核兵器

2010年02月19日

原爆投下の原点(下)〜目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)



原爆投下命令をだしたハリー・トルーマンという男

トルーマン自身は、
ミズーリの「一農夫」。
妻(ベス)は、
ミズーリの「一流の家系」であり、上流階級。
それが当時のアメリカ人一般の見方だった。


トルーマンが、政治家になった経緯

1922年に洋品店の経営に失敗して、
仕事を探していた。
ミズーリ州ジャクソン郡には友人が多いし、
親戚もやたらいたので、
東部地区の判事に立候補した。

全部で5人立候補したが、
その中で、
誰よりも知り合いが多かったので、当選できた。


副大統領に就任できたのは、
ルーズベルト大統領が、
「忠実な小物政治家」を欲したから。

しかし、

副大統領になってからも、
トルーマンは政権内で孤立し、
重要な外交政策については、
情報を与えられていなかった。
そのことは、
トルーマン自身も知っていた。


1945年4月11日のトルーマンの日記

「働いて、
副大統領の職務を作らなければならないが、
なんとも退屈な仕事だ」 


ところが、
日記にこう記した翌日(4/12)、
ルーズベルトの突然の死により、
トルーマンは大統領に就任してしまう。
本人も驚いたろうが、
困惑したのは、
アメリカ政府内の高官たちだった。

スティムソン陸軍長官の日記(4/12)
「新大統領は、
自分が引き継いだ仕事について、
ほとんど何も知らない。
そして、
小さな問題で決断を迫られると、
そんな力はないとでもいうように、動揺する」

また、

ニューヨークタイムズ紙は、
ルーズベルト大統領の後継者となったトルーマンを、
「単なる人形」
と、決めつけた。


しかし、どうしてそこまで、
皆が皆、トルーマンに不安を感じたのか。
答えは簡単である。
その大きな理由は、
彼が、
「フランクリン・ルーズベルトではない」
からだった。

ルーズベルトは、
皇帝のように堂々としていたが、
トルーマンは、
まさに、
「つぶれた洋品店のオヤジ」のようだった。


そこで、
トルーマンは、
あることを決意した。


「責任は引き受けた(back stop here)」


自信はないものの、
大統領としての決意を固めたトルーマンは、
周囲の政策責任者に敬意を持たれるようにするには、
決断力を示さなくてはならないと考え、
「最終決定はすべて私が下す」
ときっぱり宣言した。


子供の頃から、
“意気地なし”で、
“男らしさに欠ける”
と、いわれ続けてきたトルーマンは、
大統領に就任して、
男らしさを証明する機会をはじめて掴んだ。


そんなトルーマンによって、
原爆の投下命令は下されたのだ。


「原爆を、
いつ、どこに投下するのかの最終決定は、
私が下した。
この点に誤解がないようにして欲しい」
(トルーマン回顧録)


そうはいっても…


トルーマンの眼前には、
そもそも、
「ノーとは言えない現実」が、横たわっていたのだ!


原爆開発計画

マンハッタン・プロジェクトは、
約12万人が加わり、
全米各地に施設を持つ巨大な官僚機構であり、
生産体制だった。

「アメリカは、
わずか3年間で、
当時のアメリカの自動車産業全体に匹敵する、
途方もない規模の工場と研究所を作り上げた」
(科学者:バートランド・ゴールドシュミット)

このプロジェクトには、
巨額の連邦予算(総額20億ドル)がつぎ込まれており、
支出が正当であったことを示すためには、
どうしても、
プロジェクトを成功させる必要があった。


ところが、


トルーマンが、
スティムソン陸軍長官から、
「アメリカが歴史上、最も破壊力のある武器を開発している」
と、
原爆について初めて知らされたのは、
大統領に就任した、
その日(4/12/1945)のことだった。


そして、その2週間後。


1945年4月25日 
トルーマンは、スティムソンから、
「4ヶ月以内にはまず確実に、
人類の歴史の中で、
最も恐るべき武器が完成する。
一発でひとつの都市を破壊しつくせる爆弾になる」
と報告を受ける。


