宣戦布告

2006年10月18日

北の核開発、歴史的背景を…「取材ノートより」



北朝鮮による「核実験発表」から一週間。
一部には、通常火薬を使用した、
“偽装説”もあったが、
やはり、
プルトニウムを使った「核反応を伴う爆発」、
つまり「核実験」であったらしい。

国連の制裁決議や、
その決議に対する北朝鮮の反発、
次なる核実験への不安、
…等々については、
新聞やテレビ報道を見てもらうとして、
ここでは、

「北朝鮮が“核開発”に邁進した歴史的な背景」

について少し…。
そもそも、
どうしてあの国は、「核兵器開発」に驀進したのか。


戦争は最悪

 
まずは、北朝鮮の国際社会での孤立化から。
 
1983年、
韓国の全斗換大統領を狙った「ラングーン事件」が発生。
そして、その4年後の1987年には、
死者78人をだす大韓航空機爆破事件が発生した。

これらのテロ行為を、
国際社会は北朝鮮による犯行であるとほぼ断定。

大韓航空機爆破事件については、
「金正日書記(当時)の司令によるものだった」
と、実行犯だった金賢姫(キムヒョンヒ)は、
直属の上司の言葉として語っている。

97年1月に韓国に亡命した元北朝鮮外交官も、
当時の北朝鮮における政策決定の構図を、
以下のように説明している。

「80年代後半に、
金日成がすべての権限を金正日に委任にしてから、
金正日の政策決定の構図が始まった。
すべての政策は、
金正日ひとりの決心と、
金正日の意図だけを追う、
忠臣たちによって作り出された」

度重なるテロ行為に対し、
国際世論は北朝鮮を激しく非難。
こうして、
北朝鮮の国際社会からの孤立化がはじまった。

さらに、
これに拍車をかけたのが、
90年代に入ってからの冷戦構造の終焉。

90年9月、ソ連が韓国と国交を結び、
中国も韓国との国交樹立に向けて動き出した。

そんな情勢の中、
金正日書記は91年12月、
人民軍最高司令官に選任され軍を掌握、
国内の権力基盤を強固なものにしていった。

しかし、
それまで北朝鮮の後ろ盾だった、
中国とソ連の外交政策の転換は、
政治的にも経済的にも、
北朝鮮を窮地に追い込んでいった。

そこで、
金正日書記率いる「超軍事国家」、
北朝鮮が切った外交カードが
「核兵器の開発」…だった。

当時の北朝鮮政府内部の動きについて、
元北朝鮮外交官、
高英煥氏は次のように話している。

「北朝鮮の指導層は、
何かをやらないと、
韓国に、
軍事力においても負けてしまうかもしれないと思った。
だから、
北が、韓国に対して優位を保つための唯一の方法は、
核兵器の開発を加速させることだと考えた」

93年3月、
北朝鮮は核拡散防止条約からの撤退を宣言。
全軍に「準戦時体制に入れ」と厳命を下した。

この時、金正日書記(当時)は核爆弾について、

「もし、アメリカや西側諸国が、
我々に経済制裁を加えたりしたら、
その時は隠してある核爆弾を使って地球を破壊する」

と豪語したという。

93年3月には、
核拡散防止条約(NPT条約)からの撤退を宣言。
翌94年3月19日にソウルで行われた南北実務者協議では、
あの「火の海発言」まで飛び出した。

さらに、
強行姿勢を崩さない北朝鮮は、
94年6月、
国際原子力機関からの脱退を宣言。
国連が制裁措置に踏み切るならば、
宣戦布告とみなす」とまで言い放った。

この対応は、
国連による制裁決議を受けた、
今回の北朝鮮の反応とまったく一緒である。


ホワイトハウス2


94年のときは、
強硬姿勢を崩さない北朝鮮に対して、
アメリカ政府も安全保障会議を招集。
「米朝開戦」までをも覚悟したというが、
まさに、
その安全保障会議を開いている最中に、
北朝鮮を電撃訪問し、
金日成主席(当時)と会談していた、
カーター元大統領から電話が入り、
間一髪の所で開戦は回避された。

当時、
元韓国中央情報局のカンイントク氏は、
金正日戦略の特徴を、
以下のように指摘していた。

「脅威を示して、
自分たちの望むものを獲得していく“搾取外交”を、
北側は、今後も続けていくと思われる」 

あれから12年。
まさに、
当時と同じ状況が生まれた訳である。
やっかいなことは、
今回の場合、北朝鮮が、
不完全ながらも“核兵器”を手にしていると思われる点。

北朝鮮の“搾取・恫喝外交”に屈したくはないが、
さりとて、
暴君である金正日に、暴発されても困る。
国際協調…など眼中にない北朝鮮に対して、
いったい何ができるか。
嫌な…状況である。


(飯村和彦)


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