


Q:CIAがテロ実行犯の一部に対して9.11以前から監視活動をしていた事実と、
それにもかかわらず、彼らがテロを防げなかった理由は?


CIAは実際に自爆テロ実行犯の何人かに関する情報は持っていました。
もちろん、逮捕状も、物的証拠もありませんでしたが、
CIAは明らかに何人かを追跡し、
そして少なくとも2名の自爆テロ実行犯に関しては、
移民帰化局(INS)に報告をまわし、
『容疑者リスト』に載せて、
行動を監視するように警告(2001年8月23日)しています。

ビンラディンとの繋がりが確認されている者、
そしてアルカイダメンバーであることが確認されている者は、
CIAの「容疑者リスト」に載っていて、
行動を監視され、
所属する会社・組織が洗い出され、
それぞれの行動に関する諜報活動が行われていたはずです。

当時FBIは、
バーレーンの米軍宿舎・コバールタワー爆破テロ、
ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破テロ、
USSコール爆破テロなど、
海外でのテロ事件の捜査を継続中でしたから、
アルカイダに繋がりのある者は、
絶対にFBIの興味と捜査の対象になったはずです。

つまり、
1993年のWTCビル爆破事件や1995年の(ボジンカ)計画にまでさかのぼる、
「一連の反米テロ事件に関する諜報データ、
そして諜報データに基づく物的証拠を可能な限り集めるように」
と、アメリカ政府は強調していました。

従ってCIAは、
当然、一連の反米テロ事件に関係があるテロリストには、
特別な関心を持っていたはずです。

しかし、国籍も様々で、沢山の偽名を使い、
テロ支援国家の諜報組織からの援助で、
新しい身分証明書まで入手することが可能で、
世界中を移動する容疑者を追跡するのは非常に大変でした。

潜伏中のラムジ・ヨセフの実名が確認できるまでには、
長い時間が必要でした
またラムジ・ヨセフは、
彼の本当の名前ではない可能性だってまだ残っているのです!

捜査陣と、諜報機関による、
各容疑者の実名、所属する組織、そして潜伏先を割り出す作業は、
難航を極めました。

アルカイダは世界のテロ組織の頂点に君臨する組織ではなく、
アルカイダの主導者とその目的と行動哲学を同じくするテロ組織を支援する、
テロ支援ネットワークなのです。


Q:CIAからFBIへの情報伝達が遅すぎたとの批判が多いが?

自爆テロ実行犯に関する情報を事前に入手していたCIAは、
彼等がアメリカへの入国を計画していることを確認すると、
その情報をINSに提供しました。
しかし、情報がINSに渡った時には、
すでに容疑者(自爆テロ実行犯)はアメリカに入国をした後だったので、
FBIに下駄を預ける形になったのです。

そのために、
FBIがこれらの容疑者達(自爆テロ実行犯)の居所を探している最中に、
9月11日のテロが起こったのです。

ただ逮捕状はありませんでしたから、
「アメリカで何をしているのか?」とか、
「誰と連絡をとっているのか?」等の、諜報活動が目的でした。

FBIの捜査官達は、
自分達の捜査対象がこれからおこるテロ計画に直接関与しているとは、
夢にも思っていませんでした。

アルカイダとの繋がりがあるという理由で、
FBIにはINSから、そしてINSはCIAから、
『追跡調査が必要!』
という、警告が届いていたのですが、
その時すでに、自爆テロ実行犯はアメリカへの入国を果たしていました。

もし、
自爆テロ実行犯がアメリカへの入国を果たす前に、
捜査当局から連邦航空局(FAA)および、全ての航空会社に、
自爆テロ実行犯の名簿が送られていたら、
自爆テロ実行犯は飛行機に乗ることが出来なかったと思います。

自爆テロ実行犯は実名を使って渡米を企んでいました。
ですから、各航空会社に、
自爆テロ実行犯の名簿が送られていたら、
搭乗の前にチェックを受けることになったはずです。

しかしながら、
自爆テロ実行犯達は、
実名で正規の航空券を買い、
持ち込みを禁じられているような武器は
一切もたずにアメリカにやって来ました。

ですから、
航空会社に自爆テロ実行犯の名簿が事前に送られていても、
「彼等の搭乗を禁止すること可能であったか?」
という疑問は残ります。

もちろん、
現在であれば、絶対に搭乗は出来ません。
しかし9月11日以前は、
逮捕状が出ているとか、
揺るぎない物証が上がっているとかの場合でなければ、
単に外国のテロ組織のメンバーであるかもしれないという理由だけでは、
搭乗を禁止することが難しかったかもしれません。

つまり、必要な情報が、それを必要としている人に、
すみやかに渡るような包括的システムがなかったのです。
また、
当時空港で入国審査にあたっていたのは、
政府の役人ではなく、
航空会社に雇われた民間人だったという問題もあります。

システム全体に問題が多すぎたため、
自爆テロ実行犯が、
アメリカ行きの飛行機に搭乗するのをとめるだけの情報が、
関係者の元に届いていなかったのです。

CIAがISNに連絡した2人の自爆テロ実行犯、
「ナワフ・アル・ハズミ」と「ハリド・アルミダ」に関しては、
INSが、
入管法違反容疑で2人を拘束することは可能であったと思います。
つまり、
入国管理当局に提出された情報に誤りの記載があったのではないか?
という疑いです。

この2人に関しては、
INSが拘束することが可能だったと考えます。

しかし、
FBIにはあの時点で2人を拘束する権限がありませんでした。
2人はFBIによる拘束の対象になりうるような犯罪を、
アメリカ国内で犯していなかったからです。
でもINSが2人を拘束し、国外退去処分をすることは可能でした。


けれども、
2人を逮捕することは出来ません。
2人は入国の際に実名を使っていましたし、
アメリカの友好国の出身ですから、逮捕される理由がなかったのです。
従ってどんなに頑張っても、
2人を拘留し、国外退去させる以上のことは出来なかったでしょう。

自爆テロ実行犯は全て、
アメリカの友好国の出身者で、
アメリカが『テロ支援国家』と見なした国の出身者ではありません。
このことが捜査当局のジレンマになりました。

アラブ系だとか、イスラム教徒だからという理由だけで、
中東出身者や、アフガン人、パキスタン人を、
アメリカを訪れる他の外国人とは差別して扱っていいのか?
という問題が生じたからです。
9月11日以前には、これは全く許されないこととされていました。

これは、アメリカの友好国出身である限り、
外国人が、
アメリカで飛行学校に通う事を禁止することが出来なかったのと同じ論理です。
有料の飛行訓練のほとんどがアメリカで行われているからです。

アメリカはこの問題の扱いに頭を悩ませていました。
法律的に何の問題もない外国人の入国を拒否して、
アメリカを『要塞化』することは絶対に避けなければなりませんでした。
また、観光は国にとってはとても大切です。
アメリカは、
より多くの外国人にアメリカを訪れて貰い、
アメリカ社会、文化、生活様式に対する理解を深めてほしいと思っています。

しかし、
自由でオープンな社会を作ろうと努力している
アメリカ市民の努力を利用して、
アメリカ社会に紛れ込み、
史上前例のない残忍で、大規模反米テロを計画し、
実行したテロ組織があったのです。
まさにジレンマです。

自爆テロ実行犯は、
十分に訓練を受け、
強い自制心と、堅い信念を持ち、
アメリカ社会の仕組みとその脆弱性を知り尽くしていました。

アメリカ政府はテロが起こることを予見していました。
アメリカに対するテロは、常に起こっていたからです。

また、
アメリカ本土でテロが起こることも予期していました。
国境超えて侵入しLA空港を狙う等のテロ計画があったからです。
しかし、実際のテロが、
9月11日のような形をとることだけは予期することができませんでした。

そして、
9月11日のようなテロに対する対処法も用意されていませんでした。
断片的なテロ関連情報を、
捜査当局がつなぎ合わせることが出来ていたとしても、
9月11日の同時多発テロを事前に防止できるような、
包括的なテロ対策を打ち出すことは不可能だったと思います。

テロ対策に40年関わってきた私が、
9月11日の同時多発テロを客観的に振り返る場合、
「こうするべきだったのに、それがされていなかった!」的な、
捜査当局のあら探しをすることはできません。

3人の元CIA長官に、
「現在一般に知られている情報だけで、
9月11日の同時多発テロを未然に防ぐことは可能でしたか?」
という質問をしたところ、
全員が「不可能だった」と答えました。

同じ質問を、
国防(総省)情報局(DIA)の元長官にぶつけてみましたが、
答は同じでした。

ちょうど1000枚のチップから出来ているジグソーパズルの完成図を、
4枚のチップから想像することが不可能なのと同じです。
4枚のチップを机にならべただけで、
ジグソーパズルの完成図を想像することができるでしょうか?

いいえ、少なくとも3分の1が完成して初めて、
完成図の輪郭がうっすらと分かるくらいで、
細部のデザインに関してはほとんどわかりません。


Q:アリゾナの「フェニックスメモ」や、
ムサウイ被告に関する「ロウリー捜査官のメモ」など、
確度の高いテロ情報が事前にあったのに、その情報を有効に生かせなかったのでは?


アリゾナの飛行訓練学校に通っている中東出身者の存在を報告した、
フェニックスのFBI捜査官のメモの存在が大きく扱われていますが、
中東出身者がアメリカで飛行訓練学校に通うというのは、
よく知られた事象でした。
アメリカの飛行訓練学校には、世界中から生徒がやって来ています。
飛行訓練学校に通っているのが中東出身者だったからといって、
「テロリストの疑いがある」
と決めつけるわけにはいかないのです。

当時、そのような情報だけで、
アメリカの航空訓練学校の生徒の国籍を調べていたら、
「人種によるプロファイリング」
として轟々たる避難を浴びたことでしょう。

また、
ミネソタでムサウイが逮捕された際の容疑は、
パスポートに不実の記載があったとする入管法違反でした。

FBIは直ちにムサウイも取り調べを始めましたが、
当時の外国諜報監視法、
Foreign Intelligence Surveillance Act(FISA)の下で令状がとれるのは、
“容疑者がテロ組織のメンバーである”、
もしくは、
“アメリカの敵国の利益の為に働いている“
という証拠があるときにだけに限られていました。

そして、当時はそのような証拠はありませんでした。
FBIのミネソタ支局がFBI本部に送った、
ムサウイを取り調べるためにFISAの下で令状を取りたいという要請は、
法律によって却下されたのです。

FBIの統括責任者(SUPERVISOR)の裁量によるものではなく、
合法的処置としての却下でした。

当時はまた、
ムサウイはモロッコ系フランス人なので、
彼をフランスに引き渡そうかという考えまであったようです。
フランスは、
アメリカのように基本的人権の問題にこだわりませんから。

そのためにFBI本部は、
ムサウイと彼から押収したコンピューターをフランス捜査当局に引き渡し、
アメリカ政府は法的権限がなくて行いえない調査を、
アメリカにかわってやってもらおうと、本気で考えていたのです。


Q:一方、
ブッシュ大統領が受けていたテロ情報の内容はどの程度のものだったのか?

大統領は毎日、テロの可能性についての報告を受けています。
但し、包括的な報告で、
箇々の例にふれたものではありません。
ビンラディンの『ファトワ』(宗教布告)や、様々なテロ活動により、
アメリカの民間航空機を狙ったテロが起こる可能性が予測されていました。

しかし、
民間航空機は常にテロリストの絶好のターゲットです。
だから空港では常に、
民間としては最大級のセキュリティチェック体勢が敷かれているのです。

結論としては、
「断片的な情報は入手されていたのだから、
それを上手につなぎ合わされていたら、
テロを防ぐ為の包括的な対策がとれていたはずだ」
とする主張は、
あさはかで、偽善的でさえあります。

「断片的な情報を上手につなぎ合わされていたら、
憲法の規制枠のなかで、
テロを防ぐ為の包括的な対策がとれていたらよかったと思いますか?」
という質問にたいしては、
私も「もちろんです」と答えます。

しかし、
「それは可能であったか?」
という問いには、
「可能であったかどうか分からない」
としか答えられません。

脆弱性を持たない民主主義社会は存在しません。
膨大な金と人材をテロ対策に当てているイスラエルにおいても、
国土はあんなに狭いのに、テロを防ぐことは不可能なのです。
国境が全て解放され、
3億人の人が住んでいるアメリカにおいて、
全てのテロ計画を未然に防ぐことは可能だと考えるのは、
余りにも常識がないと思います。

また、「結局政府機関はたよりにならない」的な思考につながり、
社会不安を引き起こす原因になります。

全てのテロ計画を未然に防ぐことは不可能です!

しかし、
全てのテロ計画を未然に防ぐために努めるべきで、
これが我々の目指すできことです。

私はFBI本部で捜査の指揮にあたった10年間をとても誇りに思っています。
私がFBI本部で捜査の指揮にあたった10年間に、
FBIが未然に防いだテロ計画の数は、
実際に起こったテロ事件の数を上回っています。
私がFBIトップだった10年間の最優先課題はテロ対策で、
テロを未然に防ぐための法的な措置は全てとって来たと自負しています。

しかし、
民主国家、警察国家、どのような形態の国家であれ、
テロを実施する日にちと時間、発生場所、破壊の手段等を自由に選べる点で、
テロリストは捜査機関より有利な立場にあります。

つまり、
状況をコントロールしているのはテロリストなのです!

いかなる予防策をも超えたテロ計画を練り上げることが出来るのも、
人間に与えられた才能なのです。
そのために、規模の大小を問わず、
テロリストがテロを起こす機会は、これからもきっとあるでしょう。

特に自爆テロの場合、
大統領暗殺計画をいつも未然に防ぐことが不可能なのと同じように、
自爆テロ実行犯が、
十分に訓練を積み、地域社会に潜り込み、
密かに時間をかけて計画を練り上げ、
地球上を自由に移動しながら計画の準備にあたったテロの場合には、
常にその裏をかいて、未然に防ぐことは不可能です。

日本の暴力団対策も、これによく似ています
日本の警察は、暴力団組織に対する研究を積んでいますが、
それでも暴力団の犯罪を全て未然に防ぐことは出来ないでいます。
アメリカの警察機関もまた、
アメリカのマフィアの犯罪を全て未然に防ぐ事はできません。

マフィアの主要人物と構成員に関する十分な知識があっても、
マフィアは監視網の目を潜り抜け、
捜査の裏をかき、犯罪をおこします。
マフィアよりも組織の締め付けが弱く、
構成員の多くが捜査員に知られておらず、
世界中をターゲットに出来るテロリスト相手の戦いに、
全勝をおさめるのはもっともっと困難です。

つまり結論は、
テロを未然に防ぐことは可能であり、
全てのテロ計画を未然に防ぐための最大の努力を続けることが必要だが、
しかし、
テロを未然に防ぐ包括的な対策など、
民主主義社会ではあり得ないということです。

【以上、9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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2011年09月02日

再考9.11テロ・元FBI特別捜査官の証言(2)


元FBI特別捜査官、
I.C. スミス氏インタビュー(2)


Q:ロウリー捜査官の告発に関してもう少し詳しく伺いたい。 

ロウリー捜査官について、
告発文書を書いたことで、
彼女を責めるつもりは全くありません。




米国旗
(photo:kazuhiko iimura)



【(注)FBIミネアポリス支部の女性捜査官、ロウリー氏は、
13ページに及ぶ告発書簡の中で、
"9月11日のテロ実行犯の一部を、
事前に摘発できた可能性をFBI本部が握り潰した"と訴えた。
具体的には、
テロ計画に関与したとして起訴されたムサウイ被告をめぐるもので、
彼女が、9.11テロ以前に上司に報告したメモには、
"ムサウイは大型航空機を乗っ取って世界貿易センターに突っ込むつもりだ"
とまで記されていた】



Q:ロウリー氏はどうして「告発」という手段にまで訴えたのか?