だが、
この段階ではまだ、
トルーマンは原爆投下を決断していない。



夜の街
(photo:kazuhiko iimura)




1945年5月7日にはドイツが降伏し、
日本も、
軍事的に見て絶望的な状況に追い込まれていた。
つまり、
原爆を使う理由はなくなっていたのだ。


さらに、


もし、原爆を日本に使うとしても、
「事前に示威実験(デモンストレーション)を行い、
最後通告をだしてから」
というのが、
ルーズベルト大統領の決定(1944年12月)であり、
トルーマンは、
その方針を受け継ぐ姿勢を表明していた。


西欧方面連合軍最高司令官アイゼンハワー将軍は、
「日本はすでに敗北している」とし、
「原爆投下はまったく必要ない」
と語っていた。

大統領付き参謀長レーヒ提督も、
「軍事的に見て、
すでに、完全に打ちのめされている日本に、
侵攻する理由はない」
としていた。


ところが…


原爆計画の中で最も重要な委員会である、
1945年5月31日と6月1日の暫定委員会
(委員長はスティムソン陸軍長官)で、
原爆を、
「非軍事的な示威行動」の形で爆発させ、
日本の指導者に衝撃を与えることで降伏を引き出す、
…という案は、退けられてしまう。


そして、
暫定委員会は、
事前警告を行うことなく原爆を投下することを勧告した。

この決定を強く支持したのは二人の男。
ひとりは、バーンズ
トルーマンに選ばれて暫定委員会のメンバーになり、
そのすぐ後(7月2日)に、国務長官に就任した人物。

もうひとりが、グローブス将軍
マンハッタン・プロジェクトが始まった時点で、
司令官に任命され、
巨大な原爆開発組織の指揮をとっていた男。


1945年7月18日
アラマゴードで原爆実験成功


このとき、グローブス将軍は、
次のように語っている。

「我々は最大の目標が、
まだ達成されていないことを十分に認識している。
日本との戦争で重要なのは、
“実戦テスト”である」


この時点で、
トルーマンが迫られた決断は、
「実戦テスト」へ向けて進んでいる計画を、
止めるかどうかであった。

この点についてグローブス将軍は、
「大統領の決断は、
我々の動きに干渉しないというものだった。
…どちらかといえば、
“イエス”と言ったというより、
“ノー”と言わなかった、というべき」
と、後に回顧している。


さらに、
ソ連の脅威がトルーマンを焦らせた。


ポツダムでのバーンズ国務長官の助言
「日本に対する戦争で、
新兵器(原爆)の威力を示すことが、
ソ連を脅して従順にさせる手段になりうる。
原爆の力で戦争が終わったとき、
アメリカは、
こちらの条件をソ連に飲ませる立場に立てる」


結局…、広島・長崎への原爆投下


トルーマンは原爆投下を決めた理由を、
「本土上陸作戦を避け、
50万人のアメリカ人の命を救うためであった」
とした。
だが、トルーマンは、
本土上陸作戦を行っても、
50万人もの戦死者がでないことは、
自分の要請で分析させた結果から、知っていた。


統合戦争計画委員会の報告書(1945年6月15日付)

本土上陸作戦の戦死者数を4万人と予想。
マッカーサー将軍の、
「この作戦は極めて容易で、
死傷者数が少ないものになると見ている」
との覚書も報告書には添付されていた。


つまり


トルーマンは、
原爆を使った目的が、
戦争を早く終わらせ、
アメリカ人の命を守るためだけではなかったことを、
十分認識していたのだ!


原爆投下により、
戦争のあらゆる倫理的制約は消滅した。
それは、
破壊の手段がより残酷になったということではなく、
個人としての戦闘員が存在しなくなったことを意味する。


目的のためなら、
敵国の一般人を何人殺そうが正当化される。



それは、
「今」のアメリカの理屈でもある。


そのアメリカ政府に、
今日まで日本政府は、
盲目的なまでに、追随してきたのではあるまいか。
ここにも「変化」が必要だ。

【了】


(飯村和彦)

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〜原爆投下の原点(中)〜目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)



