世界貿易センタービル
2011年09月06日
再考9.11テロ・予見されていた悲劇の裏側
2001年9月11日
米国同時多発テロで犠牲になった人の数は2973人。
ある人は迫り来る死の恐怖と闘いながら、
そしてある人は、
悲鳴をあげる間もなく、
その命を落としていった。
[photo:kazuhiko iimura]
あれから10年。
ニューヨークの現場では今、
「9.11メモリアル」
(=The National September 11 Memorial & Museum)の建設が進んでいる。
けれども、
この場所を訪れる多くの人は、
いまだに、
かつてそこに聳えていた“アメリカ経済の象徴”、
世界貿易センタービルの幻影を見ているに違いない。
[photo:kazuhiko iimura]
2001年9月11日、晴天。
あの日…
悲劇は、以下のようにして幕を開けた
アメリカン航空11便が、
世界貿易センタービル北棟に急接近
午前8時45分
アメリカン航空11便、世界貿易センター「北棟に激突」
午前9時3分
ユナイテッド航空175便、「南棟に激突」
午前9時43分
アメリカン航空77便、「ペンタゴン(国防総省)激突」
午前10時00分
世界貿易センター「南棟が崩壊」
午前10時6分
ユナイテッド航空93便、「ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落」
午前10時29分
世界貿易センター「北棟が崩壊」
[photo:kazuhiko iimura]
あの同時多発テロの実像を求めるために、
時計の針を、
9.11テロ発生の約8ヵ月後、2002年5月頃に戻してみる。
悲劇を冷静に見つめ直す機運が高まりはじめたこの頃、
多くのアメリカ国民やメディア、議会の目が、
ある方向に向けられはじめた。
テロは本当に防げなかったのか?
多くの人の胸の中に沸いたこの疑念は、
次第に大きなうねりとなって、
ブッシュ政権(当時)に向けらるようになった。
ダイアン・ファインスタイン上院議員(当時)
「大きな疑問の一つは、アメリカ国内での諜報活動の問題です」
ヒラリー・クリントン上院議員(当時)
「ブッシュ大統領は全ての疑問に答える必要はありませんが、
幾つかには必ず答えるべきです。
特に“テロの事前情報があった”ということを、
どうして私たちが、きょう、5月16まで知らされなかったのか」
そのどれもが、
ブッシュ政権は、テロ事前情報を持っていたにも係わらず、
9.11テロを阻止できなった。
その理由を明らかにせよ!
…というものだった。
真相はどこに?
ブッシュ政権に向けられたこの大きな疑問にたいして、
長年、テロ対策の現場で捜査活動、諜報活動にあたっていた、
FBI、CIAの元幹部たちはどう応えるのだろうか。
FBI元特別捜査官、スミス氏は…
「国内でテロが起きる可能性を示す警告は、全部すぐそこにあった」
では、
もしそうであるとすれば、
なぜ、悲劇を避けられなかったのか?
「事件を未然に防ぐために諜報活動をしますが、
それを嫌がるFBIの性格が、
致命的なミスを引き起こしたのです」
(FBI元特別捜査官、スミス氏)
長年にわたり、
アメリカにおけるテロ対策の指揮にたっていた
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…
「一連のテロの最終的な狙いを見抜けなかった点では、
CIAも同罪です」
2002年に入り、
米国議会では、
テロ事前情報についての大規模な調査が開始されていた。
そのきっかけとなったのが、
「フェニックス・メモ」と呼ばれる捜査報告書。
2002年5月、
連邦議会の調査で、その存在が明らかになったものである。
(参考:ニューヨークタイムズ記事)
報告書を作成したのは、
FBIフェニックス支部のケネス・ウィリアム捜査官。
その内容は、9.11テロ発生の2ヶ月前、
つまり2001年7月の段階で、
ワシントンのFBI本部や
アルカイダの動きを追っていたニューヨークのテロ対策部門にも送られていた。
「報告書(フェニックス・メモ)」の内容について、
CIA元テロ対策本部長のカニストラロ氏は…
「ウィリアムFBI捜査官は報告書の中で、
フェニックス近郊のアリゾナ航空学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだと提言しています」