あのような最終手段に訴えるに至った経過が理解できません。
彼女は特別捜査官だということですが、
支局のアドミ担当だったのか、
その任務の具体的内容がわからないと、
元同僚と話したところでした。

通常FBIでは、○○担当の特別捜査官補とか、
テロ対策主任担当の特別捜査官のように、
任務までつけていうのが普通です。
さらに、
ミネアポリス支部の彼女の上官の役割については、
全く何も触れられていないことも不思議です。

このことだけから推測すると、
ロウリー氏は、
自分の問題を上官には全く知らせずに行動を起こしたか、
報告したが、
全ての上官が取り合わなかったか、
その2つに一つになります。

あれだけ重要な情報を持っていたのに、
ミネアポリス支部の責任者はどうして自分でFBI本部に電話をかけ、
入手した情報の重要さを説明しなかったのか、
私には理解できません。

もしそれが本当であれば、
FBI上層部は全く機能不全を起こしていたという事実の、
さらなる証明になります。

入手した情報の持つ重大性を
上層部が理解できていなかった事実が浮き彫りになるのと同時に、
入手した情報を有効に利用することが出来なかったという
FBIの抱える問題の二重構造が明らかになるのです。


Q:情報の重要性について、FBI本部の理解度が低すぎた?

情報を受け取るFBI本部の者の前知識が足りなかったため、
事の重大さに気付かなかったという問題があるでしょう。
少なくとも彼女のメモは、
FBI本部で『担当者』の元に一旦は送られていますから。

ただし、
9月11日以前のFBI本部のレベルがどの位であったかについては、
私にはわかりません。
しかし『担当者』とされる人たちは、
まわって来た情報の重要さを理解するだけの、
経験と知識に欠けていたように思います。

さらに、
もう一つの要因があります。
これは捜査当局に共通する問題点で、
多分、日本の警察庁も同じ問題を抱えていると思います。

それは、
全国規模の捜査組織は、
どうしても大きな支部からの情報を優先してしまうのです。

例えば、
九州の小さな村から上がって来た情報より、
東京からの情報を警察庁は優先すると思います。
大都市でのテロの方が、重大ですから。

つまりFBI本部では、
『ミネアポリスの現場の捜査官に何が分かるんだ!』
と感じていた部分があると思います。
テロ対策タスクフォースが設置されているニューヨーク支局や、
海外テロ関係の捜査経験が豊富な、
ワシントンDCの捜査官から上がった情報ではなかったので、
『ミネアポリスやフェニックスで燻っているような素人に何が分かるんだ!』
という気持ちがFBI本部にはあったと思います。

FBI捜査官の多くは、
ニューヨーク、ワシントンDC、ロサンゼルスを含む、
4つから5つの大都市の支局に集まっているのです。
そのことが影響していたと、私は確信しています。


Q:だが、そうなると組織として成り立たないのでは?

ワシントンDCにあるFBI本部の仕組みを説明する必要があるでしょう。
FBI本部では、
テロ組織ごとの捜査ユニットが組まれています。
捜査ユニットのトップはユニットチーフで、
その下に複数の統括責任者(SUPERVISOR)がいて、
それぞれ『担当する区間』が割り当てられています。

ミネアポリスからのメモを受け取った統括責任者は多分、
オハマや、セントルイス、カンザスシティ、リトルロック、オクラホマシティ等の、
中西部一体におけるFBI支部の活動を統括していたと思われます。
つまり、
統括責任者のもとには、
ミネアポリスのロウリー氏からのメモ以外にも、
膨大な報告書が日々届いていたのです。

また、
この問題の統括責任者が、
『ボジンカ計画』を聞いたことがなかった可能性もあります。

しかし、
だからといってこの統括責任者だけに責任を負わせるのは酷です。
統括責任者といっても、
FBIが受け取るすべての情報を見ているわけではありませんから。
ユニットチーフ以上のレベルでなければ、
FBIが持つ情報全てにアクセスすることは出来ません。

唯一の例外が『アナリスト/分析官』ですが、
この場合、アナリストはいなかったのです。
つまり問題の統括責任者も、
限られた情報にしかアクセスできなかったために、
フェニックスメモの存在を知らなかった可能性さえ考えられます。

また、
フェニックスメモを受け取った担当者も、
ミネアポリスからのメモの存在は知らなかったでしょう。

FBIにおける、
『縦割り行政』(COMPARTMENTALIZE:区画主義)による弊害です。


Q:さらに、FBIとCIAの間で、情報のやり取りにおいて問題があったというが…

非常に重要度の高い情報を入手したCIAが、
故意に、『これはCIAで保存して、FBIには見せないでおこう』
と決定することは絶対にないと、私は思います。

FBIに情報が回らなかった一番の原因は、
FBIに対して情報を隠匿する意志があったからではなく、
CIAが、
入手した情報も持つ重要性と影響力を
十分に理解していなかったためだと、私は考えます。

フェニックスメモ、ミネアポリスメモ、
そしてボジンカ計画関連情報、
さらにはフランスから提供されたエッフェル塔に旅客機で衝突するテロ計画の情報などが、
全部FBIに揃っていたらば、
FBIは9月11日のテロ以前に、テロ防止に乗り出していたはずです。

まず、
全米にある全ての飛行訓練学校に連絡し、
調査をすることは出来たといわれています。
FBIはこの種の捜査を定期的に行っていますから。

具体的な手順で説明すると、
もし全ての情報が揃っていたら、
FBI本部は、まず『担当地域のガソリンスタンドに連絡し、
最近何か変わったことがないか調べろ』と指令を出します。
指令に従い上官は、
インターネットまたは電話帳を使って担当地区内のガソリンスタンドを全て洗い出し、
FBI捜査官を派遣して調べさせるのです。

これは24時間から36時間あれば出来ることで、
大したことではないのです。
フェニックスメモに書かれていた、
『飛行訓練学校を調査するべきだ』という提言をFBI本部が聞いていたら、
9月11日の同時多発テロ計画を、
事前に瓦解させることが出来たと、私は確信しています。


FBIは、
フェニックスメモ、ミネアポリスメモ、そしてボジンカ計画関連情報、
さらにはフランスから提供された
エッフェル塔に旅客機で衝突するテロ計画に関する情報を持っていた事を
公に認めています。
しかし私は、この4件の他にも、
FBIは、幾つかの情報を持っていたと確信しています。

それらの情報が有効に利用されていたら、
9月11日の同時多発テロ計画を事前に阻止できたはずです。

勿論、
テロ組織が第2計画に打って出た可能性はあります。

自爆テロ実行犯を、
19名あるいは20名だけだったと考えるのは大きな間違いです。
ムサウイが20番目の実行犯だったとする説も、
私には承服できません。
実行犯グループはこの20名以外にもいたと、私は確信しています。

ミレニアム・ボマーの経験から、
テロ組織は西海岸の都市にある建造物を狙っていたことが分かっているからです。
ゴールデンゲートのような世界的に有名な建造物に、
旅客機を衝突させるテロの効果はものすごいものです!
複数の実行犯グループが組織され、
それぞれが、異なった準備レベルにあったのだと思います。

ただ、成功する自信がなかったか、
なんらかの理由で、『テロ実行』命令が下りなかったのでしょう。


Q:テロ情報に対する分析は?

テロ対策センターでは、分析機関が完全に独立しているので、
分析官の独立性が確立されています。
テロ対策プログラムが出来た時から、
FBIはこのやり方をしてきました。

しかし独立しているからといって、
分析官が、
上官や政策担当者が聞きたい結論を導きだすとは限りません。
分析官の役割は、
上層部が聞きたい結論を導き出すことではなく、
政策担当者が『知っておく必要があること』を報告することにあります。

ただ、
捜査官に従属する形の分析官が、
自分のパフォーマンスを評価する上官に分析メモを書くとなると、
分析の独立性を守ることが難しくなります。
また、
分析官は全ての情報を与えられていないという問題もあります。

とにかく、このような問題もあって、
『本来の分析』がFBIでは行われなかったことが、
根本にあった問題で、
その結果、9月11日の同時多発テロが起こってしまったのです。

『犯罪調査』主義のために、
テロ対策において先を見越して行動をすることが出来なかったFBI気質と、
海外におけるテロに気を取られ過ぎていたことなど、
様々な問題がありました。
しかし一番の問題は、
現場の捜査官が集めた情報が、
FBI全体の捜査活動に結びつかなったことです。

このような組織における問題は、
組織の官僚化を進めることでは解決されません。
以前「TIP」(Terrorism Information Program:テロ関係情報収集プログラム)
というものがありました。
アメリカ国民に、
『怪しい人物を見たら、ワシントンの本部に連絡しよう!』
と呼び掛けた計画です。

これは全く持って、馬鹿げた計画でした。
まず、『怪しい人物』なる定義が曖昧で、
寄せられた情報の処理方法もはっきりしませんでした。
『大山雷同してねずみ一匹』のように、
大騒ぎの後に膨大な情報が集まっても、
殆どが『カス』で使えるものはないのです。

また、
シークレットサービスや、複数の諜報機関を『国家安全保障省』のもとに統合しても、
問題はなくなりません。
テロ事件の発生には『周期がある』ことを覚えておいてください。

同時多発テロまでは、
アメリカ人が知っているテロ組織の定番はハマスで、
アルカイダなどだれも知りませんでした。
大都市でテロを計画する組織は、常に変わっていっているのです。

『国家安全保障省』なる巨大な官僚機構の誕生で、
FBI等の捜査機関の権限は強化されますが、
これが本当に、
テロ防止に有効に機能するのかどうか、気になります。

我々は問題の根本に立ち戻る必要があります。
つまり、
『FBIやCIAにより多くの権限が与えられていたら、
9月11日の同時多発テロが阻止出来ていたか?』
という問題です。

私は、『阻止出来ていなかった』と思います。

FBI上層部における機能不全のために、
実際に入手されていた情報が有効に使われなかったことこそが、
9月11日の同時多発テロが起こるのを許してしまった、
根本的な問題だったのです。

【9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ:元FBI特別捜査官の証言(1)


元FBI特別捜査官、
I.C. スミス氏インタビュー(1)


Q:あの日は?

あの日私はバージニアの自宅で、
コンピューターに向かって仕事をしていました。
隣の部屋でつけっぱなしになっていたテレビから
ニュース速報が聞こえたのでテレビを見に行き、
すぐに「これはテロだ!」と確信しました。

そのままテレビを見ていると、
2機目がワールドトレードセンター南棟に衝突するのを目撃し、
「テロだ!」という確信がますます強くなりました。
その後すぐに、
マスコミの知り合いからの電話が続き、コメントを求められました。




摩天楼
(photo:kazuhiko iimura)



Q:1995年のボジンカ計画と9.11テロの関連について調査取材を進めています。

『ボジンカ計画』に関することですね。
1995年の前半、私はまだFBI本部に勤務していました。
役職はセクションチーフ(部長)で、
情報分析、予算管理、捜査官の訓練を担当していました。
部長という役職と、分析担当という職務内容から、
FBIのみならず、
米国の様々な諜報機関が収集した豊富な情報に触れる機会に恵まれていました。

私が覚えているのは、
『ボジンカ計画』の捜査対象は、
1993年のWTCビル爆破テロで逮捕されたラムジ・ヨセフだということです。

フィリピンで幾つかの証拠が押収されましたが、
そのなかにはCIA本部ビルに旅客機で突入するというテロ計画がありました。
『ボジンカ計画』関連で私が受け取った情報のなかで、
一番強く記憶にのこっているのがこのことです。

私がアーカンソーに転勤を命じられた時点では、
現場の捜査官が集めた『ボジンカ計画』に関する『生のデータ』の分析は、
全く行われていませんでした。
これは途方もない失敗です。

私は、後にこの件をマスコミに話した元FBI捜査官から、
「分析はおこなわれなかった」
という話を聞いただけです。

それよりも、問題の根はもっと深いと思います。

FBIはテロ対策プログラムにおいて、
分析の役割を全く理解していませんでした。
『生のデータを集め分析する』
という分析本来の役割を全く理解していなかったのです。

捜査官達はそれぞれ『生のデータ』にアクセスし、
それに基づいて結論を導きだしましたが、
その『結論』に政府高官が同意するか否かは、また別問題でした。
しかし、捜査官が導き出す『結論』は、
常に将来における問題の発展性の有無にも触れることを義務付けられていました。
つまり、
捜査官が分析結果として導き出す『結論』は、
既に起こった問題の説明に加えて、
その問題により将来起こりうる事の予測をも加えることが、より重用視されていました。

これらは、
FBIという組織が、
テロ対策における分析の役割を全く理解していなかったことを示しています。
このことは、
私自らがテロ対策プログラムで働いた経験に基づき辿り着いた結論です。


Q:無視された「ボジンカ計画」、その理由は?

『ボジンカ計画』は重要な内容を含んでいたにも関わらず、
FBIは『実現の可能性が薄い・実行不可能』という理由で、
フォローアップ捜査を行わなかったのだと思います。
いろんな職責のFBI捜査官が『ボジンカ計画』の情報を見ましたが、
誰も計画の分析を行わなかったです。

テログループは、
大型旅客機のハイジャックは難しいとしても、
小型機を使って計画を実行する能力は備えていました。
実際ラムジ・ヨセフは準備段階として、
民間旅客機に液体爆弾を仕掛けることに成功していたことは、捜査陣も認識していました。
FBIが、
『ボジンカ計画』の持つ危険性に気付かなかった理由を説明するのは難しいのですが、
決して許されるミスでないことだけは確かです。

だたし、
FBIのローレベルの捜査官達は、
『ボジンカ計画』は非常に危険なテロ計画だと気がついていました。
過去にテロ事件を成功させているグループが関わっているテロ計画は危険なので、
十分に捜査しなければならないことを知っていたからです。

しかしFBIのハイレベルの高官や、政策担当者は、
これは大したテロ計画ではないと思っていました。
計画の持つ危険性が理解できなかったのでしょう。


Q:FBIのテロ対策プログラムの実情は?