アメリカ陸軍飛行隊の将校らは、
真珠湾攻撃(1941年12月8日)のかなり前から、
日本の人口密集部に対し、
「火炎兵器(焼夷弾)」
を使用することを考えていた。



ストップ



日本本土の爆撃目標に関する、
1939年の飛行隊戦術学校の講義録
「一般住民に対する直接攻撃は、
国民の志気喪失には多大な効果があるにしても、
“人道的配慮”によって排除される。
…しかし、この目標(一般住民)は、
ありうる報復手段として銘記すべきである」


関東大震災をヒントに…
「1923年の関東大震災は、
焼夷弾が、
日本諸都市に恐るべき破壊をもたらしうることを、
実証したものであり、
日本の一般市民に対する直接攻撃は、
日本人の志気破壊にきわめて有効である」
(1939年春、C.E.トーマス)


そんな背景から…


真珠湾攻撃の数日後、
アメリカ化学戦局は、
マサチューセッツ工科大学内に焼夷弾研究所を設立。
スタンダード石油会社のグループが、
尾部からナパームを噴出する、
小型で極めて有効な「焼夷弾M-16」を開発した。


1943年2月:大量焼夷弾空襲効果に関する報告書(外国経済局)
日本の市街地は、
火炎攻撃に対して極度に脆弱であり、
火炎攻撃は、
労働者から家を奪うことによって、
日本の生産を著しく妨げると結論づけた。


そこで、ある実験を行なった。


小東京・攻撃実験
1944年初頭、
国防調査委員会と陸軍航空軍の委員会は、
エグソン・フィールドに、
日本の建物群に見立てた、
「小東京」とよばれる小さな村を幾つか建設、
焼夷弾を使った攻撃実験を実施。


さらに…


調査をより現実的にするため、
日本の地震の歴史、特に関東大震災から、
火災の広がりと生産低下に関する情報を引き出した。


焼夷弾小委員会は、
「大都市に対する攻撃は、
日本経済を相当痛めつけ、
当該地域の住宅の70%を破壊し、
50万人以上の一般市民を殺害するであろう」
とし、直ちに、
圧倒的兵力をもって、
6都市(東京・横浜・川崎・名古屋・大阪・神戸)を、
爆撃するよう陸軍航空軍に勧告した。


また、


1944年11月末、
第20航空軍のノースタッド将軍は、
日本社会の中核的制度に向けられる航空攻撃が、
日本人を震撼させうると考えた。
そこで、
アーノルド総合司令官に対し、

東京の皇居に対し大規模攻撃を実施することで、
パールハーバーを追悼するよう提案

(…しかしこの提案は、時期尚早ということで却下された)


そして… 東京大空襲。


「東京が焼き払われて、
地図からも一掃され、
その地域のあらゆる工業標的が破壊され、
都市が魅力化されれば、
我々は戦争を短縮できる」
(1945年3月9日:ルメイ将軍)

1945年3月10日午前零時過ぎ
1665トンの爆弾を東京に投下。
焼夷弾により工業地域の18%、
商業地域の63%、
労働者階級の住宅地帯の全域がことごとく焼かれ、
25万戸の家屋が焼き払われた。


アメリカ戦略爆撃調査団は、
3月10日の空襲で、
8万7793人(実際には10万人と言われるが…)が死亡、
4万918人が負傷、
100万8005人が家屋を失ったと見積もった。


ところが、予想外の事態が発生!


3月10日の東京大空襲は、
直接その空襲の影響を受けた人々の志気はくじいだが、
日本の一般市民の志気を、
「受忍限度」に導く者ではなかった。

そこでB-29は、
4月と5月にも数千トンの焼夷弾を投下。
ところが、
東京の約半分にあたる、
150平方キロを焼き払ったにも係わらず、
戦争終結にまでは持ち込めなかった。


日本人の戦意


日本軍が、降伏するよりも自決を選び、
神風特攻機のパイロットが、
米艦船に向けて突入してきたことは、
「日本人を降伏させるのは容易ではない」
ことを示唆していた。


それならば…!