その理由として、
イスラム教過激派と思われる複数の中東系男性が
アリゾナにある飛行学校に入学している事実を指摘。
彼らの追跡調査により、
「ビンラディンの信奉者が、
パイロットなどの人員として
民間航空システムに侵入しようとしている」
と断定していた。
ところが…
そのアリゾナからの報告書「フェニックス・メモ」を、
ワシントンのFBI本部も、
ニューヨークのテロ対策部門もまったく無視し、信用しなかったのだ。
当然、
その情報がCIAやホワイトハウスに送られる事もなかった。
ダッシェル下院内総務(当時)
「FBI本部がどうしてその情報を不要としたのか、まったく理解できない」
「フェニックス・メモ」が見過ごされていたという事実は、
テロの遺族たちに、
新たな苦しみを与えることとなった。
しかも、FBI本部の失態は、これ一つだけではなかった。
実は2001年8月、
ミネアポリスでも、
現場のFBI捜査官たちが、一部のテロ実行犯たちを追いつめていたのだ。
この事実は2002年5月、
FBIミネアポリス支部の女性捜査官、
ロウリー氏の告発によって明らかになった。
13ページに及ぶ告発書簡の中で、
ロウリー氏は、
「9月11日のテロ実行犯の一部を、
事前に摘発できた可能性をFBI本部が握り潰した」
と訴えている。
告発の内容は、
テロ計画に関与したとして、
9.11テロ直前に逮捕、起訴されたムサウイ被告をめぐるものだった。
「ムサウイに関する通報に対応したミネアポリスの捜査官は、
“彼がテロリストである可能性がある”と、初動捜査の段階から確信していました」
(告発書簡より一部抜粋)
2001年8月15日(=同時多発テロ発生の約一月前)
FBIミネアポリス支部は、地元の飛行学校から、
「小型機の操縦も出来ないのに、
ボーイング747の水平飛行のみの訓練を要求する不審な男がいる」
との通報を受けた。
8月16日
移民局が入国管理法違反でムサウイを逮捕
その直後、FBIミネアポリス支部は、
テロ防止関連で、
ムサウイの所持品などについて捜索令状を取ろうしたが、
この申請をワシントンのFBI本部は却下したのだ。
この件に関して、
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…
「これはムサウイのコンピューター通信と
電話の盗聴をするために必要な裁判所の許可の事ですが、
証拠不十分ということでFBI本部は、
この申請を却下したのです」
この時、ワシントンのFBI本部に提出された
ミネアポリスの捜査官のメモには、
「ムサウイは、
大型航空機を乗っ取って、世界貿易センタービルに突っ込むつもりだ!」
とまで書かれていたのだ。
以下に、
ロウリー氏の告発書簡の一部を紹介する、
「運が良ければ、
9月11日以前に、
飛行学校にいた一人以上のテロリストを発見できた可能性がありました。
テロを防げたかどうかは分かりませんが、
少なくとも…
9月11日の人命の損失を小さく抑えるチャンスはあった筈です」
だが、
これらのテロ事前情報が、
同時テロを防ぐために生かされる事はなかったのだ。
元FBI特別捜査官のスミス氏は…
「ミネアポリスからFBI本部に届いた情報は驚くべき内容で、
通常のものとは全く違っていました。
しかし、
“分析に余計な時間をかけるな”…というのが
事件が発生してから行動を起こす事に慣れていた
FBIテロ対策本部の考え方だったのです。
つまり、
テロを未然に防ぐ努力が足らなかったのです。
さらに、
もう一つの要因があります。
これは捜査当局に共通する問題点で、
多分、日本の警察庁も同じ問題を抱えていると思います。
それは、
全国規模の捜査組織は、
どうしても大きな支部からの情報を優先してしまうのです。
つまりFBI本部では、
"ミネアポリスの現場の捜査官に何が分かるんだ!"
と感じていた部分があると思います。
テロ対策タスクフォースが設置されているニューヨーク支局や、
海外テロ関係の捜査経験が豊富な
ワシントンDCの捜査官から上がった情報ではなかったので、
"ミネアポリスやフェニックスで燻っているような素人に何が分かるんだ!"
という気持ちがFBI本部にはあったと思います」
それでは
ホワイトハウスやCIAの方はどうだったのか?