実は1990年代の初めに、
FBIはアラブ系アメリカ人を対象に、
いわゆるアウトリーチプログラムを計画しました。
アラブ系アメリカ人とその文化的背景に対するFBIの理解を深めるだけではなく、
FBIの活動内容を理解して貰うことを通じて、
アラブ系アメリカ人に市民的自由に基づく、
基本的人権の概念等についての理解も深めてもらうことが、
このプログラムの目的でした。

ところがFBIは、
このプログラムをはじめたことで、
議会から避難されることになりました。
FBIは、誤解を解くための、
このプログラムについて説明する機会も与えられず、結局プログラムは頓挫しました。

しかし、
このプログラムによってFBI内部に興味深い状況が発生したのです。

FBIは『域外的管轄権』を持つ捜査機関です。
米国国外であっても、
特定の場合には、法権力を行使し、捜査活動に当たることが出来るのです。

もちろん相手国の許可は必要です。
当時は沢山のテロ事件がアメリカ国外で発生していました。
アフリカの米海兵隊宿舎ビルの爆破テロ、
ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破テロ、
USSコール爆破テロなど、
様々なテロがアメリカ国外で起こっていました。

そのために、
海外で起きた対米テロの解決に当たることが、
FBIの仕事になったのだと思います。

しかし、
そのうちにFBIは海外における捜査で頭が一杯になり、
捜査の対象となっているテロ組織が、
実際に海外においてテロを成功させているテロ組織が、
アメリカ国内で同じようなテロを起こすとは、
考える余裕がなくなっていきました。

1993年のWTC(ワールドトレードセンター)爆破テロは、
イスラム原理主義者グループによるものです。

アメリカ国内でテロが発生する可能性を示すサイン/情報は、
沢山集まっていました。
ただ、
それらが「テロの発生の可能性を示すサイン/情報だ」、
ということを捜査官が認識できなかったのです。

アメリカのメディアは、
CIAとFBI間の情報交換がないと書きたてていますが、
これは全くの誤りだと思います。
私はFBI時代からCIAと協力して犯罪捜査にあたって来ましたが、
つねにCIAと潤滑に情報の交換を行っていました。
つまり、
FBI本部にいるCIA捜査官や、
CIA本部にいるFBI捜査官は、
相手の情報を入手することは出来ていました。
従ってCIAとFBI間の情報交換がなかったというのは、
言い過ぎだと思います。

もちろん、
アメリカ国内や海外で起こったテロ事件の捜査段階において、
FBIやCIA、
そして国家安全保障局(NSA)などの米国諜報機関の間のコミュニケーションミスが、
捜査ミスに繋がった例があることは否定できません。
しかしミスを犯したという点では、
アメリカ以外の西欧諸国の諜報機関も同じです。

英国、フランス、ドイツ等の諜報機関も、
アフリカの米海兵隊宿舎ビルの爆破テロ、
ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破テロ、
USSコール爆破テロなど、
アメリカ国外で起こっていた様々なテロを予測し、
未然に防ぐことはできなかったのです!

これらは、
世界の諜報機関が一緒に責任を担うべき問題で、
アメリカの諜報機関だけのミスだとするのは短絡的です。

2点、コメントしたいと思います。
まずシンガポール治安当局についてです。
彼らは非常に高い捜査能力を持っているので、
自爆テロの実行犯、ハリド・アルミダーの密会シーンのビデオ撮影に成功したときいても、
私は全く驚きません。
しかし、ここからは私の推論ですが、
もし、CIAがそのビデオを入手しながら、FBIには知らせなかったとしても、
ビデオの重要性をきちんと理解していなかったからで、
故意に隠匿目的で情報をFBIに渡さなかったのではありません。

『これは単なる海外におけるテロの危険性を示すものだったから』
と、CIAは言い訳をするかもしれません。

もちろん、
海外におけるテロの危険性を示す情報であっても、
CIAはビデオを犯罪捜査機関であるFBIに見せるべきであったと私は思います
CIAは諜報機関であり、
犯罪捜査機関ではありません。
多くの人がこれをきちんと理解していないようですが。

しかし、
情報や諜報データは、
金庫の中にしまっておくだけでは何の役にもたちません。
特にに治安当局にとって使えない情報は無意味です。
私個人の意見としては、
CIAは、ビデオの情報としての価値を理解していなかったのだと思います。

ビデオが公開されなかったことは正しい判断だった思います。
シンガポール捜査当局が、
そのビデオの公開に際してどのような条件を付けたか分かりませんが、
友好国の捜査機関に渡す際に、
情報源を保護する必要も出て来ますから。

しかしその情報に基づき、
直ちに行動が起こされなかったばかりでなく、
容疑者が重要参考人リストにものせられなかったという事実は、
『恥知らず』としか言えません。
なぜこういう事が起こったかの説明できません。


Q:「フェニックスメモ」と「コリーン・ロウリーのメモ」については?

フェニックスメモと、
コリーン・ロウリーのメモを受け取りながら、
なにもしなかったことに対して、
FBIはこれからずっと責められることになるでしょう。

これはFBIの明らかな失態です。

9月11日に至るまでの一連のテロを見直してみると、
ボジンカ計画の段階から、
このテロ組織は旅客機に特別な興味を示していました。
そこに飛行機に関するミネアポリスからの情報と、
同じく飛行機に関するフェニックスからの情報が続いて入って来たのです。

その段階で、
捜査陣の誰かが、
『旅客機を使ったテロが計画されているようだ』
と気付くべきだったのです。

これに気付かなかったのは、
分析ミスがあったからに他なりません。
様々な方面から入ってくる断片的な情報をつなぎあわせ、
一つのテーマに基づいて結論を導くのが『分析』です。
情報分析がきちんとなされていたら、
しかるべき結論に辿り着いていたはずなのです。

しかし、
当時、FBIのテロ対策部には、
この情報分析能力が欠如していました。
分析担当はいたはずですが、機能していなかったのです。
このことが、
情報分析がされなかった根底にある問題だったのです。

フェニックスメモを書いた、
FBIのケネス・ウィリアムズ捜査官とは直接面識はありませんが、
大変優秀な捜査官だと聞いています。
また、
ミネアポリスからFBI本部に届いた情報は驚くべき内容で、
通常の地元のFBI捜査官からのメモとは全く異なっていました。

普通であれば、
直ちに受取手の注意をひく内容のものだったのです。
【注:"ビンラディンの信奉者が、パイロットなどの人員として、
民間航空システムに侵入しようとしている"という内容】

しかし、
FBIのテロ対策は、
長年の犯罪調査を元にしたものであったことを理解して下さい。
犯罪捜査が専門である捜査当局は、
常に、事件が起こってから行動を起こします。
このことが大きなネックになり、
本来ならば将来に起こるテロの予測に繋がった情報を見落としたのです。

「分析に余計な時間を使うな!」というのが、
事件が起こってから行動を起こすことに慣れていた
FBIのテロ対策本部の考え方だったのです。

つまり、事件の解決に力を入れるあまり、
事件を未然に防ぐ努力が手薄になっていたのです。

もちろん、
FBIは数々の事件を未然に防ぐことに成功しています。
実際、事件を未然に防ぐ専門の部があるほどですが、
成功率は芳しくありません。
とにかく、FBIは実際に起こった事件の捜査を本業と考える傾向にありました。

この意味で、テロも銀行強盗と同じ扱いだったのです。


Q:テロ対策にあっては、それは致命的なのでは?

テロ対策本部自体が、
諜報活動との兼ね合いをきちんと理解出来ずにいました。
これは、
FBI内部の諜報活動のみならず、
FBI以外の諜報機関との関係にも言えることです。

したがって、
これらの要因を全て組み合わせて行くと、
FBIの『性格』が浮かび上がって来ます。

事件を未然に防ぐ為の諜報活動を行うことを嫌うという(FBIの)性格です。
そして、その性格が致命的なミスを引き起こしました。

海外からもたらされた情報の中には、
航空機を使ったテロの可能性を示すものがありました。
フランスには、
未遂に終わったものの、
ハイジャックした民間機でエッフェル塔に衝突するというテロ計画がありました。
つまり、
飛行機を使ったテロの可能性については、
国際的に議論がなされていた訳です。

さらに、
メディアではあまりとりあげられていない、もう一つの問題がありました。


Q:メディアが取り上げなかったFBIのもう一つの問題とは?

FBI全ての捜査活動は、
カテゴリー別に優先順位がつけられています。
なぜかは分かりません。
しかし、
9月11日の事件が起こるまで、
アメリカ国内テロの方が、国際テロより優先順位が高かったと、
私は推察しています。

国内テロとは、
ティモシー・マクベイのように、
アーリアンネーションズのような極右グループによるテロのことです。

実際この種のテロに対する捜査は、
優先順位が高いとされていた時期があります。

つまり、FBIのテロ対策部門では、
国際テロ捜査は優先順位が低く、
また、
諜報活動で集めた情報の分析ではなく、
事件が起きてから現場の情報に基づき解決をはかるという
『犯罪捜査』至上主義が色濃く残っていました。

さらに、
当時、対米テロは全て海外で起こっていた為に、
「国内でテロはおこらない」
という油断が生まれていました。
これが9.11以前のFBIだったと思います。
(続く)

【9.11テロ取材ノートより】

(飯村和彦)


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2011年09月01日

再考9.11テロ:元CIAテロ対策センター上席分析官の視点


元CIAテロ対策センター上席分析官
スタンレー・ベドリントン氏インタビュー


Q:あの日は?

あの日私は在宅していて、
8時半のニュースを見ようとテレビをつけました。
そしてテロの全容をテレビの生中継で見る事になったのです。
見た瞬間は全く頭が混乱しました。
とにかく驚愕しました。
ほとんどのアメリカ人同様、
「あのような大規模なテロは絶対にアメリカ国内では起こらない」
と私も考えていたからです。

ただ長年テロの研究にあたった専門家としては、
「見事な計画に基づくテロが完璧に実行された」
と言わなければなりません。

完璧な奇襲テロでした。




Twin
(photo:kazuhiko iimura)



Q:1995年の「ボジンカ計画」とは?


『ボジンカ計画』と呼ばれる、傑出したテロ計画がありました。
『ボジンカ』とはボスニアのイスラム教徒の間で使われていた言葉で、
それをなぜ中東のテロリストが使ったのか、分かりませんが、
1995年にこの計画が発覚したのは、全くの偶然でした。

(フィリピンの)バチカン大使館から
200メートル程しか離れていないアパートで火事が発生し、
消火後、調査のためにアパートに入った警察が、
アパートの一室から、犯罪の証拠となる膨大な証拠品を発見・押収したのです。
押収品のなかには、十字架、聖書、
一週間後にマニラを訪問する予定だったローマ法皇の訪問先と
その道筋を印した市街地図、
そして聖職者の服がありました。

従って
ローマ法皇の暗殺を計画していたことは明らかでした。

ただし、
アパートの部屋からの押収品でもっと重要だったのは、
数枚のコンパクトディスクでした。

押収したCDから、
1993年のWTC(ワールドトレードセンター)ビル爆破計画や、
南東アジアから大平洋を横断しアメリカへ運行している民間航空機12機をハイジャックし、
大平洋横断空路を飛ぶために燃料を満タンに積んでいる旅客機を、
“米国のニューヨーク、シカゴ、ワシントンDCの建造物に突入させる”
という計画が明らかになりました。

もちろん、
このCDが発見されたおかげで、この計画は未遂に終わりました。

この事件で逮捕されたのが、
1993年のWTC爆破事件の主犯、アブドル・ムラドで、
彼はアメリカで裁判にかけられ、
今はアメリカで服役中です。

また、
1995年に未遂に終わった『ボジンカ計画』と
9月11日の同時多発テロ計画の両方に、
アルカイダの上級メンバーで、
ウサマ・ビンラディンの幹部でもある、
ハリド・シェイク・モハメドという男が関わっていました。


Q:ハリド・シェイク・モハメドとはどんな人物?

ハリド・シェイク・モハメドはクウェート人で、
ラムジ・ヨセフの親戚筋に当たると考えられています。

極端に人目につくことを嫌う男なので、
1995年に『ボジンカ計画』が発覚するまでは、
彼に関する情報は殆どありませんでした。
ハリド・シェイク・モハメドこそが1995年の『ボジンカ計画』の立案者で、
アルカイダのテロ活動支援のための資金調達が彼の『専門』でした。

FBIによると、ハリド・シェイク・モハメドは、
9月11日のテロ事件の計画にも関わっていたということですから、
明らかにこの2つの事件は繋がっています。

ウサマ.ビンラディンと同様、
ハリド・シェイク・モハメドも『悪事の天才』で、
優れた知性と、堅い信念を持っています。

1995年に『ボジンカ計画』が明るみになった後、FBIは、
ハリド・シェイク・モハメドを『凶悪な犯罪者』として世界中に指名手配し、
翌1996年には彼の首に2500万ドルの懸賞金をかけています。
2500万ドルという法外な懸賞金をかけたことからも、
アメリカ政府が、
いかにハリド・シェイク・モハメドを危険人物と見なしていたかが分かります。

ハリド・シェイク・モハメドは、
テロ計画と実行援助担当のウサマ・ビンラディンの側近中でも、
トップ6に入ります。
彼の役割は『金の手配』、つまりテロ活動のための資金調達係りです。
9月11日のテロの資金調達は、
ハリド・シェイク・モハメドが行ったと、FBIは信じています。

さらには、
資金調達のみならず、
新しいテロ実行犯の補充とその訓練も彼が担当していました。

元同僚の話や、報告書を読む限りでは、
自爆テロ犯グループの20名のスカウトが、
ハリド・シェイク・モハメドの第一の役割で、
その何人かの訓練にも、自ら当たりました。

自爆テロ実行犯の一人であるモハマド・アタと、
ハンブルグのアパートで1999年に会っていることも、
事件との繋がりになります。


Q:「ボジンカ計画」から9.11テロまでの道筋は?

1995年の『ボジンカ計画』は、
たまたまフィリピン警察がラムジ・ヨセフのアパートから
CDや、その他の書類を押収したために、未遂に終わりました。
つまり最初の『ボジンカ計画』に関わっていたテロリストは、
途中でその準備を止めることを余儀無くされたのです。

しかし、
米国内でテロ事件を起こすという計画そのものがなくなったのではなく、
テログループはしばらく時間を置いて、
組織を作り直し、
実行犯グループを訓練し、そして再度実行にうつりました。
その意味で2つの事件(ボジンカ計画と9.11テロ)は、
明らかに繋がっています。


Q:米国では複数の国会議員も含めて、沢山のアメリカ人が、
『9月11日の事件は諜報活動の失敗が原因だ』と発言していますが?

単なる諜報活動の失敗だけでなく、
入国管理当局のミスや、空港の安全管理におけるミス等が重なった、
いわば『システム全体におけるミス』であり、
一つの組織だけに責任を押し付けるべきではないと考えます。

もちろん今となって見れば、
事件の予兆となる事件が幾つも起こっており、
FBIや米国政府機関は、それを見のがすべきではありませんでした。

例えば、9月11日のテロが起こるわずか数カ月前に、
アメリカン航空のパイロットがローマのホテルで、
制服と身分証明書(ID)を盗まれるという事件が起こっています。

このような一見些細に見える事件の情報でも、
きちんとした分析がされていたら、
テロを予告する手がかりになっていたと思います

分析過程においてミスが発生したため、
断片的な情報をつなぎ合わせて結論を導くことが出来なかったのです。

1995年から2001年の9月11日の間には、
『ボジンカ』計画が、アメリカに場所を移して実行されることを示す
沢山の『サイン』(兆候)がありました。

しかしCIAやFBIには、毎日、
多くの『テロリストの襲撃』に関する情報が入ってきます。
正しい情報を嘘の情報からすくいあげるは、非常に大変な作業です
FBIをかばうつもりはありませんが、
FBIは膨大な『テロ関連情報』の下で、
身動きできない状態になっていたのです

高度の分析能力を持ちながらも、
どの情報を集中的にフォローアップするかという選別の段階の問題です。

捜査の失敗の原因は、
FBI捜査官の能力不足というよりも、
FBIは官僚化が進み、組織的に機能低下が起きていたためです。
このために、
現場の捜査官とFBI本部間の自由な情報の交流がありませんでした。

この問題はその後改善されましたが、
私の知る限り意図的な情報の隠匿はなく、
単純にFBI本部の度を過ぎた官僚化がネックになっていたのです。

当然、官僚化の問題はCIAにもありました。


Q:ブッシュ大統領は、
9.11テロを予見できる情報(=ライス長官の報告など)を持っていたのでは?