ワースト



最初の原爆の炸裂は、
日本人に途方もない心理的衝撃を与えねばならず、
その兵器の重大性が、
国際的に(特にソ連に!)認識されるためには、
十分に壮大でなければならない。

1945年7月26日、
アメリカはポツダム会談で警告を発した。

連合軍は、
日本人を奴隷化したり、
国家として滅ぼしたり、
領土を、
恒久的に占領したりする意図の無いことを宣言したが、
日本側が戦闘を継続するなら、
国土は完全に破壊されるだろうと警告した。


しかし、


使用する兵器の種類は明らかにせず、
日本にとって極めて重要な問題である、
天皇の運命についても、
意図的に言及しなかった。
                

結果、


日本政府は、ポツダム宣言を「黙殺」
アメリカによる、
日本への原爆投下の“大義”ができた。

連合国側(特にアメリカ)にしてみれば、
ドイツの都市に無差別爆撃を行うのであれば、
日本の都市にも、
無差別爆撃を行うのは、
当然すぎるほど当然だった。


アメリカは、

「戦争を仕掛けてきたのは日本だし、
“われわれの捕虜”を虐待したのも、
日本に他ならない。
そんな国に戦闘員、非戦闘員の区別など無用であり、
そもそも、
現代の戦争に非戦闘員は存在しない」

…として、原爆投下を正当化した。


こうして倫理制約がなくなると、
数10万の人間が住む都市に原爆を投下するのも、
難しい決断ではなくなった。

【つづく】


(飯村和彦)

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目的のための犠牲(コラテラル・ダメージ)〜原爆投下の原点(上)〜



原爆投下に関するトルーマン語録

「日本人が理解すると思われる唯一の言語は、
奴らを爆撃するために我々が使用しているものである。
けだものを相手にしなければならないときは、
けだものとして扱わなければならない。…」
(長崎への投下から二日後の声明)

「私は広島と長崎に原爆を投下するよう命じた。
…同じような状況であれば再度決断したであろう。
原爆は対ジャップ戦を終結させたのだ」
(ポツダム会談からの帰途、妹メアリーに語った言葉)

B-29による残虐な無差別爆撃(例:東京大空襲)、
そして、広島・長崎への原爆投下。

戦時における軍事的必要性」の名目で行われた、
これらの無差別大量殺戮は、
誰によって、いつ、どんな理由で、
正当化されるようになったのか。



自由の女神ロング
(photo:kazuhiko iimura)



第二次大戦で連合国側が掲げた大義は、
「正義と人道」だった。

ところが、アメリカの爆撃機は、
一般市民が住む市街地に、
無差別に爆弾と焼夷弾を投下、
小さな子供や赤ん坊を抱いた女性まで焼き殺した。


なぜか?


非武装の市民を殺さないという倫理観が崩壊した背景

第一次大戦後の20年間における、
科学技術の革新と航空戦力理論の開発は、
約200年にわって発達した、
ヨーロッパの騎士道精神を消滅させた。
これが、
アメリカの無差別爆撃戦略に影響を与えたといわれる。 


ジュリオ・ドウエット将軍(イタリア)の航空戦略理論

国家は、「制空権」を確立することによって、
第三次元を支配しなければならない。

いったん制空権を獲得すれば、
敵軍の施設を爆破でき、さらには、
主要目標である人口密集地に直接向かうこともできる。

爆撃機は敵国民を恐怖に陥れ、
彼らの肉体的・精神的抵抗力を破壊するだろう。

将来の戦争は、軍用機による都市爆撃(高性能爆薬)、
毒ガス、焼夷弾の投下で幕が切って落とされる。 
  
戦争手段に対する道義的制約は偽善にすぎない。
恐るべき攻撃が、
いかに非人間的で極悪非道であるとみなされようと、
誰もひるみはしない。
それが、勝利を得る道であると分かっている時、
司令官が軍隊の損失を甘んじて受け入れるように、
国家は、
人口密集地に対する航空攻撃を甘受しなければならない。