[photo: noa iimura]
ブッシュ大統領は、
“同時テロに関する事前情報は一切なかった”
という立場を一貫して取っていた。
しかし、
これがウソだった事が連邦議会の調査で明らかになったのだ。
2001年8月6日、ブッシュ大統領は、
「ビンラディンが、アメリカ国内でハイジャックを計画している」
との報告をCIAから受けていたのだ。
この件に関して、
ライス大統領補佐官(当時)は以下のように弁明した。
「アルカイダが飛行機を何機も乗っ取って、
それをミサイル代わりにして、
世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むなんて、
だれも予想できなかったと思います。
大統領への報告は、従来型ハイジャックについてでした」
しかし、
もしそれが本当だとしたら、
“それこそ由々しき問題だ”と
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は憤る。
「彼女(ライス大補佐官)は間違っている。
9月11日のテロの前兆となる、
ハイジャックした民間航空機で建造物に突入するというテロ計画は、
以前、実際に計画されていたのだから」
CIAテロ対策センターの元上級分析官のベドリントン氏も…
「ボジンカ計画と呼ばれるテロ計画があった。
1995年に、この計画が発覚したのは、全くの偶然だったが…」
9.11テロの6年前の1995年
CIAやFBIは既に、
アルカイダ一派が、
航空機を使った自爆テロ計画を持っているという事実を掴んでいたのだ。
暗号名・ボジンカ 。
いったい、どんな計画だったのか?
[photo:kazuhiko iimura]
1995年2月、
一人の男がフィリピンからニューヨークへ空路、移送されてきた。
男の名はラムジ・ヨセフ (注:ラムジ・ユセフとも表記される)
ヨセフは、
マンハッタン上空から世界貿易センタービルを眺めながら、
FBI捜査官の問い掛けにこう答えた。
FBI捜査官:「見ろ、世界貿易センターはちゃんと立ってる」
ヨセフ:「もっと金と爆薬があったら倒すのは簡単だった」
実はこのラムジ・ヨセフこそが、
1995年のボジンカ計画の首謀者であり、
また、
その2年前の1993年に発生した、
最初の 世界貿易センタービル爆破事件 の犯人でもあった。
では、
問題のボジンカ計画とは、
どんなテロ計画だったのだろうか。
元CIAテロ対策本部長のカニストラロ氏は…
「ラムジ・ヨセフは、
フィリピンのアジトに仲間と一緒に潜伏し、
そこで極東に運行しているアメリカの民間機を含む、
数機の民間旅客機を同時爆破する計画でした。
少なくとも11機がターゲットになっていましたが、
もっと多かったという説もあります」
アジア、アメリカ間を飛ぶ
11機の旅客機を狙った同時爆破テロ。
しかもそのほとんどが、
9.11テロと同じように、
アメリカン航空やユナイテッド航空など、
アメリカの旅客機を狙ったものだった。
【9.11テロ取材ノートより】
[photo: noa iimura]
(飯村和彦)
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2011年09月04日
再考9.11テロ・実行犯たちの足跡(フロリダ)
(photo:kazuhiko iimura)
【テロ実行犯、モハメド・アタという人物について】
農薬散布セスナ機会社
ジェームス・レスター氏インタビュー
Q: あなたのところにテロリストが来たのはいつですか?
2001年の2月です。
Q: それは誰だったか覚えていますか?顔を覚えていますか?
私が覚えていたのは、モハメド・アタです。
彼は、私に、飛行機についての質問をしていました。
そして、操縦席に座りたがっていましたが、
私はそれを断りました。
その時私は飛行機の作業をしていましたから。
アタと一緒に二人の男が居ました。
しかし私は彼らを覚えていません。
彼らには注意を払っていませんでした。
私がアタを覚えているのは、
彼が私に付きまとい、
何とかして飛行機の中に入ろうとしていたからです。
Q: あなたのところに彼らが来たとき、
飛行機を見に来る他の人と比べて、何か違ったところはありましたか?
彼らに怪しいところはありませんでした。
彼の質問も、大して気にしませんでした。
Q: 彼が特にこだわっていたことはありましたか?
アタは飛行機の最高搭載量を知りたがっていました。
どれぐらい搭載できるのかを。
どれくらいの「燃料」をつめるのかを知りたがっていました。
そして、どうやって飛行機のエンジンをかけるのかを知りたがっていました。
どのようにしてエンジンをかけるのかを。
ただし、私は、彼にそのようなことを教えることは断りました。
私がアタにいったのは、
彼の見ていた飛行機には500ガロンの馬力があるということだけです。
飛行機の横には、それと分かる数字が記してありますから。
(搭載できる燃料は)飛行機によって違います。
450ガロン、600ガロン、800ガロンのものもあります。
彼はどれぐらいの燃料がつめるのかを知りたがっていました。
どれぐらいの重さまで、搭載できるのかを。
Q: モハメド・アタが、どのような人だったか覚えていますか?