信ぴょう性が高く、
具体性に富んだ『テロに対する警告』は大統領に回されますが、
ライス長官の大統領に対するテロ関連の報告内容が、
どのくらい詳しいものであったかは、分かりません。

1998年2月にウサマ・ビンラディンは、
アフガニスタンの作戦基地から『ファトワ』(宗教布告)を発表し、
「アメリカ本土に対して戦争を仕掛ける」と宣言しています。
いつ、どこでという、詳細は述べられませんでしたが、
アメリカに対して、テロ攻撃を仕掛けると宣言しています。
なぜこのファトワの徹底追求がされなかったのか私には分かりませんが、
これは大きな間違いでした。

ビンラディンは、
ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件の首謀者ですから、
アメリカ政府が『過小評価』していたわけではありません。


Q:ビンラディンとはどんな男なのか?

実際、湾岸戦争の時に、
ビンラディンが世界の表舞台に登場して以来ずっと、
アメリカ政府はビンラディンとアルカイダを追い続けていました。
ビンラディンは突如砂漠の真ん中に、
ひげ面でアラブの民族服に身を包み登場したのではありません。
アフガニスタンにおける基地の建設、
またアルカイダを組織したことは、有名でした。

ビンラディンはアルカイダの創立者であり、資金の提供者でもあります。
サウジアラビアにいる彼の一族は、
自由に使える莫大な資産を持っていました。
アフガニスタンに行く前に、
ビンラディンはスーダンで道路や空港の建設にあたっていますし、
とにかく自由に使える多額の資産を持っていたのです。

「1億ドル以上」というのが、私が聞いたなかでは最高額ですが、
とにかく途方もない大金持ちです。

1979年から1989年の間に、
アフガン侵攻してきたソ連軍と戦ったムジャヒディーンに、
多額の資金援助をして、
最終的にはソ連軍を撤退させることに成功しました
ムジャヒディーンのために自分の資産を使って、
ブルドーザー、武器、そして様々な物資を調達しました。

そのために、
『イスラムの戦士・イスラムの教えを守る戦士』
としてイスラム圏中に知られるようになったのです。
しかし、ビンラディン自身は『戦士』ではありません。
彼は一度も戦闘に参加したことはないのです。
様々な過激派テロの資金援助が彼の役回りです。

テレビで、ライフルを構えている映像が流れていましたが、
「ビンラディンは一度も戦闘に参加したことはなかった」
と、アフガニスタンの彼の側近は供述しています。
彼はテロの『黒幕facilitator』(フィクサー)であり、
テロを計画し、資金を提供したのです。

彼は自分の事をアラブ語では『コントラクター』と呼んでいました。
つまり自分は『戦士』ではなく、
テロの黒幕であり、
コントラクターであると見なしているのです。

ビンラディンは自分も『戦士』であるように宣伝していますが、
これは全くの虚偽です。
宗教面においてビンラディンは大きな野望を持っていました。
ビンラディンは政治的、宗教的野望を持った男で、
彼の最終目的は、
イスラム世界の最高権威者に与えられるハリーファ、
もしくはカリフの称号を継承し、
イスラム世界を彼が信じるイスラム教の解釈に基づき、
極端なまでに戒律の厳しい社会に作り替えたいということでした。

同時多発テロの発生後、
ビンラディンは犯行声明を出し、
アルカイダによる犯行であることを認めました。
1998年の『ファトワ』(宗教布告)の件もあるし、
またケニアとタンザニアの
アメリカ大使館爆破事件の首謀者であることも分かっていました。
さらに、アフガニスタンで、
テロの実行犯養成キャンプを運営してことも分かっています。

自爆テロの実行犯の一人は、
アフガニスタンのアルカイダのキャンプで訓練を受けています。
モハマド・アタであったかもしれないが、ちょっと名前を忘れました。
彼の他にも訓練を受けた者が数人いるはずです。

諜報機関はオープンな調査と、内偵活動を通じて、
ビンラディンおよびアルカイダに関しては沢山の情報を持っていました
内偵をアルカイダの金融ネットワークに送り込み、
情報収集に当たらせたのだと思います。

同時テロ計画を事前に察知するまでには至りませんでしたが、
アルカイダのホールディング会社の存在、
そしてロンドン、ルクセンブルク、アムステルダム、
そしてカリブ諸国にあるダミー企業の存在が明らかになり、
アルカイダの金融ネットワークの仕組みの解明は進みました。

アルカイダの金融ネットワークの仕組みは、
9月11日以前にかなり分かっていましたが、
違法行為の確証がとれない限り、取り締まりが出来なかったのです。

国家安全保障局(NSA)による諜報活動は行われていたと思います。
1995年の『ボジンカ計画』発覚後、
ハリド・シェイク・モハメドが危険人物であることを
最初にアメリカ政府に知らせたのは国家安全保障局(NSA)です。


Q:CIAとFBIの関係は?

情報の交換がおこなわれていましたが、問題がありました。
FBI捜査官個人の問題ではなく、
FBI内部の官僚組織のために、FBI内でも、
ある情報が、
一つの部署から別の部署へスムーズに伝わらないという問題がありました。
情報が伝わらないというのは、重大な問題でした。

9月11日のテロについて最後に付け加えるならば、
同時多発テロはニューヨークとワシントンDCで起きましたが、
CIAは1946年に成立した国家安全保障法により、
アメリカ国内で諜報活動を行うことを禁じられているので、
同時多発テロに対する責任はありません。

しかし、

CIAはドイツの諜報機関と協力して、
事前の諜報活動を強化しておくことはできたはずです。
自爆テロ実行犯の数人は、ハンブルグに住んでいましたから。
CIAは、
ドイツの諜報機関とは密接な関係にあったにも関わらず、
事件を未然に防ぐための情報を提供することは出来ませんでした。

複数のミスが重なりました。
根本的ミスは、断片的な情報をつなぎ合わせることが出来なかったことです。
予兆、テロを警告する情報は、
すべて諜報機関に集められていましたが、
それを論理的につなぎ合わせていくことに失敗したので、
テロの予告・警告がだせなかったのです。

Q:それが最大のミスですか?

私はそう思います。

【以上、9.11テロ・取材ノートより】

(飯村和彦)

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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(4)


元CIAテロ対策本部長、
カニストラロ氏の証言。


「攻撃の目標となったWTC(ワールドトレードセンター)は、
米国経済のシンボルであり、
それを攻撃し、完全に崩壊させたことで、
アルカイダは1993年にやり遂げることがの出来なかった目的を、
やっと果たすことが出来た
のです。



KABE
(photo:kazuhiko iimura)



今では断片的な情報をつなぎ合わせ、
当時の状況を分析することが可能です。
ところが、当時、これらの情報を、
繋ぎ合わせて分析していなかったという、
明らかな証拠があります。

例えば、自爆テロ犯の一人、
ハリド・アルミダル(国防総省に衝突した旅客機に搭乗)が、
クアラルンプールで、
USSコールの爆破事件の首謀者と思われる男と密会している模様が、
マレーシアの諜報部によりビデオに撮られています。
それにも関わらず、
アルミダルはその直後にビザを取り、
アメリカにやって来ています。

つまり、
米国では殆どノーマークのテロリストだったのです。
CIAが、ハリド・アルミダルに関する情報を、
移民帰化局(INS)に報告しなかったために、
アルミダルのアメリカでの住所のチェックがなされませんでした


このような捜査当局の不手際のために、
アルカイダが残した、様々な『手がかり』が、
見逃されてしまいました」


Q:ニューヨークで行なわれたユセフに対する裁判に関する、
膨大な量の公判記録を調べたが、
その記録を見る限り、
ボジンカ計画については、ほとんど触れられていない

なぜなのか?



「ラムジ・ユセフの裁判のことですか?
裁判の時には、航空機を使った自爆テロの重要性は、
理解されていなかったと思います。
当時、検察もFBI捜査官も、
これは、
“現実味を欠くblue-sky計画”だと考えていたため、
『いろいろ言っても、実行不可能だ』
と、決めつけていました


ただ、
新型液体爆弾と手製の時限装置の仕組みには注目し、
空港のセキュリティチェックに引っかかることのない、
新型爆弾であることは認めていました。
しかし、
民間旅客機11機を同時爆破するという計画に関しては、
本気だったとは認めながらも、
実行不可能な計画だと思っていました

そのために、
航空機を使った自爆テロの意味の分析は行われなかった
のです」


Q:ホワイトハウスのライス氏は、
「ハイジャックした民間機で建造物の破壊を狙う自爆テロなど、
誰も知らなかった」

だから、
9.11同時多発テロは、まったく防ぎようが無かったと弁明している。
この発言については?


間違った発言だと思います。
状況分析が十分に出来なかった、
捜査ミスのために事件の察知ができなかった訳ですから。
9月11日の『前兆』となる、
ハイジャックした民間航空機で建造物に突入するというテロ事件は、
既に実際に計画されていた訳ですからね。

その一つが、
アルジェリア人ハイジャッカーによる、
エッフェル塔突入未遂事件です。
エッフェル塔という、
フランスの象徴的建造物を破壊する目的の、
自爆テロが未遂に終わったのは、
その数年前のことでした。

ライス長官は、
『ハイジャックした民間機で建造物の破壊を狙う自爆テロなど、
誰も知らなかった』
と言っていますが、
前例があったのですから、
捜査員は全て知っているべきだったのです。

これが政府の分析能力の欠如を示すものであるかと言えば、
もちろんその通りです。
そう言い切って構わないと思います。

ゾッとするような断片的情報は集まっています。
捕虜となったアルカイダのメンバーは、
計画されていたテロはもっとあった
と、供述しています
アルカイダの供述には、我々を撹乱することを狙った、
『嘘の供述』もありますが、真実も含まれています。
様々な供述を吟味した後、
『テロの計画はもっとあった』ことは確認されていますが、
それがいつ、どこで、
どのような形で行われるものであったかは分かっていません。

テロと戦う時に最も重要な『武器』は、
『情報』であり、『諜報』です
そのためにアメリカは、
諜報活動における情報収集能力と、
テロ組織内に潜入する能力を高める必要があります。
そして、
諜報活動で集められた情報の分析能力を向上させる必要があります

一方で米国は、安全保障対策を強化するあまり、
『愛国者法』なるものを成立させ、
警察や捜査当局の権限を拡大させてしまいました。
このことで、
『市民的自由に関する基本的人権』
が損なわれないように、十分注意をする必要があります。

民主主義国家である米国が、
テロとの戦争において、
『市民的自由に関する基本的人権』を損なうような行動すると、
民主主義の弱体化に繋がります。

国家の安全保障のためには、
個人の基本的人権を犠牲にしてもいいという考え方は危険
です。
個人の基本的人権を尊重しながら、
国家の安全保障を強化することは可能なはずです」
(9.11テロ取材ノートより)


元CIAテロ対策本部長、カニストラロ氏は、
自戒を込めて、
9.11米国同時多発テロを振り返った。
事前にあった数々の予兆、
そして具体的な事件。
それらの情報を“当たり前”に精査していれば、
もしかすると、
9.11テロは防げたかもしれない。
カニストラロ氏はそう語った。

一方、
「まったく想定外のテロだった」
というブッシュ政権の見解については、
“そんな筈はない”として、
辛らつな言葉を投げた。


(飯村和彦)


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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(3)


Q:ボジンカ計画発覚後の、
CIAやFBIの捜査における問題点は


FBIは判断ミスと、
データ分析ミスを犯しました

今になって見れば、
同時多発テロを予告する事件が、
幾つも起こっていたのです。

1993年のラムジ・ユセフによる、
WTC(ワールドトレードセンター)爆破事件が発展したものが、
2001年9月11日のテロ事件です。
1993年のWTC爆破事件は、
“2001年9月11日のテロ事件”の、一つの『予兆』でした。



ブルックリンB
(photo:kazuhiko iimura)



もっとも、『予兆』は他にもありました。

アルカイダと関係のあるアルジェリア人のテロリストが、
フランスの民間機をハイジャックし、
エッフェル塔に突入しようとした事件がありました。
幸いこれは未遂に終わりましたが、
この事件は、
『航空機で国の象徴的建造物に突入する』
という、新たなテロ計画の2例目になりました。

つまり、過去において、
アルカイダと関係のあるテロ組織の卓越した組織力を示す、
テロ未遂事件が2件も発生しており、
この2件は明らかに、
2001年9月11日のテロ事件に繋がっているのです

連邦捜査局(FBI)は、
証拠となるデータ分析でミスを犯していたので、
『何も知らなかった』と主張することは出来ます

しかし、この2つの例だけが、
“2001年9月11日のテロ事件を予告する”証拠ではありません。

押収したメモに含まれていた情報に基づき、
フェニックスのFBI捜査官は、
『フェニックス近郊の飛行学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだ』
と、提言しています。

また、FBIのミネソタ支部が、
ワシントンのFBI本部に送ったメモのなかには、
9月11日以前に逮捕された、
ザカリアス・ムサウイに関するメモがあり、
そのなかで、


多額の現金を所持し、
飛行学校の月謝も現金で払ったうえに、
飛行学校においても異常と思われる行動が多いために、
地元警察と地元のFBIから、
“不審人物”と見なされている



と、警告しています。
このメモに基づき、ミネアポリスのFBIが、
ムサウイのコンピューター通信と電話の盗聴するための、
裁判所の許可を取ろうしましたが、
『証拠不十分』という理由で、
FBI本部は、この申請を却下してしまいました。

つまり、
9.11テロを暗示する”情報は、
数多くと上がってきていたのに、
その追求がなされていなかった
のです。

FBI本部がデータ分析を過ったために、
テロ計画を事前に探知することが出来なったのです。
FBIは警察活動には優れていたものの、
当時は、
本当の意味の『情報分析能力』が欠如していました。


結果的にいえば、
『犯罪調査、諜報活動、また市民からの通報など、
様々なチャネルから入ってくる断片的情報を分析し、
関連性を見つけて、迫り来る危機を事前に探知する能力』
が、当時のFBIには欠如していたのです。


現在も分析能力は欠如していますが、
少なくともこの重要な分析能力が欠如の認識だけは、
現在のFBIには備わっており、
状況の改善に努めています」


Q:では、CIAについては?