さらに、
第二次大戦前のアメリカ航空軍に大きな影響を与えたのが、
ドウエット戦略。


ドウエット理論

ドウエット理論で最も重要な著書、
「制空権」第一章(1921年)は、
イタリア語版の出版から数ヶ月以内で英語に翻訳されていた。

後の第二次大戦で、
航空軍の司令官になった大半も「制空権」を読み、
影響を受けた。

「国民の志気は価値ある標的である」
というドウエットの概念は、
陸軍飛行隊戦術学校の1926年度版の教本、
「合同空軍力の採用」にも登場。

「制空権確保を第一の任務とする独立空軍」
という考えを容認したばかりでなく、
「戦時下の真の標的は、
戦場の敵軍隊ではなく敵住民と重要地点である」
と明言した。


しかし、まだこの時点では、
ドウエット戦略を支持しない司令官が大半を占めていた。

陸軍航空軍総司令官アーノルド将軍も、
「特別な状況を除けば、人間は優先的標的ではない」
として、
あくまでも軍事関連施設を狙った、
選択的爆撃の方が効率的あるとしていた。


ところが…


第二次戦争が始まり、
空軍力が増し、
闘いが長引きだすと、
政権内部や航空軍司令官たちの考え方が変質してくる。

第二次大戦初期、ルーズベルト大統領は、
「日本軍による重慶空襲は、
道義上許されない行為だと非難し、
アメリカ政府は、
民間人に対するいわれのない空襲と、
機銃掃射を心から非難する政策をといっている」
としていた。


しかし、
戦争が進むにつれ、その方針が徐々に揺らぎだす


1940年9月〜41年5月。
ドイツ空軍によるロンドン、コベントリー、
その他の市街地中心部に対する爆撃で、
住民約4万人が死亡。

イギリス軍による報復としての市街地爆撃。

1941年夏、
アメリカ航空軍は、
ある特殊な条件が発生した場合には、 
一般市民を直接攻撃することを提案した。


アメリカ戦略爆撃計画-1」(AWPD-1)
…一般市民は敵の戦争機構の一部であって、
苦難を受けなければならない。
ドイツが敗北の淵にたったとき、
ベルリンの住民に対し、
大規模な全面攻撃を加えるのが有効。


1943年7月末〜8月初頭、ハンブルグ空襲。
…イギリス軍が、
焼夷弾を使った夜間無差別爆撃で、
大きな戦果を上げる一方、
アメリカ軍の選択的爆撃(昼間)は、
「イギリス軍の夜間爆撃よりも“人間的”」
であることは証明したが、
ほとんど効果を上げなかった。


そして…
1943年8月17日。
アメリカ軍の爆撃戦略(選択的爆撃)に、
最も大きな影響を与える出来事が発生した!


レーゲンブルク-シュバインフルト作戦の失敗

アメリカ第八航空軍が行った、
レーゲンブルクにある飛行機工場と、
シュバインフルトの軍需工場を攻撃した作戦。
この攻撃でアメリカ第八空軍は、
約87機のB17爆撃機を失い、
550人以上が戦死、又は捕虜になるという犠牲を出した。

さらに問題だったのは、
「空飛ぶ要塞(=B17)」が、
軍需工場に、
十分な被害を与えることが出来なかったことだった。



DCモニュメント
(photo:kazuhiko iimura)



アメリカ航空軍司令官が、
ハンブルグ空襲と、
レーゲンブルク-シュバインフルト作戦の失敗から得た教訓は、
「市街地空襲は、
時として精密爆撃よりも成果をあげ、
陸軍航空軍の犠牲をはるかに少なくする」
というものだった

そして、1944年8月26日。
ルーズベルト大統領の発言

「アメリカとイギリスのあまりに多くの国民が、
戦争に責任があるのは、
少数のナチス指導者であって、
ドイツ国民全体ではないと考えているのは、間違いである」

1944年9月9日、
ルーズベルトは、スティムソン陸軍長官に書簡を送付し、
「ドイツと日本に対する爆撃効果を分析する機関、
(後のアメリカ戦略爆撃調査団)」
の設立を要請した。


つまり、このことは…


「敵一般市民を恐怖に陥れることを狙った攻撃は、
ルーズベルト大統領にとって容認可能」
であることを意味した。


そして…


1945年
2月3日、ベルリン空襲 
約2万5000人の一般市民が死亡

2月13〜14日、 ドレスデン空襲
約3万5000人の一般市民が死亡
(注:当時ドレスデンは、非武装都市であり、
東部戦線からの避難民で一杯だった)


「我々は軟弱になってはならない。
戦争は破壊的でなければならず、
ある程度、非人間的で非情なのである」
(アーノルド陸軍航空軍総指令官)


その後、
東京大空襲、
広島・長崎への原爆投下へと突き進む。

【つづく】


(飯村和彦)

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2006年07月19日

被爆のマリア…素晴らしい!



