顔出し
2006年01月16日
匿名社会の罪!龍桜くん事件
顔がでないから、
面白半分に
勝手な証言。
そんな無責任な行為が、
人を不幸のどん底に陥れる。
長野県岡谷市。
去年12月3日から、
行方不明になっていた堀内龍桜くん(11)が、
きのう、諏訪湖で遺体となって発見された。
小学校5年生。
遺体が発見されたのは、
龍桜くんが最後に目撃された、
諏訪湖釜口水門の近くだったという。
氷点下の湖水の中で、ひと月半…。
言葉がない。
今となっては、龍桜くんの冥福を祈るしかない。
しかし、
この「事件」。
(…ある意味で“事故”とはいいたくない!)
今の匿名社会の暗部をくっきりと浮かび上がらせた。
どうして龍桜くんの発見がここまで遅れてしまったのか?
その最大、かつ決定的な原因が、
龍桜くんが行方不明になった直後の、
あの若い女性の「うそ」の目撃証言である。
「全身ずぶ濡れの竜桜くんを、自宅に招きいれ、
カップヌードルを食べさせた」
「自宅まで送って行こうとしたら、
白いワゴン車にのった若いカップルが、
“僕たちが送るから”といったので、そうしてもらった…」
家族や捜査関係者が、行方不明の子供を捜索しているとき、
この目撃証言は極めて重要な意味をもった。
龍桜くんの足取りのヒントであり、
何より、彼の「生存」の証明であったから。
ところが、その目撃証言が「うそ」であることが後に分かる。
若い女性による「狂言」だったのだ。
動機は面白半分。
報道各社のインタビューは全て「顔なし・匿名」
自分の「うそ」の目撃証言が、テレビや新聞を通して、
日本全国に流れる様を、
その女性は、“はしゃぎ気分”で眺めていたに違いない。
卑劣極まりない、絶対に許されざる行為だ。
彼女の「狂言」だと分かるまでの間、
その目撃証言をもとに懸命な捜索が行なわれていた。
ところが、現実的には、
彼女の証言が「うそ」であったため、
その目撃情報にもとづいた捜索を懸命に行なえば行なうほど、
事実から遠のいてしまっていたのだ。
あの証言がなければ、
もしかすると、
龍桜くんは生きて発見されていたかもしれない。
なぜなら、あの目撃証言がなければ、
行方不明になった場所周辺、
つまり、
龍桜くんの遺体が発見された、
諏訪湖釜口一帯の捜索が、
より集中的に、かつ継続的に実施されていたはずだから。
もちろん、
今回の件では、各報道機関も、
その報道姿勢、報道手法について改めて考えなければいけない。
ここ数年、
事件が発生するたびに目にするのは、「匿名報道」の洪水である。
「顔も名前も出しませんから、
インタビューに応じてもらえませんか?」
溢れかえる「匿名報道」を見るにつけ、
現場で取材に当っている記者たちの、
そんな姿が想像できる。
とっても安易な、
一歩間違えば、無責任な報道姿勢ですらある。
「匿名報道」は、
取材対象者のやむにやまれぬ理由により、
どうしても「実名報道」ができない場合に限って許されるものだ。
しかし、それとて、
事実関係をきちんと掴んだ上で、
当事者(取材対象者)への「実名」での取材の必要性を、
丁寧に説いた後、
「それども、“実名”では困る…」
となった場合だけ許される手法のはずだった。
そのプロセスをきっちり踏むことによって、
取材対象者自身も自らの証言の重要性を認識し、
証言につきものの「責任」についても考えてくれる。
同時に、
このプロセスを通して、
取材対象者が「本当のことを証言しているのかどうか」を、
記者自身が、その経験から、
少なからず、見極めることができるのだ。
つまり、取材する側が、
まず最初に、丁寧に、
「実名での証言の必要性を説く」という手順をきっちり踏んでいれば、
今回長野で「狂言」を演じた若い女性の、
愚かな行為を抑止できた可能性は極めて高い。
若い女性の情報は「警察からのものだった」
という記者もいるだろう。
けれども、たとえそうであったとしても、言い訳に過ぎない。
「“顔も名前も出しませんから”、
インタビューに応じてもらえませんか?」
この言葉を取材する側が、
安易に発しているように思えてならない。
取材される側、取材する側の「責任」…
その所在が揺らいでしまっては、もはや「証言内容」に意味はない。
そうは思いませんか?
(飯村和彦)
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