「同じ事はCIAにも言えます。
一連のテロ活動の最終的狙いを見抜けなった点では、
CIAも同罪です


93年のWTC爆破事件、ボジンカ計画、
ラムジ・ユセフのテロ活動を支援するための資金の流れなど、
ビンラディンの義理の兄弟との繋がりに関する断片的な情報を、
CIAは入手していました。

しかし、
その関連性を見つけ、
箇々の事象の裏にある大きなテロ計画を、
探知することが出来なかったのです。

つまり、裏にある計画が、
それ以降も続いていたという事実を見逃したのです。

1998年の、
西アフリカ(ケニアとタンザニア)でのアメリカ大使館爆破事件。
そして、2000年のアメリカの駆逐艦コール号の爆破事件は、
アルカイダの手によるものであり、
回を重ねるごとに、
手口が洗練されているのが分かります。

つまりテロリスト的には、
『成功率』が増していると言えます。
そして、この一連の事件は全て、
9月11日に同時多発テロに繋がり、
そこで彼らは、大成功を収めるのです」

【つづく】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(2)



ボジンカ計画

1995年、アルカイダにより、
フィリピンのマニラで練られていたこのテロ計画は、
9.11テロと似たものだった。
その詳細とはいったいどんなものだったのか。
元CIAテロ対策本部長、カニストラロ氏は…


「狙われた民間機の多くがバンコク発でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります。
首謀者はラムジ・ユセフ
彼のコンピューターから押収した犯行計画から、
11機を爆破する予定だったことが分かっています。



飛行機エンジン
(photo:kazuhiko iimura)



このテロのために、
空港のセキュリティチェックにひっかからない新型爆弾の開発を、
ラムジ・ユセフはマニラのアジトで進めていました。
ニトログリセリンを基本にした『液体爆弾』で、
機内に持ち込んだ後、
テロリスト自身が調合して完成させる仕組みでした。

ラムジ・ユセフ自身がこの爆薬のテストを行い、
自ら機内に持ち込んだ成分をトイレで調合し、
さらに手製の自爆装置をつけて、座席の下に設置しました。
その後ラムジ・ユセフは、
旅客機がセブ島を経由した際に降機しました。

再度、旅客機がセブ島を離陸した後、
たまたまユセフの座っていたのと同じ座席に座った日本人が、
爆発により死亡しました。

これは、
新型爆弾が、
空港のセキュリティチェックに感知されることなく、
機内に持ち込めることを確認するために、
ユセフ自身が行ったテストだったのですが、
そのテストは見事に成功したのです。

彼が計画していたのは、
この新型爆弾を使った、
極東を運行する民間旅客機11機の同時爆破テロ
だったのです。

ラムジ・ユセフのアジトから押収した資料には、
その他のテロが計画させていたことを示す、
沢山のスケッチやメモが含まれていました。
後に、ラムジ・ユセフの仲間の一人を尋問したフィリピン警察から、

『ラムジ・ユセフは、
バージニア州ラングレーにある中央情報局(CIA)本部に、
航空機で突入する自爆テロを計画していた


との報告を受けました。
ただし、使用される予定だったのは、
一人乗りの小型(単発)機でした。
しかし、そうはいっても9.11に繋がる、
テロの根本的骨組』は、
既にその時、出来上がっていたのです

1995年までに、
CIA本部の攻撃や、
極東を運行する民間旅客機を狙った『自爆テロ』計画が、
出来上がっていたということになるのです。


これは、
9月11日の同時多発テロの『予兆(precursor)』だったのです!


押収したコンピューターと、
コンピューター・ディスクから取り出した大量なデータに基づき、
ラムジ・ユセフが計画していた、
テロ活動の概要が我々の知るところとなりました。
すべてのデータは暗号化されていましたが、
米国の捜査陣はその解読に成功し、
民間航空機11機を爆破する計画、
及び、
その他の計画の存在をそのとき(1995年)知ったのです。


ユセフの仲間だったアブドル・ムラドは、
ユセフの計画していたテロ活動について、
取り調べの中で多くを話しています。
その中には、
中央情報局(CIA)本部攻撃計画も含まれていました。

『なんと大胆不敵な!』、…と思いました。
少なくとも民間機11機を同時に、
もしくは同じ日に爆破するなど、
大それた計画だったからです。

膨大な組織力と、緻密な計画、
そして、
複数からなる実行部隊を必要とする、
想像を超えた計画でした。

そのために、
当時この計画を知った捜査当局は、
こんな馬鹿げた計画の実行は不可能だ
と考えたのでしょう。
捜査当局は、
ラムジ・ユセフ一味の能力を過小評価してしまったのです。

(アルカイダの?)能力を過小評価していたので、
ボジンカ計画が発覚しても、
『こいつ(ラムジ・ユセフ)はいかれている!
全く実行不可能な計画だ』
と判断して、真剣に取り合わなかったのです

けれども、ボジンカ計画は、
アメリカに対する長期テロ戦争の第一章
だったのです。

その意味で、
マニラ、ラムジ・ユセフ、ボジンカ計画、
そして、『9月11日の同時多発テロ』は繋がっています。
当時我々は、
このテロ組織の組織力を理解していませんでした。
またこのグループの強い決意と、
計画実行のための執念深さも理解していませんでした。


1993年のWTC(ワールドトレードセンター)爆破事件は、
明らかにこのテロ組織にとっては『失敗』でした。
ラムジ・ユセフ自身が裁判の中で、

WTCのビルの一つを爆破し、
崩壊の中でもう一つのビルも破壊して、
何千人もの犠牲者を出すことが目的だった


と語っています。
計画では、
爆発と同時にシアンガスが噴き出すはずでしたが、
爆発と同時に火災が発生し、失敗しました。

逮捕されたラムジ・ユセフを拘置所にヘリで護送する際、
FBIは、わざとTWCの上空を飛びました。
そして、FBI捜査官の一人が、

『見ろ、TWCはちゃんと立っているぞ』
と言った時に、ラムジ・ユセフは、
もっと資金があったら爆破に成功していた

と答えています。
つまり1993年から、
テログループはTWCの爆破を計画していたのです。
一度目は失敗したものの、
2001年に再度TWCの爆破を試み、そして成功したのです。


一連の事件を、
時間を経て進化してきたアルカイダのテロ活動
と考えるなら、
ボジンカ計画、ラムジ・ユセフ、
マニラにおけるテロ事件の延長上に、
9月11日の同時多発テロがあることが分かります」

【つづく】

(飯村和彦)


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再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(1)



9.11同時多発テロについてのブッシュ政権の反応。
それは…

「アルカイダが飛行機を幾つも乗っ取って、
それをミサイル代わりに、
世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むなんて、
誰も予想出来なかった

これはテロ発生直後の、
ライス大統領特別補佐官(当時)の公式会見でのコメント。
つまり、
ブッシュ政権の公式見解でもある。

しかし…。

その見解については、
テロ発生当時から疑問と非難の声が上がっていた。



WTC5
(photo:kazuhiko iimura)



アメリカ政府は、
アルカイダのテロ計画を、
本当に“何も”把握していなかったのか?
全てを、

「想定外」の一言で終わらせてしまっていいのか?

そんな疑問に重い口を開いてくれた人物がいた。
元CIA幹部、カニストラロ氏
彼は、90年代初頭には、
CIAテロ対策本部長としてテロ対策を指揮。
その後も米国・議会調査委員会のアドバイザーを務める、
テロ問題のエキスパートである。

カニストラロ氏への取材は、
9.11テロ発生の翌年、
彼の自宅で行なった。
ペンタゴン(国防総省)から約40分。
傾斜地を上手く利用したその家は、
森の木々と調和した、目立たない創りのものだった。

カニストラロ氏は、
淡々と穏やかに、
しかし、明確な口調で語り始めた。


「9月11日の朝は、
丁度の部屋にいた時に電話がかかってきて、
『世界貿易センタービルのタワーに旅客機が突入した』
…ことを知りました。

そして、
ABCニュースから、
『ワシントンDCにあるスタジオに来てくれ』との依頼を受け、
車でスタジオに向かっている途中、
セオドル・ルーズベルト橋に差しかかった時、
国防省のビルに旅客機が突入する瞬間を目撃しました

本当に、常軌を逸した一日でした。

交通は混乱し、渋滞で身動きがとれなくなったので、
車を捨てて、スタジオまで歩いていく羽目になりました。
それからはスタジオに缶詰めで、
やっと夜に帰宅しようとしたら、
道に乗り捨てた車がそのままになっていました。
レッカー移動されていると思っていたのですが、
違反切符なしの状態で、
道の真ん中にそのまま停まっていました」


Q:テロだと理解した、その瞬間は?


「愕然としました。
全く新しいテロでした。
オクラホマシティの連邦政府ビル爆破事件を除けば、
これまでアメリカで起きたテロ事件は、小規模なものでした。
このような大規模で破壊力の大きいテロは、
アメリカでは全く初めてでした。

世界的にも全く前例のない、
大規模な自爆テロ』だったと思います。

自爆テロは今までにもありましたが、
合計19名ものテロリストによる自爆テロが、
同時多発的に敢行されたのは初めてです」


Q:しかし、ここ数年、
テロ組織の活動が活発になっていたのでは?


「既に政治絡みの様々な凶悪事件が発生していましたから、
アメリカでもテロ事件が起こるという予感はありました。
事件の3日前に、
『これからテロ事件が増加する』という予測記事を、
ワシントンポスト紙に発表したばかりでした

しかし、
アメリカ国内で、旅客機4機を使うような、
大規模テロが起こるとは、想像していませんでした」


Q:アルカイダは、過去(1995年)に、
9.11テロと似た、航空機を使ったテロ計画を作成していました。
これについてはアメリカ政府も承知していたのでは?


ラムジ・ユセフが計画したボジンカ計画
のことですね。

1993年に世界貿易ビルで最初のテロ事件が起こった時、
その首謀者がラムジ・ユセフです。
世界貿易センタービルに爆弾を仕掛けたグループを組織し、
爆弾の設置場所も彼が決めました。
ただ計画実行の前日に、
ユセフはアメリカから出国しています。

彼を逮捕するために、
大規模な捜査が何年も続きました。
その後フィリピンに渡ったユセフは、
組織のセルを作り、
複数のテロを計画しています。
その一つが、1995年
ローマ法皇をマニラ訪問中に暗殺するという計画でした。

ラムジ・ユセフは,
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで、
極東を運行するアメリカの民間機を含む、
民間機数機の同時爆破テロを計画
していたのです。
それが、"ボジンカ計画"でした」

【つづく】

(飯村和彦)


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2011年02月07日

ひど過ぎるアメリカ「銃犯罪」



またアメリカで「銃」による乱射事件である。
6日。オハイオ州の州立ヤングズタウン大学の近くにある
学生寮で銃乱射事件があり、
学生1人が死亡、学生6人を含む11人が負傷したという。

今年1月には、アリゾナ州トゥーソンで男が銃を乱射し、
連邦判事と9歳の少女を含む6人が死亡、12人が負傷したばかり。
この事件では、
同州選出のギフォーズ下院議員が頭に銃弾を受け、重体になった。

「1日に約40人が射殺され、
3分に1人が銃で傷ついている。
それがアメリカの姿だ」

これは1993年のアメリカ。
しかし、そんな状況が「改善」されたという話は聞かない。
1999年には、13人の犠牲者をだしだ
コロンバイン高校乱射事件も発生。
銃による凶悪な犯罪は今日にいたるまで、まったく減っていない。



ガン



「誰も自分を守ってはくれない。
だから、自分の命は自分で守るしかないんだ。
銃? 当たり前さ…。
だってみんなが銃を持っているから。
撃たれる前に撃つ、
それがこの国の正当防衛なのさ」


5ドルの金、踏まれたスニーカー…
そんな些細な理由でも人が殺されいく。


「拳のケンカ? 冗談じゃないぜ。
そりゃ昔の話だ。
そんな事してたらアッという間に後ろから撃たれてお陀仏さ。
殺られる前に殺る、それには銃が必要って事さ」

かつて、
ロサンゼルスの少年ギャングの取材をしたとき、
少年たちは、そういってうそぶいた。

銃社会アメリカ。
その数は、2億丁以上といわれている。
この数字には警察や軍隊が持っている銃は含まれていない。

まずは、歴史的な背景を確認しよう。

開拓時代のGun 所持者は、主に裕福な人たちだった。
彼らは自分の土地や財産を他の侵入者や盗賊から守るため、
Gun(ほとんどがライフル) を買った。
なぜなら、この時代の警察システムは、
田舎の広大な地にあっては往々にして無力であったからだ。
南部アメリカに於いては、
現在でもこれと似た考えを持つ人たちが多い。

また、アメリカの政治的伝統にあっては、
銃を持つ事は、
自己を防衛していく上でのごく自然な権利であると考えられてきた。
多くのアメリカ人は市民が武器を持つ事が、
政府の圧政から自分たちを守っていく基本であると考えている。

市民戦争に於いて、
民主主義の名のもと、
市民が武器を持って政府に立ち向かった精神からきている。

しかし、
時代と共にアメリカ国民が銃を買う理由、
及びその種類も変わってきている。

連邦政府のデータによると、
1950年代後半に於いては、
そのほとんどが狩猟目的のライフルやショットガンで、
ハンドガンの割合は、
当時の年間売上 200万丁の約5分の1に過ぎなかった。

全米で犯罪が多発し、
各地で暴動や暗殺事件が発生するようになった1960年代になると、
銃の売上も急上昇し、1966年には 300万丁。

Martin Luther King、Robert F. Kennedy が暗殺された、
1968年には 500万丁に達した。
この銃の売上増加の原因が、
ハンドガンの割合の増加にあった事は言うまでもない。

50年代末、その数が50万丁であったハンドガンが、
70年代初頭には年間 200万丁にまで膨れあがった。
現在では、
アメリカ国内で買われている銃の二つに一つは、
ハンドガンという事になっている。

手軽に扱える銃が、
全米に溢れているということだ。



ガン2



1990年代になると、
少年たちの好むGunも小さい型のものになっていった。
『nines』と呼ばれる、
9mmのセミオートマチック銃が人気の的だった。

少年たちに言わせれば、
Tシャツの下でも目立たないこの“nines ”は、
夏用の銃として最適なのだそうだ。
おまけにとっても性能がいいらしい。

だが当然、その分値段も高く、
ストリートでは高値で売買されている。
よって、こんなGunを手にしているのは、
少年たちの中でも『crew』と呼ばれる麻薬や銃のディーラーや、
脅し・恐喝・殺人で金を得ている少年ギャングたち。

真新しいスニーカーを履き、
BMWを乗り回し、
金のネックレスやブレスレットを輝かせ灰色の街を闊歩する。

彼らは、普通の(?) 少年たちの憧れの的だ。
だから、『crew』のメンバーではない少年たちも、
Gunを持ち始めるようになる。

「何でGunが必要かって? 
そりゃ他の連中がみんな持ってるからさ。
格好いいし、強くなった気分になる。
それに、いざという時、
殺られる前に自分を守るにはGunしかない」

これが少年たちのごく普通の反応だ。
『crew』のメンバーにしてみれば、
Gunは簡単に金を稼ぐ最高の道具であり、
ケンカや抗争にあっては不可欠な武器だ。

一方、『crew』のメンバーではない少年たちにとっては、
Gunはファッションであり、
架空の力を他人に保持する為の道具でもある。

彼らは、crewの真似をして、
自分が、
『down』( “格好いい”の意味)な人間になった錯覚を楽しみ、
時には銃を見せびらかせて、
さもcrewのメンバーであるかのように振舞ったり。