そうですね…
アタは、とっても活動的なタイプに思えました。
英語も上手でした。
でも、彼は嫌なタイプの男です。
態度は…、彼の態度に問題がありました。
本当に彼の態度には問題がありました。
他の二人の男たちとはは話しをしていません。
だからなにも覚えていません。
Q: 9月11日テロの後、いつ、あなたが話をした男が実行犯だと気づきましたか?
FBIが来たときです。
Q: いつFBIが来ましたか?
事件のあった次の火曜日(=1週間後の9月18日)です。
私に写真を見せて、彼らを覚えているかどうか聞きました。
アルバムの2ページをめくると、
多くの男の中、一人の男の写真が私の目を引きました。
私は彼を知っていましたから。
それがアタでした。
Q: FBIは多くの写真を持っていたのですか?
はい。
多くの男たちの写真がアルバムにはありました。
そして、2ページ目には10人…10枚の写真がありました。
彼はその中の2番目でした。
そして私は言いました。「この男はここに来たことがある」
モハメド・アタです。
Q: そのアルバムに全部で何枚の写真があったか覚えていますか?
はっきりとは覚えていません。
それぞれのページに10枚の写真があったように思います。
それが10-12ページあったかもしれません。
それ以上かもしれません。
Q: モハメド・アタが9月11日に関係しているとわかったとき、
どのように感じましたか?
とっても嫌な感じ(感覚)ですね。
ジェットコースターに乗っていて、
落ちていくとき、全てが落ちるような気がしますよね。
わかりますか?
そして…何もできる事はありません。
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【フロリダのモーテルに住んでいた実行犯たち】
モーテル経営者
リチャード・サルマ氏インタビュー
Q: このモーテルには何人のテロ実行犯が住んでいましたか?
全部で5人が住んでいた。二人が尋ねてきていたので、7人です。
そして、アタは彼らを毎日訪ねてきました。
また、(名前は分からないが)もう一人の男も、
毎日彼らのところにきていました。
Q: いつの事だか覚えていますか?
2001年の8月から9月です。
最初のグループは少し早く来ていて、
次のグループが後からきて、9月9日までいました。
彼らはここを出るとき、
部屋に多くのマニュアル(教科書・指導書)などを置き捨てていきました。
飛行機の操縦法やカンフーなどの格闘技の本。
多くの地図、手書きの書類。
コンパス、燃料テスター、ナイフなどです。
私はそれら全てを部屋から引き上げてきたのですが、
必要ないから捨てろと妻がいったので、多くのものは捨ててしまいました。
でもいくつかは手元に残して置いたので、
事件の後、FBIに渡しました。
Q: 彼らは代金を支払いましたか?
はい。
キャッシュで払いました。何の問題も無く。
彼らは感じが良かったし、部屋をきれいに使ったし、
行動(態度)も感じが良かった。
何の問題もありませんでした。
Q: もう少し具体的に、どのような人たちでした?
彼らを見ていると若い留学生のようでした。
または、若いビジネスマンですね。
とても身奇麗で、言葉(英語)も良くわかっていた。
大変勉強していたように思えました。
マナーも良かった。
とても頭がよさそうだった。
彼らは理想的だった。
ここに泊まってもらう客の“理想的なタイプ”でした。
静かだったし。
だから、
FBIが写真を持ってきたとき、私は信じられませんでした。
全員そこに居ました。
そのほとんどがこのモーテルに居ました。
Q: あなたは全員を覚えていたのですね。
はい。
Q: テロ実行犯たちは、ここでどことんなをしていたのでしょう?
よく出たり入ったりしていました。
リビングの真中にテーブルを置いて、
その上には会議のように、いろいろなものが載せて、話をしていました。
そして、1時間ぐらい立つと、皆でどこかに出かける。
毎日その繰り返しのようでした。
いつも会議。
私にはわかりません。
彼らはビジネスでもしているのだろうと思いました。
それか学生?
私は彼らの邪魔をしなかったし、彼らも他の人の邪魔をしなかった。
怪しいところはなかったです。
Q: 壁に何かを掛けたりしていましたか?