田口ランディさんらしい作品。
戦争をまったく知らない次の世代(子供たち)に、
原爆の悲劇を、
どう語り継いでいくのか。

重いテーマを、
見事に小説にしてしまった。


田口ランディ 被爆のマリア


本分から、一部を抜粋させて頂く。
中学生が、
広島平和記念公園を訪れた際の心理描写(“時の川”より)。

……………

「…わかってしまったら、どうするのか。
そのあとのことがわからなかった。
いっしょに泣くのか、嘆くのか、怒るのか。
感情を沿わせてしまった後のことを教師は教えてくれない。

広島に落ちた原爆は、
子供が共感するにはあまりにも規模の大きな暴力なので、
子供たちは仕方なく事なかれ主義を取った。
タカオもそうだった。

感情は中学生には厄介な怪物だった。
そう簡単に野放しにはできないのだ…」

……………

子供たちが、
原爆の悲劇を知り、理解していくのは難しい。
分かったようで(=分からせたようで)、
本当のところは“分かれない”。
その心理を、
上記抜粋の箇所は見事に表現している。

去年の夏、
ある報道番組(「ザ・スクープスペシャル」2005.8.7放送) で、
アメリカの核開発について取材をし放送した。
事実をひとつひとつ積み上げ、
丁寧な番組にしたつもりだったが、
その内容が、
次の世代を担う子供たちにどう伝わるのかについては、
正直、見当がつかなっかった。

その意味では、
間違いなく、
「被爆のマリア」は成功していると思う。
多くの人に読んで頂きたい小説である。


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(飯村和彦)


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2005年10月31日

東京story:原爆の子「サダコ」ちゃんの甥



昨晩は、素晴らしいコンサートを見てきました。
「事前にブログに記しておくべきだった」
と思ったのは会場に入った時、ごめんなさい。

広島平和記念公園にある、
「原爆の子の像」はみんな知っていると思います。
モデルは佐々木禎子(さだこ)ちゃん。享年12。
被爆10年後に白血病で亡くなった少女であり、
「折鶴」
の物語でも有名です。



サダコ像



けれども、
その禎子ちゃんの甥(おい)が、
ロックグループのボーカルを担当し、
無念だった禎子ちゃんの思いや「平和」について、
熱く歌っていることはご存知ないと思います。

バンドの名前は「GOD BREATH」
彼の名前は佐々木祐滋(ゆうじ)。
60年前、
禎子ちゃんと共に被爆した兄、佐々木雅弘さんの息子さんです。

私が彼と知り合ったのは、今年5月。
8月7日に「終戦60年特別番組」として放送した、

 「ザ・スクープスペシャル」
〜検証・核兵器の真実・それは人体実験だった〜!〜

…での取材を通してでした。
佐々木祐滋、まっすぐな性格のいい男です。

代表曲は「INORI」
闘病中の禎子ちゃんの思いを歌にした、
バラード風の楽曲で、
8月の放送の際には、ロックバージョンではなく、
ギター一本で歌ってもらい、
番組エンディングで紹介しました。
素晴らしい曲です。

しかし、残念ながらまだマイナー。
活動が地道な分、メジャーへの道は険しいようです。
このブログを読んで下さっている皆さん、
騙されたと思って、一度「INORI」を聴いて下さい。
きっと、何かが見えてくるはずです。

「GOD BREATH」
のホームページを参考にしてください。

尚、今回の記事は多くの人にTBさせていただきました。
コメントを送れなかった方々、申し訳ございません。
宜しくお願いします。

(飯村和彦)





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