「もし俺に何かしたら、
俺のバックにいるメンバーが黙っちゃいないゾ!」
という風に…。
これも自分の命を守っていく一つの方法だ。

『crew』のメンバーになる為には、
“人前で見ず知らずの人間を撃つ事”が条件である。
すると、「奴は本当にイッちまってる!」という、
『rep』(=reputation:評判の略。
殺人や強盗・麻薬などを評価する時に使われる)
が得られ、crewのメンバーになれるのだという。


では、連中は、どうやって銃を手にするのか。


一つが銃規制の緩やかな州から街に持ち込まれた銃を、
ディーラーを通してStreetで買う方法。
人気の9mm semiautomatic から
Saturday Night Special(小型で少年が最初に手にするような銃) 、
T字型の MET Machingun や 、
AK-47 のような大型の銃までなんでも揃う。

もう一つが、
殺されたり、逮捕された仲間が持っていた銃を回してもらう方法。
こちらも、その種類と量には事欠かない。

これらのGunは、
新品から中古まで様々な値段で売られているが、
基本的に、
何人もの人を殺しているGunは安い。
何故ならその銃を持っていて逮捕された場合、
前の持ち主の殺人まで一緒についてくる事になるからだ。

「Gunはユニホームになっている。
野球をしていた時グローブが必要だったように、
今の彼らにはピストルが必要な訳だ」

これは、ロスで取材したあるGunプログラムのカウンセラーの言葉だ。
「彼らの世界では、スニーカーを踏んだだけで、
すぐに銃でパンパンパンという事になってしまう」

“口は災いのもと”という言葉があるが、
彼らの間では口はすぐ Gun Shot に繋がる。
相手への罵詈雑言のことを彼らの言葉では『Beef』と呼ぶが、
この『Beef』がすぐに、
「Yo! whachoo doin',Pow Pow Pow …」という事になり、
ゴロリと死体が地面に転がる。

ファッションで銃を持ち、
ラップを聴きながら、
ビルの屋上でネズミを撃って遊んでいるような少年でも、
こういい放す。

「俺は今まで人に銃を向けた事は無いし、
これから先も向けようとは思わない。
でも、誰かが俺に銃を向けてきたら、
俺は撃つ。
もしそうなったら、
俺の人生がみんな変っちまうだろうから、
考えたくは無いが…」と。

けれども、
こんな少年でも、
実際に銃を人に向けるようになるまでに、
そう時間はかからない。



スクーター


 
1968年、
ロバート・ケネディはこう演説した。

「現在のアメリカが抱えてる最大の問題は、
溢れるGun とそれによる犯罪だ」

しかし、
彼は、この演説の翌日に暗殺された。
あれから43年。
銃社会アメリカは、
いまだに、思考停止状態にあるようだ。


(飯村和彦)

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2011年01月15日

阪神淡路大震災から16年・「炎の教訓、否定された空中消火」


16年前(1995年)の1月17日。
地震発生直後、
火の手は、神戸市内だけで少なくとも58ケ所から上がった。
焼失面積、およそ64万平方メートル。
甲子園球場のおよそ16倍の広さが焼きつくされた。

長田区。
古くからの木造家屋が多いこの一帯では、区の面積のおよそ4%、
4000棟にも及ぶ家が灰になった。
地震発生直後に発生した13件の火災は、
全て自然鎮火を待つしかなかった。
つまり、消防の力はあの炎に及ばなかったことになる。

震災から一年が経過したときに訪れた御蔵地区。
道を覆っていた倒壊した家屋のガレキはすっか片付けられ、
焼け跡にはプレハブ住宅が立ち並んでいたが、
街の至る所に、大災害の爪痕が残り、
そこに住む人達の心の傷を静かに物語っていた。

地震発生直後、瓦礫の中から免許証を探していた生田さん夫婦は、
一年後、長田から車で約30分の所にあった、
北区ひよどり台の仮設住宅に住んでいた。
ご主人は家具の運送業をしているが、震災後、仕事はめっきり減ったという。
少しでも家計の足しになればと、
妻のたま代さんは、数か月前から靴飾りの内職を始めた。

「(腕時計は)11時10分で止ってる。
あの時掘ったもの。それとお金。孫が来ると見せてあげる。
子供の頃の写真も、孫の写真もみんな燃えてしまって何も残って無い。
取り返しのつかないものですからね」(生田さん)
    
借家ではあったが、
34年間住んでいた家は、もう無い。

「家がないのに、
ガス管から炎が出ているのを見て辛かったです。
(消防が)もう少し早く消してくれれば、
あんなに燃え広がらなかったかも」(生田さん)

長田で、ケミカルシューズの裁断業を営む岩間さん夫婦。
震災の3年前に作った自宅兼工場は火事で全焼。
焼け爛れたコンクリートの外枠と鉄骨だけが残った。

「消防署、目と鼻の先や。来ても何も出来へん。」(夫)
「火が家に来るまでには消してくれると思ってた。
消防車1台。来ても水がないといって座って見てるだけ」(妻)

岩間さんによると、
ビルに火の手が回ったのは地震発生からおよそ30分後。
電信柱をつたって3階の窓から燃え移ったと言う。
こつこつと夫婦で築き上げた財産は思い出と共に消え、
後には1億近い借金だけが残った。

「近所でも多くの人が焼け死んだ。
消防車が来ても役に立たないんじゃどうしようもない。
もっとほかの方法があったと思うよ。
水がなかったとうだけじゃなく」



長田地区地図
(資料:神戸大学)



長田区内で最も焼失面積が広かったのは水笠公園周辺。
地震で倒壊した家の下敷きになった老夫婦を、
住民が救助している間に火災が発生したという。

「奥さんは出されたがご主人が…。
最後は諦めて、生きたまま(火災で)焼かれた」(近所の住民)

出火原因は、明かりに使ったローソクに、
漏れていたガスが引火したのではと考えられている。

「最初火がでたときはこんなに燃え広がるとは思わなかった。
 ぐるっと回るように火が広がった」(近所の住民)

震災直後から住民への丹念な聞き取り調査を行い、
その目撃証言を元に火災の延焼速度を割り出した、
神戸大学の室崎教授は、
長田での火事の燃え広がり方に以下のように説明した。

「延焼速度は非常に遅かった」(神戸大:室崎教授)

延焼速度が遅かった理由は、風速が2から6メートルと弱かった事。
木造家屋の多くが倒壊して、
いわゆる「破壊消防」の役割を果たした事などを上げている。
このことは、本来ならば消火活動にも有利に働いたわけだが、
残念ながらそうはならなかった。
では、なぜ大火災になってしまったのか。

神戸市消防の部長(当時)は…
「水がとれなかった。消火栓の水がとれなかった。
川の水、海の水も、消火用ホースは車に踏まれて破裂した」

さらに、こんな理由も浮かんできた。

「無線が繋がらなかった」(神戸市消防局)
「ホースの繋ごうとしても、繋ぐのに必要な金具の種類が違った」
(大阪市消防局)
「消火栓を開けるスピンドルの規格違い、消火栓を開けなかった」
(東京消防庁)



消火金具各種
(資料 photo: kazuhiko iimura)



つまり、ホース結合金具の方式が消防局によって違っていたので、
消火活動に多大な支障をきたしていたのだ。
ほかの地域から神戸に応援に入った消防による消化活動が、
現場で遅々として進まなかったのはそのためである。


その間、炎はゆっくりと長田の街を舐め尽くす。


そんな中、
東京消防庁のヘリが空中消火の準備をして18日未明、神戸に飛んだ。
ところが…である。
現場に着いた東京消防庁のヘリコプターからは、
一滴の水も長田の街には落とされなかった。
いったい何があったのか?

一方、自衛隊の方は当時、どのような体制をとっていたのだろうか。

そこでクローズアップされたのが一枚の地図。
バウンダリーと呼ばれるその地図は、
陸上自衛隊中部方面航空隊が描いたもので、
長田区の火災に対して、
どこにどのような方法で「空中消火」を行うかを示したものだった。
当時の現場責任者は以下のように説明する。
   
「17日の夕方だったか、
当時の総監、師団長から市内の火事が大きくなっている、
何とかならんか、可能性を検討しろ。
…ということで、(空中消火の)検討にはいった。
要請があれば、翌朝からでもと考え(空中消火の)準備をしていた」

当時、彼は中部方面隊でその指揮をとっていた。
空中消火に使えるヘリコプターは最大で15機。
自衛隊では、木造家屋を中心に5分以内の間隔で、
風上から連続的に水を撒いていく計画を立てていたという。

「技術的に可能かどうかも検討した。
それまでに実績も持っていた。
何としても命を救いたいという観点で準備した」

ヘリポートとして自衛隊が選んでいたのが須磨海岸。
そこで取水し、長田地区まで、
ヘリコプターが、水を入れたバケットを吊るして飛んでいく。
20キロの低速で飛んでも約4分で、長田の火災現場に到着できた。

こうして自衛隊による空中消火の準備は整った。
ところが…である。
陸上自衛隊による空中消火も行われなかったのだ。

東京消防庁のヘリによる空中消火も、
自衛隊のヘリによる空中消火も、
現実には一切、行われなかった。

ではどうして一滴の水も空から撒かれなかったのか。
なぜ、空中消火は行われなかったのだろうか。

自衛隊側から入手した、
自衛隊と兵庫県との間の空中消火に関する交信記録によると、

17日、17時40分。自衛隊は、兵庫県に空中消火実施の有無を確認する。
17日、20時。兵庫県の担当者から、「空中消火は考えていない」との情報を得る。
しかしその後、
17日、22時。「兵庫県は、明日午前7時に決心する」との回答を得る。
これを受けて自衛隊は、
空中消火の可能性があることを予想し、準備を開始した。

18日。午前7時を過ぎても兵庫県から回答なし。
確認したところ、
18日10時に決心を延期したとのこと。
18日10時過ぎ、自衛隊が兵庫県に再確認したところ、
「空中消火は実施しない」との回答を得る。
その理由については、不明。

この経緯について兵庫県側の当時の担当者に確認を求めた所、
交信記録は自衛隊のものと概ね同じだった。
県の担当課長は、自衛隊から確認が入る度に、
神戸市消防局の消防指令課にその旨を伝え、
現場に判断を求めていたと語った。
二度に渡る決定の延期は、神戸市によってなされていた。


18日の午前9時10分。
空中消火は神戸市消防によって「必要なし」と判断された。
「火災はすでに鎮火に向かっている」というのが理由だった。


しかし、ここで注目すべきは、
神戸市消防局は、
空中消火について、
自衛隊から兵庫県から打診があったのは「18日の朝7時」だとしている点。
「17日の17時40分」だったとした兵庫県、及び自衛隊の記録より、
11時間も遅い時刻となっている。

一つの事実に対して、
それぞれの機関の回答が一致していないという現実をどう受け止めるべきか。
いずれかの機関が、自分の組織に都合がいいように事実を曲げている。
そう思われても仕方ないだろう。


一方、現場に到着しても一滴の水も撒かなかった東京消防庁のヘリ。
そもそもこの東京消防庁のヘリは、
どんな経緯で空中消火の準備をして神戸に飛んだのだろうか。

「18日の午前3時頃、
神戸にいた支援隊長から(ヘリを)持ってこいとの連絡があったので
夜明けを待って飛んだ」(東京消防庁)
    
しかし、現実には空中消火は行われなかった。
なぜ、否定されたのか。
なぜ、一滴の水も空から撒かれなかったのか。
その理由について神戸市消防局の担当責任者は以下のように説明した。


「効果がないという実験データの他に、感覚的に出来ないと判断した」


さらに、
空中消火の準備を整えていた自衛隊の支援を断った理由を尋ねると、
自衛隊がどんな準備をしていたのか承知していないとした上で、
「自衛隊に、市街地火災に対する空中消火の実績があるのか」
「前例はあるのか」
として、その消火効果にも疑問を呈した。

日本の消防関係者が、空中消火を否定した根拠の一つが、
1970年代に行われた研究実験報告だった。
報告では、ヘリコプターが耐えられる温度の限界を50度とし、
その温度を避けるには、
飛行高度は少なくとも100m 以上は確保すべきだとした。
そして、その100メートルの高度から水を撒いても効果はないとして、
空中消火に否定的な見解を示している。


結局、空中消火は出来たのか出来なかったのか。
出来るのか出来ないのか。
この論議は当時、国会にも持ち込まれ多くの議論がなされた。

否定的な意見が多い中、
東京都職員研修所の調査研究室が、
米国・ノースリッジ地震の際、空中消火が威力を発揮したとの報告書を和訳。
日本の公の機関としては始めて、
“ヘリによる市街地への空中消火は効果的である”という見解を示した。

「教訓に出来るものは全て学び、
判断が変えられるものは変える事が必要。その議論をすべき」(調査研究室)

にもかかわらず、
日本の消防行政を担当する「自治省消防庁」の反応は酷かった。

相変わらず1970年代に行われた時代遅れの実験データを持ち出しては、
「空中消火は効果がない」「前例がない」と回答。
空中消火によって家屋の火が消える事実が、
ニュース映像でも証明されているノースリッジ地震の例については、
「映像を見ていない」として、見解を変えようとはしなかった。


阪神淡路大震災において、日本の消防当局が、
空中消火を否定したを理由を整理すると以下のようになる。

「水の水圧で家がこわれる」
「屋根が邪魔して消火効果がない」
「化学消火剤は有毒ガス発生/酸欠を起こす」
「ヘリコプターのローターが火勢を強めて逆効果」

そして、
「世界的にも前例がない」という理由だった。

もちろん既に記述した通り、
阪神淡路大震災の1年前に発生したノースリッジ地震では、
ロサンゼルス市消防局によって建物に対する空中消火が行われ、
見事、初期消火に成功していた。

では、
ノースリッジ地震の際に実施された空中消火とはどんなものだったのか。

1994年1月17日。
1ロサンゼルス市をマグニチュード6.8の大地震が襲った。
午前4時31分。破裂したガス・パイプラインから100ケ所以上の火災が発生。
主要幹線道路は寸断され、水道管も破裂。
市内90%以上の消火栓も使用不能となった。

その時、ロスの消防はどう対応したのか

「市内の消火栓と給水本管が壊れたと無線で聞いたので、
水があっても消防車では問題があった。
その情報に基づいて空からの消火を決めた」(ロス消防局)




消火ヘリ
(LAFD資料)



ロス消防局の報告書によれば、地震発生から24時間で、
モービルハウスの他、集合住宅などの建物に対する空中消火は、
延べ45.7時間行われ、
57トンの水を投下している。

空中消火に踏み切った理由を、
ロサンゼルス消防局は以下のように説明している。

火災現場には、数多くの火の手が上がっていたが消防隊の姿はなかった。
被害が大きい地区では給水施設が壊れていた。
給水のための水は、
航空隊のヘリスポットや消防艇を利用すれば確保できる状況だったので、
通常の活動手続きではなかったが、空中消火をすべきだと感じた。
  
「ヘリで飛ぶのも状況として危険なこともありますが、
市民が私達を必要としますから。
そして、火災によってはヘリでしか消火できないものもあるのです。
だから、私達がそれをやるのです」(空中消火にあたったロス消防隊員)

ノースリッジ地震では、
ヘリコプターによる空中消火が初期消火において大きな役割を果たし、
地震発生当日の午前10時までには、
最初の地震によって引き起こされた火災は全て消火された。

日本では、
その効果や地上の人間に対する影響などの点で否定的な意見が多い。

実際に空中消火の任務にあたっているロサンゼルス消防局に協力を求め、
ヘリコプターによる空中消火の実験を行い、
日本の消防関係者が空中消火を否定した、
それぞれの理由について検証してみた。

まず、「世界的にも、市街地火災での前例はない」
という日本の消防関係者の発言。
これについてはノースリッジ地震の例を見れば、
研究不足であったことがわかる。

「消火効果は期待できない」という理由については?
日本の消防関係者は、空中消火を行う場合、
ホバリングという空中に停止した状態で、
最低でも高度90メートルを確保しながら投下する必要があるので、
地上では水が飛散してしまい効果がないとした。

これに対して、ロサンゼルスの担当者は、
「通常は40から50ノットで飛びながら水を投下する。
高度は75から100フィート(約30メートル)くらい。
勿論、風によって速度や高度を少し下げることもある。
水が飛散する原因になるから」

水の投下で圧死者や家屋倒壊の危険がある、との日本消防の指摘については、
「正しくやれば、水を撒いてもだれにも危害を加えない」(ロス担当者)

下向きの風が火勢を強める、との指摘に対しては、
「ダウンウォッシュは問題にならない。
およそ15メートルで落としても、低速で飛びながら水を落とせば、
下向きの風は後方に流れ、火災を煽る危険性は少ない」(ロス担当者)

では、阪神大震災で発生した火災に対して
空中消火は有効だったのだろうか。
ロス市消防局の担当者に、阪神大震災時の火災状況をどう判断し、
どのような消火活動が考えられるのかを聞いてみた。

(長田区の火災映像を見ながら)
この状況で空中消火の可能性はどうか?