部屋には絵画を掛けてあったのですが、
海辺の砂で遊んでいる小さな女の子の絵と、
肩をのぞかせたドレス姿の女性の絵ですが、
彼らはその絵にタオルをかけて、完全に隠していました。
女性の体を見る事を好まなかったようです。
私が部屋の中を見たときに変だなと思ったのは、そのことだけです。
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【態度が悪かった航空学校でのモハメド・アタ】
ホフマン航空学校
デュリル・デッカー氏インタビュー
Q: テロ・グループの誰がここにくていたのですか?
世界貿易センターに激突した2人のテロリスト、
モハメド・アタとマルワン・アルシェヒがここに来ました。
2000年の7月1日です。
航空学校について、
費用やコース完了までの時間など、色々な情報を聞きたがりました。
だから、
われわれは情報を与え、彼らは「考える」といってかえりました。
すると、
(二日後の)7月3日に戻ってきて、
飛行訓練に参加したいといいました。
Q: どのようなコースですか? それとも一回限りもの?
アタはここに来るまでに既に飛行訓練の経験があり、
ここでさらに訓練を重ねましたが、
アルシェヒのほうは数時間しか飛んでいませんでいた。
当然のことですが、(規定どおりの)訓練の後には、
民間機用ライセンス、
夜間飛行や曇りの時飛行できるインスタメントのライセンス、
マルチエンジン用ライセンスを与えました。
世界中のリポーターから、
それで大型のボーイング機をビルの激突させるにに十分なのかと訊かれますが…
彼らは小型機のライセンスは持っています。
だから(小型機の)操縦はできるし、離着陸はできるでしょう。
コースは終了していたし、彼らはあらゆる操縦を習ったからです。
でもその免許では大型機の飛行はできません。しかし、「操縦」はできます。
車の普通免許で大型トラックの運転ができるかと訊かれたら、
おそらくできるでしょう。
しかし、大型トラックをバックさせたり、
駐車させたりできるかといえば、できないでしょう。
連中は、フライトシュミレータで大型機の操縦を習得しましたが、
離着陸はできない。
操縦しかできないでしょう。
あなたや私が飛行機を操縦するとき、
小型機のライセンスで大型機が操縦できるかと訊かれたら、答えはノーです。
なぜなら私たちは、生きて家族の所へ帰りたいからです。
しかし、連中のゴールは違っていた。
連中は大虐殺を意図し、自殺行為だと分かっていた。
自分たちが戻ると思っていなかったし、
(操縦以外)は、どうでもよかったのです。
Q: 操縦を習得するのにどれくらいの期間が必要ですか?
2000年の7月に、彼らが学生として来た時には、
操縦方法を教えただけではなく、
FAAのパイロットライセンスを習得しなければならなかった。
そのため、3回の飛行は必要だったし、
天候について学ばなければならないし、
機体について全て学ばなければなりませんでした。
何故プロペラが回るのかとか、
あらゆることを学ばなければなりませんでした。
離着陸の方法も学ばなければならないし、
ハンドル操作など全てを学ばなければなりませんでした。
Q: FAAからライセンスをもらうには、一般的にどれ位の期間が必要ですか?
まっさらな状態から民間機のパイロットになると考えてみましょう。
連中は民間機のパイロットになろうとしたのですから。
5カ月から6カ月かかるでしょう。
彼らもそれだけの期間がかかっています。
彼らがここを離れたのは、2001年の1月でしたから。
ですから、5ヶ月から6ヶ月間です。
普通ですね。
Q: 費用は?
通常は18000〜19000ドルかかります。
アタは、
2週間ごとに、現金ではなく、某信託銀行の小切手で支払っていました。
Q: 彼らがここにいた時、講師と口論があったとか聞いていますが?
アタと、アルシェヒが2000年7月に来た時、2人とも…。
特にアタは傲慢な性格でした。
一緒に話しても楽しい性格ではなく、
講師が1カ月で、「指導に従わない」と不満をもらしました。
アタは特に態度が悪かった。
アタは自分が他人よりずっと優れていると思っているふしがあり、
傲慢で、自分が親分だと思っていたのでしょう。
Q: 何のために免許を取得するのか、目的についてはどう話していた?
「キャプテンになりたい。
祖国のサウジアラビアでパイロットの仕事のオファーがあるから。」と。
私がアタに、
「アルシェヒは23歳だから航空業界に職を得たいのは分かるが、
君は34歳か36歳になっているだろう?