「出来ることは、広がって行こうとしている火を消すこと。
燃えている建物の火の手を消すのは難しいかもしれないが、
周りへの延焼を防ぐことは可能だと思う」

「このような場合は、火災の場所を一点決めて消火活動を行う。
だから、低いところからゆっくり水を落とすことになる。
高度は40メートル程だろう」

(Q)下からの熱も大変注意しなければいけない問題だと思うが?
「勿論、熱には注意する。しかし、一般的に熱や灰があっても、
ヘリは、かなり早く出入りが出来るのでさほど問題にはならない」

緊急時に対応するには、市が独自にヘリを持ち、
それを災害時に運用する計画を備えている点が重要になる。
ロサンゼルス市が保有するヘリコプターの85%は、
いつでも出動できるように保守点検が行われている。
  
「1972年の地震の時、
ヘリを格納庫の中に入れておいたら、扉が潰れて使えなくなった。
その経験から常時ヘリを外に置くようにしている。
コストは20%高くなったが、ヘリを有効に稼働させる事を考えれば、
その20%は価値あるものです」(保守担当者)




ヘリ基地
(LAFD資料)



では、緊急時の情報収拾についてはどうか。
ロサンゼルス市の地震報告書によれば、
ノースリッジ地震の発生のわずか4分後の午前4時35分には、
警察と消防局によって緊急対策本部の活動が開始された。

「地震の直後、3分後には準備が出来た」
「フライト・デッキに出るとすぐにヘリコプターに飛び乗り直ちに出動した」
「すぐに被害状況を集められるのは私達だけだったからだ」(ロス市警パイロット)

指示を受けたロス市警の3機のヘリは、
常備している空中損害評価手続きに基づき、
互いに連絡を取りあいながら、
約100ケ所のチェックを20分程で完了している。

この空中損害評価手続きには、
優先順位に添ってチエックポイントが明記されており、
その第1位にはダムや高速道路、
輸血センターや危険物貯蔵タンクなどが上げられている。

地震発生から6分後には、ロサンゼルス消防局のヘリも飛び立った。
「深刻な地震の時は、パイロットの他に、
被害状況の評価を下す管理者が必要になってくる。
何をどう配備するかなど、判断すべき事が沢山ある。
だから私たちは、
管理者を一緒に連れていくシステム」(消防指令センター担当者)

またロスの場合、地震が発生したとき、
大きな被害を受けそうな地域を的確に掴むため、
人口密度やパイプラインの敷設状況、
過去の地震データや病院、消防署の位置など、
必要な全ての情報が、重ね合わせながら使える様に整理、集中されている。

サンフランシスコにある危機管理会社のベンディメラド氏は、
阪神淡路大震災発生直後から被災地を歩き、
長田区の大規模火災の現場や寸断されたライフラインの状況、
避難所などを訪れ、その調査を行った。
さらに、阪神淡路大震災で得たデータを分析し、
関東大震災級の地震が今、東京を襲った場合を想定。
その人的被害を死者3万から6万人。負傷者は8万から10万万人とした。

「トップの決断だけによって、緊急事態をこなしていくことは出来ない。
決断は現場の、内容が分かっている人が行うべき。
グループの任務をはっきりさせる。そのレベルで行動する権限を与え、
その部分の処理は任せる」(ベンディメラド氏)

この危機管理の考え方は、ノースリッジ地震の後に生み出されたと言う。
研究所の責任者で、スタンフォード大客員教授のシャー氏は、

「技術だけでは人間は助からない。
次の地震の被害を押さえるためには、技術を理解し、
アイディアを繋げ、それぞれの努力をコーディネイトする事が必要。
全ての知識、情報、コミュニケーションは一つの司令部から出るようにする。
(日本の様に)5つにも6つにも50にも分かれていてはいけない」

ロスの場合、危機管理に全責任を持つのが緊急対策機構。
最高責任者は市長が務め、
この組織に配置された警察や消防などの13の部局が、
緊急対策本部を構成する。
それぞれの部局には、公募で採用した、
経験豊かな危機管理専門のコーディネーターが置かれている。

「大地震や台風などが発生した場合、
その被害を最小限に押さえるためのポイントは、
いかに速く被災地が必要としている資機材を現場に持ち込めるか、
その能力である」(ロス市危機管理室)




震災2
(photo:kazuhiko iimura)



阪神淡路大震災から16年。
あの日、日本が味わった苦い経験。
失った多くの尊い命。
流した多くの涙。
私たちは、あの日の出来事を今、どう捉えているのだろう。
教訓にすべきものは教訓として、
あの日以降、これまでの年月に生かされているのだろうか。
改めて、深く真摯に向き合ってみたい。
「想定外」という言葉に惑わされないために…



(飯村和彦)

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2010年02月22日

松坂大輔 18歳の頃



横浜高校3年、松坂大輔。
当時、彼は「平成の怪物投手」と呼ばれていた。
そんな松坂の取材を始めたのは、
「怪物」の高校生活も終わりに近づいた、
2月末のこと。

「怪物といわれているが、
自分ではどこが凄いと思う?」

そんな質問に対して、
刹那、戸惑った表情を見せた松坂だったが、
すぐに、明快な答えを口にした。

「うーん、何だろう…。
みんなと違うとは感じていた。
(例えば?)…負けないこと!」



ボール2



その年の夏の甲子園。
延長 17回に及んだPL学園との戦いを、
250球の熱投で制した松坂は、
準決勝も勝ち進み、
8月23日、
甲子園、春夏連破をかけた京都成章戦に臨んだ。

連投の疲れも見せず、
松坂は三振の山を築いていった。
そして迎えた9回2アウト。
27個目のアウトは、狙いすました三振だった。
59年ぶりの、決勝戦ノーヒットノーラン。
以降、松坂は、
「平成の怪物投手」として、
メディアの注目を一身に浴びるようになっていく。

卒業の日。
松坂は3年間の高校生活について、
幾分、頬を赤らめながら語った。

「3年間、男だけの生活をして、色々と体験できた。
(どんな体験?)
それはちょっと喋れないので…」

それは、18歳の青年の言葉だった。
ところが野球の話になると、
松坂の口調は一転、自信に満ちたものへと変化する。

「(プロ初球は?)…まっすぐ」
「(戦いたい選手は?)
…イチローさんを力でねじ伏せたい」

“プロに入るからには、記録にはこだわりたい”
そんな松坂は、
西武への入団が決まった直後には、
“二桁勝って新人王を獲る”と明言していた。

「(新人王の他、一年目の目標は?)
獲れるタイトルは沢山あるので、
出来るだけ多く獲りたい。
(例えば?)…最多勝とか、最優秀防御率賞とか」

爪入りの学生服を着た松坂は、
いとも簡単にいってのけた。
彼が、「平成の怪物投手」といわれる所以。
それは、他人のためではなく、
自分自身のために高い目標を設定し、
それを実現していく強さだった。

「少年の頃は、どんな子だった?」
「太っている時は、若の花に似ていると言われました」

若の花似の少年が、
「怪物」になった瞬間はいつなのか。
はっきりした答えは出ないと知りつつも、
以後、
何人もの“松坂関係者”にインタビューをしていった。

小倉清一郎、横浜高校野球部・部長。
松坂の資質を誰よりも早く認め、育て上げた人物である。
小倉氏が初めて松坂を見たのは、
彼が中学1年の時だった。

「堂々としていて、
振りかぶった時の雰囲気が、非常に格好いい。
それが第一印象でした」

特に小倉氏が注目したのは、松坂の背筋力。
振りかぶった時に背スジがピーンと伸び、
胸を大きく張って腕を振り下ろす投球ホーム。
それは、背筋が強くなければ出来ないものだった。

中学時代、
松坂は、全国でも有数の少年野球チームに所属していた。
当時の松坂はリーダー格ではなく、
“リーダーのグループにくっついて行く”タイプの少年。
だが、野球に関しては、
誰もが一目を置く存在だったという。

少年野球チームの監督だった大枝茂明氏は、
当時の松坂少年の意外な側面を、
冗談交じりに懐古した。

「言ってやらせないと出来ないんです。
普段、何も言わないと手抜きをするんですよ(笑)。
それで、怒って注意すると出来ちゃう。
それが素晴らしい天性のセンスなんです」

この松坂のセンスについては、
横浜高校で松坂の指導にあたった小倉部長も、
似た見方をしていた。

「どんどん、どんどん、
やればやるほど、力が身について行くんだなと。
それが、松坂の素質だった」

やればやるほど力が身に付く…。
横浜高校に進んだ松坂は、
来る日も来る日も小倉氏の激しいノックを受け、
そして、それに耐えた。

しかし、身体能力や技術の高さだけでは、
松坂を説明できない。そこには、
“自分の原点になった”と松坂自身が回想する、
ある大きな出来事があった。

それは、横浜高校2年のとき。
松坂はエースとして、
夏の甲子園・神奈川県大会、
準決勝のマウンドに立っていた。

悪夢が訪れたのは9回裏。
同点に追いつかれた後の1アウト1,3塁の場面だった。
「スクイズを外そうと思った」という、
この日134球目のボールが、
捕手・小山のミットをはじいて、
バックネットへと転がった。

「心に余裕がなくて、二年生でしたから。
もうただ、すぐアウトを取りに行きたくなって…」
これは、小山良男捕手の言葉だ。

痛恨のサヨナラ暴投。
試合後、松坂はベンチの中で泣き崩れた。

しかし、その悔し涙が松坂を変えた。
この日の屈辱が、
高い目標を求めて野球に取り組むという、
松坂の原点になっている。

当時を振り返りながら、
横浜高校の渡辺元智監督は指摘した。

「あれで確かな目標を立てることが出来るようになった。
それが大きな要素だと思います。
そしてそれが、松坂大輔自身の信念に変った」

松坂の信念。
プロ野球選手として初めてキャンプに参加する前日、
ふとした拍子に、松坂はこんな言葉をはいた。

「(いつも思っていることは?)
自分が一番うまいと思って、練習はやっています」

プロとは人に夢を与える仕事。
その最高の舞台がプロ野球だと松坂は話していた。

「(プロ初登板は緊張すると思う?)
その時になってみないと分かりません。
甲子園の時も、周りの人は、
マウンドに立ったら緊張するといっていましたが、
全然なかったので…」

多くの人に注目されればされるほど、
力が沸いてくる。
18歳の松坂はそんな言葉も口にしていた。
現在、松坂の舞台は、
彼の望んでいたメジャー・リーグへと変った。

怪我で不本意な成績しか残せなかった昨シーズン。
今年、松坂はどう巻き返してくるのか。
20勝を目指すのか、
それともノーヒットノーランか…。
2年続けて低迷するような男ではない。

「ONE FOR ALL」

高校時代、
松坂が野球帽のひさしに書いていた言葉である。
いま松坂はそこに、
いったいどんな文字を記しているのか。


(飯村和彦)


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2007年04月23日

「ケネディの憂慮」…銃社会アメリカ(下)

 
1968年、
ロバート・ケネディはこう演説した。

「現在のアメリカが抱えてる最大の問題は、
溢れるGun とそれによる犯罪だ」


しかし、
彼は、この演説の翌日に暗殺された。
あれから約40年。
銃社会アメリカは、
いまだに、思考停止状態にあるようだ。


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ターバンの男


(飯村和彦)



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2007年04月22日

Kids and Guns…銃社会アメリカ(中)


少年たちの好むGunの傾向は、
最近どんどん小さい型の銃になっている。
『nines』と呼ばれる、
9mmのセミオートマチック銃が人気の的だ。

少年たちに言わせれば、
Tシャツの下でも目立たないこの“nines ”は、
夏用の銃として最適なのだそうだ。
おまけにとっても性能がいいらしい。

だが当然、その分値段も高く、
ストリートでは高値で売買されている。
よって、こんなGunを手にしているのは、
少年たちの中でも『crew』と呼ばれる麻薬や銃のディーラーや、
脅し・恐喝・殺人で金を得ている少年ギャングたち。


スクーター


真新しいスニーカーを履き、
BMWを乗り回し、
金のネックレスやブレスレットを輝かせ灰色の街を闊歩する。

彼らは、普通の(?) 少年たちの憧れの的だ。
だから、『crew』のメンバーではない少年たちも、
Gunを持ち始めるようになる。

「何でGunが必要かって? 
そりゃ他の連中がみんな持ってるからさ。
格好いいし、強くなった気分になる。
それに、いざという時、
殺られる前に自分を守るにはGunしかない」

これが少年たちのごく普通の反応だ。
『crew』のメンバーにしてみれば、
Gunは簡単に金を稼ぐ最高の道具であり、
ケンカや抗争にあっては不可欠な武器だ。

一方、『crew』のメンバーではない少年たちにとっては、
Gunはファッションであり、
架空の力を他人に保持する為の道具でもある。

彼らは、crewの真似をして、
自分が、
『down』( =cool、格好いい)な人間になった錯覚を楽しみ、
時には銃を見せびらかせて、
さもcrewのメンバーであるかのように振舞ったり。

「もし俺に何かしたら、
俺のバックにいるメンバーが黙っちゃいないゾ!」
という風に…。
これも自分の命を守っていく一つの方法だ。

『crew』のメンバーになる為には、
“人前で見ず知らずの人間を撃つ事”が条件である。
すると、「奴は本当にイッちまってる!」という、
『rep』(=reputation:評判の略。
殺人や強盗・麻薬などを評価する時に使われる)
が得られ、crewのメンバーになれる。

では、連中は、どうやって銃を手にするのか。

一つが銃規制の緩やかな州から街に持ち込まれた銃を、
ディーラーを通してStreetで買う方法。
人気の9mm semiautomatic から
Saturday Night Special(小型で少年が最初に手にするような銃) 、
T字型の MET Machingun や 、
AK-47 のような大型の銃までなんでも揃う。