仕事を始めるには少し年齢がいっているのでは?」というと、彼は、
「わかっているけれど、ずっと勉強してきたし、
飛ぶのは好きだし、自由に感じるし、いい仕事を手に入れたい。」
と話していた。
けれども、
とにかく、アタは態度が悪かった。
いつでも女性やその他の人に、自分が上だと示そうとしていました。
嫌だね。
分かるだろう? 彼は独特な人間で、皆が嫌っていました。
特に女性の従業員は大いに嫌っていた。
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【瞬時に相手をたおす格闘技を学んでいた実行犯】
格闘技ジム指導者
バート・ロドリゲス氏インタビュー
Q: テロ実行犯だったジャラヒが、
ジムで格闘技の授業を取っていたそうですが、どのようなもの?
警察やDEAや軍のものと同じ、
ハンド&ハンド・コンバットの授業でした。
ジャラヒはすぐれた生徒で熱心だったのですぐに修得し、
4カ月半で個人授業ができる(=人に教えられる)レベルになりました。
Q: いつか覚えていますか?
2001年の5月から8月の半ばでした。
Q: (ジャラヒの顔写真を見せながら)この人物が誰か分かりますが?
ええ、ジアド・ジャラヒです。
激しい性格でしたが、礼儀正しい人物でした。
いつも微笑んでいて、
練習中はいつも熱心で、身体の状態もよかった。
遅刻はなく、必要があれば常に練習をしていました。
人前に出るのもいとわなかった。
しかし、
自分の目的について何も言いませんでした。
彼はビジネスマンだと称していたし、ドイツなまりがありました。
私より肌の色は明るかったので、
中近東の人間には見えませんでした。
Q: いつも一人でしたか? それとも複数ですか?
4〜5人で、
このあたり(フロリダ・フォートローダーデール近く)に住んでいましたが、
目立ちたくなかったのか、
ジャラヒ1人が訓練を受けにきました。
私たちは、互いを傷つけないようにしながら、
友人と練習することを薦めていましたが、
ジャラヒは、なんどか友人と上手く練習ができなかったといっていました。
“友人を連れてくれば、グループ・レート(団体割引)で教えてあげるよ“
といったら、
「彼らは遊びに来ているだけだ。」といって断りました。
Q: 具体的にはどのような事を教えるのですか?
基本的には抑制手段のためで、
監獄の警備員や警官や軍隊で、
誰かをすぐに押さえたい時に使うものです。
特に、相手の身体をコントロールする方法で、
競争やスポーツやボクシングのためではなく、
相手を即押さえつけるための手段です。
足について言えば、足のどこが弱いのか、
その弱いところを、棒で殴ったり、足で蹴ったりできる。
ナイフで切りつけることもできるし、
どのようなダメージを与えたいかによって変わります。
相手をコントロールするには、誰かを制止するため殴り倒すか、
首の骨を折るか、などで、
その場で何が必要なのかによって違ってきます。
軍隊の人間などに、実戦で使えるのを目的に教えているので、
実戦に即して教えています。
古典的あるいは伝統的な形式にのっとったものではありません。
実戦技術を練習するのです。
直ぐに覚えられ、実戦で何度も使えるので、
短期間で自分のものになります。
また、いまにして思えば不注意だったかもしれませんが、
小さなナイフの使い方も教えていました。
小さなナイフは非常に効果的なのです。
誰かが手を出してきたら、ひじの先を殴って痛い目にあわせるか、
杖で殴って、腕を麻痺させるか、
腱を切って、腕を完全に使えなくさせるか、です。
自分が相手より小さい場合、あるいは、相手が複数の場合、
腱や靭帯や血管を切りつけるのが一番効果的だと教えていました。
そうすれば敵の数を少なくできる。
それを、ジャラヒは練習して習得したのです。
そしてその技を、グループのメンバーに教えたのです。
彼はとても訓練されているように見えたので、
なにかやった経験があるのか訊きました。
彼は、
「サッカーをやっていたから、身体ができている。」といっていました。
練習熱心だったし、ケガをしても不満はもらしませんでした。
Q: ジャラヒやグループのほかのメンバーはどんなタイプ?
彼らは、グループで、パイロットになりたいと学校に行っていました。
ジャラヒは、ビジネスマンだと思っていた。
勉強するつもりだといっていたし、
ドイツの学校で航空エンジニアの学位をとったといっていた。
知的だったし、彼には敬意を払っていた。
英語もうまかった。
パイロットになるための訓練と同じように、
自分たちのミッションを効果的に実行するため、
その準備に、このジムにきたのでしょう。
われわれ全員がその助けをしてしまった訳ですが、
民主主義の社会では、
自由がたっぷりありますから…。
【以上、9.11取材ノートより】
(飯村和彦)
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2011年09月01日
再考9.11テロ・元CIAテロ対策本部長の証言(3)
Q:ボジンカ計画発覚後の、
CIAやFBIの捜査における問題点は?