もう一つが、
殺されたり、逮捕された仲間が持っていた銃を回してもらう方法。
こちらも、その種類と量には事欠かない。

これらのGunは、
新品から中古まで様々な値段で売られているが、
基本的に、
何人もの人を殺しているGunは安い。
何故ならその銃を持っていて逮捕された場合、
前の持ち主の殺人まで一緒についてくる事になるからだ。

「Gunはユニホームになっている。
野球をしていた時グローブが必要だったように、
今の彼らにはピストルが必要な訳だ」

これは、あるGunプログラムのカウンセラーの言葉だ。
「彼らの世界では、スニーカーを踏んだだけで、
すぐに銃でパンパンパンという事になってしまう」という。

“口は災いのもと”という言葉があるが、
彼らの間では口はすぐ Gun Shot に繋がる。
相手への罵詈雑言のことを彼らの言葉では『Beef』と呼ぶが、
この『Beef』がすぐに、
「Yo! whachoo doin',Pow Pow Pow …」という事になり、
ゴロリと死体が地面に転がる。

ファッションで銃を持ち、
ラップを聴きながら、
ビルの屋上でネズミを撃って遊んでいるような少年でも、
こう言い放す。

「俺は今まで人に銃を向けた事は無いし、
これから先も向けようとは思わない。
でも、誰かが俺に銃を向けてきたら、
俺は撃つ。
もしそうなったら、
俺の人生がみんな変っちまうだろうから、
考えたくは無いが…」と。

けれども、
こんな少年でも、
実際に銃を人に向けるようになるまでに、
そう時間はかからない。

【つづく】

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(飯村和彦)


newyork01double at 08:20|PermalinkComments(0)

2007年04月20日

銃社会アメリカ(上)



1日に約40が射殺され、
3分に1人が銃で傷ついている。
それがアメリカの姿だ。

「誰も自分を守ってはくれない。
だから、自分の命は自分で守るしかないんだ。
銃? 当たり前さ…。
だってみんなが銃を持っているから。
撃たれる前に撃つ、
それがこの国の正当防衛なのさ」

5ドルの金、踏まれたスニーカー…
そんな些細な理由でも人が殺されいく。


男


「拳のケンカ? 冗談じゃないぜ。
そりゃ昔の話だ。
そんな事してたらアッという間に後ろから撃たれてお陀仏さ。
殺られる前に殺る、それには銃が必要って事さ」

かつて、
ロサンゼルスの少年ギャングの取材をしたとき、
少年たちは、こう言ってうそぶいた。

銃社会アメリカ。
その数は、2億万丁以上といわれている。
この数字には警察や軍隊が持っている銃は含まれていない。

まずは、歴史的な背景を確認しよう。

開拓時代のGun 所持者は、主に裕福な人たちだった。
彼らは自分の土地や財産を他の侵入者や盗賊から守るため、
Gun(ほとんどがライフル) を買った。
なぜなら、この時代の警察システムは、
田舎の広大な地にあっては往々にして無力であったからだ。
南部アメリカに於いては、
現在でもこれと似た考えを持つ人たちが多い。

また、アメリカの政治的伝統にあっては、
銃を持つ事は、
自己を防衛していく上でのごく自然な権利であると考えられてきた。
多くのアメリカ人は市民が武器を持つ事が、
政府の圧政から自分たちを守っていく基本であると考えている。

市民戦争に於いて、
民主主義の名のもと、
市民が武器を持って政府に立ち向かった精神からきている。

しかし、
時代と共にアメリカ国民が銃を買う理由、
及びその種類も変わってきている。

連邦政府のデータによると、
1950年代後半に於いては、
そのほとんどが狩猟目的のライフルやショットガンで、
ハンドガンの割合は、
当時の年間売上 200万丁の約5分の1に過ぎなかった。

全米で犯罪が多発し、
各地で暴動や暗殺事件が発生するようになった1960年代になると、
銃の売上も急上昇し、1966年には 300万丁。

Martin Luther King、Robert F. Kennedy が暗殺された、
1968年には 500万丁に達した。
この銃の売上増加の原因が、
ハンドガンの割合の増加にあった事は言うまでもない。

50年代末、その数が50万丁であったハンドガンが、
70年代初頭には年間 200万丁にまで膨れあがった。
現在では、
アメリカ国内で買われている銃の二つに一つは、
ハンドガンという事になっている。

手軽に扱える銃が、
全米に溢れているということだ。

【つづく】

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(飯村和彦)


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2006年10月18日

北の核開発、歴史的背景を…「取材ノートより」



北朝鮮による「核実験発表」から一週間。
一部には、通常火薬を使用した、
“偽装説”もあったが、
やはり、
プルトニウムを使った「核反応を伴う爆発」、
つまり「核実験」であったらしい。

国連の制裁決議や、
その決議に対する北朝鮮の反発、
次なる核実験への不安、
…等々については、
新聞やテレビ報道を見てもらうとして、
ここでは、

「北朝鮮が“核開発”に邁進した歴史的な背景」

について少し…。
そもそも、
どうしてあの国は、「核兵器開発」に驀進したのか。


戦争は最悪

 
まずは、北朝鮮の国際社会での孤立化から。
 
1983年、
韓国の全斗換大統領を狙った「ラングーン事件」が発生。
そして、その4年後の1987年には、
死者78人をだす大韓航空機爆破事件が発生した。

これらのテロ行為を、
国際社会は北朝鮮による犯行であるとほぼ断定。

大韓航空機爆破事件については、
「金正日書記(当時)の司令によるものだった」
と、実行犯だった金賢姫(キムヒョンヒ)は、
直属の上司の言葉として語っている。

97年1月に韓国に亡命した元北朝鮮外交官も、
当時の北朝鮮における政策決定の構図を、
以下のように説明している。

「80年代後半に、
金日成がすべての権限を金正日に委任にしてから、
金正日の政策決定の構図が始まった。
すべての政策は、
金正日ひとりの決心と、
金正日の意図だけを追う、
忠臣たちによって作り出された」

度重なるテロ行為に対し、
国際世論は北朝鮮を激しく非難。
こうして、
北朝鮮の国際社会からの孤立化がはじまった。

さらに、
これに拍車をかけたのが、
90年代に入ってからの冷戦構造の終焉。

90年9月、ソ連が韓国と国交を結び、
中国も韓国との国交樹立に向けて動き出した。

そんな情勢の中、
金正日書記は91年12月、
人民軍最高司令官に選任され軍を掌握、
国内の権力基盤を強固なものにしていった。

しかし、
それまで北朝鮮の後ろ盾だった、
中国とソ連の外交政策の転換は、
政治的にも経済的にも、
北朝鮮を窮地に追い込んでいった。

そこで、
金正日書記率いる「超軍事国家」、
北朝鮮が切った外交カードが
「核兵器の開発」…だった。

当時の北朝鮮政府内部の動きについて、
元北朝鮮外交官、
高英煥氏は次のように話している。

「北朝鮮の指導層は、
何かをやらないと、
韓国に、
軍事力においても負けてしまうかもしれないと思った。
だから、
北が、韓国に対して優位を保つための唯一の方法は、
核兵器の開発を加速させることだと考えた」

93年3月、
北朝鮮は核拡散防止条約からの撤退を宣言。
全軍に「準戦時体制に入れ」と厳命を下した。

この時、金正日書記(当時)は核爆弾について、

「もし、アメリカや西側諸国が、
我々に経済制裁を加えたりしたら、
その時は隠してある核爆弾を使って地球を破壊する」

と豪語したという。

93年3月には、
核拡散防止条約(NPT条約)からの撤退を宣言。
翌94年3月19日にソウルで行われた南北実務者協議では、
あの「火の海発言」まで飛び出した。

さらに、
強行姿勢を崩さない北朝鮮は、
94年6月、
国際原子力機関からの脱退を宣言。
国連が制裁措置に踏み切るならば、
宣戦布告とみなす」とまで言い放った。

この対応は、
国連による制裁決議を受けた、
今回の北朝鮮の反応とまったく一緒である。


ホワイトハウス2


94年のときは、
強硬姿勢を崩さない北朝鮮に対して、
アメリカ政府も安全保障会議を招集。
「米朝開戦」までをも覚悟したというが、
まさに、
その安全保障会議を開いている最中に、
北朝鮮を電撃訪問し、
金日成主席(当時)と会談していた、
カーター元大統領から電話が入り、
間一髪の所で開戦は回避された。

当時、
元韓国中央情報局のカンイントク氏は、
金正日戦略の特徴を、
以下のように指摘していた。

「脅威を示して、
自分たちの望むものを獲得していく“搾取外交”を、
北側は、今後も続けていくと思われる」 

あれから12年。
まさに、
当時と同じ状況が生まれた訳である。
やっかいなことは、
今回の場合、北朝鮮が、
不完全ながらも“核兵器”を手にしていると思われる点。

北朝鮮の“搾取・恫喝外交”に屈したくはないが、
さりとて、
暴君である金正日に、暴発されても困る。
国際協調…など眼中にない北朝鮮に対して、
いったい何ができるか。
嫌な…状況である。


(飯村和彦)


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2006年01月23日

鏡の向こう側…心の青空を求めて!



ちょっと古いけれど、時には、こんな本を…。
『Nobody Nowhere』(Donna Williams 著)
…日本語版あり。
「自閉症だった私へ」(新潮社)…続編も出版されている!


自閉症少女、ドナ・ウィリアムスが鏡の中に見ていた世界とは?


グラセン


気違い、聾(Deaf) 、知恵遅れ、乱暴者。
幼少期から彼女には幾つものレッテルが貼られていた。
しかし、彼女は気違いでも知恵遅れでもなかった。
他者との接し方が分からない、
必要以上の他者の接近がどうしても耐えられない。

結果、彼女は自分の中に自分自身の世界を作り、
自分の世界の中で生きていた。

『自閉症とは何か?』

人はよく“自閉症”という言葉を使うが、
実際はそれがいかなる病気で、
どんな症状を伴うものなのかを正しくは理解していない。
更には、専門であるはずの精神分析医でさえ、
その実態をきちんとは把握していないという。

よって、自閉症児に対して間違った対応をしている場合も数多い。
この本は、自閉症少女本人が見てきた世界、味わった苦悩、
感じてきた対人間関係の苦悩を、
彼女自身が必死の思いで書き記した自伝である。

───では、自閉症少女、ドナが見てきた世界とはどんな世界だったか?

家族をも含む、他者の接近から逃れるためにドナが作りだした彼女の世界。
その世界に逃げ込んでいる時だけ、彼女は安心できたという。
幼児期にはすでに出来上がっていたその世界とは一体どんな世界だったのか。
また、そんな彼女だけの世界に立ち入る事が出来た数少ない人物、
彼らは何故その世界に招かれる事が出来たのか。

───自閉症少女、ドナにとっての他者とは一体どんな存在だったのか?

土足で彼女の世界に勝手に入りこむ他者たち。
それは、母であり兄であり、
また、彼女とCommunication を持とうとする全ての現実世界の人間たちだった。
彼女には彼らが話す言葉さえ恐怖の対象であり、
それが彼女に向けられた途端、彼女は彼女の世界に逃げ込む。

また、そんな他者と付き合っていく為に彼女が作り出した、
キャロル、ウィリーなる人物像。
彼らは彼女との関係の中でどんな役割を果たしていたのか?

───自閉症少女、ドナが作り出した自分以外のもう二人の人物の意味とは?

明るい性格のキャロルが上手く他者と付き合い、
現状認識に長け時に暴力的なウィリーが、
必要以上にドナに接近してきた他者を払い退ける。
そして、ドナはまた彼女の世界に閉じ籠もる。

しかし、自閉症少女ドナは多重人格ではない。
なぜなら、そこには常にドナがいた訳だから。
増してや、精神分裂患者でもない。


パーキングに男


───自閉症少女、ドナにとっての現実世界とは?
───自閉症少女、ドナが自己としてのドナをどう見つけだしていったのか?

他者との意志疎通が出来ないドナ。
母親を含む、まわりの人間は彼女を“気違い”と呼んだ。
現実の世界とドナの世界の間にある壁。
安息できる自分の場所を求めて少女は転々と彷徨う。

ある時は道端に住処を探し、
またある時は男に身を任せる。
笑顔で気立てのいいキャロルと用心坊的存在のウィリー。
ドナはいつもこの二人の影に隠れ、なかなか表に出たがらない。
“普通の人間”、“尊敬される人間”に対する憧れ、
自分が他の人と何か違っていると気づいた彼女は、
“普通(Normal) ”を渇望し始める。

苦しみ悩み、時には自分を傷つけながら、
それでも彼女は、自活して高校を卒業し、大学へと進んだ。
自分自身を見つける事、
自分の世界と現実の世界との架け橋を見つけること…
ドナは必死で自分を見つける旅にも出た。

そして、25歳の時、彼女は“Autism”という言葉を発見した。
Autism (自閉症) …
勿論それを理解する事が全てではなかったが、
彼女はその言葉の中から、
現実の世界に架かる橋を見つけるチャンスを得たのだった。


ドナさんと共に、自分探しの旅にでる。
良くも悪くも、
きっと、その人なりの発見があるはず…。

(飯村和彦)

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newyork01double at 10:01|PermalinkComments(23)

2005年10月31日

東京story:原爆の子「サダコ」ちゃんの甥



昨晩は、素晴らしいコンサートを見てきました。
「事前にブログに記しておくべきだった」
と思ったのは会場に入った時、ごめんなさい。

広島平和記念公園にある、
「原爆の子の像」はみんな知っていると思います。
モデルは佐々木禎子(さだこ)ちゃん。享年12。
被爆10年後に白血病で亡くなった少女であり、
「折鶴」
の物語でも有名です。



サダコ像



けれども、
その禎子ちゃんの甥(おい)が、
ロックグループのボーカルを担当し、
無念だった禎子ちゃんの思いや「平和」について、
熱く歌っていることはご存知ないと思います。

バンドの名前は「GOD BREATH」
彼の名前は佐々木祐滋(ゆうじ)。
60年前、
禎子ちゃんと共に被爆した兄、佐々木雅弘さんの息子さんです。

私が彼と知り合ったのは、今年5月。
8月7日に「終戦60年特別番組」として放送した、

 「ザ・スクープスペシャル」
〜検証・核兵器の真実・それは人体実験だった〜!〜

…での取材を通してでした。
佐々木祐滋、まっすぐな性格のいい男です。

代表曲は「INORI」
闘病中の禎子ちゃんの思いを歌にした、
バラード風の楽曲で、
8月の放送の際には、ロックバージョンではなく、
ギター一本で歌ってもらい、
番組エンディングで紹介しました。
素晴らしい曲です。

しかし、残念ながらまだマイナー。
活動が地道な分、メジャーへの道は険しいようです。
このブログを読んで下さっている皆さん、
騙されたと思って、一度「INORI」を聴いて下さい。
きっと、何かが見えてくるはずです。

「GOD BREATH」
のホームページを参考にしてください。

尚、今回の記事は多くの人にTBさせていただきました。
コメントを送れなかった方々、申し訳ございません。
宜しくお願いします。

(飯村和彦)





newyork01double at 11:26|PermalinkComments(11)