「FBIは判断ミスと、
データ分析ミスを犯しました。
今になって見れば、
同時多発テロを予告する事件が、
幾つも起こっていたのです。
1993年のラムジ・ユセフによる、
WTC(ワールドトレードセンター)爆破事件が発展したものが、
2001年9月11日のテロ事件です。
1993年のWTC爆破事件は、
“2001年9月11日のテロ事件”の、一つの『予兆』でした。
(photo:kazuhiko iimura)
もっとも、『予兆』は他にもありました。
アルカイダと関係のあるアルジェリア人のテロリストが、
フランスの民間機をハイジャックし、
エッフェル塔に突入しようとした事件がありました。
幸いこれは未遂に終わりましたが、
この事件は、
『航空機で国の象徴的建造物に突入する』
という、新たなテロ計画の2例目になりました。
つまり、過去において、
アルカイダと関係のあるテロ組織の卓越した組織力を示す、
テロ未遂事件が2件も発生しており、
この2件は明らかに、
2001年9月11日のテロ事件に繋がっているのです
連邦捜査局(FBI)は、
証拠となるデータ分析でミスを犯していたので、
『何も知らなかった』と主張することは出来ます。
しかし、この2つの例だけが、
“2001年9月11日のテロ事件を予告する”証拠ではありません。
押収したメモに含まれていた情報に基づき、
フェニックスのFBI捜査官は、
『フェニックス近郊の飛行学校で訓練を受けている、
複数のアラブ人の身辺調査を行うべきだ』
と、提言しています。
また、FBIのミネソタ支部が、
ワシントンのFBI本部に送ったメモのなかには、
9月11日以前に逮捕された、
ザカリアス・ムサウイに関するメモがあり、
そのなかで、
『多額の現金を所持し、
飛行学校の月謝も現金で払ったうえに、
飛行学校においても異常と思われる行動が多いために、
地元警察と地元のFBIから、
“不審人物”と見なされている』
と、警告しています。
このメモに基づき、ミネアポリスのFBIが、
ムサウイのコンピューター通信と電話の盗聴するための、
裁判所の許可を取ろうしましたが、
『証拠不十分』という理由で、
FBI本部は、この申請を却下してしまいました。
つまり、
“9.11テロを暗示する”情報は、
数多くと上がってきていたのに、
その追求がなされていなかったのです。
FBI本部がデータ分析を過ったために、
テロ計画を事前に探知することが出来なったのです。
FBIは警察活動には優れていたものの、
当時は、
本当の意味の『情報分析能力』が欠如していました。
結果的にいえば、
『犯罪調査、諜報活動、また市民からの通報など、
様々なチャネルから入ってくる断片的情報を分析し、
関連性を見つけて、迫り来る危機を事前に探知する能力』
が、当時のFBIには欠如していたのです。
現在も分析能力は欠如していますが、
少なくともこの重要な分析能力が欠如の認識だけは、
現在のFBIには備わっており、
状況の改善に努めています」
Q:では、CIAについては?
「同じ事はCIAにも言えます。
一連のテロ活動の最終的狙いを見抜けなった点では、
CIAも同罪です。
93年のWTC爆破事件、ボジンカ計画、
ラムジ・ユセフのテロ活動を支援するための資金の流れなど、
ビンラディンの義理の兄弟との繋がりに関する断片的な情報を、
CIAは入手していました。
しかし、
その関連性を見つけ、
箇々の事象の裏にある大きなテロ計画を、
探知することが出来なかったのです。
つまり、裏にある計画が、
それ以降も続いていたという事実を見逃したのです。
1998年の、
西アフリカ(ケニアとタンザニア)でのアメリカ大使館爆破事件。
そして、2000年のアメリカの駆逐艦コール号の爆破事件は、
アルカイダの手によるものであり、
回を重ねるごとに、
手口が洗練されているのが分かります。
つまりテロリスト的には、
『成功率』が増していると言えます。
そして、この一連の事件は全て、
9月11日に同時多発テロに繋がり、
そこで彼らは、大成功を収めるのです」
【つづく】
(飯村和彦)
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